21.◇弱い心

『彼はただの居候』


 そう言われてから涙華とはもう、会わないと決めた。これ以上傍にいても、何も変わらないと気づいたから。

 龍那が亡くなった日、どんなことがあっても涙華を守ろうと心に決めたのに、いつの間にか自分が傷つくことを恐れて、逃げ道を作っていた。都合の良い逃げ道を。

 哀しい時だけ、泣きたい時だけの居心地の良い場所。

 俺は、稜に頼ってばかりいたから。


 あれは、いつのことだっただろう。

 あんな風に突然龍那と涙華が引き裂かれてしまい、まだ現実を受け入れられないでいた頃。

 忘れもしない。忘れてはいけない、あの日のこと。

 龍那が亡くなって、一年を過ぎた頃。

 彼の命日以来の、雪のちらつく日のことだった。

 情緒不安定で、いつ何があってもおかしくない状態だった涙華。

 けれど徐々に普通の生活に慣れ、心からではないにしろ笑顔さえ見せるようになってきていた矢先。

 無理にでも傍にいた俺の努力の甲斐もあって、悲しみから立ち直ったものとばかり思っていたから。

 だから、涙華が手首から血を流し倒れていた時は、驚きよりもショックの方が大きかった。

 気が動転していて、俺は正直どうやって救急車を呼んだのかさえ、覚えていなかった。

 病院に運ばれた涙華。

 命に別状はないと医者から言われても、喜べる状況ではなかった。

 入院となった彼女は、左手首に包帯を巻かれ、点滴に繋がれながらも穏やかな表情で眠っていた。

 きっと龍那の夢でも見ていたのだろう。

 俺は涙華の両親と交代で付き添っていたが、ベッド脇のイスに座って、彼女の無事を祈ることしかできずにいた。

 冷たい指先を、温めるように強く握りしめることしかできずに。

「ん…」

 祈りが通じたのか、涙華が気怠そうに呻き声を出す。

 眩しそうに眉根を寄せ、ゆっくりと視線を巡らせる。

「涙華!大丈夫か」

 しっかりしろ、と声を荒げた俺なんかに気づくことなく。

 涙華はただぼぉっとしているだけの、魂の抜けきった人形のよう。

 栄養失調の上に、自殺未遂。

 それだけでも俺の心を打ち砕くほど衝撃的であったのに、虚ろな彼女が発した言葉で、俺は、

「涙華?今、なんて?」

 再び呼ぶと、彼女は緩慢とした動きでこちらを向いて、にっこりと柔らかく微笑んだ。

「涙華?俺がわかるか?」

「どうしたの?龍那」

 彼女は確かに龍那、と言った。

 涙華を救えない自分に腹が立つ。

 何の役にも立てない悲しみが積もり募って爆発する前に、すべてが一気に抜け落ちた。

「今日一日入院すれば明日にはもう帰れるってさ。よかったな」

 バカみたいに、勝手に涙華の支えになっていると思い込んで、それこそが彼女を追い詰めていたとも知らずに。 

「明日迎えに来るから」

「……待って」

 こちらに向かって必死に伸ばされた、彼女の異常なくらい白い手。

 細くて、俺なんかがヘタに触れたらそれだけで壊れてしまいそうなそれを、必死に。

 できるだけ優しく受け止めようと手を伸ばした時、

「行かないで、龍那」

 何かの間違いだと思いたかった。

 聞き間違いだと言うことにして、忘れてしまえばいいと。

 しかし彼女は、はっきりと言った。

 俺ではなく、愛しい彼の名を何度も口にした。

 これは当然のこと。

 誰も責められない。彼女の心から龍那が消えることはないのに、一体何を期待していたのだろうか。

 涙華が龍那を忘れて、俺を愛してくれるとでも思っていたのだろうか。

 もう耐えられなくて、俺は病院を飛び出した。

 そして、当たり前のように舞う雪。

 もう終わったとばかり思っていたのに…春はまだ、来ない。

 龍那を亡くしてからの涙華は、見ているこっちが滅入ってしまいそうなほど、身も心もぼろぼろだった。

 俺は気の利いた言葉ひとつもかけてやることができず、ただずっと傍にいた。

 ただそれだけ。

 友人や家族には、ただそれだけで涙華が立ち直るはずがない、と言われてきた。

 ひとり残されてしまうことほど、残酷なものはないと。

 一緒に逝かせてやらないのは、俺の身勝手なのだろうか。傲慢さ?

 ずっと心の奥にわだかまっていた何かが、ようやくはっきりとした瞬間だった。

 なぜ、どうして俺じゃなかったのか。

 彼女が愛したのも、病気になって死んでしまったのも、なぜ龍那だったのだろう。

 せめて俺が龍那の代わりに死んでいたら、少なくとも彼女の心がここまで傷つくことはなかったのに。

 そんな時、不意にかかってきた稜からの電話は、何よりの救いだった。

 


「ずいぶん遅かったわね、ハルアキ。雪、まだ降っていた?まさか積もらないわよね?…さっき病院にいたって言ってたけど、何かあったの?」

 稜はいつも、会うなり質問を浴びせてくる。

 余裕のある時はまともな返事を返すけれど、ほとんどは生返事の首肯か、シカト。

 淋しさ故に、普段の彼女と比べて口数が多くなっているのだと思っていたけれど、そうではないと気づく。

 彼女は質問攻めにすることで、こちらの機嫌を伺っているのだった。

「もしかして、涙華さん?」

 そして彼女は、その時の態度で俺の気持ちを察し、それにあった対応で癒してくれる。

 どうしてこんなにも、優しくしてくれるのだろう。

 俺は、何も返してやれないのに。

「もぉ、なんて顔してるのよ」

 魂の抜けたような顔しないの、なんて稜が笑いながら言う。

 そしてソファで項垂れている俺の頭をよしよし、と撫でてくれた。

 稜は、一番に痛みを理解してくれる唯一の存在だけれど、年上の彼女はやはり精神的にも長けていて、俺が優位に立てることはない。

 それが時々、非常に腹立たしく感じることがあった。

 以前付き合っていた時は、それが原因でケンカをしていたけれど、皮肉にも今ではそれが救いになっている。

 結局いつも俺が彼女に寄りかかっているだけ。

 慰めてもらっているだけ。

「稜?どうして俺を呼んだの?」

「どうしてって、会いたかったからよ」

 こんなにも大人びた彼女に、俺の気持ちなんてわかるはずがない。

 涙華が龍那の後を追わないよう、あんなに必死で傍にいたのに。

 彼女にとっては、いてもいなくても変わらない存在だったなんて。

 どんなに泣いて訴えようと、こんな辛い気持ちは他人には伝わらないだろう。

「稜、正直に言って」

「久しぶりにハルアキと話したかったからよ」

「ウソだろ」

 涙華のことで傷ついたこの心は、きっと稜を傷つけることで保たれていたのかもしれない。

「旦那に浮気されて淋しいからでしょ?」

 それこそが唯一、この痛みを伝える手段だと、身をもって知っているから。

「違うわ」

「べつにいいじゃん。同じこと、してやろうよ。俺と」

「ハルアキ?」

「俺、可哀想だろ?自分を見てるみたいで、憐れだろ?」

 俺は、有無を言わさず稜を抱いた。

 彼女が流した涙の分だけ、俺は救われると。


 そんなことを繰り返す中で、稜は妊娠した。

 以前付き合っていた時も、もちろんそういう関係になったことはある。

 けれど、別れてからは男女の関係はなく割り切った付き合いだった。近況を報告したり愚痴を言い合ったり。

 互いに信じていたからこそ、心の奥に抱えている一番見せたくない部分をさらけ出すことができていたのに。

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