20.○冷たいキス
昨年、会社の近くにできたばかりだという小さな居酒屋。
怜の行きつけだというこの店はカウンターと座敷席が2部屋だけ。
こじんまりとしているけれど、お客みんなが仲良くなれるようなアットホームな感じが彼のお気に入りなのだという。
「てか、先輩なんだからおごってくれたって良いじゃん。可愛い後輩でしょ?」
「誘ったのはそっちだろ」
「え~ケチ」
とりあえず、いつもの。
で出されたのは、キンキンに冷えた瓶ビール。
ビールは正直苦手だったけれど、お互いにグラスに注ぎあって乾杯したそれは、格別。
初めてビールが美味しいと感じた瞬間だった。
あまり飲めないから、と遠慮していたにも関わらずひとりで瓶ビール一本を開けてしまった私。
血液全てがアルコールに変わったかのような、ふわふわした感覚に囚われる。
久しぶりの感覚。
「ねぇ怜、沙奈湖さんいなくて寂しい?」
「は?」
一瞬、驚いたように目を大きく見開いた怜。
泳いだ瞳が私に気づいて目が合うと、彼はくだらない、とでも言いたげにフンと鼻を鳴らす。
「まったく、素直じゃないなぁ怜は」
「答える必要はない」
怜はピシャッと言って、日本酒を再度注文する。
アルコールなど入っていないのではないかと思わせる程、彼は顔色ひとつ変えずにお酒を楽しんでいた。
「いいじゃーん。ちょっとくらい幸せわけてよぉ」
「何だそれ。分けてやる幸せなんてあるかよ、バーカ」
「バカとは何?」
「仕方ないだろ?事実だ」
「あーそぉですか」
言った後楽しそうに笑った怜をキ、とにらみ付けると、今度は声を出してますます笑い出す。
「ひどいよーそんなに笑うなんて。どーせ私はバカですよ」
「ごめん、冗談だよ」
場をわきまえてか、左手の甲を軽く口元に当て声を押し殺しながら笑う怜。
彼の偽りのない柔らかな表情。
彼の心に触れることができなくても、こんな風に傍にいることができるなら。
友達として一番になれるなら、それでもいいと思っていたから。
「幸せかどうかなんてわからないけど、沙奈瑚がイタリアに行く前に、言ってくれたんだ。愛してる、って」
そんなこと聞きたくなかった。
聞かずに済めば、この先を望むことはなかっただろうに。“友達”だってステキな言葉だと思っていられたのに。
沙奈瑚さんの立場を羨ましいと思うこともなかっただろうに。
「怜、嬉しそうだね」
お酒を煽るペースがアップする。
私は、怜の飲んでいた日本酒まで横取りして一気に流し込んだ。
「おい、飲み過ぎじゃないのか?」
「そう?私は全然平気~」
体中の血管が大きく脈を打ち始め、猛スピードで血液が体内を駆けめぐる。
壊れてしまえば、きっとこの心は傷つかずに済む。
感覚を麻痺させてしまえば、泣かずに済むから。
意識が吹っ飛んでしまうくらい飲むしかなかった。痛みが消えさえすれば、どうなったって構わないから。
「ソファでいい?」
耳元で囁かれる心地よい声音。
今だけは、私のもの。
アルコールが入って気持ちが大きくなっていた私は、そんな風に思えるくらいの余裕さえあった。
「んー?どこでもいい~」
「どこでもいいんだったら、道端に捨ててきた」
重い、とソファの上に落とされる。
「怜のバカーひどい」
「ひどいのは涙華の態度と顔」
何だかんだ言いながらも、結局飲み代を全部払ってくれて、おまけに酔いつぶれて半分眠っていた私をタクシーに乗せ、肩を抱いてアパートまで送ってくれた。
「飲めないなら飲むな」
「でも飲みたい気分だったのぉ~」
「いい歳して酒の飲み方も知らないのか?あー疲れた」
フローリングの冷たい床に座り込んだ彼は、ネクタイを緩めてシャツの首元を寛げる。
「怜~ごめんなさーい」
「この酔っぱらいが。俺は帰るからな、暖かくして寝てろよ」
怜は幼子を諭すように、私の頭をポンポンと叩いて立ち上がる。
「え、待って!」
あと少し。
もう少しだけ、そんな気持ちからか、私は咄嗟に彼の腕をつかんでいた。
全体重が掛けられた怜はバランスを崩して、私と共に床に倒れ込む。
「痛ってーな」
「淋しいの、傍にいて」
懇願するように言って、私は彼の腕に縋り付く。
「涙華?どうし、」
何をどうしたらいいのか、わからなくて。
ただ傍にいて欲しい、その一心で、私は彼の言葉を遮り押しつけるように唇を重ねた。
乾いたそれが一瞬だけ触れて……
離れた頃には、怜は私を突き飛ばす勢いで立ち上がっていた。
「酔ってるからって、こーゆーのよくないんじゃない?」
こんな時でも冷静に物事を言う彼に対して、私は何も返すことができなかった。
彼の態度にショックを受けたのなら、涙くらい出ていただろうに、なぜか泣けなかった。
わかっていたから。
あまりに惨めで無様すぎて、酔いなんて吹っ飛んでいた。
友達の資格さえ失うかもしれないのに、私はなんてことをしてしまったのだろう。
「バカみたい…」
怜が出て行ったひとりきりの部屋で、私はもう、笑うしかなかった。
気持ちのないキスは、どうしてこんなにも、冷たいんだろう。
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