19.○はじめの一歩
―――涙華!
龍那が呼んでる。早く起きなきゃ。
頭の後ろから意識だけを持って行かれそうな気怠さ。
わかったよ、今起きるから。あと、5分。
―――涙華!
それでも私を呼ぶ声は消えない。
何度もしつこく、うるさいくらいに。
起きない時は、この寒い真冬でも容赦なく掛け布団を引きはがされる。それでもベッドで丸まっていようものなら、龍那の足蹴りが飛ぶ。
手加減しているつもりだろうけれど、意外と痛いそれだけはやめてほしい。
「わかったよ、もぉ~うるさいな!」
重たい意識を枕から引きはがし、私は勢い良く跳ね起きる。
当然、隣に龍那はいない。
今はもう、ハルアキさえも。
3つ並んだ目覚まし時計がけたたましく鳴り響く以外は、いつもと変わらない静かで寂しい朝。
あまりの喧騒に耐えかねて、破壊してしまう勢いでテンポ良くすべての目覚ましを止める。
もう少し龍那の声を聞いてたかったのにな。
ハルアキが出て行ってから、もうしばらく経つ。彼は一体どこで何をしているのか、全くわからないまま。
彼と私とを繋ぐものはこのスマホだけ。
何度ももう一度話をしようと思うけれど、あと一歩が踏み出せない。
もうひとりの私が、不安を掻き立てて。
そこで何を話すのだろう。
あなたの気持ちに答えられなくてごめんね、って謝る?それとも、戻ってきてってすがる?
もう一度ハルアキと話したいと思うのは、ひとりが嫌だからなのだろうか。
貯金はもう、全くない。
実家からの仕送りで何とか今を生き長らえているだなんて、さすがに龍那に顔向けできるような生き方ではない。
それにようやく気づいた私は、ハローワークで紹介された職業訓練も受け必死な就職活動の故に、何とか就職することができた。
高卒でフリーターをやっていた私なんかができることは当然、雑用ばかり。
社会人としても一人前とは言えないけれど、そこそこ大きな出版社に就職できた。
規則正しい生活をすることで、少しは淋しさを紛らわすことができる。
このまま穏やかな日々が続けばきっと、龍那の記憶と共に静かに生きていくことができると、そう思っていたのに。
そもそも私を雇ってくれたのは、この会社で雑用全般を受け持っていた女の子たちが続々と結婚・妊娠で退職してしまったため。とりあえず、誰でも良かったらしい。
伸ばしっぱなし髪も毛先を揃え、緩いパーマをあててくせっ毛をごまかす。
それを後ろで一つに束ねて、似合わないスーツに身を包む。私の部署は普段着でも良いらしいけれど、普段着がカジュアル過ぎて悩んだ結果スーツが一番楽なことに気付いた。
私の仕事は、だだっ広いオフィスの隅っこで一日何百枚ものコピーをとっているか、お茶やコーヒーを配って回るか。
どちらにしても立ちっぱなし。
だから誰もいない給湯室でお茶を入れている間は、まさに至福の時だった。
イスに腰掛けて足を揉むくらいのことは許されてもいいだろう。
「またサボリか?」
思いっきり足を組んで寛いでいた私の前に現れたのは、スーツでさえ格好良く着こなす無愛想な先輩。
「雑用係のくせに」
「くせに、って何ですかー先輩」
驚いてイスから落ちそうになりながらも、私は冷静を装って強気で返す。
「昨日、コピーもちゃんと取れないのかーって怒鳴られてなかった?」
「え!見てたの?」
「いや、
「恥ずかしい限りです。…あぁ~たまには休ませてよ」
「いつもだろ」
半笑いで言うのは、龍那によく似た人。
彼は、小さな木の丸テーブルを挟み、向かいのイスに腰掛ける。
「先輩に向かってその口調か?」
「あ、ごめん…」
彼は、はぁーとため息混じりにタバコを吸い始めた。
「何よ!怜だってサボってるじゃん。あーもぉタバコやめてよ!」
「敬語も使えない大人は嫌だねぇ」
「すみませんでしたぁ。でもまさか怜が先輩になるなんてね」
私はよいしょ、と立ち上がり彼の分のコーヒーを注ぐ。私は煎茶。
いつもは人数分のお茶を出し終えた薄い出涸らしを飲んでいるけれど、今は一番茶。
「お、気が利くなぁ。ってか、俺が先輩になったんじゃなくて、涙華が後輩になったんだろ?」
「だって怜がこの会社にいるなんて思ってもなかったもん」
再びイスに掛け、寛ぎながらずるずると音を立ててすするお茶は、なんだかほっとする。
「それはこっちのセリフ」
「涙華みたいな奴でも就職できるんだな」
「私みたいの、ってなんですか」
「自分で考えろ」
怜は灰皿にタバコを押しつけて火を消す。
ふぅ、と煙を全て吐き出してから、ブラックのままコーヒーを一口飲んだ。
「薄ッ」
「節約よ節約!」
「はぁ?」
怜は入社してすぐ異例の出世を果たしもう新しい雑誌の編集長を任されるほどの優秀な人材らしい。女子社員が聞いてもないのに教えてくれた。
私なんかが肩を並べて話をできるような相手ではなかった。
「あぁー、もうずっとここにいたいな」
「クビになってもいいのか?」
イヤぁ~とぶんぶん首を大きく横に振る。
「怜だってここに逃げてきてるじゃん」
「俺はまぁ、まわりと意見が合わなくて。ちょっとした気晴らしに」
「へぇ。偉い人もそれなりに大変なのね」
「それなりに、な」
「ふーん」
就職してこの会社で初めて怜を見た時は、息が止まるかと思った。
それをすることさえ忘れてしまうほど驚いて、すぐに声が出せなかった。
一緒に働くことができるなんて、信じられない。
毎日会えるなんて嬉しい!と舞い上がっていたが、彼は私と知り合いだなんてお構いなしに散々雑用ばかりを押しつけてきた。
人前ではもちろん、怜だなんて呼ばないし、親しい仲だと勘ぐられないように慣れない敬語も使っているけれど、何だか居心地が悪い。
ふたりで気兼ねなく話せる穏やかな時間が、私にとってはとても貴重だった。
「わかった!今日飲み行こ。パーッと、ね?いいでしょ、怜」
「おごり?」
「んなわけないでしょ」
毎日こんな楽しみがあれば、仕事だって頑張れるのに。
こんな風な軽い会話のやり取りが当たり前になった今でも、胸の高鳴りは一向に慣れてくれない。
飲みに行こう、その一言を切り出すだけで丸2日も悩んでいたのだから。
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