17.◇理想の関係
どんな顔をして帰ればいいのだろう。
どんな言葉をかけてやればいいのだろう。
愛しい人に。
昨日は、稜にも連絡したが、旦那が帰ってきているからと断られ、無理言って頼み込んだ友人の家に泊めてもらった。
けれど友人の所に居る時も、仕事中も、いつだって考えるのは涙華のこと。
ずっと彼女のことばかりが頭を巡っていて、何も手に着かなかった。
今までだって何度もケンカをしたけれど、それは涙華を信じていたし信頼されていたから、どんなことを言い合っても仲直りをする自信があった。
しかし、涙華の心がまったく見えなくなってしまった今、どうしていいのか、正直わからない。
それでも彼女の傍にいたいという気持ちに変わりはない。
だから、とにかく帰って話をしようと決めた。話せばきっと、分かり合うことができるから。
そして、俺はアパートの部屋の前まで来て、大きく深呼吸をする。よし、と気合いを入れて、何があっても笑顔でいようと、心に決めた。
ドアを開けると、玄関にあったのは涙華のお気に入りの靴と、見知らぬ女性物のブーツ。
「客か?」
友達の少ない涙華に、来客とはめずらしい。
挨拶でもするか、とリビングへ向かおうとした時、中から聞こえてきたふたつの声、
「じゃぁハルアキさんは、あなたにとってどんな方なの?」
初めて聞く、女性の声だった。
少し高めの品のあるその声に、涙華が答える。
「ハルアキは、ただの…」
彼女は何と答えるだろう。
俺は、妙に高鳴る胸を抑えて、耳を澄ます。
すると、
「彼はただの、
言って涙華は、笑顔でも添えただろうか。
そして俺のことを蔑むように思い浮かべただろうか。
今にも消えてしまいそうな小さな声だったのに、その衝撃は、一瞬目眩が襲ってくる程に強いものだった。
彼女の答えに嘘はないのに、一体他にどんな答えを期待していたというのか。
“恋人”
ふと思い浮かんだ言葉を消去して、あり得ない考えに思わず自嘲してしまう。
望んだ答えは、今の俺たちの関係とは程遠いものだから。例えそう答えたとしてもきっとこの心は満足しない。
だからもうどうにでもなれ、と俺はリビングに乗り込む。
「ただいま、涙華」
「え、ハルアキ!お、お帰り」
突然の帰宅に明らかに動揺を隠せない涙華。
彼女は泳がせた瞳を背けて、手にしていたふたつの写真立てを元の位置に戻した。
「今日は早いんだね、びっくりしちゃった」
「あれ、お客さん?めずらしいな。…こいつ友達いないんで、よかったら仲良くしてやってください」
隣の女性に満面の笑みで言うと、
「はい。こちらこそ」
と、彼女は微笑み返し軽く会釈をする。
涙華とは大違いで、まさに大人の女性という雰囲気を纏っている彼女。
「うわぁ~涙華がすげぇ美人と知り合いとは」
「沙奈瑚といいます。涙華さんには倒れたところを助けていただいたんです」
「へぇ~。涙華、それいつ?」
「えっと…せ、先週かな?」
「ふーん。初耳」
何故か目を泳がせている涙華についイライラしてしまう。だからもっと、追い詰めたくなる。もっと、俺の事で苦しめばいいのに。
「どうした、涙華?元気ないな」
俺はテレビの前で硬い表情のまま佇んでいる彼女の傍に寄り、片手で、細い肩を引き寄せた。
「俺が居なくて淋しかった?」
「ちょ、ちょと何?やめてよ」
彼女に聞こえぬようにと、できるだけ声をひそめて抗う涙華。
「それはないだろ、毎日俺の腕の中で眠ってるくせに。冷たい奴だな」
「やめて!」
思い通りの反応で、顔を赤らめて怒鳴る涙華が可笑しくて、つい笑ってしまう。
「何が可笑しいの?ちょっと、こっち来て」
俺は涙華に強く手をつかまれ、引かれるままにリビングを出た。
その冷たい指先をぎゅ、と握り返したかったけれど、玄関へと続く廊下に出ると、それを思いっきり振り払われた。
「事実だよ?何で怒ってるわけ?」
「彼女の前であんなこと言う必要ないでしょ?」
「じゃぁ何?俺が悪いの?」
「ふざけないでよ」
「ふざけてねーよ!なんなら、龍那の代わりにって言葉も付け足しておくけど」
「どうして、そんなこと」
「俺何か間違ったこと言った?」
「それは…」
言葉に詰まる涙華。傷ついた目。怯えたように。
そしてその大きな瞳が揺れ始め、何かを言いかけ開かれた唇は、流れ落ちた一粒の涙によって震えに変わる。
「言い返せよ」
自然と両手は胸元に運ばれ、涙華は何かをギュッと祈るように握りしめている。
「また黙りか?」
彼女がいつも握りしめているのは、龍那とのペアリング。
彼女のサイズの指輪は、龍那の骨と一緒に眠っている。納骨の際に涙華がそれを骨壺の中に納めているのを、俺は見ていた。
龍那の指輪は、涙華が常に首から下げ、より心臓に近い所で彼を感じているのだった。
いつも、龍那と共に。
「なんか言えよ、泣いてごまかすな」
言いたいことがあるのなら、直接俺に言って欲しかった。
彼女が何を考えているのかなんて、何を求めているかなんて、今の俺では察することなどできないから。
バカだから、言ってくれないとわからない。
何も言わずに指輪を握りしめ、こうして今も龍那に助けを求めている涙華。
もう二度と声を聞くこともできないのに、抱きしめてくれる腕も涙を拭いてくれる指もないのに、今でも龍那を想っている。
「なぁ…俺は、いつまで待てばいい?」
気持ちを知りたくて、俺は息も触れ合う至近距離で彼女を見つめる。
心を覗きたくて、本当の声を聞きたくて、キスをするかのように額と額を合わせる。
「なぁ」
真実を知りたくて、無理矢理に額を重ねる儀式を利用する。
「嫌ッ!ひどい。ずるいよハルアキ」
避けるように俯いた涙華に腹が立ち、俺は両手で彼女の肩をつかんで壁に叩きつけた。
痛っ、と小さく悲鳴を上げた涙華。
「ずるいのはどっちだ?…いつになったら、心を開いてくれる?」
お願い、泣かないで。
龍那を忘れろ、とは言えない。
俺だけを見て欲しいだなんて、言わない。
いくら俺でもそれが叶わないことくらい、知ってる。
「俺じゃぁダメだもんな」
「ハルアキ……私は、」
「やめろよ」
本当は、胸元の指輪なんて奪い取って捨ててしまいたい。
そんな物があるからいつまでも前に進めないんだ、と言ってやりたい。
「俺なんかじゃ、お前の傷を治してやることも、龍那の代わりになることもできない」
「代わりだなんてそんなこと。ハルアキがいてくれるからこそ私は、」
「もういい!」
俺は彼女の言葉を遮って、吐き捨てる。
「だったらどうして!」
どうして俺を見てくれない?
そう続けるつもりだった。
けれど、結局その先を濁してしまう自分に、余計に腹が立った。
「ハルアキ?」
「もういいんだよ!」
「でも、」
それでも続けようとする彼女の口を、塞いでしまう。
抗う涙華の腕を壁に押さえ付けて、噛み付く勢いで唇を重ねた。
強く、無理矢理に割って入ったそこで泳ぐ温かいものを捕まえて、深く吸い上げる。
くぐもった声が俺の口の中で響いて拒絶される。
息苦しさから顔を背けた涙華の吐息を追って、もう一度、深く。
頑なだった彼女の身体から一瞬力が抜け、同時にこぼれ落ちた涙。
今まで涙華と一緒にいたのは、好きだから、傍にいたいから。
ただ、それだけだった。
けれどいつから、彼女に何かを求めるようになってしまったのだろう。
これ以上一緒にいたら、きっと…
唇が、離れる。
そして温もりさえも、消えて。
「俺は消えるよ。…ただの居候は、もう終わりだ」
彼女はもう、何も言わなかった。
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