16.○彼の存在
またこんなにも苦しい思いをすることになるなんて、考えてもみなかった。
私の心には龍那がいるのだから、他の誰かが入り込む場所などないと、そう思っていた。
私は一体、何から逃れようとしていたのだろう。
毎日毎日どこから来るのかわからない不安に駆られ、苦しくなる。
いっそのこと、すべて忘れてしまいたい。
あの日、怜の心を知ってしまってから何も手につかない。
彼のことで頭がいっぱいで。
どうしようもなく胸が熱くて、痛い。
怜の心には、沙奈瑚さんがいる。
どう足掻いても勝てそうにない、完璧な美人が。
それを知って初めて気づかされた、新たな気持ち。
「私どうかしてる。龍那に似てるから、悪いんだよ」
そう自分に言い聞かせる。
ハルアキには、言えないこの気持ち。
昨日、ケンカをして部屋を飛び出して行った彼。
一晩中起きて待っていたけれど、結局帰ってこなかった。
彼には彼の人生があるのだから何も言えないけれど、やはりひとりは淋しい。
この心を知られてしまったらきっと――。
霊園からの、帰り道。
やっぱり誰もいない所に帰るのは、いつまでたっても慣れない。そう思うだけで重くなる足取り。
はぁ、とため息を吐きながらようやくアパートの近くまで来た時、見覚えのある長身女性が辺りをキョロキョロと見渡しながら前を歩いていた。
声を掛けるとホッとしたように笑う彼女。
「涙華さん、お久しぶり」
どうぞ。とは言ったものの、普段お客さんなんて滅多に来ないため正直焦っていた。
棚の奥にしまい込んだはずのティーカップが見つからない。せめて格好だけでもオシャレに繕いたかったのに、恥ずかしながらチグハグのマグカップで紅茶を出す。
コーヒーは基本的に龍那しか飲まなかったから、もうここには置いてない。
「ごめんなさい、これしかなくて」
「ありがとう。お気遣いなく」
黒いコートを脱ぐと、濃紺のセーターに黒のロングスカートというシンプルな服装の沙奈瑚さん。
「でもまさか沙奈瑚さんが来てくれるなんて思ってもなかったから、驚いちゃって」
「突然、ごめんなさいね。怜にこの辺までの道は聞いていたんだけれど…」
「そうでしたか」
そういえば、先日怜に送ってもらった時、沙奈瑚さんがうろついていた手前辺りで無理やり車を停めてもらったんだった。
「もう体調は大丈夫ですか?」
「はい、もうすっかり。あなたにお礼が言いたくて」
「そんな、お礼なんて」
リビングの白いソファ。
いつもハルアキがいる位置に、沙奈瑚さん。
私はその隣に深く座って、ミルクたっぷりの紅茶を一口飲んだ。
「よかったぁ元気になって」
「ありがとう」
柔和な笑み、とはまさにこのことをいうのかと思った。
笑う、というよりは微笑んでいるというふんわりとした面持ちのままで、彼女は言った。
「それともう一つ、報告があるの。私ね、しばらくイタリアに行こうと思って」
「イタリア?旅行ですか」
「ま、それも含めてだけど」
沙奈瑚さんは紅茶を一口飲んでは、マグカップを両手で包み込んで手を暖める仕草をしていた。
「勉強に行くのよ」
「勉強?」
ようやく体内から温まってきたのか、青白かった彼女の頬にうっすらと赤みが差してきた。
その健康を取り戻した表情で、楽しそうに笑う沙奈瑚さん。
「私、ガラス作家なの。煉とは比べ物にならないけど、これでも少しは有名だったのよ?」
彼女は整った高い鼻をふん、と膨らませて自慢げに私を見る。
「えー?そうだったんですか。じゃぁお店にあった花瓶とか小物って」
「ええ、私の作品よ。そうは言っても、結婚してすぐやめたの。でももう一度、一から勉強し直そうと思ってね」
「そうだったんですね。知りませんでした」
「それはそうよね」
ため息混じりに項垂れる沙奈瑚さん。けれど決してその声に嫌みはない
「怜も、私や煉が雑誌に載っても無関心。兄の活躍も知らなかったみたいよ」
彼女が怜の名を口にした瞬間、心臓が大きく跳ねた。
何も悪いことなんてしてないのに、誰に対してなのか後ろめたい気持ちでいっぱいになる。
彼女には悟られたくなくて、私はソファの上に深く座り直し両膝を抱えた。
そして精一杯冷静を装い、言葉を返す。
「怜さん、怒ってなかったですか? 私、ひどい事言っちゃって」
「どうかしら。怜っていつも怒ってるような顔してるじゃない?まぁどうせ、怜が先にひどい事言ったんでしょう?」
「そうですけど…」
「ごめんなさいね、きっと本音じゃないのよ。怜は誰よりも不器用だから」
「不器用?」
チクリと、痛かった。
自分のもののように怜の事を語る彼女の声が、痛い。
「彼のこと、よくご存じなんですね」
「えぇ。姉弟、だもの」
「でも、彼は沙奈瑚さんのことを、」
言ってしまった後で、あ、と言葉を濁す。
彼女が驚いてこちらを見たことがわかっていても、目を合わせることができなかった。
私は、お気に入りのマグカップを両手で包み、中を覗くように見つめながら先を続ける。
「沙奈瑚さんは、まだ、煉さんのこと?」
「全部、怜から聞いたのね?」
「ごめんなさい」
「いいの。私も怜が好きよ?でも、煉を愛していることに変わりはないわ」
淡々と語る、彼女の声。
「怜が私を必要としてくれているから、傍にいるの。ただ、それだけのこと」
「そんなの」
身体がカッと熱くなって勢いよく彼女を振り返ったものの、相変わらずの柔和な瞳を見た瞬間、現実を思い知らされる。
そんなのは、愛なんかじゃない、そう言いたかったのだろうか。
ちゃんと愛してあげて、とでも。
出会って間もない私には、ふたりの関係に口を出す権利などない。
ふたりの間には、私には知ることのできない時間がどれだけ流れているのか。
全部知りたいけれど、その反面怖くて踏み込めない世界。
それを察した彼女が、先を受け次ぐ。
「そんなのは、いけない?」
「いいえ、でも」
「確かに私は怜の想いに答えてあげることはできないわ。だって怜は、煉じゃないから」
「だったらどうして?」
私はカップをテーブルに置いて、身体ごと彼女に向き直る。
「どうして沙奈瑚さんは、怜といるんですか」
「私も怜が必要だからよ。人間は誰でもひとりでは生きていけないでしょう?」
「でも――」
彼女はどこまでも冷静だ。
何を言っても怯まない彼女に腹が立ち、何をしても彼女には勝てないとわかっている自分が情けなくて、もどかしい。
「もし、煉さんが戻ってきたら、沙奈瑚さんはどうするんですか?」
嫌な私、最低な顔をしているだろうと思う。大嫌い。
「どうって。先程言ったように、私は煉を愛してる」
後は察してくれと、恐らくそんな意味を込めて曖昧に答えた彼女。
結局怜は、淋しさを埋めるためだけの存在なのではないか。悪く言ってしまえば利用されているだけだなんて。
「涙華さんが一番私の気持ちを理解してくれるはずよ?」
彼女の言葉の意味を理解することができずに、私は「え?」と聞き返す。
少ない脳みそを使って、瞬時に様々な記憶を巡らせる。
私と沙奈瑚さんの間に、共通することなどあっただろうか。私なんかに、彼女の何がわかるというのか。
「あなたも同じ状況でしょう?」
未だに、「?」が浮かんでいる私を見かねて、彼女はす、と立ち上がると、正面のテレビの方へと歩み寄る。
そして、その傍らに飾られたふたつの写真立てを指す。
一つは伏せられ、もう一つは笑顔の男女がこちらを見ているもの。
彼女がおもむろに手にしたのは、後者。
「…この、彼は?」
「それは、違うの」
沙奈瑚さんが眺める木製のフレームの中でバカみたいに笑うのは、ハルアキと私。
龍那が生きていた頃、彼が撮ってくれたものだった。
「違うって?」
「ハルアキは彼とかじゃなくて……龍那は、こっちです」
慌てて彼女から写真立てを奪い取り、変わりに渡したものは前者の写真。
写真嫌いな龍那に、無理矢理くっついて撮ったもの。
照れ笑いの龍那。今となっては、非常に貴重な一枚だった。
「怜と本当によく似ているわね。あなたが間違えたのも無理はないわ」
「はい。顔だけ、ですけど」
怜が照れ笑いをするのをまだ見たことがないからわからない。
けれど、きっと龍那のように俯き加減で、目を細くして口端がほんの少しだけ上がる程度のものなのだろうと思う。
同時に、それが私に向けられることがないことも。
「写真を見ると、辛いのね?」
「辛い、というよりは哀しくなるので」
「そう。私も、同じよ」
愛する人と一緒にいることができない。そんな哀しい事に共通点があったなんて。
その哀しみはどんなに慰められようと、どんなに痛みをわかってくれようとも、身をもって体験しなければ、わからない傷。
哀しい・淋しい・苦しいという一般的な感情よりは、身体の一部を失ったような虚無感、ぽっかりと空いた胸の空洞が、一番辛かった。
からっぽの心は、突然息もできないくらいの痛みが襲う。
どうしようもない不安の渦に呑まれ、出口のない苦しみに、ひとりもがくしかない。
けれどこの痛みがあるからこそ、龍那をいつまでも忘れずに済む。
過ぎていく時間なんかに解決されてたまるものか、と可哀想な自分にすがっている。
「哀しくて淋しくて、もうひとりじゃどうしようもないの。あなたが新しい彼といるように、私は怜といるのよ?」
「新しい彼だなんて、違います。ハルアキはそんなんじゃなくて…」
怜にハルアキとの関係を聞かれた時も、どう説明していいかわからなかった。
友達?恋人?ただの幼なじみ?
どれとも当てはまらないのに、何と言えば良いのかわからない。
大好きな人への想いを言葉にできずにもどかしくなることがあっても、身体を寄せ合ったりキスをしたりと、別の形で表現することができる。
けれどこんな時、どうしたらいいのだろう。
ハルアキとの関係を、彼女にうまく伝わるように表現するとしたら、どんな言葉を使えばいいのだろう。
あまりの言葉の乏しさに、つい涙が出た。
「ハルアキさんは、あなたの淋しさを一番わかってくれる人じゃないの?哀しげみわを分け合える存在なんでしょう?」
あくまでも、声は穏やかなまま。
「私も、怜をそういった特別な存在だと思っているわ」
だから一緒にいるのだと、彼女は言った。
これも愛だと。
違う、そんなのは愛じゃない、と大声で言いたい。
「特、別?私は、違います」
愛してないなら、怜から離れて、とそう言いたかった。
だからといって、私が怜から愛してもらえるわけではない。
「じゃぁ、ハルアキさんはあなたにとってどんな方なの?」
「ハルアキは、ただの――」
しかし、よりによって咄嗟に口を突いて出た言葉は、彼との関係を表す上で一番かけ離れたものだった。
その言葉は、ハルアキに当てはまるものではない。
どこまでも優しい彼の心に、何の代償もなくあぐらをかいている私にぴったりの言葉なのに。
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