13.○新たな気持ち
怖かった。
沙奈瑚さんが倒れたことで頭がいっぱいで、他のことは何も考えていなかったから。
救急車を呼べば必然的に病院に運ばれるのは当たり前の事なのに、何をそんなに恐れているのか、怯えているのかよくわからないけれど、怖くて、寒気がする。
誰か助けて!
病院は何も悪くないけれど、今の私にはまだ辛い所でしかない。
龍那を奪った恐怖の場所でしか。
「龍那……」
泣くなと強く言い聞かせ堪えてきたけれど、一粒涙が零れてしまうと、それはもうとどまるところを知らない。
心配そうにのぞき込んでくるおばあちゃんもいたけれど、通りすがる人たちの目など気にしている場合ではなかった。
嗚咽が漏れぬようにと、掌で口元を覆う。
助けて!
そう願った時、突然肩を叩かれ、私はハッとして面を上げる。
すると、薄く微笑んだ龍那の顔。
けれどもう、龍那はいないから。
「怜、さん?」
彼は、再び隣に腰掛けて言った。
「怜でいい。…大丈夫か?」
「え…は、はい」
初めて会った時のような冷たい印象はまるでなく、声もどこか優しく感じた。
「沙奈瑚のことは心配ない。明日には退院できるそうだ」
「そうですか、良かったです」
「今日は…助かった」
「いえ、私は何も」
龍那に似ている彼のことをもっと知りたい。
もっと傍にいたい。
けれど、その想いは
「私、帰ります」
震える身体を抑えて何とか立ち上がる。涙でぐちゃぐちゃの顔を見られたくない。
「あーちょっと待った!えっと…涙華、送るよ」
「い、いいです。悪いし」
胸が一瞬で、熱くなる。
名前を呼ばれただけで、ドキドキが胸の奥深くでうるさくて、指先までもがじんわりと温かくなるのを感じた。
「ひとりじゃ帰れないだろ、そんな顔で」
「大丈夫、です」
無理すんな、と頭を軽く突かれ、素直に「はい」なんて言えるわけもなく、大嫌いな強がりの私になる。
「元々こーいう顔なの。放っといて」
「安心しろ、お前のためじゃない。沙奈瑚がそうしろって。
『お前のためじゃない』
一見冷たいような、怜の言葉。
けれど、むぅっと膨れて振り向いたそこには、私の大好きな龍那の笑顔があったから、「お願いします」と素直に彼の車で送ってもらうことにした。
「大丈夫か?」
「え?」
助手席から窓の外ばかり見ていた私に気づいて、怜が心配そうに訊ねてくる。
「右手」
言われて初めて、私は自分の右手に巻かれた包帯に気づいた。
「あ、はい。ガラスで少し切っただけだから」
大げさに包帯まで巻かれているけれど、救急車の中でついでに手当てしてくれただけであって、パニック状態にあった私には痛みなど全くなかった。
心の方が、ずっと痛い。
「そんなことより煉さんに連絡しなくて良いの?」
「煉に?どうして?」
「だって沙奈瑚さんの旦那さんでしょう?一番会いたいんじゃないの?」
「確かに一番会いたがってる相手だけど、あいつは来ないよ」
「あ、そっか旦那さん写真家なんだっけ?今海外に行ってる、とか?」
「そう。どこかに行ったきりもう二年も連絡がない。沙奈瑚は捨てられたんだよ」
「捨てられた?」
繰り返すと、怜は不機嫌そうに「あぁそうだよ」と答え、タバコを咥えた。
私は、勧められたタバコを断って、怜が咥えたそれに火をつけるのを待ってから、問う。
「どうしてわかるの?」
「そうとしか思えないだろ」
苛立ちからか、怜はタバコを深くは吸わず吹かすだけで、すぐに煙を吐き、そしてまた浅く吸う。
「どうしよ私、煉さんに会ってみたいなんて軽く言っちゃった」
「沙奈瑚は兄貴が必ず帰ると信じて疑わないから。連絡も付かないくせに、今でも信じてるんだ」
あんな奴、帰らなければいいんだ、と今まで聞いたことのないくらい低い声で呟いた怜。
「あんな奴」
ぐ、と唇を噛み締めながら繰り返した彼が、私に気づいて気まずそうに目を泳がせた。
「あんな奴でも、怜のお兄さんでしょ?」
「兄弟だなんて思いたくない。沙奈瑚がいつもどんな気持ちで、あいつを待っているか」
怜が、沙奈瑚と口にする度、この胸はちくちくと小さな痛みを覚える。
どうして?
怜と彼女は義姉弟だから大丈夫、と思う気持ちと、血のつながりがないのだから愛し合える仲だという、不安。
それは明らかに不安の方が勝っていて、
「沙奈瑚は、俺が守る」
瞬間、確信に変わった。
「怜は、沙奈瑚さんが好きなの?」
姉としてではなく、女として。
「それは、」
「違う?」
否定して欲しかった。
姉としてだと言って欲しかったけれど、彼は乱暴にタバコの火を消し、車の窓を少しだけ開けた。
「タバコって吸わない奴にしてみると匂いがかなりきついらしいな」
「へ?」
唐突に話の流れが変わったことに対して頓狂な声を出してしまった私。
少し置いてから、
「まぁ……でも大丈夫。慣れてるから」
と話の方向を合わせて答えた。
「彼が吸ってたから?」
「うんん。龍那は吸わなかったけど…」
「けど?じゃぁ今の彼が吸うのか?」
「彼ってゆーか…そんなんじゃないけど」
「じゃぁどんなの?」
どんなの?と聞かれてしまうと、返す言葉に困ってしまう。
ハルアキは、私にとって何なのだろう。
いつも傍にいるけれど、彼氏と呼べる存在ではないし、かといって友達で済まされるような関係とも少し違うような気がした。
正直、真剣に考えたことなんてなかった。
「あんなに未練たらしいこと言ってた割にはもう男がいるのか?立ち直り早いんだな」
半笑いのか怜。
その軽蔑したような顔に、なぜが目眩がした。
「自分はどうなの?沙奈瑚さんのこと、煉さんが帰ってきたらどうするの?」
だから、止まらなくて。
「いくら怜が好きでも、彼女は煉さんのこと今でも想ってるんでしょ?」
ふん、と鼻息も荒く果敢に言い切ったのに、
「関係ないだろ」
と、一言。
感情的になった自分が恥ずかしくなるくらい淡泊すぎる返答。
「私のことだって、立ち直りが早かろうが遅かろうが怜には関係ないッ!」
「そうだな。でも最初に巻き込んだのはそっちだろ」
「た、確かに。…もう、ここでいいです」
「は?」
龍那とケンカした時も、同じようだった。
頭にくるほど冷静に的確に痛いところを突いてくる彼。勝てないことに気づいて、そのうち泣き出す私。
「いいから車停めてぇ~」
無理矢理道路脇に車を止めさせると、「バカ」とありがちな捨て台詞を吐いて車を降りた。
こんな風に龍那の運転する車から降りたことなんて、たくさんあった。
けれどただ一つ違うのは、飛び出した後のこと。
どんなひどいことを言って傷つけたとしても、龍那は必ず追いかけてきてくれた。
ぎゅっと抱きしめてくれた。
だからあの頃は、泣きながらひとりでアパートに辿り着くことなどなかったのに。
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