10.◇ひとときの安らぎ
稜のアパートに着いたのは、あれからすぐのこと。
笑顔で見送ってくれた涙華の顔が離れなくて、俺は絶っていたタバコを吸いながら車を飛ばした。
しばらくの間禁煙を守っていたのに、苛立ちや虚しさが勝ってどうしても我慢できなかった。
涙華にバレたらまたひどく文句を言われるだろうに、証拠隠滅を図る気力もない。彼女は“禁涙”を守ろうと努力しているのに。
近くの公園に車を停め、アパートまでの距離をゆっくりと歩きながらそんなことばかり考えていた。
朝から降り続く雨がしとしとと冷たく、痛くて。一粒一粒が、重い。
今日は、涙華と一緒に龍那の墓参りに行こうと約束したのに。
「来てくれて、ありがとう」
稜は、ずぶ濡れで情けない面をしている俺を見て、一瞬驚いたように目を丸くしたけれど、すぐに綺麗に笑ってそう言ってくれた。
整った顔立ちに、パッと明るい華が咲いたよう。
「早く入って」
俺は彼女から受け取ったブルーのタオルで短い髪を拭きながら、いつものようにリビングのソファに腰掛ける。
「ずぶ濡れね」
「車、公園に停めてきたから」
「そんなこと、気にしなくて良いのに」
「俺が気にする」
「そっか」
「近所の目もあるだろ」
「大丈夫よ。…あの人、今日は帰らないしね」
気丈に振る舞いながらも、どこか哀しげな表情。
「わかってる。鉢合わせになんてことになって一番困るのは、稜でしょ?」
「風邪ひくわよ?…シャワー、使う?」
涙華のアパートとは違い、稜の好きな落ち着いた色で統一され、どこにいても感じられないような、妙な安心感に包まれる。
だからいつまで経っても、ここを離れられないのかもしれない。
「今日は何があったわけ?」
「何かなくちゃ、いけない?」
おどけるように言った声が妙に艶っぽく、けれど語尾には小さな笑いが含まれているのだと、気づく。
「どぉーせ旦那となんかあったんだろ?」
「さすがハルアキね」
楽しそうに笑いながら隣に腰掛け、そしてとん、と右肩に体重を預けてくる。
そこにかかる僅かな重み、温もり。
途端に、甘えてくる稜が愛しくなる。
「今日はずっといてくれるんでしょ?私ね、明日も仕事休みなの」
「稜?俺は普通に仕事なんですけど」
「たまには、いいじゃないの」
ね?と、甘えたような声で言われてしまうと、まぁいいかという気になってしまうのはどうしてだろう。
「キス、して」
ここにいれば、何もかも忘れてしまうことができた。
すべてが、うまくいく気がした。
「はいはい、わかりましたよ」
ふぅ、とため息を吐きながらも、俺は稜の肩に手を回し軽く引き寄せる。
「好きよ」
と呟いた彼女の唇に、そっと口付ける。一瞬だけ。
そして惜しむように離れて、もう一度。
こんなキスをするようになったのは、最近。付き合っていた時は知らなかった。
お互い嫌いになって別れたわけではなく、その後もずっと良き相談相手であり、いつの間にか傷の舐めあいのような関係になってしまったけれど、キスが欲を満たしたり愛を確かめ合うだけのものではないのだと知った。
互いに新しい恋に深く傷つきささくれだった心を癒したのは、深いキスでもなく、激しい熱の分かち合いでもなく、ほんの少し触れるだけの、優しいキス。
「ハルアキ?泣いても、いいのよ?」
彼女の言葉を、
「何だよ、それ」
と、笑って流した。痛いところをついてくる。
「稜は本当にキレイになったな」
初めて彼女と出会った時、ショートカットのよく似合うボーイッシュなイメージだった。
付き合ってからもそれは変わらず、けれど別れてから彼女は急に綺麗になった。
「まさか稜が先輩に乗り換えるとは、思ってなかったよ」
「あれ?お互い様でしょう?」
ちょうど、その頃だった。
幼なじみの涙華への気持ちに気づいたのは。
「そっか。そうだったかも」
今度は逆に、稜からキスをくれた。
俯きかけた顔を捉えられ、軽く。
「稜?」
彼女は本当に優しい。
誰よりも俺を理解し、逸早く心の傷に気づいて、そっと癒してくれる。
彼女の都合で呼び出され利用されているのだとばかり思っていたのに、どこかでそれを待っている自分がいた。
本当は、逆なのに。
本当は、稜を頼ってばかり。
そんなことでは前には進めないと、わかっていたのに。
「好き。大好きよ……ハルアキ」
沈黙の後に慌てて付け加えられたかのような、俺の名前。
「無理して名前呼ばなくて良いよ?」
言って、抱きしめる。
互いの顔が見えないように、強く。
「どうしてそんなこと言うの?」
「稜の想う人は、旦那だけだろ?」
「そんなの、ハルアキだって同じでしょう?」
「私のわがままに無理して付き合ってくれてるは、どうして?」
「無理なんてしてないよ」
「うそ。もしかして、まだあのこと気にしてるの?」
と、稜は笑う。
あのこと、とは決して忘れてはならないあの日の出来事。
「もう忘れて」
彼女を抱きしめていたはずが、いつの間にか俺の方が抱きしめられている形になっていた。
背中をさするようにして、優しく。
「忘れないよ。でも、あのことで無理して稜の傍にいるわけじゃない」
その優しさに身を任せて、淋しさを紛らわせているなんて。
「俺の方が、稜にいて欲しいから」
だからいつも頼ってばかりで。
そんなことでは、いつまで経ってもひとりでは歩けない。
前には、進めない。
「やっぱり、ごめん、帰る」
俺は稜を振りほどいて、勢いよく立ち上がる。
これ以上、甘えてはいられない。
「稜、俺たちもう会わないほうがいいんだよな、きっと」
「私のこと嫌い?」
「違う!これ以上、稜の負担になりたくない。頼ってばかりいたくないんだ」
すぐに感情的になる俺とは異なった、稜の抑揚のない静かな声。
「ハルアキ?辛いのね」
「そんなこと!」
その声は、優しく心に染み渡っては、秘めてきた俺の弱さを引き出していく。
「俺が、何とかしてやれたら」
「そうね。わかるわ」
稜は優しい。
付き合っている時には気づけなかった、この気持ち。
その優しさがあったからこそ、きっと今こうしていられるのだと強く思う。
涙華を想う辛さをわかってくれる稜がいなかったら、きっと俺は壊れていただろう。
「涙華には、俺じゃダメなんだ」
何かが変われば、この心は満たされると思っていた。
涙華の傍にいることが、このわだかまりを解消してくれる唯一の方法だと思っていた。いつかきっと、報われるだなんて。
そんな言葉の枷で、彼女の心を縛ることなんてできないのに。
全てが自分のものになるわけじゃないのに。キスをしたり抱き合ったりしても、得られない。心だけは。
むしろ、考えれば考えるほど何をしても救われないのではないかという不安でいっぱいになる。
「ごめん、愚痴聞いてもらいにきたわけじゃないのに」
どうすればこの心は満たされる?
そんなこと、きっと誰にもわからないから。
「悪いけど、今日は帰るよ」
稜の目の前で泣き崩れてしまう前に、俺は玄関へと急いだ。
彼女の淋しさを紛らわせてやるために呼ばれたはずなのに、俺は一体何をしているのだろうかと、また自己嫌悪に陥る。
また後日、出直してこようとドアに手をかけると、
「待って」
背中にかかる、稜の声。
その縋るような細い声が、心を揺さぶる。
彼女は、固まる俺のすぐ傍まで来て、
「行かないで。傍にいて」
それは、ずっと待ち望んでいた言葉。
彼女に向き直ると、目の前に差し出される掌。
細い腕、白く長い指先。
「私も、あなたと同じ」
視線の先にあるのは、深い快楽と一時の安心感。
誰もが見返りを求めて人を好きになるわけじゃないのに、一方通行で行き場のない想いは、どうしてこんなに辛いんだろう。
もう、何もかも消えてしまえばいいのに。
「稜ッ」
俺はそれを捕まえて、心のままに彼女を抱きしめた。
わずかな時間さえ惜しむように軽めのキスを交わしながら、その足はリビングへと引き返していた。
本当は、こんな風に手を差し伸べてくれるのを待っていた。
『行かないで』
この言葉を、いつも望んでいた。
涙華が、そんな風に引き止めてくれるのを、ずっと。
信じて。
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