8.☆死ねる程の愛
「怜、起きて」
沈んでいた意識を呼び覚ます、美しい声。こんな真冬でも、温かい日差しのような。
とんとん、と肩を叩かれようやく重い瞼を上げると、にこやかに微笑んだ沙奈瑚が立っている。
穏やかな朝の風情に、自然と笑みが漏れた。
「せっかくの休日を寝て過ごすなんてもったいないわ。起きて」
彼女は腰を落として、「もう9時よ」と顔をのぞき込んでくる。
元から色素の薄い栗色の髪先が、頬に触れる。
手を伸ばせばすぐそこに沙奈瑚の顔。
「おはよ」
思い描いていた、瞬間。
彼女が自分のものだったらと、つい手を伸ばしたくなる。
いつもいつも、兄貴のものだからと己を何とか押さえ込んでは、忘れようとしていた。
それがどれだけ辛いかなんて、きっと誰にもわからない。
初めは、声が聞けるだけで、笑顔が見られるだけでこの心は満たされていた。当時から俺にだって彼女はいたし、淡い想いだけで消えていくはずだったのに…兄貴が消え、いつの間にか沙奈瑚への気持ち募り、徐々にエスカレートして。
抑えられなくて。
どうしようもなくなっては、酒か女に逃げる日々。
けれど心は、満たされぬままで。
「ご飯できてるわよ?早く顔洗ってきてね」
離れていく顔、肩に触れていたはずの細い指。
俺のものではない沙奈瑚を汚してはならないという良心と、兄貴がいない間に自分のものにしてしまいたいという邪心とが葛藤を繰り返して、もう、止められなかった。
「沙奈瑚ッ!行くな。…傍に、来て」
ドアノブに手を伸ばしかけていた彼女が、え?と振り返る。
「なぁに?」
ふわっとした、柔らかな笑み。子供をあやすかのように。
そんな大人びた態度に、いつも居たたまれなくなる。どうにもできないもどかしさが、呼吸さえ難しくさせる。
「ガキ扱いすんなよ」
言って、俺はベッドから飛び降りた。
部屋を出ようとする彼女の腕をつかんで、引き止める。
「怜?」
彼女をそのままベッドに押し倒した。
「その気になれば、俺はいつだって沙奈瑚を抱ける。不用心に、男の部屋に入ったのが、悪い」
「怜…どうしたの?」
驚くでも怒るでもなく、緩慢とした声。
「別に。好きな女を抱きたいと思うのは、男として普通だろ?」
彼女の白い首筋に口づける。
押さえつけた手首が、逃げだそうとして僅かにその身を捩る。
「力では、俺に勝てるわけないだろ?」
言うと、はっとして一切の抵抗をやめた沙奈瑚。
けれど、それが是という意味ではない。そんなことは自分が一番よくわかっているのに。
「怜?私はあなたが好きよ。でも、煉のことは今でも愛してるの」
ナイフで胸をひと突きにされたような衝撃だった。
彼女が、誰よりもよくわかっている事実を噛み砕いて口にしただけのことなのに、なぜだろう。
ナイフは、抜けない。
突き刺さったまま、血を流し続けて傷口は化膿し、そう簡単には、癒えない。
わかっていたのに。
それでも俺は、
「愛してる」
彼女の中にたとえ煉が居座っていたとしても、それでも構わない。
「愛してる」
痛みから逃れる呪文かのように、それだけを繰り返して。
心で繋がっていられないのなら、せめて身体だけでもと思うのは、いけないことだろうか。
「煉…」
彼女がその名を口にした瞬間、頑なに守り続けてきた理性すら吹っ飛び、もう何もかもが見えなくなった。
温もりを確かめ合う暇もなく、沙奈瑚を力でねじ伏せる。
その心までも手に入れられるわけじゃないのに。
愛し合う暇もなく、俺はただ必死で彼女を抱いた。
このまま死んでしまってもいいと、本気で思った。このまま消えてなくなったとしても、俺がどれほど愛しているのかを、伝えられるのなら。
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