5.○再会
気づくといつもここにいた。何かあると必ず。きっと、何もなくても自然と足が向かう場所。
龍那の眠る、霊園。
もう、龍那のことを忘れたふりをするのは疲れた。
けれど、一生懸命傍にいてくれるハルアキを哀しませることだけはしたくないから、だから言えない。
「龍那、私またバイトクビになっちゃった。相変わらず何やってもダメだね。いっそ、ハルアキと結婚しちゃおうかなぁ?」
何も考えずに、ハルアキを愛することが幸せであると、わかっている。
彼の眠るお墓に問いかけても、もちろん彼は答えてくれない。例え返る言葉がなくても、きっと届いていると信じているから。
正直、龍那と過ごした日々がいつも幸せだったとは言い難い。
くだらないケンカもたくさんしたし、傷ついたり、傷つけたり。
決して口にしたことはなかったけれど、別れたいと思ったことだってある。
これでもかっていうくらい、泣いた夜も。
でも今はそんなこと全部含めて、あの頃は幸せだったと気づく。
少なくとも、淋しいと思ったことは、一度もなかったから。
その時は気づけなかった幸せが、そこには溢れていたのに。
もし龍那が生きていたら、彼はなんて言ってくれるだろう。
私がハルアキと付き合うと言ったら、ちゃんと引き止めてくれただろうか。
「無理だよね」
きっと龍那は、引き止めてくれない。
何も言わずに私の好きにさせただろう。
彼は、そういう人だった。
私はちゃんと前向きに生きようとしているのに、龍那はいつまでも心に居座って、忘れさせてくれない。
ぐっと私の心をつかんだまま、決して離してはくれない。
涙が溢れてくるのは、いつものこと。
心おきなく涙することができるのは、海に近いこの霊園だけだから。
冬は海風が冷たくて厳しい日もあるけれど、磯の香りが龍那を思い出させる。
海が好きだった彼が眠るには、ふさわしい場所。
ここに来ると、可哀想な自分に会える。
大切な人を失った可哀想な自分を再確認して、涙する。
そんなことばかり繰り返して。
結局、私は2年前と少しも変わっていない。
もしかしたらそこから動き出すことを、私自身が一番恐れているのかもしれない。
「龍那」
そう呟いた息の白さが宙に消えた時、スマホが聞き慣れた音を奏で始めた。
画面を見なくても、それがハルアキであることを告げている。
私は慌てて、カバンの中を手探りで掻き回す。
基本、片付けられない主義の私のカバンの中は常に余計な物で溢れていて、必要な物がすぐに取り出せない。
いざという時に困るからちゃんと綺麗にしておけ、と龍那にいつも言われていたのに、今に至っても直せないでいた。
「あった!…あれ?」
と咄嗟につかんだ物は、スマホよりもずっと柔らかくて、優しい物。
それはいつかの町で、龍那の幻を見た時のポケットティッシュ。
よれよれで中の広告がほとんど読み取れない。
けれどそれが余計に、嬉しくて。
やっぱり夢じゃなかったんだ、と心がわずかに熱を持つ。
あの日のことは、誰にも言えなかった。
ただでさえ、恋人を亡くし頭が変になってもおかしくない状況なのに、“龍那に会った”なんてことを言い出せば、ハルアキでさえ私を軽蔑するだろう。
だからこの喜びは、秘めておく。
例えそれが夢や幻だったとしても、私にとっては貴重なものだから。
「あれは、龍那だったんだよね」
いつの間にか着信が途切れていたことにも気づかずに、“龍那”が現れたという証拠をそっと手の中に包んで抱きしめる。
もう一度だけ会うことができれば、もう何もいらないと思っていた。
その願いが叶ったのに、私はまた“もう一度”を願っている。
なんて欲張りな人間なのだろう。
龍那に会いたい!
その時、
私の声に反応するかのように誰かに呼ばれた気がして、思わず顔を上げる。
ついに幻聴まで聞こえるようになってしまったのだろうか、と不安に思いながらも声の方を見やると、遠くに見えた男女の姿。
彼らは並んで歩き、一番奥のお墓の前で足を止めた。
男性よりも少し背の低い女性は、その場に膝を折って何やらお墓に話しかけている様子。
スーツを着た男性は、無表情のまま彼女の後ろで手を合わせている。
私はまた夢をみているのだろうかと、目を疑った。
ウソでしょ……?
龍那が、そこにいたから。
私の足は、自然と彼らの元に向かっていた。
何も、考えずに、
「あのッ!」
「はい?」
最初に振り返ったのは、綺麗な顔立ちの女性の方。す、と立ち上がり茶色の艶やかな髪を耳にかける。
それだけで甘い香りが漂ってきそうな美人。
「どうされました?」
怜悧ささえ感じさせる程の美しさに似合わず、彼女は柔らかい声で言った。
続いて、龍那にそっくりな彼が、私を見る。やっぱり、あの人だ。
「あ、いえ…」
咄嗟に声をかけてしまったけれど、一体何を言えばこの気持ちは伝わるのか。
どうすれば彼をもっと引き止めておくことができるのかなんて、わからなかった。
ただ彼の笑顔が見たい、声が聞きたい、それだけなのに。
彼は徐々に表情を曇らせ、訝しげに眉をひそめた。
「すみません、やっぱり、何でもないです」
これ以上、彼の顔を見ているのが辛かった。怖くて。
彼の瞳にはきっと、拒絶の色が浮かんでいるだろうから。
「大丈夫ですか?顔色が良くないわ」
「あ、はい。大丈夫です!ごめんさない」
「そう?じゃぁ行きましょうか」
失礼しますね、と言い残し、遠のくふたりの足音。
これでいいんだ、と言い聞かせる。
もう会えないかもしれないけれど、龍那の幻にまた会えたことに感謝して、忘れてあげなくては。
「あの人は龍那じゃない」
だとしたら、彼は何者なのだろう。
一緒にいたあの綺麗な女性とはどんな関係だろう。恋人同士に決まってるか。
考えてもわかるはずがないのに、そうせずにはいられない。
彼は、誰?
「待って!」
彼を知りたい。
もう二度と会えないのなら、それでもいい。
せめてひとつだけでも、とそんな思いだけで、私は叫んでいた。
「あの、お名前を…」
ふたりは同じタイミングで立ち止まり、ゆっくりと振り返る。
考えるよりも先に叫んでしまっていた私が自ら驚くの見て、楽しそうに微笑む彼女。
そして、やはり訝しげな彼。
それはあまりにも、くだらないわがままを言って怒らせてしまった時の龍那の表情に、よく似ていた。
これは夢ではない。龍那の幻なんかでもない。
だったら、なんでこんなに似てるの?
「突然ごめんなさい。私は涙華といいます。あの…嫌でなければ、でいいんですけど、その…お名前、だけでも…」
ドキドキする。何が何だかよくわからないけれど、頭がぼぉっとする。
泣きたくなるくらい、胸が高鳴っていた。
「私は、
華やかさを内に秘めたような、控えめな笑い方をする彼女が、軽く頭を下げながら言う。
「こっちは私の、」
「
紹介しようとした彼女の声を遮るように名乗った彼。
ぶっきらぼうで愛想のないところまで、どうしてこんなにも龍那に似ているのだろう。
どうして……
「大丈夫?どうかしたの?」
唐突に起こった出来事に、明らかに戸惑いを隠せない彼女。
「すみません」
「あの…泣かないで」
おろおろしながらも、彼女が差し出した白いハンカチに、私はたまらず嗚咽を漏らす。
「…亡くなった人に、すごく似てたから、つい」
「それは、私?」
心配そうな表情の彼女と、明らかに不機嫌な彼。
対照的なふたり。
けれど絵になるふたり。
「それとも、怜?」
止めどなく溢れる涙。
「 怜さん、です」
言って、私はちらりとふたりを見た。
すると、彼はあらぬ方向を見つめたまま。
彼女は合点がいったかのように頷き、
「大切な方、だったんですね?」
と労るように。
「はい、とても。彼、私を置いて逝っちゃって」
私も沙奈瑚さんのように綺麗に笑ってみせる。
おそらく、あまりにもぎこちない作り笑いに黙ってしまった彼女。
しばらくして、
「くだらねぇ」
突然怒鳴った、彼の声。
「置いて逝った?何だよそれ。君が勝手に、聞こえが良いように言ってるだけだろ?」
「え?」
「彼は早めに逝って、君を待ってるだけだろ?悲劇のヒロインかよ」
「怜!やめて」
暴言を吐く彼を止めようと腕をつかむ沙奈瑚さん。
「離せよ」
しかし彼はその細い手を振り払い、逆に強く掴み返して、言う。
「だってそうだろ?」
彼女の顔が、苦痛に一瞬歪んだ。
「痛っ」
と、小さな悲鳴が聞こえた瞬間、私は思わず動いてしまっていた。
パンッと乾いた音が辺りに響く。
沙奈瑚さんの驚いた顔。
それ以上に見開いた、彼の瞳。
「彼女痛がってるじゃない!そりゃウダウダ泣いてた私が悪いけど、でも彼女に当たるなんて!…あんたなんか、龍那じゃない。全然似てない!」
「え……?」
赤くなった頬にかまわず、彼は細い目を丸くして私を見る。
――沈黙。
そしてこの場を変える、沙奈瑚さんの澄んだ笑い声、くすくすと。
「な、何?」
「何だよ」
と私の後に続いて、彼。
「だって、怜のこと怒鳴るだけでも勇気がいったでしょうに、叩くなんてすごい。怜の顔見た?おもしろかったわ」
まるで、黒雲の間を縫って差す
彼もそれを受けて頭を掻きながらの苦笑い。
「あ…あの、ごめんなさい!大丈夫ですか?」
私は深々と頭を垂れる。
怒鳴られる、と覚悟した私の上に降ってきたのは、低い笑い声。
驚いて仰ぎ見た彼の表情は、思いの外、穏やかだった。
「あぁ」
ただ、下らない、と苦笑しただけなのかもしれないけれど、それさえも私の胸をじん、と熱くさせる。
「あ、そうだ!この前はティッシュありがとうございました」
「は?この前?」
「指輪を拾っていただいて」
「……あぁ、あの時の?」
「怜?お知り合いだったの?」
「いや。忘れてたよ、そんなこと」
悪怯れる風もなく、淡々と言い放つ。
「涙華さん、って良いお名前ね。これも何かの縁だと思わない?」
すると沙奈瑚さんは、手にしていた財布の中から薄紅色の小さな紙を一枚取り出して、
「これ、私のお店の名刺なの。小さな雑貨屋だけど」
受け取った名刺には、『SANAKO』とかかれた店名と電話番号。そして簡単な地図。
「お店やってるんですかぁ。すごいですね」
「それが自分の名前ってちょっと変よね。私は嫌だったけれど、旦那が勝手に決めたの」
彼女は照れたように、けれどとても嬉しそうに微笑んだ。
「旦那さん?」
「そうよ」
「怜さんの、ことですか?」
「いいえ、怜は義弟よ。旦那は、
沙奈湖さんが自慢げにそう言った瞬間、隣にいた彼の表情が若干曇ったように感じたのは、気のせいだろうか。
「ごめんなさい、私…そういうの弱くて」
「そう?残念だわ」
「ほら、沙奈瑚!知らねぇってさ。もう帰ろう」
口惜しそうに項垂れた彼女に強く言い、ひとり踵を返す彼。
「また会いましょうね!涙華さん」
綺麗な笑顔。
「 え、あ、はい」
ふたりが並んで霊園から出て行くまでの間、私はじっとその場に佇んでいた。
少しでも動いてしまったら、全部夢で終わってしまうような気がしたから。
龍那…
胸の奥深くが、じんわりとそしてゆっくりと、温かくなっていくのを感じていた。
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