3.○いつもの朝

 愛しい人を失って、もう2年が経つ。

 傷は深いのに、悲しみは消えないのに、月日だけが勝手に流れていく。

 彼とこのアパートで暮らした時間が、彼を失ってから過ごした時間を、ついに追い越してしまった。

 あの頃は朝目覚めた時、隣に彼がいることから始まっていたから、今でも時々隣を見て不思議に思ってしまう。

 龍那は、どこにいるんだろう?

「おはよ、涙華るいか

 龍那とは違う声が、私を呼ぶ。

 優しさに満ちた明るく爽やかな声と共に、シャーッとカーテンが開け放たれてもいつもの目映さはなく、曇り空なのか柔らかい光が目蓋をくすぐる。

「起きたか?」

「うん。おはよー」

「朝飯できてるから冷めないうちに食えよ」

 ぼやけた視界に無理やり映り込む、見慣れた顔。

「ハルアキ、ありがとね。……あれ? 出かけるの?」

「そ」

 だらしなく着込んだワイシャツの襟を立てて、彼は鏡を睨み付けながら懸命にネクタイを結んでいた。

「日曜なのに、ごめんな」

「んーん。でも、どーしたの?かしこまった格好なんて」

「職場の先輩の結婚式。昨日言ったろ?」

 商業系の専門学校を出ておきながら、全く関係のない製造業の仕事をしてるハルアキ。

 普段作業着しか着ないこともあってか、ネクタイひとつで大苦戦していた。

 彼はやっとの思いでネクタイを締め終えると、まだ布団の中で温々としている私の目線に合わせて、しゃがみ込む。

 そして覗き込むように、私の額におでこをくっつけてくる。熱が出た時、母がよくやってくれたみたいに。

「熱、ないよ?」

 照れ隠しに言っておきながら、私は自然と目を瞑っていた。

 つい、安らいでしまう。

「知ってる。…ごめんな、龍那のとこ一緒に行けなくて」

 ハルアキは兄弟以上に仲良しで育った幼なじみ。

 額を合わせるこの儀式は、ずっと一緒にいた彼と、どちらともなく、いつの間にか大切なことを伝えたい時に行うものになっていた。

 幼い頃は、ただ単に安心感を求めてくっついている時もあったけれど、本来は、この間は何があってもウソはつかない、という決まり。

「明日は、俺も行くから」

「うん」

 頷いて、額を離す。

「私。大丈夫だよ。ひとりで行けるから」

 伏せていた目を開くと、すぐ傍にハルアキがいた。

 鼻先が、触れ合う距離。

「今日は、雪降る?」

「降らないから、安心しろ」

 ハルアキは、ため息混じりに、ふっと笑った後、私の髪をくしゃっとしながら立ち上がる。

「じゃ、行ってくる。愛してるよ、涙華」

「うん。……あの、私、」 

 と言いかけて、

「いいよ。無理すんな」

 いつもそんな風に制される。

 きっと彼は、私の心を知っているから。

「行ってきまーす」 

 玄関先で再度叫びながら出て行った彼を見送ることもせずに、私はまだ、ベッドから出られずにいた。

 もしハルアキが止めてくれなかったら、私は何と答えていただろうか。 

 愛してる、とでも言うの?

 窓の外は、まだ所々曇り空が残る雨上がりの朝。

 私は、ようやく布団から這い出て、窓辺に寄る。

 濡れた道路、潤された木々。

 今朝の雨で、うっすらと積もったあの忌まわしい雪は綺麗に消えていた。

「寒ッ」

 アパートの二階から見上げる空は、ひどく遠い。

 けれど、いつもいつも見上げているせいで、徐々に距離が縮まっているのではないかと思う。

 少しずつ、近くに。

「龍那おはよー」

 私の傍に。

 いつかは、届くかもしれないと――。

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