2.○出会い

 心臓が、大きく跳ねる。

 まさかそんなこと、そう思いながらも鼓動は高鳴り焦燥するばかりで…冷静に考えればありえない状況なのに、私は確信していた。 

 あの後ろ姿は、間違いなく、あの人。

 どうしても抑えきれずに、駆け出す。

 思わず、ネックレスにして首から提げている指輪を、強く握り締める。

 信号がチカチカと点滅を始めていたのも見なかったことにして、私は交差点を横切って、商店街から駅へと続く道を走る。

 人混みに消えたあの人を追って、速く。

 吐く息が、白い。

 しばらく走ってからようやく、吸い込む空気が冷たいのだと気付いた。

 ここで見失ってしまったら、もう二度と会えないかもしれないという、恐怖。

 もう少し。

 見えた、と思ったらまた物陰に隠れて見えなくなる。

 精一杯あの人の名を呼んでみても、弾む息が邪魔をして、うまく声にならない。

 たいした距離を走ったわけでもないのに、胸が苦しくて、肺が痛い。

 それでも進める足は決して止めない。

「待って、お願い」

 運動不足がこんな時に祟るなんて。

 あの人さえ私に気づいてくれたなら、もう何がどうなっても構わない。

 こうしてまたあの人に逢うために、私は生きているのだから。

龍那りゅうな!」

 ようやく追いついたあの人の腕を、私は奪うようにして両手で掴んだ。

 もう絶対に離さない。

 これで私は、救われる。

「りゅ、うな!」

 呼び慣れているはずなのに、尋常じゃなく息が上がっているせいで悲鳴のような叫びにしかならない。

 それがただの運動不足なのか、込み上げてくる涙のせいなのかさえ、わからなくなっていた。

「え?なに?」

 振り向いた彼は、驚いたように身を離す。

 そして、

「…誰?」

 彼は眉をひそめ、険しい面持ちで私を見る。

 非難するような、冷たい視線。

 呟くようなその声は、私の知っている龍那のそれよりも、ほんの少し高めで澄んだ声。

 龍那は例えケンカの時でも、そんな目で私を見たりしなかったのに。

「龍那じゃ、ない?」

 そんなこと、わかっていたはず。

「ご、ごめんなさい」

 目の前の彼は、龍那より背が少し高く、髪も黒くて長め。私の大好きな龍那とは少しずつ違うのに、顔だけは驚くほど似ている。

 一重で切れ長の、笑うとほとんどなくなってしまうくらいの細い目。

 すっきりとした、鼻筋。

 薄いけれど触れるととても柔らかくて温かい、唇の形まで。

「知り合いに似てたから、つい」

 ごめんなさい、と再び謝って、私は頭を下げる。

 きっとこれは、龍那が見せてくれている幻。早く現実に戻らないと、しっかりしないと。いい加減、忘れてあげないと。

 もう大好きなあの声で、私を呼んでくれることはないのだから。

 踵を返し急いで帰ろうとした時、

「るいか?」

「え?」

「落とし物」

 突然呼ばれて振り返ると、同時に目の前に飛んできた小さな物を両手でキャッチして、私はふと気づく。

「どうして、私の名前?」

「それ、君の?」

「あ…」

 いつの間に?と胸元を探っても触れるものがない。受け取った指輪の内側にローマ字で書かれたRuika&Ryunaの文字。

 これは付き合って一年目の記念日にプレゼントされたものだった。彼がいない今、何よりも大切な物。

「ありがとう」

 語尾はもう、涙声でかすれてしまっていたかもしれない。

 泣いてしまうかも、と頭で判断するよりも先に、溢れてきた涙。

 これ以上、龍那と似ている彼に恥をさらしたくはなくて俯くしかなかった。

 すると、

「なぁ、るいか?」

 再び呼ばれて、私は瞬時に身体が硬直するのを感じた。

 ぐっと、痛いくらいに心をつかまれた。

 私を呼ぶその声は、あまりにも、愛しい彼のものと似ていたから。

「とりあえず、拭いたら?」

 軽く笑った彼は、再び何かを投げてよこす。

 今度は弧を描いてゆっくりと、手の中に飛び込んできた。

 それはとても柔らかくて、優しいもの。

「ティッシュ?」

 軽くダメージの入ったジーンズのポケットに、おそらくだいぶ前から入っていたと思われる、ポケットティッシュ。

 駅周辺で配られているようなそれは、未開封なのに中の広告が読み取れないくらいにくたびれていた。

 彼は、龍那ではない。

 龍那はあんな風に冷たい目で私を見ることはないし、身長も髪の色も違う。

 龍那だったら、私を忘れたりなんかしないから。

 絶対に。

 去っていく彼の後ろ姿を呆然と眺めながら、私はずいぶんと長い間、その場に立ちつくしていた。


 しばらくして。

 いつの間にか消えていた喧噪が戻ってくる。

 止まっていた人々の群れが動き出す。

 これは夢なのかと思わせる程に一瞬の出来事だったけれど、彼の顔と、私の名を呼ぶ時のトーン。

 そしてさり気ない優しさ。

 この胸に残る温もりと、わずかな痛みは、いつまで経っても消えなかった。


 そして静かに、雪が降る――。



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