第8話 後悔
「おや?」
耳に当てたスマホからは、呼び出し音の無機質な響きが聞こえてくるだけだった。いくら待っても出ない。変だな。
「どうしたんだ、
十五分前にかけた時も同じだった。何かあったのかもしれない。
真剣な表情で考え込んでいる俺に、
「取れないだけなのでは無いですか。電車に乗っているとか」
「ないない。あいつが電車を使うなんて、うちに来る時ぐらいだぞ」
「では、入浴中で気づかないとか」
「あいつは風呂にスマホ持ち込んでるだろ。そもそもカラスの行水だし」
澄玲の視線の温度が、氷点下にまで下がった。あ。
「……ずいぶん暮葉さんの私生活についてお詳しいんですね」
「いやあ、付き合い結構長いからなあ」
ごまかすように言ったが、通じなかったようだ。澄玲が口を開こうとする前に、俺は素早く宣言した。
「よし! 心配だし見にいってこよう!」
半分本音、もう半分は逃げ出すため、俺は会社を出た。
◇
チャイムを鳴らして少し待ったが、誰も出る気配がない。中に居ないのか、それとも寝込んでたりするのか。
「困ったな」
俺は独りごちた。
例のベンチャー社長の依頼を完遂するには、暮葉の協力が不可欠だ。なるべく早く進めたかったが……日を改めるか?
「そうだ」
前来た時のことを思い出し、俺はドアノブを回してみた。もしやと思ったが、やっぱり鍵は開いていた。ということは、中に居るのか?
いつもよりさらに散らかった廊下を進む。リビングの前には、洗濯物が山積みになっていた。ちょっと考えて、大きなバスタオルを拾ってから扉を開けた。
「うわっ!?」
俺は思わず声をあげた。
一糸まとわぬ姿の暮葉が、ソファーに寝そべっていたからだ。
慌てて駆け込み、バスタオルをかける。くそっ、下着姿までだと思って油断したぜ……。
「お前なあ、鍵もかけずにそんな格好で……」
俺は言葉を切って、暮葉の顔を覗き込む。横向きになったその顔は、ぼんやりと虚空を眺めていた。手を振ってやると、ようやく少しだけ反応を見せる。
「大丈夫? 体調悪い?」
「……大丈夫っす」
タオルを前で合わせながら、のろのろと体を起こす。体に異常があるわけでは無いっぽいか? どっちかというと、これは……。
「なんか悩み事でもある? 俺でよかったら聞くけど」
暮葉はしばらく黙っていたが、やがてぽつぽつと話しだした。
「
「ふむ」
まあそんな感じかとは思ってた。でもそこまで仲悪そうにも見えなかったけどな。
「だから忘れて、無かったことにしようって。……でも、消す記憶を選ぶために思い返してると、そう悪い思い出ばかりじゃなかったかもって」
暮葉は寂しそうに言う。
「失敗したかなあって、いまさら。もう今は、ほとんど覚えてないんすけどね」
「じゃあ、元に戻す?」
俺が言うと、きょとんとした表情が返ってきた。
「何をっすか?」
「何をって、母親の記憶だよ」
「消したのをどうやって戻すんすか」
「いや、実は消さずに取ってある」
「……記憶を取っておくことはできないんでしょ。それぐらい知ってますよ」
からかわれていると思ったのか、暮葉がむっとした口調で言った。いや、そういうわけじゃないんだが。
「取っておくことができないってのは、『データとして』コンピューターに保存したりするのが無理だってことだ。『ここ』に取っとくことはできるぞ、当然」
俺は自分の頭を指さしながら言った。
そう、誰かの頭に保存しておくことはできるのだ。『それなら記憶を先に買いとっておいて、自分の頭に溜めておけば管理も流通も楽なのでは?』と記憶移植業者なら誰でも一度は考える。
だが今のところ、移植作業が二度手間になることによる、メンテナンス費の増加の方が痛い。それに人の記憶容量にも限界があるし、プライバシーの問題もある。とても割に合わないのだ。
訝しげに俺を見ていた暮葉だが、ようやく意味が分かったらしい。目を見開いて、言った。
「え? あたしの記憶を、如月さんが持ってるってこと?」
「うむ」
俺は鷹揚に頷いた。
そもそも記憶を消すのは、データとして保存するのと同じくまだ無理だから。まあ、消す方が大幅に簡単に感じるというのは分かるが。
「ちょ、ちょっと。聞いてないですよ。なに勝手に取ってるんですか」
「そんなこと言われても、契約書にそう書いてるし」
「なっ……」
暮葉は絶句した。契約書はちゃんと確認しましょう!
「それで、どうするの? 戻す?」
「……」
何を迷っているのか、返事は無い。じれったいなあ。
「まあ、俺はどっちでもいいけど。せっかくの貴重な記憶を手放したくないし」
「なんですか、貴重って」
「初めての彼氏との、濃厚なセッ……」
「はあああ!? う、うそでしょ!?」
「いやー、どうしても移植の時の『ゴミ』がなー。集まっちゃうんだよなー」
何度も記憶移植すると、混じってしまった記憶の『ゴミ』が集まって、意味のあるものになってしまう場合がある。俺も最近知ったけど。
暮葉は顔を真っ赤にしながら、がくりとうなだれた。
「……戻してください」
「うむ。でもタダとはいかないぞ」
「分かってますよ。借金してでも払います」
「いやいや」
俺はにやりと笑った。
「俺たちの間で払うと言ったら、金じゃないだろ。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだよ」
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