第8話 後悔

「おや?」


 耳に当てたスマホからは、呼び出し音の無機質な響きが聞こえてくるだけだった。いくら待っても出ない。変だな。


「どうしたんだ、暮葉くれはのやつ」


 十五分前にかけた時も同じだった。何かあったのかもしれない。

 真剣な表情で考え込んでいる俺に、澄玲すみれは訝しげに言った。


「取れないだけなのでは無いですか。電車に乗っているとか」

「ないない。あいつが電車を使うなんて、うちに来る時ぐらいだぞ」

「では、入浴中で気づかないとか」

「あいつは風呂にスマホ持ち込んでるだろ。そもそもカラスの行水だし」


 澄玲の視線の温度が、氷点下にまで下がった。あ。


「……ずいぶん暮葉さんの私生活についてお詳しいんですね」

「いやあ、付き合い結構長いからなあ」


 ごまかすように言ったが、通じなかったようだ。澄玲が口を開こうとする前に、俺は素早く宣言した。


「よし! 心配だし見にいってこよう!」


 半分本音、もう半分は逃げ出すため、俺は会社を出た。





 チャイムを鳴らして少し待ったが、誰も出る気配がない。中に居ないのか、それとも寝込んでたりするのか。


「困ったな」


 俺は独りごちた。


 例のベンチャー社長の依頼を完遂するには、暮葉の協力が不可欠だ。なるべく早く進めたかったが……日を改めるか?


「そうだ」


 前来た時のことを思い出し、俺はドアノブを回してみた。もしやと思ったが、やっぱり鍵は開いていた。ということは、中に居るのか?


 いつもよりさらに散らかった廊下を進む。リビングの前には、洗濯物が山積みになっていた。ちょっと考えて、大きなバスタオルを拾ってから扉を開けた。


「うわっ!?」


 俺は思わず声をあげた。

 一糸まとわぬ姿の暮葉が、ソファーに寝そべっていたからだ。


 慌てて駆け込み、バスタオルをかける。くそっ、下着姿までだと思って油断したぜ……。


「お前なあ、鍵もかけずにそんな格好で……」


 俺は言葉を切って、暮葉の顔を覗き込む。横向きになったその顔は、ぼんやりと虚空を眺めていた。手を振ってやると、ようやく少しだけ反応を見せる。


「大丈夫? 体調悪い?」

「……大丈夫っす」


 タオルを前で合わせながら、のろのろと体を起こす。体に異常があるわけでは無いっぽいか? どっちかというと、これは……。


「なんか悩み事でもある? 俺でよかったら聞くけど」


 暮葉はしばらく黙っていたが、やがてぽつぽつと話しだした。


如月きさらぎさんには、バレてると思いますけど。あたし、子供のころ母親とすごい仲悪かったんですよね。全然家に帰ってこなくて」

「ふむ」


 まあそんな感じかとは思ってた。でもそこまで仲悪そうにも見えなかったけどな。


「だから忘れて、無かったことにしようって。……でも、消す記憶を選ぶために思い返してると、そう悪い思い出ばかりじゃなかったかもって」


 暮葉は寂しそうに言う。


「失敗したかなあって、いまさら。もう今は、ほとんど覚えてないんすけどね」

「じゃあ、元に戻す?」


 俺が言うと、きょとんとした表情が返ってきた。


「何をっすか?」

「何をって、母親の記憶だよ」

「消したのをどうやって戻すんすか」

「いや、実は消さずに取ってある」

「……記憶を取っておくことはできないんでしょ。それぐらい知ってますよ」


 からかわれていると思ったのか、暮葉がむっとした口調で言った。いや、そういうわけじゃないんだが。


「取っておくことができないってのは、『データとして』コンピューターに保存したりするのが無理だってことだ。『ここ』に取っとくことはできるぞ、当然」


 俺は自分の頭を指さしながら言った。


 そう、誰かの頭に保存しておくことはできるのだ。『それなら記憶を先に買いとっておいて、自分の頭に溜めておけば管理も流通も楽なのでは?』と記憶移植業者なら誰でも一度は考える。


 だが今のところ、移植作業が二度手間になることによる、メンテナンス費の増加の方が痛い。それに人の記憶容量にも限界があるし、プライバシーの問題もある。とても割に合わないのだ。


 訝しげに俺を見ていた暮葉だが、ようやく意味が分かったらしい。目を見開いて、言った。


「え? あたしの記憶を、如月さんが持ってるってこと?」

「うむ」


 俺は鷹揚に頷いた。

 そもそも記憶を消すのは、データとして保存するのと同じくまだ無理だから。まあ、消す方が大幅に簡単に感じるというのは分かるが。


「ちょ、ちょっと。聞いてないですよ。なに勝手に取ってるんですか」

「そんなこと言われても、契約書にそう書いてるし」

「なっ……」


 暮葉は絶句した。契約書はちゃんと確認しましょう!


「それで、どうするの? 戻す?」

「……」


 何を迷っているのか、返事は無い。じれったいなあ。


「まあ、俺はどっちでもいいけど。せっかくの貴重な記憶を手放したくないし」

「なんですか、貴重って」

「初めての彼氏との、濃厚なセッ……」

「はあああ!? う、うそでしょ!?」

「いやー、どうしても移植の時の『ゴミ』がなー。集まっちゃうんだよなー」


 何度も記憶移植すると、混じってしまった記憶の『ゴミ』が集まって、意味のあるものになってしまう場合がある。俺も最近知ったけど。


 暮葉は顔を真っ赤にしながら、がくりとうなだれた。


「……戻してください」

「うむ。でもタダとはいかないぞ」

「分かってますよ。借金してでも払います」

「いやいや」


 俺はにやりと笑った。


「俺たちの間で払うと言ったら、金じゃないだろ。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだよ」

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