11、地獄の猟犬、奈落にて咆哮す




 地獄の底から響いてくるかのような、低く、長く尾を引く、咆哮――


 遠くその声を聞きながら、骨を踏みしだき、コートの裾をなびかせて、魔族の少女ベルフェゴールは走っていた。


 赤い髪はいつになく振り乱され、金の瞳は恐怖から揺れている。

 小瑠璃を追いかけて東の方角へとやって来ていた彼女は、その声の主を知っていた。


 ヘルハウンド。


 まだかなり距離があるというのに、聞いているだけで体に震えが走ってくる。


(〈威圧〉のスキル……だけじゃないか。ふん、すっかりトラウマになってるわね)


 ベルフェゴールは震えながら、ヘルハウンドが根城にしている巨大空間の廃墟へと向かっていた。

 もし襲われているのがあの少女なら、急がないと。

 でないと、ヘルハウンドはすぐにでも彼女を狩ってしまうだろう。

 それは、困る。

 今、あの子に死なれたくない。


 だから急がなければ。

 彼女を逃がしたとき感じた、イヤな予感が現実になる前に。


 二ヵ月前……自分たち魔族の住処だったあの城が滅んだときと同じように、死んでいった仲間たちと同じように――


 あの子の体が噛み砕かれ、燃やしつくされる、前に。




 ――――




 力はこちらの耐久をはるかに上回り、敏捷は体を動かすひまも与えず、器用は万が一の狂いもなく、鋭い爪の一撃をこちらに届かせる。


 反応が間に合ったのは――正確に言えば、前もって発動させようとしていた〈無敵〉が間に合ったのは、まさに奇跡だった。

 勢いよく吹っ飛ばされた小瑠璃が、半壊の建物をぶち抜く。


「けほっ、こほっ……ん、カウンター気味に〈無敵〉発動させるの悪くないな」


 ただ、地力が違いすぎた。


〈無敵〉を発動させたまま上半身を起こす。

 節約なしだと三回でガス欠だが、今解除したとして、もう一度発動する隙があるかは疑問だ。だからこうするしかない。


(ナヴィ、あいつのステータスは?)


(災害級の化け物だ。耐久を除く全ステータスが1800以上、魔力にいたっては2000に達している……耐久は他のモンスターと同じくらいだけれど、他のステータスが高すぎて、小瑠璃じゃ触れることも難しいはずだよ)


 分析しきる余裕がなかったのか、まとめて情報を送る余裕がなかったのか、焦りとともに伝わってきたのはそんな説明。


 災害級という初耳の単語は、おそらく竜級の上の格づけだ。

 まちがいなく、敵は今まで出会った中で最強だった。


(ゴーレムさん、記録更新されるの早すぎでしょ……)


 ぞくり、ぞくりと、背筋を悪寒がはいずり回る。

ヘルハウンドが〈無敵〉に触れて傷ついた爪をぺろりと舐める、そんな仕草だけで、気絶してしまいそうな威圧感。


 高レベルの〈威圧〉スキルが、小瑠璃の耐性スキルを上回って影響を与えているのだと、頭の中でナヴィの声がする。

 言いかえれば、今感じている威圧感はそのまま小瑠璃とヘルハウンドとのレベル差を現していると言っていい。


 しかし、だからといって怯んでいては〝死〟あるのみ。


 とりあえず、どんな攻撃だろうと一応防ぐことはできる。隙を見つけてなんとか逃げ出すしかない。

 そう決めた小瑠璃が、立ち上がろうとして――


「げ」


 と、小さく声が出た。


 同時にヘルハウンドが口を開ける。さっき小瑠璃の前をかすめた黒ずんだ炎が、牙のあいだで唸りを上げて渦を巻いた。


「あの炎……死の魔力を含んでる! 絶対に受けちゃだめだよ!」


 今の小瑠璃では〈ド根性〉込みだとしても耐えきれない。

 そう思っての言葉だったが、なぜか小瑠璃は動こうとしない。


「小瑠璃?」


 異変を感じて首をかしげるナヴィに、小さな声で言う。


「……うわ、どうしようナヴィ。腰抜けちゃったよ」


 動かないのではなく、動けない。

 立たないのではなく、立てない。


 これは、まずい。


 ほんとに、死ぬ。

 

 もちろん相手は待ってくれない。一回目の〈無敵〉が消える。その瞬間、黒ずんだ炎が小瑠璃へと吐き出されていた。


 炎は範囲が広く、しかし、ヘルハウンド本体よりかはずっと遅い。それが幸いした。

 二回目の〈無敵〉を発動させ、なんとか防ぐ。炎の勢いに押され、ごろごろと地面を転がった。

 やっと炎の噴射が収まったころ、二回目の〈無敵〉が消える。


 すかさず、ヘルハウンドが跳んだ。

 こちらの体はまだ動かない。牙で首に食らいつくつもりだとわかって、しかし避けるどころか、指一本動かすこともできない。

 最後の〈無敵〉も間に合わない。


 今、こうやって目で相手の動きを追えているのは、自分が死ぬ間際に立っているということか。

 不思議だった。相手の敏捷は自分を圧倒しているはずなのに、開いた口が、びっしりと生えた牙が、はっきりと見えている。


 もうだめかと思ったとき、小瑠璃を渾身の力で突きとばして逃がしたナヴィの体が、黒い巨体に呑み込まれていくところも、全部。


「ナヴィ……?」


 突きとばされながら、呆然とつぶやく。


(ナヴィ? ……聞こえる?)


 たしか、ナヴィはチートレベルの〈加護〉スキルを持っていると言っていた。

 スキルは発動したのだろうか? そもそも、一呑みにされても発動するものなのだろうか?


 わからない。わからないけれど、返事はなかった。

 返事がないとわかったとき……体がかっと熱くなって、元通り動くようになる。


 ――お前、絶対に目にもの見せてやるからな。


 思った以上に怒っていて、我ながらびっくりした。


 そのまま三回目の〈無敵〉を発動――した次の瞬間、ヘルハウンドがぶん回した尻尾が命中し、百メートル以上も吹っ飛ばされる。


 チャンスだった。好き放題やられるのは腹立たしいが、わざわざ向こうから距離を開けてくれた。

 崩れた岩を跳ねのけて起き上がると、さっき通ってきた坂道のすぐそばだった。このまま大空洞を出てしまえば、分かれ道や隠れられる場所は無数にある。

 そう思い走り出す前に、ヘルハウンドの爪の一撃が頭上から命中している。

 逃がさないといわんばかり、今度は地面に叩きつけられた。


「クソ犬め、お手する前はまずおすわりだろうに……」


 悪態をつきつつ起き上がろうとすると、もう一度爪の攻撃。頭から地面につっこむ。

〈無敵〉に触れて確実にダメージを受けているはずなのだが、吹っ切れたのか、まるで気にすることのない猛攻。


 しかも追撃は矢継ぎ早で、漆黒の体の周囲で炎が渦巻いたかと思えば、そこに雷が加わって、目にもとまらぬ速さで飛んでくる。

 雷の速さと炎の熱量を合わせ持つ高等呪文――〈ファイアボルト〉が炸裂し、ごろごろと地面を転がって吹っ飛ばされた。


(やばいな、もうすぐ十秒経つ)


 ダメージにはならないものの、こう攻撃されていては身動きが取れない。どうしたものか、と小瑠璃は死に際の高速回転する頭で考える。 

 だが、考えはいっこうに浮かばない。

 それどころか、残り時間が少なくなるごとに焦りが体にまとわりついて、思考をにぶくする。


 そうして、とうとう何も浮かばないまま〈無敵〉が解け、無防備になった、そのとき、


「〈スロース〉っ!」


 聞き覚えのある声とともに、やってきた魔力の塊がヘルハウンドの動きを停止させた。


「この魔法……ベル子ちゃん?」


 急いでヘルハウンドから離れるのと並行して声の主を探す。思った通り、ベルフェゴールが岩陰から手を振っていた。


「早くこっちにっ! そいつの魔力は強すぎる! 長くは止めておけないわ!」


 考えているひまはない。見えない拘束を引きちぎろうとするかのように、ヘルハウンドはすでに動きはじめている。


「ついてきて!」


 坂道の横、抜け道らしき穴に入っていくベルフェゴールに続いて、小瑠璃もそこに飛びこんだ。

 そしてヘルハウンドの強力な魔力が〈スロース〉の魔法を完全に打ち消したとき……二人は猟犬の前からまんまと逃げおおせていたのだった。




 ○




 高さ約二メートル、幅一メートルとちょっと。

 ベルフェゴールに連れられて、あきらかに人工の地下通路を小瑠璃は歩いていた。


「そろそろ、気を抜いても大丈夫かしら……」


 小さく息をつき、ベルフェゴールは壁にもたれかかる。ふわふわの髪が壁に押しつけられてぐしゃっとつぶれたが、気にする気力もないようだ。

 小瑠璃は小瑠璃で、元々だいぶ疲れていたところにヘルハウンドの襲撃だ。壁にもたれかかるだけでなく、ずりずりと腰を落とし、ひざをかかえて座りこむ。


「どうして助けてくれたかはわからないけど……ありがと、ベル子ちゃん」


 相手を見上げてそう言うと、「たまたまよ」とベルフェゴールはそっぽを向く。


「あと、ベルフェゴールよ」


「……」


「……ベ、ベルフェゴールよ」


「……」


「……ふんっ、今日はやけに元気ないのね」

 

 そう言ったベルフェゴールは、無視されたショックでちょっと涙目になっていた。


「それにしても、本当にあそこに着いちゃうなんて運がなかったわね」


「……なんなの? あのクソ犬」


 ベルフェゴールはそう聞かれると、どこか遠い目になって天井をあおぎ、言った。


「少し前からあの城に住み着いてるのよ。アビスの奥か、もっと上の階層から流れてきたんでしょうけど」


 そう言ったときのベルフェゴールの複雑な表情を、小瑠璃は見逃さなかった。

 悲しみ、そして怒り。他にもあるだろう、複雑な感情が彼女の中で渦を巻いていた。


「ベル子ちゃん、あそこに住んでたの?」


 少しの沈黙。それで十分だった。

 廃墟にあった大量の人骨のことを思い出す。ずしりと頭を重く感じて、小瑠璃はうつむいた。


 疲れている、だけではなさそうだ。

 らしくないなとは思いつつ、なんとなく、調子が出ない。

 それはきっと……


「そういえば、あのブタは? さっきからやけに静かだと思ったら、いないじゃない」


 そう、ナヴィがいないせいなんだろうなと、話をそらすように言われた言葉で小瑠璃は思った。


(ナヴィがいないと、いまいち会話のテンポが悪いな……)


 まるでごまかすみたいに。

 そんなことを思いつつ、しかしベルフェゴールにははっきりと、


「ナヴィなら死んだわ」


 そう告げた、そのとき、どこからか声がした。


「え、死んでないよ?」


 ……んん? 


 あれ、おかしいな。幻聴かな?


「ナヴィなら死んだわ」


「だから死んでないよ、小瑠璃!」


 元気いっぱいの声とともに自分の胸元からはい出してきた小さなブタを、小瑠璃は虚無をたたえた瞳で見る。


「やあベルフェゴール! 小瑠璃を助けてくれてありがとう!」


 やや引き気味のベルフェゴールが「あ、うん。どういたしまして」と言うのを聞きながら、首をかしげた。


「君、食べられてなかったっけ?」


「僕はスキル〈自動復活(リスポーン)〉を与えられているからね! 万が一倒されても、少ししたら小瑠璃の胸元からよみがえるのさ!」


 ついさっきまで胸の中で渦を巻いていたもろもろの感情が、「ドッキリ大成功!!!」と派手な看板をふり回しながらどこか遠いところへ消えていった。

 残ったのは、なんかこう、たとえようもない何か。あえてたとえるならば、苛立ちと虚無感の合いの子的な、何か。


 ドヤ顔を披露するブタにアイアンクローをかましつつ、小瑠璃は平坦な声で言った。


「もっと早く言ってよ。……そしたら、食べ物には困らなかったのに」


 いや、よく考えればやつには〈加護〉がある。

 この調子だとどうせ〈超再生〉も持っているだろう。現実は非情である。


「というか、そっちだけ生存スキル充実しすぎでしょ……私にも〈自動復活〉よこせよ……」


「そういうやつらなのよ、そいつらって」


 ベルフェゴールがナヴィをにらんで言った。とん、と勢いをつけて壁から離れ、小瑠璃に向きなおる。

 なんだなんだと思っているうちに、小瑠璃は後ろ手につかまっていた。


「これであなたは私の捕虜。抵抗はしないでよね。どのみち、〈無敵〉は今は使えないみたいだけど?」


 バレてら。

 たしかに、〈無敵〉フル稼働のせいで小瑠璃の魔力は今すっからかんになっている。そこに気づくとは……やはり天才か。

 いや、冗談抜きでお目が高いというか、ナヴィみたいに相手のステータスを見るスキルでも持っているのかもしれない。


「小瑠璃、今助けるよ!」


 そう言ってベルフェゴールに突進したナヴィが片手で払われる。しっかり〈加護〉は発動していたが、バウンドしつつ通路の奥に飛んでいって見えなくなった。

 ざまあみろと言いたげに、ベルフェゴールはふんと鼻を鳴らしてから小瑠璃を見る。


「|沙ヶ峰小瑠璃だったわね。いっしょに来てもらいましょうか。あなたをここに転生させたヤツらのこと、この際だから教えといたげる」


「ああ、うん。それはありがたいんだけど……」


 言いながら身じろぎするが、ベルフェゴールの力の方が強い。拘束はびくともしなかった。

 身じろぎを抵抗と受けとったか、ベルフェゴールは鋭く目を細める。


「言っておくけど、これは強制よ。あなたに拒否権は――」


 と、そう言ったところで。

 ぐぎゅるぅぅぅぅぅぅぅぅ~、と大きな音が通路に響いた。


「…………………ベル子ちゃん」


 小瑠璃はぺったんこのお腹をさすりつつ、ベルフェゴールの視線を真正面から受け止めて、言った。


「な、なにかしら。あと私はベルフェゴー……」


「お腹すいた」



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