六話(二)

 その『何か』は、重く歪んだ気配であった。そして、朔羅はその気配を知っている。


 ――嘘だ、有り得ない。


 そう、心で唱えるように言う朔羅さくらの表情には、先程までの笑みが消え失せていた。

 感じ取ったものを否定しようとする彼の頭の中に、捩じ込むような重苦しい空気。そしてその後ろに僅かに感じるのは、『りん』の気配だった。

 閉じていた瞳を開き、朔羅は周囲を見渡す。だが、姿は見えない。

 それなのに、肌が粟立つほどの禍々しい気が、自分を取り巻いている。同時にそれが、彼の体を束縛もしていた。


「……、諷、貴……さん」


 朔羅の唇から、震える音でこぼれ落ちる名。

 彼はその気をよく知っている。決して忘れられない、忘れようもない相手の名だった。

 辛うじて動く首を動かし足元を見やれば、浅葱あさぎが必死に術を唱えている最中だ。退魔のための最終段階に入っているのだろう。紅炎こうえん颯悦そうえつも、援護に手一杯で上空の状況には気づく様子も見受けられない。


「何を、するつもりなんだ……諷貴ふうきさん、琳……!」


 朔羅はそんな眼下を見やりながら、たまらずに声を張り上げた。

 すると、彼の意識の中でニヤリと嗤う諷貴の印象が克明に広がっていく。


(――まずいっ!)


 そう思った時には、既に遅かった。

 一瞬の暗転が訪れて、朔羅の視界が塞がれてしまう。


『――半端モノ』


「え……?」


 耳に届いたものは、憎悪に満ちた琳の声だった。

 彼を纏っていた空気がそこでふつり、と途切れて、朔羅が慌てて主を見やる。その頃には視界も開けて、暗転も融けていた。

 そして、賽貴の張った結界内で蠢いていたあやかしたちも、残らずその姿を消している。


「――浅葱さんッ!!」


 弾かれたようにして、そんな叫びに近い声が朔羅から発せられる。

 彼の視線の先では、力なく地面に横たわる浅葱の姿があった。


『――――』


「くそっ……」


 急速に高度を下げる朔羅に、哄笑が届く。彼が『諷貴』と呼んだ存在の物のようであった。

 嘲るように響くそれを耳にしながら、過去の苦い記憶とどうしようもない喪失感が蘇る。

 何もできずに翻弄されただけとなった朔羅は、きつく己の唇を噛み締め、地面を目指していた。


 一方、その頃。

 九条邸に一人取り残されたらんが、片割れの存在を探していた。


「琳~、……琳?」


 まったりと名前を呼ぶが、彼女が感じ取れる距離にはその姿はない。


「もう、どこ行っちゃったのよ……」


 思い起こせば、今日はずっと姿を見ていない。そんな事を考えつつ中庭をうろうろしても、気配は見つけられなかった。

 そうして、自分の思いつく限りで屋敷を見て回ったあとに用意された部屋に戻ると、文机の上を中心に琳の薬が散らばっているのが目に飛び込んでくる。


「え!?」


 藍はそれに驚き、小さく声を上げてその薬の元へと駆け寄った。

 琳がいつも、肌身離さず持ち歩いていた薬だ。何の薬かは藍にはよくわからなかったが、定期的に飲まなければいけないということだけは把握している。


「琳?」


 薬の一包を拾い上げ、呟きながら室内を見渡すが、隠れる場所など何処にもない。必然的に、琳は此処に居ないことになる。


「もう薬の切れる頃なのに……ちゃんと飲んだのかな……」


 不安に駆られ、独り言を繰り返しながら、散らばった薬を拾い上げ文机の上にまとめる。そしてゆっくりと腰を下ろして、じっとそれを見つめた。



「…………」

 完全に人がいないというわけでもないのに、静まり返った屋敷内であった。

 そのせいで時間の流れがひどく遅く感じて、言いようのない不安ばかりが膨らんでいく。


「――ッ」


 一向に静まる気配のない胸騒ぎに耐えかね、藍は薬を握り締めて室を出る。そして濡れ縁を軽く一跳ねし、屋敷を飛び出していった。




「――浅葱さま……浅葱さまっ!」


 意識を失い倒れたまま、目を覚まさない浅葱に対して賽貴さいきが必死に呼びかけ、その傍らでは白雪しらゆきが手をかざして意識を辿っている。


「見当たらぬ……誰かに連れ去られたやもしれぬな。早うお屋敷へ運ばねば」

「浅葱さん!」


 白雪が重く呟いた時、朔羅が着地と同時に浅葱へと駆け寄り主の名を読んだ。


「何が起こった!?」


 いつも冷静である彼にしては珍しく、余裕のない声音。隣に立つ紅炎こうえんも若干それに驚きつつ、首を横に振った。


「わからん。我らが気がついたときには、当主は気を失っておられた」

「くっ……」


(――やられた)


 困惑した紅炎の答えに、表情を歪めて小さく舌打ちする。それを辛うじて耳にできたのは、感覚の鋭い颯悦そうえつのみだったかもしれない。

 朔羅はそんな自分の醜態すらお構いなしに、賽貴に詰め寄り彼の耳を借りた。


「……諷貴さんが……」

「!」


 声を押し殺して彼にそう伝えると、その響きに大きく瞠目したのは賽貴だった。


 ――有り得ない。


 瞬時に彼は、そう思った。

 だが、情報を伝えてきた朔羅が冗談を言うはずもなく、間違るはずも無いことを賽貴はよく理解していた。そして、『信じたくはない』と言う気持ちすらも。


「……とにかく、浅葱さまをお運びしなくては!」


 逼迫した声音でそう言ったのは、颯悦だった。

 その声で賽貴は我に返り、浅葱を抱きかかえる。

 そして、妖がどこかに潜んでいる可能性を示唆し、紅炎と颯悦をその場に残して、白雪と朔羅と賽貴は急いで屋敷へと駆け戻るのだった。

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