二話(二)

「何事だ?」


 浅葱あさぎを自室へと送り届けた朔羅さくらが渡殿を歩いていると、北の対屋から姿を見せた鳶色の髪の女が声をかけてきた。

 浅葱に仕える式神の一体、紅炎こうえんだった。


「賽貴の声が聞こえた。桜姫さまには届かなかったようだが、珍しいこともあるものだな」


 紅炎が言うのは、藍を叱りつけた時の声だろう。さほど大きな声ではなかったが人より遥かに優れた聴覚を持つ紅炎には、聞こえていたということか。

 普段は感覚を閉じ人より少し耳が良い程度にしか聞こえないはずだが、常とは異質な賽貴の声を、遠く離れた北の対に居ながら彼女は聞き分けていたのだ。

 ちなみに、北の対屋にいるのは浅葱の母だ。紅炎は元より彼女に仕えていた為に、傍にいることが多いのだろう。


「……望まない来客。嵐と災厄がいっぺんに来たって、そんな感じかな。桜姫おうきさんや蒼唯あおいさんにうまく言っておいてよ」


 半ば投げやりにそう言うのは朔羅だ。

 浅葱の両親への報告は、彼らに近い位置にいる紅炎が一番ふさわしいのだろう。そして朔羅は、来訪者の一人を思い出す。

 腹に一物をを抱えながらも笑える。『あれ』は、そんな存在だ。

 おどおどした態度で他の者を油断させ、腹の中では哂っている。


らんはともかく、りんを浅葱さんに近づけるのは避けたほうがいいな……)


「――朔羅。何か、問題でも?」


 朔羅が思案を巡らせつつ心で呟いていると、厄介事の気配を感じたのか紅炎が問いかけてきた。

 彼は彼女の目の前を通り過ぎようとしていて、その声で一度足を止めた。


「いや、平気だよ」

「当主にも、影響はないと?」


 敢えて紅炎に視線をやらずに朔羅がそう答えると、彼女は間髪いれずに次の質問をぶつけてくる。

 なるべく声の音を変えずにさらりと答えたつもりではあったが、微かに耳に届いていた賽貴の声、そしてその後に浅葱が自室に戻っていること。

 それだけでも、良い客であるはずがない事は紅炎にもよく把握出来る事柄だった。


「……平気だよ。何かあれば、潰せばいいだけだからね」


 再び歩みを再開させ彼女を通り過ぎたところで、朔羅は静かに振り返り言葉をつなげた。口元は緩んではいたが、何とも言い難い表情だ。


「でもまぁ、一応。紅炎も注意しておいてよ」


 一瞬だけの薄い笑みを浮かべつつそう言った朔羅は、進んでいた方向へと向き直ってひらひらと手を振る。

 そしてそこで何かを思い出したかのように動きを止め、


「ああ、そうだ……颯悦そうえつが帰ってきたら、よろしくね」


 と言い残して、彼は去っていった。

 その場に残された紅炎は、浅葱の両親への報告の役目の上にあの片真面目で気難しい颯悦の件も押し付けられた形となり、僅かにため息をこぼす。

 自分が一番適任とは言え少々、気鬱にもなる。

 颯悦自身は今は外へ見回りに出ていて、この屋敷内にはいない。


「……やれやれ、だな」


 式神の中でも一番厄介である彼や、浅葱に常に厳しくある桜姫おうきへの報告は僅かに難しい事かもしれないと考えながら、紅炎は踵を返し再び北の対へと戻っていくのであった。




 庭での騒動より数刻の後、浅葱の自室内は重苦しい空気に包まれていた。


「……あの二人は、私の遠縁にあたる者で……。あちらにいた時の、私付きだったのです」

「うん……」


 後ろをついて歩こうとする藍に、決して与えられた室から出ないようにと言いつけ、賽貴は報告のために浅葱の部屋に訪れていた。

 彼の言う『あちら』とは、魔界のことだ。

 賽貴が陰陽師の式神という立ち位置になる以前、彼がまだ自分の生まれた界で過ごしていた頃、賽貴に仕えていたのがどうやらあの双子らしい。


「女のほうが藍、その兄になりますのが、琳といいます」

「うん……」


 浅葱は文机に向かい、書きかけの符に視線を落としたまま、賽貴とは目を合わせようとはせずに空返事を返すのみだった。


「――浅葱さ……」

「あの……賽貴のこと、好きなんだね……」


 浅葱の名を呼びかけた賽貴の言葉を遮り、浅葱がぽつりとそう呟いた。


「北の方候補、だったんでしょ……?」


 そこまで続けてようやく、彼は賽貴をちらり、と振り返る。


「……はい」


 主の問いかけに賽貴は真実を告げるしか出来ずに、短い答えを返せば浅葱はまた視線を戻し沈黙してしまう。


「………………」


 浅葱の予想していた事だった。

 それなのに、実際音にして聞くと胸が苦しくなる。心に掛かったままのもやもやとしたモノが、どんどん薄暗く染まっていく感覚を彼は静かに感じ取っていた。


「いいよ」

「浅葱さま……」

「いいよ、好きなだけ滞在させても……。好きな人に、会いに来たんだもんね……」


 長い沈黙のあと、浅葱は深くため息を吐いて賽貴にそう言った。

 そして手元の、一向に進まぬ筆を机の上に置き『一人にして』と彼に退出を促す。

 賽貴は何も言えぬまま、その言葉に従い一度平伏したあとに室を出て行った。


「……はぁ……」


 誰もいなくなった空間で一人、ため息をこぼす。

 それから無造作に手足を投げ出した浅葱は、胸の内に広がり続ける悶々とした気持ちを抱えながら、じわりじわりと近づく夜の帳が降りてくるのを言葉なく眺めているのだった。

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