三話

『美しく、聡明でありなさい』


 懐かしい声が、聞こえていた。


『誰にも負けることなく、美しく……』


 ――はい。


『気高き天猫てんびょう族の名に恥じぬように……そして、賽貴さいきさまにふさわしくあるように……』


 ――はい、母さま。


「…………」


(夢……)


 薄暗い部屋の中、らんは記憶に残る懐かしい声に耳を傾けるように、うっすら開いた瞳を再び閉じた。

 藍とりんの母親は、不治の病に侵されていた。

 その病は天猫族特有のもので、他の種族やヒトには見られない希なるものだった。

 漆黒の髪に、金色の瞳。

 髪と同じ色の翼を持つ天猫族において、『双子』の一方に多く生まれてくる銀の髪の者。

 色素の抜け落ちたような姿を持つその者たちは、悠久に近い時を生きるあやかしの中、多少の個人差はあるものの皆が極端に短命であった。

 その点で言えば、藍の母は比較的長命だったと言えるだろう。そして『まとも』でもあった。

 自分と同じように生まれ、同じ顔をした自分とは対照的に健康な体を持つ者が傍らにいる苦痛。そして、終わりの見えている未来への恐怖。

 羨望と憎悪と、劣等感。

 様々な感情が内に渦巻き、その半数は狂気に堕ちる。

 ゆえに一族の間では双子を産むことは暗黙のうちに禁じられていたが、琳と藍が双子であるように、双子と知ってなお僅かな望みに賭けて産もうとする者も少なからず存在していた。


『美しく、聡明でありなさい』


 幼い頃、幾度となく繰り返されたその言葉。

 床に伏し命の灯火が消えようとしているその時も、母はそれを口にし同時に遺言ともなった。


「……美しく、聡明に……ふさわしい……」


 ころん、と床に背を感じつつ、瞼を開き天を仰ぎいで小さく反芻する。


「今のところ、どれにも当てはまりませんねぇ、藍は……」

「な、なによっ琳!」


 独白に呼応するようにその場に現れた琳がため息混じりに呟くと、夢現であった藍は、真っ赤になりながら勢いよく起き上がった。


「賽貴さまに気に入られたいのなら、少しは自分の態度を改めたらどうなのですか? 母さまが嘆かれますよ」

「う、うるさいわね! アタシがこうなったのは、琳のせいよ!」


 呆れたようにつぶやく琳を睨みつけて、藍が吼えたてる。


「母さまが亡くなって、そのあと、父さままで失って、アタシたちは一族の『厄介者』になったわ。頼るものもいなくて、二人だけで生きなければならなくて……体の弱い琳を守るのは、アタシしかいなかった。あの時から、アタシが琳を守るだけにどれだけっ……!」

「――わかっています……」


 琳の言葉は重く、静かな響きだった。

 それが、声を荒げてさらに言葉を続けようとする藍の勢いを殺ぐ形となる。


「もう、いいですよ、藍。わかっていますから……」

「――――っ」


 自嘲気味に笑い、そう告げる琳。

 その表情を見て、初めて藍は自分勝手に喚きたてた事を恥じた。


(――そうだ……体が弱いのは、何も琳のせいじゃない……)


「……ごめん」


 上目遣いに琳の顔を覗き見、藍が小さく呟く。


「いいんですよ。貴女には感謝しているんですから。……情けない兄で、すみません」


 曖昧な笑みを顔に貼り付けたまま琳が小さく首を傾け、その肩で闇色の髪がサラリ、と揺れた。


「琳……」


(どうしよう、アタシが……傷つけた)


 藍が自責の念に捕らわれ新たな謝罪の言葉を探して俯き、少しの沈黙が訪れる。

 自分の目の前で明らかに落ち込む妹の姿に、琳は僅かに目を細めた。


「――取り敢えず……」


 静寂を破るようにポツリと呟く琳の声。

 それに藍が顔を跳ね上げると、何事もなかったようにニコリと笑う琳がいた。


「この機会に、教養でも学ばれたらいかがですか? ここには、聡明な方々が沢山いらっしゃるようですよ」


 人差し指をピッと立て、名案だと言うようにそう告げる琳。

 その表情に安堵した藍は、


「どうせ、アタシには教養が無いわよっ!」


 と、言葉の意味を理解した瞬間、先ほどのしおらしさは何処へやらといった具合で、再度琳に牙を向いていた。




 足元にある水面で、ピチョン、と魚が跳ねる音がした。


 ――はぁ……。


(暇……だなぁ……)


 釣り殿に続く廊で足を投げ出し座り込んでいた浅葱は、ぼんやりと中庭を眺め、小さくため息を漏らした。

 珍しくあやかしの現れない日々が続き、みやこは概ね平和な状況であった。それにより役目を失っている彼は、手持ち無沙汰で暇を持て余しているのだ。

 こんな時、常であれば先日のように賽貴の膝の上でまどろむことの多かった浅葱だが、琳と藍が現れてからというものは賽貴の傍に寄ることはおろか、自分から呼ぶこともなくなっていた。

 何かないかと式神たちの室を訪れてみても、


『体を休めるのも、仕事のうちです』

『平和で困るなどと、贅沢を申すものではありませぬ』

『手習いでしたら、喜んでお付き合いいたしましょう』


 そんな返事があるのみだった。

 各々から返ってきた言葉を思い出し、浅葱は再び驚嘆する。


「…………」

「……幸福が飛んでいくって、聞いたことはないかい?」

「朔羅……」


 背中を丸くしているところに、頭上から降り注ぐ声があった。

 それに反り返るようにして見上げると、そこには穏やかに微笑む朔羅さくらがいた。

 ここ最近は、浅葱には彼が傍にいることが多い。

 完全に一人きりにしてしまうと、それを見つけた藍が何かと罵声を浴びせに来るために、それらを防ぐためなのだろう。

 昨日などは、朔羅が少しだけ浅葱から離れた隙に彼女に池に突き落とされたりもしていた。

 浅葱には正直、藍の言っていることはあまり頭に入ってこなかったが、彼女の顔を見るだけで気分が重くなる。

 その分、今の彼には朔羅の存在がとても有難かった。


「……疲れてない?」


 そう言いながら、朔羅は浅葱の隣に腰掛けてくる。


「うん……平気だよ」


 浅葱はその言葉に答えつつ、彼に体重を預けた。すると朔羅は自然とその肩を抱いてくれた。

 静寂の中、足元を泳ぐ美しい鯉が再びの水音を立てた。それだけが響き渡り、浅葱はぼんやりとそれを耳にする。

 美しく整備された庭や池は、彼の僅かな癒しにもなっているのだ。


「……賽貴さんは?」

「さぁ……。さっき、藍さんが都を案内してって、言ってたけど……」


 朔羅の次の問いに、心ここにあらずと言った様子の浅葱が、ぼんやりと呟いた。

 容易に想像できるその構図であった。

 腰に巻きついている藍と、困りながらも振りほどけずにいる賽貴を思い浮かべる。


(まったく、賽貴さんは何をやってるんだ……)


 そんな事を心で毒づきつつ、朔羅は浅葱の様子に目をやる。

 高い位置でまとめられた髪は、いつもなら賽貴が手入れしているはずだったが、自分で梳いているのだろうか? ところどころにほつれが見える。


「髪が、少し乱れてるね……直そうか?」

「……うん」


 小さな頷きとともに、浅葱は朔羅に預けていた体重を元に戻した。

 そして、静かな庭にゆっくりと髪に櫛を通す音が響き始める。


「……平和だね」


 その音を聞きながら、浅葱が小さく呟いた。


「そうだね、いい事だよ」


 朔羅は彼の黒髪を梳いてやりつつ、答えを返す。

 艶のある綺麗な黒髪だ。それを愛おしそうに見つめながら、次の言葉を繋げた。


「浅葱さん」

「うん……?」

「僕の恋人にならない?」

「う……」


 流されるままの会話に、浅葱はうっかり『うん』と答えそうになった。


「……、えぇっ!?」


 だが、ギリギリのところで正気に戻り、そんな声を上げたあと思いきり朔羅を振り返る。

 そこにあるのは、にこにこと楽しげに笑っているだけの朔羅の顔だ。


「もうっ、朔羅ったら……!」


 からかわれたのだと悟った浅葱は、頬をふくらませて毒づき、次の瞬間には朔羅の胸の中に飛び込んでいた。


「……、……っ」

「浅葱さん、無理に感情を押し殺すことはないよ……」

「ん……」


 小さく肩を震わせ声を殺す浅葱を抱き寄せて、朔羅が労わるように囁く。

 すると浅葱はその腕の中で僅かにこくり、と頷いて、彼の着物に大きな皺を作った。


「……さみしいよ、朔羅……」

「うん……」


 ぽそり、とつぶやかれた言葉。

 それを零したあと、浅葱は堪えきれずに嗚咽を漏らし始める。

 朔羅はそんな浅葱を深く抱きしめてやりながら、遠くに視線を送った。


(賽貴さん、いつまでそうしているつもり?)


 同様の被害者でありながら、ある意味元凶とも言える男に心の中で問いかけたあと、流れゆく雲をただひたすら彼は見つめていた。

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