四話
「……精気が落ちておるの」
「白雪」
彼女は衣擦れの音も涼やかに、しっとりと朔羅の隣に腰を下ろした彼女は、白く細い指を浅葱の額にかざして、ぴくりと眉を動かした。
「……池に落ちたであろう?」
「昨日ね」
「熱を出すやもしれぬ。微かにだが温かい」
「やっぱり、そうか……」
浅葱の健康を管理している白雪にしかわからない微細な変化。なんとなくではあるが、朔羅もそれを感じ取っていた。
釣り殿で、長時間風にさらされていたのも要因の一つなのだろう。
「寝込んでしまっては、
「頼むよ」
白雪は美麗な眉目に厳しさを湛え、寝息すら立てずに深く眠る主の顔をそっと撫でてため息をひとつこぼした。
自分にとって、幼い弟妹のような浅葱の存在。愛しく思うからこそ、普段は安易に甘やかす事ができずにいるが、いつもどんな時でも、この心優しい主のことが心配でたまらなかった。
「
「お子様の相手は、大変なんだろうさ。……僕なら……」
――御免だね。
と、朔羅がそう続けようとした時、遠くに藍の声が聞こえた。どうやら出先より戻ってきたようだ。
「『嫌』だってさ」
声の聞こえた方向へと視線を送り半ば投げやりに呟くと、白雪にも聞こえていたのだろう、朔羅と同じ方角へとゆっくりと視線を移していた。
「男というのは、罪作りな存在よの」
吐息に乗せた白雪のそんな科白に、朔羅が苦笑する。
「それって、僕にも当てはまるのかい?」
「さて、どうであろうな」
肩をすくめつつそう言えば、白雪も小さく笑みをこぼした。
そして二人はお互いに顔を見合わせて、再び笑う。
「――では、
少しの間の後、彼女はそう言ってゆっくり立ち上がった。
「颯悦、苛々してるんじゃない?」
盲目の片真面目な式神の顔を思い浮かべて朔羅がそう言えば、すぐさま返事が戻ってくる。
「だから、妾が参るのであろう?」
「……ごもっとも」
見下ろす白雪と、見上げる朔羅。
二人は再度顔を見合わせ、ふ、と表情を和らげると、口の端で小さな笑を形作った。
当の颯悦はと言うと、自室で茶をたしなみながら、お約束のようにくしゃみをしていた。
「――ねぇ
都の見学を終えて、浅葱の住まう九条邸にたどり着くなり、自室とは異なる方向へと足を向けた賽貴に、
「浅葱さまのところだ。ご機嫌を伺いに行く」
「……っ」
足早で歩く賽貴の隣をパタパタと駆けていた藍が、浅葱の名を聞くなり、彼の腰にしがみつき両足で制止をかける。
「――離しなさい」
「イヤ」
「藍、言うことを聞きなさい」
「……嫌ッ!」
語調を強めて腕を解こうと手をかける賽貴だったが、藍は顔をうずめてなお一層にぎゅっとしがみついてくる。
その力は弱まる気配はなく、彼女の声だけが高らかと響き渡った。
「……どうして? どうしてなの、賽貴さま……! 陰陽師なんてアタシ達にとっては敵じゃない!」
「藍……」
浅葱の屋敷に居座り続けて五日ほど過ぎたが、藍は未だに人間を――陰陽師を否定する。
そんな彼女に何を言ったところで、納得などしないことは賽貴にも解りきっていた。
「……、……!」
どうしたものかと眉根を寄せつつ思案する賽貴だったが、ふとした一瞬で人の気配を察知し、その姿勢を大きく崩す。
「え!?」
突然の彼の動きに藍はただ、驚くだけだった。
賽貴は藍の目の前で自分の立っていた位置から一歩後ろに下がり、素早く膝を折ったのだ。そして、人の気配のする方向へと彼は深々と頭を下げた。
「――何を騒いでいるのです」
凛とした声音が響いた。
それに目をやれば、前方の渡殿に姿を見せたのは一人の女だ。微かに眉根を寄せ静かながらも有無を言わさぬ口調で二人を咎めるのは、浅葱の母である
目が合うことを嫌う桜姫を気遣い、賽貴は頭を下げたままだ。
「あ……」
逆らうことを許さない桜姫に気迫負けした藍が、賽貴から離れて彼の後ろの隠れようとする。
「女人が、他家でそう喧しく騒ぐものではありません」
「申し訳ございません」
藍を咎める桜姫に、静かに答えるのは賽貴だった。
その様子に、彼女の眉間の皺が一層深く刻まれる。
「――お前には、言っていません」
「……っ」
賽貴を一瞥することもなく冷たく言い捨てる桜姫に、藍が何か言おうと口を開いたが桜姫を取り巻く『何か』がそれを許さず、一言も発せぬまま口を閉ざす。
賽貴は、ただ黙って頭を下げている。
(賽貴さま、どうして……?)
納得がいかずに賽貴の背中に心で問いかけてみても、答えはない。
「気品を身につけなさいな、藍とやら」
「…………」
「……藍、お返事しなさい」
「は、はい……」
人である桜姫に指図されたと感じたことに気分を害し、口元を引き結んでいた藍に賽貴が返答を促し、そこでようやくしぶしぶと言った様子で応じる。
厳しい表情のまま、そんな藍の姿を見つめていた桜姫は小さくではあるがその返事を聞いて、こくりと頷いた。
「先の言葉、偽り無きように」
そして彼女は、シュ、と袿の裾を翻してその場を去っていく。
衣擦れの音が聞こえなくなるまで、賽貴は頭を下げ続けていた。
「人間のくせに……」
吐き捨てるように毒づいた藍に、ゆっくりと上体を起こした賽貴が眉根を寄せた。そして彼女に向き直り、口を開く。
「藍……。人も我々のような
「賽貴さま!?」
「……聞きなさい。力の有る無しは関係なく、大切なことはその者の生き方だ。それを理解せずに頭から否定することは、己を貶める事に他ならない。――お前はあの方に逆らえなかっただろう? それはあの方の高潔さに、藍自身が気づいていたからだ」
そう諭すように言えども、藍にはやはり納得出来ないようであった。
生まれ落ちた土地では、そんな事は教えになかった。『ヒト』は自分たちより下等な生き物。
それがまかり通る世界で、藍はそれが全てだと信じて今まで過ごしてきたのだ。無理もないのかもしれない。
「……賽貴さま、アタシがあの人間を怖がっていると思ってるの?」
「そうではない」
「嘘、思ってる!」
自分の意に沿わぬ事を言われて、藍の怒りは再燃した。
逆に、あまりに予想通りな彼女の反応に賽貴は落胆する。
「藍、お前は陰陽師は敵だと言うが、では何故この屋敷の者たちは、お前を祓おうとはしない?」
「……そ、それは……」
賽貴の金色の瞳が、自分が持つそれとは違って見えて、藍はわずかに肩を震わせた。
そして、答えづらい質問に当然のようにして口ごもる。
「全ての『妖』が敵な訳ではないと、きちんと考え分けているからだ」
「…………」
「決めつけてはいけない。全ては自分で見て、そして判断することだ。もし、悔しいと思う気持ちがまだあるのなら、あの方のようになってごらん」
――あの方。それは先ほどの桜姫のことだ。
藍にとっては良い刺激となる人物かもしれない。桜姫は教養もあり気高く、美しい。
賽貴の言葉すべてを受け入れる気にはなれなかったが、こうして自分を気にかけてくれると言うことは、嫌われているわけではないのだろう。そう感じて安堵を得た藍は、賽貴に再びぎゅっと抱きついた。
結局、この日も賽貴は浅葱の元へは行けずに終わるのだった。
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