五話

 北の対屋のつぼねに、僅かに調度品が違った室があった。

 一画の各局は桜姫おうきに仕える女房たちが私室として使っている空間であるが、その一つに浅葱あさぎの父が収まっているのだ。

 一番日の入りが良い角度で、季節の庭も見渡せる室だが桜姫が住まう対屋よりかは狭い。それは蒼唯あおい自身が望んだことでもあり、彼の立場がこの九条邸ではさほど強いわけでもない、という事を示すものでもあった。

 人ではなく、あやかしである以上、仕方の無いことなのかもしれない。

 ちなみに蒼唯自身はその事を、一度も気にかけたことなど無いようだ。


「父さま……あ、いえ、父上……」


 そんな蒼唯の室を覗き込んだのは浅葱で、彼はつい幼い頃の癖のままで父を呼び、慌てて言い直した。

 書物に目を通していた蒼唯がゆっくりと顔を上げ、浅葱の存在に気がつき、にこりと微笑む。


「どうしたんだい、お入り」


 蒼唯がそう言うまで御格子みこうしみこうしの向こうから顔を覗かせたままであった浅葱は、小さく頷いて御簾みすを潜る。

 手招かれるままに蒼唯の隣に座した浅葱は、父の穏やかに微笑む緑色の瞳に安心したように、えへへ、と笑った。

 首の後ろで括られた金の長い髪と、碧玉のような色合いの瞳。

 浅葱に流れる半分の血は、妖であるこの父から継いだものだ。


「何を読んでいるの? 父上」

「朗詠集だよ。人間ひとの詠む和歌は奥深いからね」


 蒼唯の手にした書物を覗き込み、浅葱が問いかけると『ああ』と言うように書に視線を戻して、蒼唯が答える。

 もう何度も読み込まれた、味わいのあるものだった。

 浅葱の父は、人が作りしものにとても興味を示す。そして実際、自分の目で確かめ感じて、理解を深めていく性格であった。


「浅葱は、漢詩が得意だったね」

「……うん。でも、最近は嗜む余裕もないけど……」

「そうだね。何しろ浅葱は、この九条家のご当主だからね」


 視線を朗詠集に落としたまま、穏やかな口調で浅葱の言葉に答える蒼唯。

 一つ一つの動作がとても落ち着いていて、傍にいるものを安心させてくれる。浅葱は、この父がとても好きだった。


「父上?」


 僅かに首を傾け、呟くように呼びかけると、


「『父さま』で構わないよ。今は、二人きりなのだから」


 蒼唯は頁を操る手を止め、浅葱の大好きな笑顔でそう答えてくれた。


「――父さま」


 柔らかな空気に包まれ、浅葱は少し泣きそうになりがなら、蒼唯に抱きつく。


「浅葱に甘えられるなんて、久しぶりだね」


 その背中にそっと手を置き、蒼唯が嬉しそうに目を細める。

 チチ、と庭から小鳥の声が聞こえて、彼は釣られるようにしてゆったりと視線を移した。

 殺伐とした日々が、嘘のようだと思える夢のような空間であった。


「……父さま。どうして、ひとには感情があるのかな」

「ひとは、感情の生き物だよ。良くも悪くもね。……それに、それは浅葱が一番よく知っているだろう?」

「……うん……」


 蒼唯の声は、いつでも優しかった。

 だから浅葱は、安心してその声音を耳に響かせる。


「でも……そうだね、浅葱はまだ幼い。解らなくなることも、あって当然だよ」


 優しく浅葱の頭を撫でてやりながら、蒼唯はそう繋げた。


「うん……」


 目を閉じて、穏やかな気配を全身に感じ取る。そうすることで不思議と、浅葱の中でわだかまりがあった不安や、消化しきれない気持ちなどが薄れていくのだ。


「いつでも甘えにおいで。父さまは、本当は寂しいんだからね」

「……はい、父さま」


 しばらくの後、浅葱の心が落ち着いたのを見計らうかのように、蒼唯が口を開き彼の声を耳に止めた浅葱が、ぎゅ、と腕に力を込めてこくりと頷いた。

 そうして、そんな優しい父から離れようとしたその時。


「――っ!!」


 ビクリ、と体が震えた。全身に刺さるかのような強い妖気を感じ取ったためだ。

 反射的に跳ね起きた浅葱に対して、蒼唯は静かに視線を向ける。


「浅葱」

「――行きます、『父上』」


 急速に子供の顔から賀茂家当主の、陰陽師の顔に戻った浅葱が心配そうに自分を見上げる父を見下ろして、それだけを告げる。


「気をつけて」


 蒼唯がそう声をかけた時にはもう、浅葱は室を飛び出していた。

 それでも父の声は浅葱の背中にきちんと届けられて、ぬくもりとなって彼はそれを胸に抱いて駆けていく。


(――気をつけて)


 去っていく足音に耳を傾けつつ、蒼唯は膝下に置きっぱなしになっていた朗詠集へと手を伸ばす。

 そして心の中で同じ言葉を反芻し、再びゆっくりと、頁を捲り始めるのだった。




「――、……」


 中庭に出ると同時に口を開いた浅葱は、賽貴さいきの名を口にしかけて戸惑いを見せた。

 そして言葉を飲み込むようにして口を閉じ、再び息を吸う。


「――朔羅さくらっ!」


 今度はハッキリと、言葉を紡ぐ。だがそれは、賽貴の名では無かった。

 名を呼ばれた朔羅はすぐ傍にいたらしく、浅葱の声とほぼ同時に姿を現した。


「朔羅、感じる?」

「うん、近いね。飛ぶかい?」

「お願い」

「――浅葱さま、お待ちください!」


 浅葱が答えるより早く、本来の姿である白狐に変化した朔羅の背に掴まり九条邸を後にしようと空を飛んだところで、制止の声がかかった。

 颯悦そうえつのものだ。


「颯悦……?」


 それに振り返れば、颯悦と紅炎こうえんが共に奥より走り出てくるところであった。


「浅葱さま、今宵は朔でございます。我らすべてをお連れください。白雪しらゆきも準備は出来ております」

「朔……」

「…………」


 りんらんの来訪による日々の慌ただしさのせいで、浅葱ばかりか朔羅までもが、颯悦に言われるまでその真実を失念していた。

 朔――新月がくる。

 自覚と同時に、じわじわと、だが確実に己の力が弱まっていくのを感じて、浅葱は一瞬の迷いを振り切り口を開いた。

 人間界に来てから後、藍は毎日のように賽貴の自室に押しかけて、自分たちの世界へ戻ろうと訴え続けていた。

 今この時もまた、黙して書物に目を通している賽貴の隣に座して一方的に話しかけているところであった。


「……ッ!」

「賽貴さま!?」


 そんな賽貴が突然、前触れも無く勢い良く立ち上がる。

 藍にとってはただ、驚くのみだ。


『――賽貴!』


 その時、藍の耳に届いた微かな声があった。それを発した人物を確認するより早く、賽貴は身を翻す。


「賽貴さま、どこに行くの!?」


 藍は反射的にその腕に飛びつき、そう訴えた。


「浅葱さまが呼んでいる」

「……行っちゃいや!」


 振り向きもせずに言う賽貴に、藍は自分の指が白くなるほどきつく、彼の着物を握り締めてそういう。

 そんな彼女の懇願は、賽貴には届かない。


「――すまない。私には、浅葱さまがすべてだ」

「!?」


 今の今まで、しっかりと着物を握り締めていたはずの手が、空を掴んでいるだけの状態になり藍が言葉を失う。

 ――空間を、渡る。

 それは、相当の力を持つ妖にしか使えない力であった。藍には決して追いつけない方法で、賽貴は姿を消したのだ。


「……賽貴さま……ッ!!」


 言葉をぶつける相手の無くなった藍の叫びは、誰もいなくなった室内で空しく響き、そして儚く消えた。


 同じ頃。

 自分たちにと与えられた室内で、静かに座しつつも何かを含んでいるような、そんな面持ちの少年の姿があった。

 伏せられたままである瞳に、僅かに寄る眉根。

 遠くに聞こえる己の半身の悲痛な叫びを耳に捕らえつつ、ぴくり、と瞼が震えた。

 研ぎ澄まされていく自分の神経とは裏腹に、その体に重くのしかかるのは倦怠感である。


「……、……っ」


 ゆらり、と微かに上体が揺れて、彼は膝元に己の手を着く。

 傍にある文机の上にあるのは、小さな包み紙だった。言葉無くそれに手を伸ばすと、酷い眩暈が起こる。

 拒絶からなのか、それとも――。

 次第に荒くなっていく息を何とか整えつつ、少年は立ち上がった。

 それと同時にさらり、と肩を滑るのはいつもの漆黒の髪ではなく、銀色のそれをしていた。

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