第211話 聖女の胸の裡
「今日はとても楽しかったです!」
「……大丈夫か? 随分と飲んでいたが……」
「大丈夫です! ほら! この通り──あ、あれ……?」
酔ってなどいません、と、勢いよく席を立ちあがった私でしたが、強がりとは裏腹にふらりとよろけてしまいました。
「──っと。ほら。言わんこっちゃない」
そんな私の身体を、聖者さまが優しく抱きとめてくださいました。
「エミルの治癒魔法なら
聖者さまのお顔が近い……
ああ。また頬が熱くなる……
「だ、だ、大丈夫です! その必要はありませんっ!」
私は僅かに上半身を逸らしてそう答えました。
──これも……強がり。
ありがとうございます。いつも優しい聖者さま。
でも今夜はもう少しこの高揚した気分のままでいたいのです。
お酒の力を借りて──なんて、私は誰よりも卑怯ですけれど……
それでも……
「……本当か? ……まあエミルがそう言うのなら余計な心配はしないが。とにかく教員棟まで送っていこう」
聖者さまはそうおっしゃったかと思うと私の身体をふわりと抱きかかえ──
「あ、えっ!?」
驚いている私を優しい瞳で覗きこみました。
「店の前にはまだ人だかりができているとルディさんが言っていた。今は正面から出て行かない方が良いだろう」
すると聖者さまは私を抱きかかえたまま、離れから庭に出ると──
「──リーファ!」
リーフアウレ様を行使して空高く舞い上がりました。
「んぅ!」
突然のことに、私は瞳をぎゅっと閉じると、聖者さまの外套を強く握り締めました。
「あれ? エミルは高いところ苦手だっけ?」
聖者さまの声に瞳を開くと──銀色に輝く月を背景に、聖者さまの優しいお顔が。
「──!」
そのあまりにも幻想的な光景に、私は言葉を失ってしまいました。
「怖いか?」
「──い、いえ! そのようなことは! ただ、す、少し驚いて……」
「ああ、ごめん。このほうが人目に触れずに帰り着けると思ったから」
「そんな! 聖者さまが謝られることなど!」
「そんなに強張らなくても大丈夫。しっかり抱えているから」
「あ……」
違うのです。
聖者さまの身体をきつく抱きしめるのは、怖いからではなくて……
聖者さまが幻のように消えてしまうのではないかと心配なだけなのです。
「顕現祭の余韻で都はまだ灯りがともっている。下を見てごらん?」
聖者さまに言われた通り、そっと下へ視線を移すと、そこには魔道具の光によって淡く浮かび上がる青の都が広がっていました。
闇の中で青く揺らぐアルスレイヤ。
その姿はまるで深海の息吹に吹き煽られているかのよう。
「綺麗……」
「試練の森にいては見ることができない光景だからな。──寒くないか?」
「いえ。聖者さまの温もりがありますので」
そういって私は聖者さまの胸に頬を押し当てる。
流れゆく時の理不尽さを堪え、静かに耳を澄ます。
これは聖者さまの鼓動……
この胸の中に、あの人の魂が……
「どうした? エミル」
「あの日の約束を果たしていただき、ありがとうございます」
「あの日……ああ。こんなのでいいのか?」
「はい。……聖者さまの胸は庵の香りがします」
「ん? そうか? 自分ではわからないな……」
「とても懐かしい……。寝小丸さん、元気でしょうか」
「あいつなら心配ないさ。今も結界を護っているだろう。だが……そうだな。今回の任務が無事に終了したら二人で庵に行ってみるか。寝小丸のお土産をたくさん持って」
「本当ですか! 楽しみにしています!」
ああ。月がこんなにも近くに……
もしも……もしもあの月に手が届いたら──
私の想いは叶うのでしょうか……
銀色の清浄なる月だけが見ていた二人きりの夜間飛行は、私の一生忘れられない思い出の一つに刻まれたのでした。
◆
「部屋の中へ?」
無事にエミルを教員棟まで送り届けた俺は、フレディアとリーゼ先輩の待つ鍛練場へと向かおうとした。だが、エミルから『部屋まで来てください』と呼び止められ──
「いや、このあと日課の鍛錬が──」
そう途中まで言いかけたが、
『おまえさんがどうしたいかは知らないが、魂に従うんだよ』
師匠の言葉が脳裏を過り、エミルの表情を窺い見ると──エミルは真っ赤な顔で今にも涙を流しそうな顔をしていた。
すでにあの日の約束を果たしたという今、それが理由でないことは俺にもわかる。
エミルはきっと気付いているはずだ。
俺たちの中にある魂に──。
すべて打ち明けるか。
でも……
そのときエミルは──。
俺は、伝えにくいことも伝えなければならないことに頭を悩ませながらも、エミルの誘いを受けることにした。
◆
エミルの部屋はとても綺麗に整頓されていた。
余計な装飾等はされておらず、必要最低限のものしか置かれていない。
教官としての書類だろうか。
紙の束が雑多に重ねられた机の上だけが、生活感を感じさせた。
外套を脱いだ俺は、エミルに勧められた椅子に腰掛けると、なんとなく窓の外に目をやった。
そこには深い夜が広がっている。
鳥の鳴き声も、虫の声も聞こえない、静かな夜。
特に見えるものなどなにもないが、俺は暗闇に視線を置きながらこれからする話しを整理していた。
「あの、聖者さま……?」
先に口を開いたのはエミルだった。
俺は窓の外へやっていた視線を、寝台に浅く座るエミルへと移動した。
「今日は本当にありがとうございました」
「いや。俺も楽しかった。師匠も思いのほか喜んでくれていたようだし。まあ、そのおかげで予想外のこともあったが」
「そうですね……。お師匠様は本当にすごいお方です」
「ああ。昔、本気で考えたことがある。師匠は本当は試練の森最強の魔物なんじゃないかって」
「まも……そのようなこと、お師匠様に聞かれたら……」
エミルが心配そうにきょろきょろと左右を見回す。
神出鬼没な師匠のことだ。
どこから姿を現すかわかったものではないが……
さすがにここにはいないだろう。
……いないよな?
なんとなく気になった俺も、つい寝台の下やら天井の隅を確認してしまうが……
そんな俺とエミルの視線がふと重なると、どちらからともなく噴き出してしまった。
「いないよな……?」
「ふふ。いらっしゃらないようです」
そんなたわいもないやりとりをしていたが、ふいにエミルの表情が真剣なものになった。
「聖者さま。ひとつお伺いしたいことがあるのですが……」
エミルは遠慮がちに、しかしまっすぐに俺を見据えると、
「交流戦が行われたあの日、聖者さまが勝利を収めるまさに直前、私の胸の中に聖者さまが入ってこられました」
やはりその話か。
エミルが言っているのは、カイゼルとの試合で結んだ印、その際に起こった
「ああ。俺もエミルを感じた」
「そして入ってこられたのは聖者さまだけではありませんでした」
「それは……黒禍、倞……」
「はい。そしてクロカキョウというお方の魂によって、私の奥底に眠るもう一つの魂──クロカミア様の魂が激しく揺さぶられたのです」
遠い昔。試練の森にある神殿で交わした会話が思い起こされる。
エミルも悪夢にうなされていたと。
その夢の登場人物は『黒髪の男』と『ミア』という女性。
エミルは邂逅者だ。
つまりエミルがもつもう一つの魂は──
黒禍深逢──。
「私が考えた、私なりの仮説なのですが……」
俺は軽く目を瞑ると大きく息を吐き、話しの続きを待った。
「私の前世はクロカミア様。そして聖者さまの前世は──」
◆
エミルは仮説と言っていたが、それはもはや仮説などではなかった。
俺とエミル、倞と深逢、そして俺の出自に関する事柄もすべて真実、真相そのものであった。
どうやらエミルも辿り着いたようだ。
魂の訴えに、魂の求めに──。
エミルの話を聞き終えた俺は椅子から立ち上がった。
そして大きく窓を空けると、室内の空気を新鮮なものと入れ替えた。
「お師匠様が聖者さまをラルクロア=クロスヴァルト様のお名前でお呼びしていました。ラルクロア様は無魔の黒禍の汚名を着せられています。無魔の黒禍の本当の名は黒禍倞。つまり聖者さまこそスレイヤ屈指の大貴族クロスヴァルト家のご嫡男ラルクロア様であって、そして黒禍倞の魂を持つ邂逅者でいらっしゃるのです」
エミルは俺の背に向かって続けた。
「黒禍倞様とは、黒禍深逢様にとって命より大切な存在。そしてそれは逆もまた然りだったのでしょう。あの日、私が聖者さまに命を助けていただいたのも、決して偶然などではなく邂逅者同士の魂が巡り合わせた結果、だったのかもしれません」
「エミルの仮説はすべて事実に即している──」
俺はエミルに振り返ると笑顔でそう答えた。
「──それを踏まえて今から話すことを聞いてもらいたい」
エミルが居住まいを正す。
俺は再び椅子に腰を下ろすと、エミルの瞳を見返した。
「エミルの言う通り黒禍深逢の魂はこの世界に存在している。だが、その魂はいくつかに分散している」
「分散……?」
「そうだ。俺の知っているかぎりでは少なくとも五つ」
「では、私の中の魂は五つのうちの一つ、ということなのでしょうか」
「そういうことだ。ただ、魂の大きさ、と言っていいのだろうか。そのものに影響を与えるだけの個体差はあると思う。エミルはかなり大きな魂の欠片を持っているのだと思うのだが──」
俺はカイゼルとの試合中に感じたことをエミルに聞かせた。
「では、ミレアも? それにミスティア様やファミア様、学長もだとおっしゃるのですか?」
「そうだ、と思う。あくまでも俺の中の黒禍倞の魂の訴えによるものだが」
「そ、そんなこと……」
エミルは動揺したように自身の両肩を抱いた。
「そして俺は今回の任務が終了したら、黒禍倞の魂の求めに応じ、黒禍深逢の魂を救い出そうと考えている」
「救い……出す……?」
「救い出すというより……そうだな。それぞれの内にある黒禍深逢の魂を解放する、と言った方がピンとくるか」
「魂の解放……」
「具体的には魂と向き合い、印を結ぶ。第七位階の印だ」
「そうすると魂は解放される……解放された魂はどうなるのですか?」
「元の世界に戻る。そして集められた魂の欠片は一つの魂となり、向こうの世界で黒禍深逢という女性を形成する。そして最後に俺の中の倞の魂を解放すれば、お互いの魂は肉体となって、向こうで再び逢うことが叶う──と、この辺は今度は俺の仮説だが。ただ、黒禍倞の魂はそうしてほしいと訴えている」
「私以外にも黒禍深逢様の魂を持つ方がいらっしゃると聞いて驚きましたが……そうなればお二人の永きに亘る願いが叶うということなのですね」
結末を聞いて安心したのか、堅かったエミルの表情が若干和らいだ。
だが──今日するべき本題はここからだ。
「聖者さま。では、魂の解放を終えたあとの五人はどうなるのでしょうか」
やはりその質問がきたか。
いや、こなかったとしても話さなければならないだろう。
遅かれ早かれいつかは──。
「そのことだが……俺は昨晩、学長、ミューハイア学長を相手にその行為を試してみた」
「え? もうなさっていたのですか?」
「ああ。俺の中の倞が急かすからな。──いや、実際に急かされるのではなく、なんとなくそんな感じがするだけだ」
魂と会話ができるのですか? というエミルの質問ももっともだ。
だが会話など、夢の中で交わしたことがあるだけだ。
今思えばあれも不思議な体験だったが。
「それで、試した結果──魂の解放には成功した」
「そうなのですか! それであれば私の中の魂も今すぐ解放して差し上げ──え? ……解放
胸に手を当てたエミルが表情を曇らす。
俺は一瞬躊躇したが、ここまできてこの先を話さないわけにもいかない。
エミルの顔を見て、精一杯の笑顔を作ると
「そうだ。解放には、だ。解放を終えた結果、学長は俺のことをすべて忘れていた」
「──! わ、忘れて、というのは、どういう──なにかの衝撃で記憶に齟齬が生じた、というようなことなのでしょうか!」
「いや、そうじゃない。俺のことは記憶からきれいさっぱり消えていた。本人は、俺と出会うのは今が初めてだと言っていた。秘書から説明を受けて、なんとか生徒としての俺の存在は理解してもらえたが……つまり、俺と学長は、生徒と学長の関係、それ以上でもそれ以下でもなくなった」
エミルが寝台から立ち上がる。
「え? それって……」
「原理はわからない。だが、解放と同時にそれに関わる記憶も消去される、ということだろう」
「そ、そんな! そんなことって! で、では私も魂の解放を終えたら、わ、私も、私も! 聖者さまの記憶をすべて失ってしまうということなのですかっ!?」
「それは……わからない。だが、その可能性はある。最終的には俺だって──」
「そんな! 嘘ですよね! 学長が聖者さまをからかっただけですよね!」
「エミル」
「そんなはずありません! あり得ません! そんなに簡単に人の記憶が──聖者さま! 嘘だとおっしゃってください!」
「エミル……」
俺が二度首を横に振ると、エミルは座っている俺の膝に崩れ落ちた。
「そ、そんなっ! 私の大切な思い出……聖者さまとの七年間が……そんなこと! そんなこと!」
俺の膝に顔を埋めたエミルが、俺の胸を激しく叩いた。
何度も。
何度も。
「酷い! いくらなんでも酷すぎます! 聖者さまを忘れてしまうなんて! そんな恩知らずな私など生きている価値はありません! 聖者さまのことを忘れてしまうくらいならいっそのこと──」
「──エミル。俺とエミルなら顔を合わせればきっと思い出せるさ。なんたってあの師匠の弟子だぞ? 妹弟子のことを忘れでもしてみろ。どうなるか──」
「一瞬でも! それがたとえ一瞬だったとしても! 聖者さまのことを忘れてしまうなど赦されるはずが! 私はいったいどうすれば!」
なにかに訴えるかのように俺の胸を叩いていた手を、ふと止めると
「それならば魂など解放せずにこのまま──」
エミルは顔を埋めたままひとり言のように呟く。
「エミル。これは俺たちだけの問題じゃない。俺たちがあのふたりの魂を預かったことはきっとなにかしらの意味があるんだ。ふたりの魂はふたりの運命に従い、本来の場所へ帰ってもらうことこそ俺たちの使命じゃないか? 倞は遥か昔、殺された深逢の魂を追ってこの地にやってきた。そして魂を求め彷徨ううちに災いの元凶とされ、一部の民から忌み嫌われてしまった。この世界を厄災から護った英雄だというのに。今俺たちがこうして子を成し、世界を象っていられるのも倞がいたからなんだ。俺たちは、俺たちの命を繋いでくれたその恩に今こそ報いなければならない。だからエミルにも理解を示してもらいたいんだ」
俺はエミルの髪を撫でながら、優しく語りかけた。
「聖者さま……」
俺を見上げるエミルの瞳は涙で溢れ、瞼は赤く腫れていた。
「俺を信じてくれ。俺はなにがあったとしてもエミルのことを忘れはしない。それは他の四人も同じだ。それが俺の──義務だと思っている」
「聖者さま……」
再び顔を伏せて咽び泣くエミルの頭を、朝まで撫で続けることしか俺にはできなかった。
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