第129話 重い責任
地平線の彼方から昇り始めた太陽が、薄紫だった雲を琥珀に染めていく。
大地に真新しい陽が注がれると、萌える木々の絨毯が浮かび上がる。
つい先刻まで覇を成していた闇は、いつしか光に世界を譲っていた。
穏やかな日光があのときと同じように俺の身体を優しく包む。
「変わらないな……」
時の移ろいを感じさせない光景に懐かしみを覚え、ふと、言葉が漏れる。
深く、温かい。
まぶたを閉じると、まるで悠久の自然の懐中を漂っているかのよう感じる。
「あれから七年か……」
森に入りたてのころに師匠の使いでやってきた試練の森第五層奥にある大地の裂け目──の遥か上空、雲を突き抜け眼下に森を一望できる高さにまで飛び上りこの七年を振り返ると、感慨深いものが込み上げてくる。
「……さて、そろそろ行くか」
思い出は尽きないが、浸っている時間はあまりない。
躊躇いを断ち切るように勢いよく下降すると
「──寝小丸! 行くぞ!」
下で待っていた相棒に声をかけ、庵へ戻った。
◆
「っは! これで俺の勝ち越しだな!」
二本の大木の間を通過した俺は、僅かに遅れてやってきた寝小丸の腹を撫でる。
「──冗談だって。わかってるよ、最後に花を持たせてくれたんだろ?」
『ウニャ』
「しばらく留守にするが、庵のこと、頼むな」
俺がここを出てしまえば、この場所はまた寝小丸だけになってしまう。
今度はいつ戻ってこられるかわからないだけに、寝小丸のことが心配で仕方がない。
『ウナァ……』
師匠がいなくなり、二年続いた寝小丸とのふたり暮らしも今日で最後だ。
寝小丸も俺と離れたくないのか、俺の身体に頭を擦り付けてくる。
「そんな顔するなよ、俺だって寂しいさ、寝小丸も連れて行ってやりたいのは山々だが、お前はでかすぎるからな」
『ウナ……』
「……ああ、そうだ、草も伸びてきたからな、出て行く前に刈っておくか」
俺は寝小丸のつぶらな瞳を見続けることができずに視線を逸らすと、それを誤魔化すように寝小丸から二歩、三歩距離をとった。
右手を軽く振り上げる。
さあぁ、と俺の周囲に風が舞う。
その手を半弧を描くように前方で払うと、周囲に発生していた風が音もなく四散する。
直後、風は見える範囲の草をすべて刈り尽くしていた。
結界の役目を果たしている二本の大木や建物、無論、寝小丸も傷付けることなく、一瞬で庵の草刈りを終えた俺は
「──師匠、見ていてくれましたか? あれほど苦手だった草刈りも、こんなに簡単にできるようになりました……」
俺の背後にいる師匠に向かって報告する。
しかし──返事はない。
それは当然だ。
俺が話しかけているのはアクアが造り上げた師匠そっくりの氷像なのだから──。
「──師匠、俺は師匠のおかげでここまでやってこられました。このご恩は、決して忘れません」
俺は師匠の氷像の前に胡坐をかいて座り、
「師匠の志は俺がしっかりと引き継ぎました。時間ができたときにはここへ帰ってきます。そして師匠の像の前に花を供えますから──」
刈り取られていた花を一輪、師匠の氷像の前に置く。
「だからどうか、化けて出ないで──って、危ねっ!!」
「ハンッ! 誰が化けて出るって? もしかしてわたしかい?」
「し、師匠! ちょ、危ない! 冗談! 冗談ですって!」
「久しぶりに戻ってみれば、そんな像まで作って、何が冗談だね、縁起でもない」
「こ、これは俺が修行をさぼらないようにと、アクアが気を遣って作ってくれたんですよ! ほら、あっちにも、あそこにも!」
「ったく、気味の悪いもん拵えおって、だが、鍛練は怠ってはいなかったようだね」
「──っ! はっ! それはっ! 当然っ! ですっ! って、師匠も相変わらずっ! 良い動きしますねっ!」
「ハンッ! 小僧っ子が、一丁前な口を、聞くじゃ、ないかい」
「それはっ! どうもっ!」
庵を光の珠が乱舞する。
師匠が氷の矢を放つと俺は火の精霊の力で以てその矢を握り溶かす。
四方八方から恐ろしいほどの速度で投げつけられる石礫には、土の精霊の力で以て拳と脚を強化し弾き返す。
唐突に始まった俺と師匠の手合わせは、
「ハン、やるようになったね」
俺が振るう氷の剣を師匠の背中で寸止めをしたことにより、決着がついた。
「あれ、師匠も俺に花を持たせてくれたんですか?」
「わたしはいつだって本気だよ、しばらく会わない間に一段と腕を上げたね? ラルク」
師匠が俺のことを
いつからだったか、俺のことをラルクと呼ぶようになったのは──ああ、そうだ、ミスティアさんとファミアさんが
ミスティアさん……ファミアさん……
俺が弱かったばかりに……
「──隙を見せるなと散々教えたよ?」
「──痛っ! し、師匠……」
考え事をしていた俺の額に師匠の杖が振り下ろされる。
「あの娘たちのことを考えていたのかい?」
「え、違……はい、考えていました」
師匠に嘘が通用しないことを知っている俺は、素直に本心を打ち明けた。
「俺が弱かったせいで……あのふたりは……」
「ハンッ! 弱かったのはラルクじゃない、ティアとファムだよ! お前さんは十二層で精霊と戦っていたんだ、いいかい? あの娘たちのことを思い出すこは咎めやしないさ、だがね、そのことに対して自分に負い目を感じるような真似だけはするんじゃないよ? でないといつしか必ず痛い思いをすることになる、さっきのようにね」
俺は額のこぶを摩ると師匠の言葉を反芻する。
確かに十二層で手を取られていた俺はふたりの危機に駆け付けることができなかった。
呼び合わせの石が反応しない場所にいたために、ファミアさんからの求めに応じることができなかった。
師匠は『たとえバシュルッツまで飛んで行ったとしても間に合わなかっただろうさ』と俺の肩を叩いたが、俺はそうは考えていない。
俺がもっと強ければ、俺が十二層の精霊をもっと早い段階で調伏することができていれば、俺はバシュルッツに行ってふたりを救い出せていたはずだ。
だが、『そうじゃない』と、師匠からは何度も説教されていた。
「わかっています……」
だけら俺はいつも返す言葉を今日も返した。
「交換留学の件を受けてくれただけでわたしは感謝している」
アクアが作った像を繁々と見つめながら師匠が続ける。
「原初の精霊様のお力でもどうにもならない呪い──バシュルッツの城に入り込むことができれば解呪の手掛かりを得られるかもしれない、など雲を掴むような話だがね」
「それでも、ここにいて何もできずにいるよりはまだましです。その交換留学生に選ばれて、必ずバシュルッツに潜入して見せます。──そしてふたりの呪いを解くカギを手に入れてきます!」
「そんなに気負うんでないよ! いいかい? 下手を踏んだのはあの娘たちなんだからね? 言ってしまえばお前さんは関係ないんだ、万が一お前さんまで封印されてしまうようなことがあれば、それこそ目も当てられないよ」
そうは言うが、師匠がふたりを助けたがっていることは俺が一番よく知っている。
あの当時の師匠を思い返すだけで胸が痛い。
「大丈夫です。何があっても、俺は、あのふたりを元の姿に戻します」
俺は何度も心に誓ったことを声にする。
「ラルク、二年前にも説明したと思うが……交換留学生になるにはまず学院に入るための試験に合格しなければならないんだがね」
「師匠、こう見えても俺は読み書きは得意なんです。小さい頃から文献を読み漁っていましたから」
「無論そのことは心配していない。だがね、わたしが今日ここに来たのは今年度のみ特別に追加された条件をお前さんに知らせるためなんだよ」
「条件? 試験を受けるのに条件があるんですか?」
「今年は受験者が三千を超すようだよ。だから例年通りの試験を行っていたのでは時間がかかり過ぎて顕現祭の支度に支障をきたすようでね、初期の段階で一気に篩にかけるそうだ」
「篩にかける? どういうことです?」
「魔道具で魔力を測るそうだよ。八階級に満たないものには試験を受ける資格を与えない、というのが今年特別に加えられた条件らしいね」
魔道具! 因縁の魔道具! 紫紺から一気に透明に変化し、俺を無魔に陥れたあの水晶玉か!
「師匠、それで俺に助言をしにわざわざ──」
「何を寝ぼけたことを言っているんだい、助言などないよ。あの魔道具に対抗する術などあろうはずがないさ」
「え、それじゃあ俺は交換留学生に選ばれるどころか、学院に入ることも、いや、それ以前に試験を受けることすらできないってことですか……?」
「このままではね。今日の昼から魔道具による仕分けが始まるんだ。それまでに考えな」
はあ、そんなことだろうと思ったよ……
いつもぎりぎりでこういう状況になる、っていうのはもうお約束なんだろうな……
「師匠、陛下に直接頼むっていうのは? 都を二回も救ったんですし、ちょっとは融通を利かしてくれるかもしれませんよ」
「今回お前さんを学院に送り込むのはあくまでも私的な事情だからね。それにお前さんは陛下にだって無魔と知られるのは塩梅が悪いんじゃないかい?」
「──湖の調査として潜りこむのは?」
「城には簡単に入れるが、学生となって交換留学生に選ばれなければ意味がないからね」
「──あ、そうだ、ミレサリア殿下の近衛として入るのは? あ! 殿下が交換留学生に選ばれたら俺が付いていくっていうのは?」
「お前さんが交換留学生にならなければ意味がないんだよ。バシュルッツの城や研究施設に入ることができるのは学生だけだからね、たとえ学生が王族であっても、近衛の同行は決して許可が下りないさ。それはスレイヤ側が出した条件だっていうからね、どうあっても覆らないよ」
「じゃあ、どうしたら……時間的にもそろそろ出ないと」
「ま、何とかなるんじゃないのかい? わたしはお前さんが慌てて取り乱すことがないように前もって知らせに来ただけだからね、幸運を祈っているよ」
「なんとかって……わかりました……都までの道中で何か考えてみますよ」
「寝小丸との別れは済んだのかい?」
「はい、先ほど。──な、寝小丸!」
俺は寝小丸の顔をわしゃっと撫でる。
『ウニャ』
そして、支度と挨拶を終えた俺は
「──じゃあ、師匠、寝小丸、行ってきます!」
長く親しんだ庵を後にした。
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