第96話 仙薬
どうしよう。
もう開いている店がない。
これで宿代を手に入れる手段は完全に絶たれてしまった。
ということは……野宿決定だ。
こうなったら一度王都から出ようか?
魔物も獣もいないし、街道脇なら……いや、こんな時間に出ては門番に怪しまれるか。
身分証を持っていないから、また一から説明しなければならないし、それに通行税としての銅貨も支払わなければならなくなる。
リーファに頼んで壁を飛び越える……にしても、もし結界によって術を察知されたら却って面倒なことになる。
ああ、お師匠様ももう少し多めにお金を持たせてくれたらよかったのに!
「素晴らしい、これほどのマールの花を見たのは初めてだ。少年、いったいこれはどうしたのだ」
頭の中でお師匠様に恨み節を吐いていたとき、いつの間にか背後から僕の隣に移動していた近衛の女の人が話しかけてきた。
「えっと、買い取ってもらおうとしたんですけど……なぜかなかったことにされてしまって……」
「買い取って……金貨一枚でか?」
「はい……」
野宿のことで頭がいっぱいな僕は、マールの花を皮袋にしまいながら無気力な返事をした。
「トレヴァイユ隊長、この奇妙な花がどうかしたんですか?」
隊長さんの部下がマールの花をひとつ手に取り、繁々と見ると
「なんか不気味な花ですね」
もうひとりの部下も花を摘み上げ、物珍しそうに匂いを嗅いだりしている。
「お前たちは見たことがないのか、これが
「え! これが
最初に手に取って花を見ていた部下が驚きの声を上げると、他のふたりの部下も同じように目を丸くしている。
「一度にこれほどのマールの花が都に持ち込まれるとは、しかもこんなに状態も良い。これならば或いは──」
桃色の髪の隊長さんは、すっとした眉を寄せて真剣な表情で花を見つめている。
ミスティアさんと同じくらいの年齢かな……?
それにしても綺麗な人だな……。
マールの花の淡い光に浮かび上がる、どこか憂いを秘めたその顔は、はっとするほどに美しかった。
「少年、これほどのマールの花、どうしたのだ?」
「どうしたって、買い取ってもらおうと持ってきたんです」
「持ってきた? 何処からか盗んできた、のではないのだな?」
「盗っ、そんなことするわけないじゃないですかッ! これは正真正銘僕が、──頼まれた本物です……」
死ぬ思いをして採ってきたマールの花を『盗んできた』と疑われて、ついうっかり『自分で採ってきた』といってしまいそうになり、慌てて言い直す。
僕はあくまでも商人見習いなのだ。
「いや、すまない、疑っているわけではないのだ」
隊長さんが困った顔を見せる。
僕も近衛兵相手ということも忘れてムキになりかけたことを自省し、袋詰めの作業を再開した。
「──しかし、ひとつだけ聞かせてくれないか、この花は何処で採ってきたものなのだ?」
「バーミラル大森林の五層、と聞いています」
「やはり! 少年はレイクホールから来たのか!」
「い、いえ、僕はもっと北の国から来ました」
なんだか雲行きが怪しくなってきたぞ?
この後どこの商会だ、なんて聞かれたらどうしよう。
早くこの場を立ち去らないと。
「あのう……」
僕は近衛兵たちが手に持っているマールの花を見る。
「あ、ああ、すまない、ほら、お前たちもそれを少年に返しなさい」
すべての花を詰め終えると、
「では失礼します」
ささっ、と逃げるように兵隊さんの間をすり抜け──
「待ちたまえ!」
しかし隊長さんの声に、びくっ、と身が竦み上がり、僕はその場で足を止めてしまった。
なにかバレたのか!
目の色も髪の色もひと月は持つはずだ、とするとやっぱり盗んだと思われている!?
どうする?
風奔りで逃げるか?
「少年! 少年はそれを売りたいのだな?」
あれ? 捕まえようとしているわけじゃないのか?
僕はもう少しで喉から出るところだった精霊言語を飲み込み、後ろを振り返った。
「売れるん……ですか? 金貨三枚……二枚にはなりますか……?」
「そればかりは私にもわからない。ただ、ここの店主よりは真っ当な人物を知っている。今からその店に連れて行くこともできるが、少年、どうする?」
「え、今から? え? い、いいんですか?」
「しかしトレヴァイユ隊長、我々も城に戻らなくては……」
思わぬ展開に面食らっていると部下のひとりが割り込んでくる。
「構わん、お前たちは先に戻れ、私ひとりで連れて行く。──リゲル、馬を持て」
しかし隊長さんはそう指示を出し
「は、直ぐに」
部下を走らせた。
「隊長! そんな、ひとりでは──」
「『無魔の黒禍』か? それともこの少年か? ふっ、どちらも心配には及ばない。黒禍なら現れるのは深夜だ、それにこの少年はマールの花を青の都に持ち込んでくれた恩人だぞ? 少年の気が変わって他国に卸されては陛下にお叱りを受けてしまう」
「陛下に……隊長、ではそれがあれば……」
「わからぬ、わからぬが今は何にでも縋りたい。バルジン殿が
「隊長! 馬を持ちました!」
「うむ、リゲル、スチュワートには六の鐘を回ると伝言を頼む」
「は! では城でお待ちしております!」
「少年! 来い!」
「は、はい!」
なんだかよくわからないけど、この馬でどこかに連れて行ってくれるようだ。
レイクホールでも
隊長さんは馬上から僕の手を取ると、ぐいっ、と引き寄せて自分の前に座らせてくれた。
「では私はこの少年をバルジン殿の元へ連れて行く! お前たちは引き継ぎ後、控えの間で待機、以上!」
「は!」
馬は蹄の音を軽快に響かせて市場の門を通り抜けた。
◆
「私の名はトレヴァイユ、トレヴァイユ=クルーゼだ。城で近衛の任に就いている」
「僕はキョウです。えっと、北の方の国の商人見習いです。──それでクルーゼ様、いったいどこに向かっているのでしょうか」
「ふむ、キョウか──しかし固いな、トレヴァイユで構わない、今向かっているのは王室専属の薬師の元だ」
「王室……って、お城に行くんですかッ!?」
「いや、王室専属といってもバルジン殿──バルジン殿というのがその薬師の名だが、バルジン殿は城には入りたがらなくてな。ゆえに登城せずに市井の者に混ざって研究しているのだ」
良かった!
まかり間違って城になんて連れて行かれたら、ますますおかしなことになってしまうところだった。
早く金貨に換えて貴族街に向かわないと──。
「すみません、トレヴァイユ様、わざわざ連れて行っていただいて……」
「気にするな、むしろ感謝しなくてはならないのはこちらになるのかもしれないのだからな」
「は、はあ……?」
そうこうしているうちに僕とトレヴァイユさんを乗せた馬は、立派な建物が並ぶ都の一角へと入っていった。
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