第95話 市場の近衛兵
「とはいうものの……」
宿屋街を出た僕は、正門に戻る道をひたすら走っていた。
四の鐘が鳴ってから一アワルは経っている。
まもなく夕暮れに差し掛かる時間帯だ。
気分的なものなのだろうが、背中に背負った荷物がやけに重く感じる。
「今から行って間に合うか……」
そもそも、青の都もクロスヴァルトの街と同じように、歩いて行ける場所に大きな市場があって、そこに商品を持ち込めばお金と交換してもらえる──なんて漠然とした考えでいたことが良くなかった。
王都の広さを甘く見ていたのだ。
「急がないと……」
もう何軒目かは覚えていないけど、宿屋のおじさんに尋ねてみた市場の場所は、とても歩いて行けるような場所ではなかった。
いや、頑張れば歩いてでも行けないことはないが、そんなことをしていては夜になってしまう。
今思えばその時点で市場に向かうべきだったな……。
まさかこんな状況になるなんて……。
市場が閉じてしまえばマールの花を買い取ってもらえずに金貨を入手できない。もう、八方塞がり、打つ手なしだ。
そうなると衛兵に隠れて野宿するしかない、が、それは避けなければならない。
万が一にも拘束されてしまってはお師匠様の使いを果たせない、ばかりか、素性がバレる恐れがある。
僕の素性がバレてしまっては、そのあとどうなるか想像しただけで背筋が凍る。
牢に入れられるか、父様が罰せられるか──。
だから僕はおじさんに教わった通りに急いで一度正門に戻って、市場行きの馬車を探さなければならなかった。
「門が見えてきた!」
どうか間に合いますようにと祈りながら、息を切らして馬車が停まっている区画へ急いだ。
◆
「あ、五の鐘……」
市場行きの馬車に飛び乗り、しばらくしたときに五の時を告げる鐘の音が、青の都の乾いた空気に鳴り響いた。
この鐘を合図に、住民は本格的な夜を迎える支度を始める。
仕事に出ていた男衆は一日の作業を終えると賃金を受け取り盛り場へと繰り出し、外を駆け回っていた子供たちは遊ぶのをやめて家路につく。
通りの角には夜回りの当番によって明かりが灯され、裕福な屋敷では使用人が門前の篝火に火を点ける。
そして──朝から商売をしているような店は片付けを始める。
これに関してはクロスヴァルトも青の都も同じなのだろう。
現に馬車の窓から見える通り沿いの店は、軒先に並べていたものを仕舞い始めている店もある。
つまり──
間に合わなかった……
市場も店仕舞いとなる──ということ。
──なのだが、それでもこの市場行きの馬車には結構な人が乗っている。
もし今日はもう店仕舞いとなるのなら、こんなに大勢の人たちが市場に向かうのはどうにもおかしい。
そもそも閉店後の市場に行く必要なんてないんだから馬車が運行していること自体おかしな話だけど……
もしかしたら青の都の市場は夜遅くまで開いているのかな……
もう閉まっているという絶望が半分。いや、ここはすべてが規格外の青の都だ、こんなにたくさんの人が市場に向かっているんだから、きっとまだ開いているんだろう、という淡い期待が半分。
しかしさっきから無意識のうちに、衛兵に見つからずに野宿ができそうな場所をチラチラと横目で探してしまっているのは、閉まっていることを覚悟しているからなのか。
開いているか閉まっているか、手に汗を握りながらぐるぐる考えている間に馬車は市場の門をくぐった。
窓から身を乗り出すように先を確認すると──
「やった! まだやってる!」
片付けを始めている店もあったが、人が並んでいる店もいくつかある。
思わず両手を握りしめた僕を見て
「あら、坊や知らないで来たのかい? 今の時期は掻き入れどきだからねえ、今日みたいに天気のいい日は鐘が鳴っても開いている店は多いんだよ」
隣に座るおばさんが親切に教えてくれた。
「そうだったんですね! ありがとうございます! ──あ、花を買い取ってくれるような店ってありますか?」
「花? あるにはあるけど、花なら朝一番で売りに来ないと買い取ってもらえないよ、花を店仕舞い間際に買い取ってくれる店なんざ聞いたことないねえ」
言われてみればそうだ。
明日になったら枯れてしまうかもしれない花を、お客さんも少なくなった閉店ギリギリで買い取ってくれるお人好しな商売人なんていないだろう。
甘かった……。
枯れないマールの花でも駄目かな……?
「そうですよね……ありがとうございます」
一度はどこか遠くへ去って行った野宿に対する覚悟が再びにじり寄ってくる。
「坊や、今仕えている家は辞めた方が身のためだよ? 市場の事情にも疎い、物騒な御時世に暗くなる時分に使いに出す、坊やの主人は何を考えているのやら、帰りは気をつけるんだよ?」
「え? あ、」
そうか、僕がどこかの使用人と勘違いして……
仕えている家と聞いて、一瞬お師匠様の顔が浮かんだ。
暗くなる時間帯に市場でお使い、なんて、そんな生易しい使いで済ましてくれるような家じゃないんだけど──と苦笑したが、心配してくれるおばさんに心温まる。
それにしてもガーナさんに続いてこの人の口からも出るとは──
「物騒って『無魔の黒禍』ですか……」
「ああ、なんでもどこぞの貴族の息子だって言うじゃないか、ったく、とんだ悪党だよ、早いとこ捕まって打ち首にでもなってくれないとおちおち出歩くこともできやしない」
「貴族の……」
考え込んでしまった僕に「悩んでなんかいないでとっととその家から暇をもらうんだよ」と言っておばさんは馬車から降りていった。
無魔の黒禍──。
いったいどんなヤツなんだろう。
こんなに恐怖を振りまいて……。
まだ見ぬ敵に闘志を燃やす。
しかし現状目先の敵は、今日の宿をどうするか──だ。
花が無理ならキノコだけでも買い取ってもらおう、と、僕も馬車から降りた。
◆
馬車で話したおばさんの予想通り、花屋ではマールの花も、さらにはキノコも買い取ってくれなかった。
花は枯れてしまう恐れがあるし、キノコは専門外だから食用かどうかもわからない、という理由だった。
途方に暮れていた僕に、花屋の隣にあった道具屋のご主人が声を掛けてくれた──までは良いのだが。
「え? クレール金貨一枚……ですか……?」
「花屋にだって断られたんだろう? それでもマシな方さ。嫌だったらよそへ行くんだな」
「でもそれじゃあ僕はここで生活ができなくなってしまいます! せめて金貨三枚、いや、二枚で……」
今日のところは貴族街の宿屋で一泊するとして金貨一枚、明日は朝からどうにか安い宿を探すとして、それでも食事代と当面の宿代で金貨一枚は必要になる。
安宿といっても一泊銅貨五枚、二泊で銅貨十枚が相場らしい。
金貨一枚の余裕があっても……銀貨十枚分、銅貨で百枚分だから……飲まず食わずでも二十日しか寝泊まりができないというわけか……。
顕現祭の直前にもなれば、その金額が倍以上に跳ね上がるという。
そのことを考えると──
「……やっぱり、金貨三枚で何とかなりませんか……」
(ちなみにここでも虹香茸は『そんなにでかいのは本物かどうかわからないから
「三枚だぁ? 小増、俺のこと馬鹿にしてんのか? こんな気味の悪い花に金貨一枚も出してやるって言ってんだぞ? こんなお人好しいねえだろうが! 嫌ならこれ持ってとっとと他へ行け!」
まずい、怒らせてしまった!
もう今から他を探しても店は閉まっているだろうし、もしかしたら金貨一枚よりも安いかもしれない。
お腹はぺこぺこだけどファミアさんからもらった非常食がまだ残ってるからそれで当面は凌ぐとして……金貨一枚があれば今日だけでも宿に泊まれる……明日以降は虹香茸が本物だと証明できるように頑張って売り歩けば……
なんとかなるかもしれない……。
「わかりました、金貨一枚でお願いし──」
「おい、貴様、この少年が持って来たマールの花が、金貨一枚だというのか?」
僕が道具屋のご主人の手から金貨一枚を受け取ろうとしたとき、僕の後ろからサッと現れた腕が僕の金貨へ伸ばしかけた手を掴んだ。
「あっ!」
僕は驚いて、僕の腕を掴む腕の持ち主を振り返った。
「どうなんだ、貴様? 貴様のような輩がいるから私達近衛まで警らに駆り出されるのだぞ?」
腕の主は煌びやかな騎士服を隙なく着こんだ女の兵隊さん──この人の言うことが本当なのであれば近衛兵だった。
「トレヴァイユ隊長! 如何されました!」
すると女の人の後ろから、同じ騎士服姿の男の人が数人近寄ってくる。
「ああ、今この幼い少年を欺こうとしている下衆な店主を連行しようとしていたところだ」
「れ、連行!? ちょ、ち、違います! 欺いてなんていません! も、もちろん、て、手付けで金貨一枚って話ですよ! 今持ち合わせがないから! な、な? 坊ちゃん!」
手のひらを返すように丁寧な言葉遣いで目配せしてくるご主人に、
「ほう、そうか、それなら幾らで買い取るつもりだったのだ」
僕の手を離した近衛の女の人がドスの聞いた声で尋ねる。
「こ、この品はとてもじゃないけどうちでは買い取れません! ぼ、ぼっちゃん! す、済まない! さっきの話はなかったことにしよう!」
近衛の女の人に凄まれると道具屋の店主は店の商品もそのままに勢いよくどこかへ走り去ってしまった。
「あ! 今日の宿代……」
そして大量のマールの花が積み上げられた道具屋の前には──トレヴァイユさんという近衛の女の人と、その部下と思われる男の人が三人、そして金貨一枚を失うことになって呆然と立ち尽くす僕──という、この先なにかが起こりそうな予兆を感じさせる(?)五人だけとなってしまった。
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