第70話 試練の森 第五層 『庵』


「──ッ!!」


 グルグルと低い唸り声を発しながら頬を摺り寄せてくる毛むくじゃらで巨大な生き物。

 まっ黒でどう見ても魔物にしか見えないその生き物は、精霊を使役するのも忘れて絶句している僕の身体に何度も頭をぶつけてくる。

 そして大人も丸呑みできそうな大きな口を開けて欠伸をすると──僕の目の前でブルブルっと身を捩って全身の毛を逆立てた。

 と同時、大粒の水滴が水球弾ウォーターバレットのように四方八方に飛び散り──


「痛てててッ!!」


 ビシビシと僕の身体を穿つ。

 一粒一粒に、ちょっとした針で刺されたほどの威力を持つ水滴は、担架に寝かせている人たちやカイゼルさんも容赦なく襲う。


『ニャーオ!』


 そしてまた僕の身体に大きな顔を擦りつけてくる。  


「な、なんだ!?」


 初めは岩だと思っていた未知の生物。


 どこからどうみても災害級の魔物にしか見えないこの生き物は悪い奴じゃないのか?

 こうして近くにいても僕を襲うようなことはないし、寧ろ懐いてるようだけど……。

 なんだかこれじゃ魔物じゃなくて飼い主に甘える猫みたい──


【庵に到着したらすべきこと──猫の世話】


「って、ぇぇぇええ!! ま、まさかこれが猫なのッ!?」


『ニャーオ!』


 イリノイさんの地図に書かれていた指示を思い出した僕の叫び声と、巨大猫の鳴き声とが、同時に森の中に響き渡った。





 ◆





「……ついてこい、ってこと……?」


 僕に自分の匂いを付けて(?)満足したのか、巨大猫がくるりと背中を見せて振り返る。

 雰囲気でしかないが、それは何となく「ついてこい」と言っているように見えた。

 僕がそう声にすると、前を向いてのっそのっそと歩き出す。


 やっぱりそうみたいだ……


 イリノイさんの飼っている猫かどうかは不明だが、この巨大猫からは魔物に遭遇したときのような嫌な感覚がしてこない。

 そのことに僕は巨大猫をイリノイさんの猫と信じることに決めて、後を追ってみた。


 巨大猫は歩き出した僕をちらと見ると、さっきまで岩みたいに丸まっていた場所を通り過ぎ、その奥にある二本の大木の間を──


「え?」


 通ったところで、ふっ、と見えなくなってしまった。

 僕は、巨大猫が暗闇に紛れたのか、それとも僕の目の錯覚か、と、何度か目を擦る。


「ど、どこ行った!?」


 しかしどれだけ目を凝らしても、あれだけ大きな図体をしていたというのに、猫の姿はまったく見当たらない。

 僕の目の前から忽然と姿を消してしまった。 


 担架を引きながら、慌てて追いかけようと僕も大木の間を通ったとき──


「うわっ!!」


 突然切り替わった視界に驚き、忙しなく動かしていた両足を急停止させてしまった。


「痛っ!」


 また担架とカイゼルさんが僕の足にぶつかる。


 そして──


「──ッ!!」


 もうレイクホールに来てから何度目だろう。

 今また大きな衝撃を受けた僕の目の前には──


「……これが……庵……」


 とてもここが試練の森の第五層とは思えないほど、広大な草原が広がっていた。

 そしてその中央に佇む大きな屋敷。


 折しも雨雲の切れ間から漏れた月の光が、屋敷までの道を細く銀色に照らしている。

 

 僕はまるで違う世界に飛び込んでしまったような感覚に身を震わせた。


 幻想的な光景に目を奪われて、しばらくぼーっとしていたが、視界の先で動く黒い物体に我に返ると、それが銀の道を悠然と歩く巨大猫であることに気が付く。


「ここにいたのか……」


 いったいどういった仕掛けになっているのかと後ろを振り返ると、今までいた森の光景ではなく、そこにも見渡す限りの草原が広がっていた。

 そして異様な存在感を放つ二本の大木がそびえ立っている。

 おそらくこの大木が森と庵との境界線を繋ぐ入口の役割を果たしているのだろう。


 僕は前を向くと覚悟を決めて一歩を踏み出した。


 ランタンを腰にぶら下げると、小雨がぱらつく草原を月明かりを頼りに担架を引いて進む。

 

 そのまま巨大猫が立ち止まっている場所に近付いていくと、巨大猫の喉元を撫でている小さな影に気が付き──


「随分と早かったじゃないかい、童よ?」



「イ、イリノイさん!? ど、どうして──」



 その影が僕より先に庵に到着していたイリノイさんであったことに驚かされて、またおかしな声をあげてしまった。

 

 

「頑張ったようだね、童。だがいいかい?」


 イリノイさんはそんな僕を見て相好を崩すも、すぐに表情を引き締め


「これから先、わたしのことはお師匠様と呼ぶんだよ?」


 気持ちよさそうに目を細めている巨大猫を撫でながらそう言った。



 そしてそれはこの先七年間に亘る、僕の辛く厳しい修業の本格的な始まりの合図でもあった。




 

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