第14話 夢のこっち側
遠くで聞こえる声に、深く潜っていた意識が浮上し始める。
ずいぶんと深いところまで沈んでいたのか、浮かびきるまでたっぷり時間を要した。
それでもまだまだ
いつの間に眠ってしまったんだろう……
自室で深い眠りに就いていた──と思いやった。
ようやく覚醒しつつある意識を聞こえてくる声に傾けると、女の人の声であることが分かった。
しかもわりと耳元近くから聞こえてくる。
銀の鈴を転がしたような耳触りのよい声。だけれど、聞き覚えのない声だ。
父様が雇い入れた新しい使用人が起こしに来たのだろうか。
ああ、もう朝か。早く起きてピレスコークの泉に行かないと……
いつもであれば決まった時間にひとりで起きられるのに、どういうわけか今朝は寝坊してしまったようだ。
僕はこの寒い時期にしか果たすことのできない日課をこなそうと、いつもより重いまぶたを開け──
「うわっ!」
「きゃっ!」
──息遣いが聞こえるほど近くで女性が覗き込んでいることに驚き、声を上げてしまった。
見知らぬ女性──
面識はあるのかもしれないけど寝起きでまだ稼働しきっていない僕の頭では、僕の知っている中の女性とこの女性を瞬時に照らし合わせることはできなかった。
「だ、だれ!?」
だから当然
使用人にはとても見えない。
身にしているものはクロスヴァルト家の伝統的な仕着せではなく、胸元の大きく開いた生成りの上着を羽織っているだけで、髪も結いあげていない。
相手の女性も両手を頬にあてて、目を丸くしている。
「だれ、って、え? なに? だれって」
どうやら彼女は僕と至近距離で目を合わせたことより、僕が彼女に向かって誰だか尋ねたことに驚いている様子だ。
ただでさえ大きな栗色の瞳をさらに見開き、僕を見つめている。
「ど、どちら様ですか!? ここ、僕の部屋……」
「ど、どちら様って、な、なに? どうしたの? また起こしたから怒ってるの?」
「わっ! ち、近いですっ!」
上半身を起こそうとした僕の顔付近に彼女が顔を近づけてきたため、僕はまた寝台に倒れ込んだ。
「え? なに? どうしちゃったのよ、キョウ! あ、でもなんかちょっとそういうの新鮮!」
ぐいっと鼻先が触れるほど僕の顔との距離を縮める彼女は、戸惑って後ずさる僕とは正反対にとても嬉しそうに見える。
なんで知らない人が僕の部屋に入ってるんだ!?
レスターは何をしているんだ!
よく見ればクロスヴァルトの部屋より随分と狭いし、寝台の大きさも普段使っているものと比べて小さすぎる。僕の部屋の天井にはこんな奇妙なものは付いていないし、それに泉に氷が張る今の時期、部屋の中がこんなに暖かいはずもない。
だけど寝起きであり、不思議と彼女の瞳から目を逸らすことができない僕にはそのことを確認する余裕はなかった。
そんな彼女の、瞳と同じ栗色の髪からふわりと漂うなんともいえない芳しい香りに、僕はつい唾を飲み込んでしまった。
「あ、いま、いやらしい目で見た」
「はへ?」
彼女は僕の純情さを見逃してはくれなかった。
慌てて彼女の瞳から目を逸らして寝台の奥へ後ずさる僕に「見てたでしょ」といいながら、彼女自身も寝台に上がり四つん這いになって近寄ってくる。
這い寄ってくる彼女の姿が横目に見えてしまった僕は恐怖に身体を硬直させたまま、また彼女の瞳に釘づけになってしまった。
すると彼女はそのまま固まる僕の上に馬乗りになり──
「私の胸見てたでしょ」
どん、と片手を僕の顔の横へ突き、もう片方の手で自分の胸元を押さえながら彼女は顔を僕に近付けそう言った。
「そん──!」
確かに僕の知る女性の中では一番に胸が大きいかもしれないけど、決して見てなんかいない。
僕は頑張って反論しようとしたが、そうさせない彼女の
彼女と僕の顔の距離がさらに近くなり、僕はどうにか逃げようとするが背もたれが邪魔をしてこれ以上後ろに下がることができない。
彼女が胸を押さえていた方の手も僕の顔の横に突いたせいで、右にも左にも顔を逸らすことができなくなってしまった。
彼女の吐息が僕の顔に掛かり、彼女の潤んだ栗色の瞳には僕の顔が映り込む。
視界に入る唇は少し開いていて、僕の口へと迫ってきている。
なにか魔法の詠唱をしようとしているのか。
魔石を持っていないということは、現代魔法師か!?
なぜ現代魔法師が部屋に入り込んでいるのか──すぐに逃げ出せばよかったと考えるも後の祭り、逃げる機を逸してしまった僕は恐怖に身体を竦ませ、身動き一つ取ることができなかった。
と、そのとき、行使する魔法が決まったのか彼女が瞳を閉じようとした直前、彼女の瞳に映る僕の顔が僕の知るそれでないことに気が付き、
「あ!」
もうほとんど唇と唇の距離がない状態で、僕は小さく声を上げた。
そして瞬時に以前経験した、夢の巫女が見せる夢の中に入り込んでいることを覚り「ゆ、夢の──」と言葉を続けた。
いつだったか、現実とごっちゃになるような曖昧な夢を見た記憶が思い起こされ、目の前の女性は夢の中の人だ──とようやくここで気付くことができた。
また夢の巫女の悪戯か──
なぜすぐに気が付かなかったのか悔やまれる。
今、僕は夢をみているのだろう。とても現実的な夢。
ということは、すぐに目が覚めて現実の世界にもどれるはずだ。
そう考えた僕は肩の力が抜け、ふう、と息を吐いた。
しかし目の前の彼女はスッと目を細め、
「夢乃、ってだれ……?」──絶対零度の冷淡な視線で僕を睨みつける。
「はへ?」
突如切り替わった彼女の表情に僕は理解が追い付かず、素っ頓狂な声を出してしまった。
彼女が僕との距離を離し上半身を起こす。
僕が発した言葉によって何かされそうな状況から解放されたのは僥倖だが、まだ馬乗りの姿勢は続いたままだ。
「ふぅん、昨日中に片付けないといけない任務って、夢乃って子と会うことだったの……?」
彼女は僕の上で腕を組むと蔑むような視線で見下ろす。
僕は混乱しつつも素直に、昨日ユメノという人物と会ってたっけ──と記憶を手繰ろうとしたとき、
「うそよ、昨日も大変だったんでしょ? キョウが寝ている間、二階堂さんから連絡頂いたわ。『昨晩の任務は結果としてAランクに相当した。怪我は医療チームが適切に処置を施したがしっかりみてやっていてくれ』って。久しぶりね、キョウが怪我するなんて。でもそのショックのせいか珍しいキョウが見られたから私は少し得しちゃったわ」
「お疲れさま、キョウ」と表情を笑顔に戻した彼女が、ますます意味のわからないことを僕に話して聞かせた。
僕はこれが夢だと知っているにもかかわらず、どう行動したらいいかわからずに、
「あの、人違いでは……?」
と答えてしまった。
以前はこんな夢ではなかったと思う。
たしか行動に選択肢はなく、男の人の意識のまま行動をして、気が付いたら夢から覚めていた。
なんで今回の夢は僕が動けるんだ……
不思議に思った僕は少し頭の中を整理しようと、額に手を当てて顔をしかめた。
するとそんな僕を見た彼女が、
「え? うそ、まさか……記憶喪失……?」
僕の頬に両手を添え、震える声で僕の目を覗き込む。
僕の瞳をまっすぐに見据える彼女の栗色の瞳も、小さく震えているのが分かる。
「私の名前を言ってみて! キョウ! 私の名前!」
すると彼女は突然、切羽詰まった口調で僕の頬を何度も叩いた。
「ひょっほ、いらいれふ、いらい」
「いいから答えて! 私の名前! お婆様から頂いた大切な名前!!」
「
僕の制止も構うことなくしきりに頬を叩き続ける彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
さっきまでの艶めかしい仕草のときとは打って変わり冷静さを失った彼女の表情に、いつしか僕も胸が締め付けられる思いに陥った。
だが、僕はそれよりも彼女の発した言葉に心がざわりと騒いだ。
なぜだかわからない。
わからないが落ち着かない。
その原因が何なのか、もう一度彼女の言った言葉を反芻しようとしたとき──
「──キョウ!!」
彼女が大きく叫んだ。
それは酷く悲痛な叫びだった。
僕の名ではなく、僕が見る夢の中の男の人の名前。
彼女にとってよほど大切な
『キョウ』という名を懸命に叫ぶ彼女──
その彼女の必死さに感化されたのか、
「──ああっ! 僕は!!」
僕は一切の出来事を思い出した。
無魔の判定を受けたこと、貴族に白い目で見られたこと、父様と母様、兄弟に別れを告げ家を出たこと、馬車でレイクホールに向かっていること、そして──
「夢を見ている場合じゃない!」
今まさに盗賊に襲われ、対峙していた最中だったことを。
「みんなッ!!」
大声で叫ぶと同時に、僕の意識は再び沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます