桜を見ると、死にたくなる。

煉樹

桜を見ると、死にたくなる。

 桜を見ると、死にたくなる。


 一瞬のために咲き誇り、潔く散るその様は、意味もなく生きる私に、死を決意させるには十分すぎるものだ。


 けれど、決まって私は死にきれない。


 桜の下には、きっと彼女がいるから。


 私が、彼女と出会ったのは、何年まえだったろう。


 あれは、確か私が高校生の時だ……。



――――――



 疎水沿いの桜が満開になろうとしていた。


 四月一日。世間がエイプリルフールだなんだと騒がしいのとは対照的に、ここは’シーン‘という擬音が聞こえそうなほど静かだ。


 私は、死に場所を探していた。


 明確に死にたかったわけではない。

 けれど、明確に生きている意味もなかった。



「なにかやりたいことはないの?」



 何度も聞かれた。


 ……何度考えてもなにもなかった。


 私は、無なのだ。



「何もないって……。何かあるだろう? 自分のことなんだぞ? ちゃんと考えなさい」



 もちろん、悪気があって言っているわけではないことはわかった。けれど、数え切れないほど聞いたその言葉は、何者でもない自分という存在を責められているようで、堪えられなかった。


 もし、私にやりたいことがあるというのなら。


 それは、死ぬということだ。


 だから、私は死ぬことにした。


 満開の桜は、私に死を決意させるに十分な存在だった。



(こんなところ、あったんだ……)



 そこは、木々に囲まれた小さな池だった。


 住宅街の裏手にあるこの疎水は、近所だったこともあり何度か通ったこともあった。桜が何本も植えてあり、この時期は風靡なのだが、場所が悪く、人はあまりいない、いわゆる穴場スポットのような場所だった。

 けれど、そのさらに奥に、こんなところがあるとは知らなかった。

 池のほとりには、一本だけ、桜の木があった。



(ここが、いいかもな)



 何本も咲く桜から少し離れた薄暗い場所で咲くこいつに、もしかしたら共感でも覚えたのかもしれない。……桜だというのに。


 ふらふらと、わたしは何かに吸い寄せられるように、池に向かう。


 これから死ぬつもりだというのに、特に感慨もなかった。

 死が無へ向かう行為だというのなら、私は、すでに死んでいるようなものだ。

 池は、思ったよりも深そうだった。ここなら、死ねるだろうか。

 落ち葉が浮かぶ淀んだ水面は、何も映さない。


(あ……)


 誰もいないと思っていた桜の木の下。

 そこに、人影が見えた。気がした。

 誰かに諌められるのも、面倒だ。そう思い、私は桜に向かって声を発した。


「……誰か、いるんですか?」


 案の定、木の背後から、この時期にはまだ少し寒そうな、薄桃色のワンピースを来た少女が顔を出した。


 ……美しい、少女だった。


 流れる長い髪はまるで春の風に揺れる柳のようにしなやかで、けれどそこには華があった。


 この世全ての美を足しても、彼女には及ばないかもしれない。

 彼女の美貌は、そう私に思わせるほどだった。



「あなた……何をしにきたの? こんなところに」



 木に手をつきながら、彼女がこちらに尋ねてくる。

 その声は、鈴が鳴るような、透き通った声だった。



「なにって……」



 死にに来た、などと初対面の人物に言っていいものがろうか。

 私は、何も言えず、押し黙る。



「……まぁ、別になんでもいいわ。ただ、私の邪魔だけは、しないでね」



 深窓の令嬢、とでも言えばいいのだろうか。俗世間と一線を引いていて、他人のことには無関心であるような、そんな雰囲気。


 ……彼女なら、私が何をしようと、気にしないだろうか。

 そんな風に考えたのだろうか。


 わからない。

 本当に、ただの気まぐれだった。



「……私、今から、死ぬんです」



 気付いたら、喋っていた。

 言った瞬間、何で言ってしまったんだと少し後悔した。

 私は、止めてほしかったのか?


 こんなところに来ても、自分というものを持てない自分に、嫌気がさした。



「……そう。でも……、それは、少し困るわ」

「困る……?」



 誰かが死ぬと聞いたときの返答としては違和感のある発言に、思わずつぶやく。



「だって、あなたがここで死んでしまったら、私の寝覚めが悪くなるもの」

「……え?」



 私が、キョトンとしていると、それを疑問と受け取ったのか、彼女は再び口を開いた。



「私、この桜の精霊みたいなものだから、ここから、動けないのよ。だから、ここで死ぬのは、ちょっとやめてほしい。……でも、そうね。この話を信じる信じないはあなたの勝手だし、ここじゃないといけない理由があるっていうのなら、無理には止めないわ」



 それだけ告げると、彼女は言いたいことはそれだけだとでも言わんばかりに、こちらに背を向け、再び木の背後に消えようとする。



「……え、ちょ、ちょっと待って!」



 彼女の突然の告白に、今度は本当にどう反応したらいいのかわからなくて固まっていた私だったけれど、消えようとするその背中に向かって、思わず声をかける。



「……まだ、何かあるの?」



 彼女のこちらを見る目は、この季節だというのに、背筋が凍りそうなほど、寒々しかった。

 人を、信用していない目だと、すぐにわかった。



「……っ」



 その目を見て、何も言えなくなる。

 ……そもそも、何を言う必要があるのだろう。

 私は、ここで死に、彼女と交わることなどなかった。


 それで、いいではないか。



「……何もないなら、早く立ち去って」



 押し黙る私に、彼女が再び帰れと告げる。



「……どうして」

「え?」

「……どうして、一人でいようとするの?」



 私の口をついて出たのは、自分自身、まったく思ってもいない言葉だった。

 その言葉に、桜の精霊を名乗る彼女はきょとんとしている。

 私も、もしかしたら同じような表情だったかもしれない。



「……どうしてって……。じゃあ、あなたこそ、どうして、死のうなんて思ったのよ」

「それは……」



 どうしてこのとき、続きを口にしたのか。

 今なら、わかる。


 私は、生きる理由を探していたのだ。


 もし、彼女が本当に、この美しく咲く桜だというのなら。

 彼女なら、教えてくれるだろうか。


 私が生きる、意味を。



「……私に、生きる意味が、ないから。……ただ、それだけ……」

「……そう」


 彼女は、それ以上、何も言わなかった。

 それが少し、心地よかった。


 なんで? でも、どうして? でもない。


 その返事が。


 池のほとりには、春の風が、吹いている。桜の花びらが、また少し、舞った。

 桜の彼女が、風になびく髪を抑えながら、口を開いた。



「……生きている意味、ね……。そんなもの、私だって、わからないわ……」



 意外な、言葉だった。



「こうして、この場所で咲き続けて、もう、数えきれないぐらい年が経った。……でも、人はみんな、あちらの疎水沿いの桜だけ見て去っていくわ。私に気を止める人なんて、全然いなかった」



 手を取るように、わかってしまった。

 池の日陰で淀んだ空気が、スゥっと吹いて寄せた。


 ここには、表通りの喧騒は、一切届かない。



「だけど、時々いるの。こんなところに来て、パシャパシャと数枚写真を撮って、綺麗だなあって言っていく人が」



 フッと笑うように、彼女は語る。

 その幸せそうな顔を見ると思ってしまう。

 それが、生きる理由なのではないのか、と。


 だって、私には……ないものだから。


 そんな私の気持ちを読んだのか、もしかしたら、口から言葉が漏れていたのか。

 彼女は続ける。



「たしかに、それは本当に嬉しいわ。……でも、それは、私が生きている意味では、ないもの」



 そこで彼女は、大きく息を吸って、吐いた。



「私は、人になりたかったの。自由に生きていける、人に。……でも、そんなのもう無理だってわかってる。……だから、私はずっと、考えながら生きてるわ。『なんで私は、こんなところで咲く桜だったんだろう』って、ね」



 だから。



「もしかしたら、私とあなたは、似た者同士なのかもしれないわね」



 似てなんていない。

 私は諦めたことだって、何かになろうとしたことだってない!


 でも……



「だって、生きるって、その意味を探すってことなんじゃないかって、私は思うもの」



 そんなの綺麗事だ。

 だって、それじゃ、何もできないじゃないか。


 だって、私は……。


 そんな釈然としない表情を浮かべる私を見て、何を思ったのか。彼女は、私に尋ねる。



「ねぇ、あなた、名前はなんて言うの?」



 その質問にどれくらいの意味があるのだろう。わからなかったけれど、答えない理由もなかった。



「……イツキ」

「そ。……私のことは、そうね、さくらとでも、呼んでくれたらいいわ」



 彼女は、会った当初よりも、やや饒舌に、言葉を続ける。



「ねぇ、イツキ。……もしも。もしも、あなたがそれでも納得できないって言うのなら、私があなたに、意味をあげるわ」



 ブワッと、一陣の、風が吹いた。

 地面に散った桜の花びらが、大きく舞い上がった。



「私のために、生きて」



 風が収まっても、私はうまくその言葉を飲み込めず、聞き返す。



「あなたの、ために……?」

「そう。私は、知りたいの。ここ以外の景色を。……ずっと、ここで終わってしまう意味を考えていたわ。でも、今は思う。……それは、あなたに、出会うためだったんじゃないかって」



 一歩だけ、彼女がこちらに近づく。



「だから、私に、教えてよ。私の、生きてきた、意味を」



 その目は、光のせいか、輝いて見えた。

 私がそれを断るのは、簡単だった。

 だって、私は、死ぬためにここにきたのだから。


 ……だけど。


 だけど、もしも私の人生に意味があったと言うのなら、もしかしたら、それは、今日のためだったのかもしれない。

 だなんて、思ってしまっても、いいのだろうか。

 これが、私の生きて来た、理由なのだろうか。



 でも、よく考えてみれば、今日、この場所で死んでいたかもしれない人生だ。

 ……少しぐらい、人のために生きてみても、いいのではないだろうか。


 そんないくつもの感情が浮かんで消えて。

 そして私は、短く、答えた。



「……わかった」

「……ありがとう。イツキ」



 断られると、思っていたのだろうか。少し驚いたような表情を見せた後、彼女は感謝の言葉を述べた。

 そして、グイッと近づくと、いくつも質問を投げかけてきた。


 それは、学校のことだったり、コンビニのことだったり、本当に、些細なことだった。けれど、彼女とそうして他愛ない話をしている間は、なぜか、心が安らいだ。



「え、じゃああなた……おばあさんなの?」

「な、なんでそうなるのよ! ……ま、まああなたに比べたら生きてる時間はな、長いかもしれないけど! これでもまだまだ現役よ!」

「へー……ふーん……」

「な、なんでそんな顔で見るのよー!」



 ……ふふっ、あはははは。

 二人で顔を見つめあって笑い合う。


 ……笑ったのなんて、いつぶりだろう。


 ふとそう思ったけれど、覚えてもいなかった。それに、今そんなことを気にする必要などないように感じた。


 今ここが、私の世界の全てだった。



――――――



 それから私は、毎日のようにそこに通った。


 雨の日には、傘を差しに行った。

 夏の暑い日には、アイスを買って行った。

 秋にはモミジの葉を集めて持って行った。

 冬には二人で雪だるまを作った。


 ……彼女は、私が生きる意味になっていた。



――――――



 それは突然だった。


「疎水沿いの整備が始まったんですってね」


 そんな話を、耳にした。

 丁度私が、試験や風邪で行くことができず、久しぶりに行こうとした時のことだ。

 さくらと出会って二年目の、春だった。


「はッ……ハッ……ッ!」


 息を切らせてたどり着いた池の周りは、工事中の柵の向こうで、雑然と生い茂っていた木々が伐採され、明るい空が広がっていた。


「さくら……」


 もちろん、桜の木も、そこには生えていなかった。

 頬を、一筋の、水滴が伝った。


 だって、私にとって、ここは……。

 この場所は……。


「……なに、泣いてるのよ」



 声に、ハッとして振り返る。



「さくら……」



 グイっと左手で目元を拭う。



「いなく、なっちゃったのかって……」

「ははは……そんなわけないじゃん。……って、言いたいんだけど、そうもいかないみたい」

「えっ?」



 目を凝らすと、彼女の姿からは、背後の風景がうっすらと透けて見える……ような、気がする。



「だからさ、今日会えて、良かった。イツキに、お別れを――」

「違うよ!」



 自分でも思ってもいないほどの、大きな声だった。



「お別れなんかじゃない! だって、さくらは精霊なんでしょ!? 消えないよ……消えない……ずっと、ずっといるの……っ!」



 また、頬を何かが伝う。

 そんな私に、あくまで穏やかに、さくらが告げる。



「ううん。……お別れだよ。イツキにはさ、言ってなかったけど、私、もう、ダメだったの。……寿命って、やつ」

「そんな……」



 初めて、聞いたことだ。



「だから、イツキとは、ここで、お別れ」



 さくらの悲しそうな顔を見ていると、それが嘘でもなんでもないことなんて、すぐにわかった。

 そこでダダをこねることに意味がないことなんて、理性は理解していた。

 でも、本能で、どうしても理解したくなかった。



「じゃ、じゃあ……っ! 私も! 私も、死ぬ!」



 さくらのいない世界に私が生きる意味なんて、ないもの。

 私は、二年前に、死んでいるはずだったんだもの。



「それは、ダメ」

「いや! 嫌、だよ……」



 そんな私に、さくらは、優しく声を投げかけた。



「死ぬのはダメ。……ねぇ、イツキ、覚えてる? 私が二年前、あなたになんて言ったか」

「それは……」



 忘れない。


 忘れられるはずがない。


 だって、その言葉が、私を生かしているのだから。



「「私のために、生きて」」



 同時に、呟くと、さくらは、ニコリと、微笑んだ。



「だから、ダメだよ。……私が見れなかった分も、イツキは、見ないと」

「でも……」



 踏ん切りをつけられない私に、さくらは、どうしてもさ、と話し始める。



「私に会いたいときはさ、これを見てよ。これを、私だと思って」



 そう言って、さくらが本を開いて差し出したのは、小さな桜の花の、押し花だった。



「それ……」

「前に、イツキに借りた本で作ったの。押し花」



 それを、まだうまく消化できずにいる私の手に、本と一緒に無理矢理握らせる。



「イツキは、一人じゃない。……私が、ずっとそばにいる! ずっと、一緒にいるから。だから……だから……っ!」



 そこで、初めて気づいた。

 彼女の目尻に浮かぶ、涙に。


 ……当然だ。


 彼女だって、別れたくて、別れるんじゃない。

 そんなわけ、ないじゃないか。



「だから、ね。死ぬなんて、言わないで。私のために、生きてよ……。……イツキ」



 堪えきれず落ちた涙が、合図だった。

 私たちは、二人で、抱き合って、泣いた。


 春に舞う桜の花が、また少し、風で散った。


 私は、決して離さないよう、手の中の温もりを、ギュッと握りしめ続けた。

 私という蝋燭に灯す明かりを、消さないように。ギュッと、ギュッと、握りしめた。



――――――




 今ならわかる。


 私は、あなたと出会うために、生まれてきたんだって。



 つらくなんてないよ。



 だって、あなたがいれば、この世はずっと、桜満開だもの。


 私の「心」の中に、いつもあなたがいるから。


 だから、大丈夫だよ。





 桜を見ると、死にたくなった。


 でも今はそれ以上に、桜を見ると、生きたくなる。


 だって、彼女がそこにいるって再認識できるから。




 でも、ときどき思う。


 まだ、どこかに彼女がいるんじゃないかって。


 だから、私は今日も、あなたを探しているのかもしれない。




 今年も桜は、満開だ。


 振り返ればきっと、あなたがそこにいる。


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桜を見ると、死にたくなる。 煉樹 @renj

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