田舎の秋に、落人伝説蘇りしこと(2018.11.21)

 白いキャンパスに灰色の油絵具を塗りかすめたような曇り空だった。

 こういう日は、すれ違う人も皆どこか寂しそうに感じる。

 会社の看板の原色も、コンビニの派手な外装も、赤茶けた屋根瓦も、緑の植え込みも……彩度を一段階落としたように、どこか色が薄く見えた。


 つまらない町並み。

 灰色の世界。


 軽く吹いた風が、腹の底まで体温を冷やす。今週に入ってから、急に朝が冷えるようになった。


 ……いけない。こんなんでは、仕事にも身が入らない。


 寂寥感せきりょうかんを振り払うように、少しだけ駆け足で駐車場へ向かった。


   *   *   *


 配属されて半年以上が経ち、ようやく仕事にも慣れてきた。ここ最近はもうずっと自分で営業ルートを組んで、一人でユーザーを回っている。

 こうして営業成績を高めていけば、こんな田舎とはおさらばして、やがて本社勤務の夢が叶うはず……そう信じて毎日を送っているが……成就へ近づいている実感は、ない。



 今日回るのは、主に半島のしものユーザーだ。

 正直言って、まさにド田舎である。

 ……というか、この辺りで仕事をするようになって、かつて自分がド田舎だと思っていた、配属先や社宅のある地域は、本当のド田舎と比べてたらかなりマシな部類だということに気がついた。

 「ここは言うほど田舎じゃない。コンビニやチェーン店もあるし、20分くらい車を走らせれば映画館やボウリングもある」と言っていた先輩の言葉は、嘘ではなかったのだ。人生23年目にして、田舎観の改定を余儀なくされた。

 初めてしものユーザーを回った時の衝撃は、今でも忘れられない。

 まさかグローバル社会真っ只中の、IT社会真っ只中の、平成の日本に、未だにこんな地域が残っていようとは! 京都や、岐阜の高山たかやまが観光地化しているような古い町並みよりよっぽど古い町並みだと思ったし、歴史的価値もあるのではないか? そう思わずにはいられなかったほどだ。


   *   *   *


 窓にひじをかけて信号待ちをしていると、一陣の風が吹いた。

 道端に溜まっていた落ち葉はくるくると舞い、カサコソとみちこすった。

 顔をあげると街路樹の葉は黄ばんだり、赤らんだりしていて、一様に秋の深まりを告げていた。


 ……そりゃあ、朝も寒くなるはずだ。


 1時間ほど車を走らせると、だんだんと町並みが変わってゆくのがわかる。

 建物と建物の間隔はまばらになり、人家はほとんどが木造だ。道路からも車線が消える。アスファルトの舗装は途絶え、砂利の振動が運転席にまで伝わった。


 対向車は、もうしばらく見ていない。

 車窓を流れる景色はどことなく寂しげで……やはり、灰色に見えた。


 ――その時。

 灰色の世界にぱっ、とあかいものが浮いたような気がして、目をとめると、それは柿の木であった。

 葉は全て落ちきっていて、裸の枝に赤い実がいくつも垂れ下がっていた。な重みで枝は弓なりに曲がり、風が吹くと危うげに揺れた。

 焦げた幹の色と鮮やかな朱は、曇天の秋空によく映えた。


 もうすぐ、目的地だ。

 次のユーザーは、ちょっと小高い丘の上に居を構える自動車鈑金屋だ。例によって整備工場というよりかは、自宅のガレージをブースに改造しただけの、お世辞にも会社とは呼べない造りである。

 それでも他に担い手がいないようで、仕事にはあまり困っていない風に見えた。


   *   *   *


 丘の上からは煙が上がっていた!


 何事かと思ったが、どうやら火事ではないらしい。

 爺さんが一人、丘の上で枯草を集め、火を焚いている。


 野焼きだ。

 教科書なんかでしか見たことのない風習とじかに遭遇し、少しだけ感動した。

 確かにこのあたりの丘には段々畑だんだんばたけが広がっている。写真でよく見るような立派なものではない、粗末なスケールではあるが、これも今までに見たことがなく、初めは感動した。

 この辺りはきっと、焼畑やきはた農業でひらかれた土地なのだろう。


 乾いた煙が立ちのぼるのを横目に、丘に拓かれた農道を上がっていった。

 農道は車一台がやっと通れる道幅で、大型車だったら畑にずり落ちてしまうことだろう。当然、対向車とすれ違うことなどはできない。そういう時は広いところまでバックして、思いやりの心で行き交わなくてはならない。


 ぐねぐねした細い農道を登っていくと、傾斜地のところどころで、小高い平地に行き当たることがある。そうした平地には家や小屋が建っている。

 隣家と隣家のほとんどは、一条の農道や畑に隔てられている。このあたりを航空写真で見ると、傾斜に拓かれた畑と農道で、きっと幾重ものひだのように映るに違いない。そして人家は、そのひだにしがみつくように、まばらに散っているのだ。


 このあたりは地元の人には〈切山地区〉と呼ばれている。切山トンネルといった名称や、切山理容店といった店名からもそれがうかがえる。

 だが、住所上には切山という地名は存在しない。

 きっと、かつては切山村とか切山町とか呼ばれていたが、隣接する町や市に併合されてしまったのだろう。そのように消えてしまった地名は、田舎では不断に見られる。きっとこの先、そういった現象はどんどん増えていくのだろう。

 そうして飲み込まれてしまった〈切山〉は地図上から消え、そこに住む人々の意識の中にのみ存在することとなる。だが、その人たちも全員代替わりして、かつての名で呼ぶ者がいなくなった時……切山という地は、無くなってしまうのだ……。


   *   *   *


「おはようございます!」

「ちーッス!」


 松井田さんは、いつもと変わらぬ金髪で挨拶を返した。

 初めはちょっぴりビビっていたヤンキーじみた言葉遣いと風貌だが、慣れてしまえばどうということはない。むしろ癖のある職人気質の人が多い中、歳も近く、気さくでフレンドリーな松井田さんの存在には助けられたことも多い。


 松井田鈑金は、今やほとんど彼一人によって回っている。

 若い頃に田舎を抜け出し、職を転々とする生活を送っていたが、親父さんが足腰を痛めたのをきっかけに田舎に戻り、家業を継ぐことを決めたという。

 ヤンキーだったのかどうかは、謎のままだ。

 ……まぁ、大事なのは今である。今まで培ってきた仕事とは全く違う仕事をイチから覚え、その上この歳で会社を切り盛りしているというのだから、むしろ尊敬に値するというものだ。自分には、とうていできるとは思えない。


「下の畑、野焼きしてるんですね。自分、初めて見ましたよ」

「ああ、そうッスねえ。春と秋になると、この辺では至る所に煙があがるんス。今日なんかはいーけど、こっちに風が向いてる日はたまんねぇッスよ……もう、煙たくて」


 松井田さんは手であおぐ仕草をしながら答えた。


「確かに……そうですね。住んでるとやっぱり、色々ありますよねぇ」

「そもそも、アレ、なんであんなことしてんスか? 最初は焼き芋みてーに野菜を焼いてんのかと……」


 松井田さんは「……って、そんなこと知らないッスよね」と付け加え、はにかむように笑った。

 そこで僕は、教科書上の知識でしかないが、野焼きについての説明をした。


「畑の中には、一回収穫を終えると初期状態に戻す必要があるものがあるんですよ。残った作物や枯れた草、それに溜まった害虫なんかを焼くわけですね。あとは、そういった有機物を焼くことで、次の耕作に使える肥料にもなるんだとか。……で、野焼きの大規模なやつが、いわゆる山焼きですね。奈良とかでやってるような……」


「へぇー! 自分、全然知らなかったッス! 小さい頃からここに住んでたのに……今、やっと謎が解けたっス! やっぱり大学出てると違うんスね~」


 どう考えても褒め過ぎだとは思ったが、素直に嬉しかったので、思わず頬が緩んだ。


「いやいや、そんな……。子どものころから歴史が好きで……。好きこそもののなんとやら、ってやつですよ」

「いやぁ、それでも……って、歴史? 畑と歴史が、なんか関係あるんスか?」

「えーっと……野焼きってのは、元は焼畑やきはたから来てるんですよ」

「ヤキハタ?」

「そうです。この辺は今は家や段々畑がありますけど……大昔は完全な傾斜地で、草や木の茂る丘陵地帯だったはずです。人の住むような里山ではなかったんですよ。家を建てるのも大変だし、灌漑かんがいを引くことができず、田んぼも作れない。

 せいぜい可能なのは、天水……つまり、自然の雨ですね。雨を頼りに畑を作るしかなかったんですよ。それでも、こういった傾斜地の草原地帯を整地して耕すのは非常に骨の折れることで……一番簡単な方法が、草地を焼いちゃうことだったんです。……って、なんか、すみません。長々と語ってしまって……」

「いやいや! すげー面白いッスよ! 勉強になります! 俺のご先祖様は、そんな大変な思いをして暮らしてたんスね……。俺も、もっと頑張んないとッスわ!」


 松井田さんのこういう素直な明るさが、僕は好きだった。

 彼の好意に甘え、僕の口は止まらず回り続けた。


「そうなんです。今でこそライフラインも通っているし、車や通販もある。だけど当時は、本当に生きることで精一杯の生活をしていたはずです。山と山の間に細い道を張り巡らせて、崖や丘の上にしがみつくように家を建てていたんです。稲も作れないから米を食べるなんてことはほとんど無く、限られた痩せた土地で焼畑をして……命を繋いできたんでしょう。

 でも、それだけじゃあ食っていけないから、炭焼きや木挽きを副業にして……。この辺りでは、今でも炭焼きを生業なりわいにしてる家が見られますよね。

 気候も険しかったでしょうし、町や普通の人里に住む人々のそれと比べて、たいそう生きづらく、それはそれは過酷なものだったと……思います」

「……でも、どーしてわざわざそんなところに住もうと思ったんスかねぇ?」

「そうですね……そんなところに、わざわざ住みたくて住む人はいません。では、なぜここで生きることに決めたのか。それは、孤立した山中で暮らさねばならない事情があった、ということなんでしょう。例えば、犯罪者の一団……、病気や身分により差別されてきた人々、俗世間を離れて山岳信仰に生きる修験者しゅけんじゃたち、朝廷から追いやられた狩猟採集民……。あとは、落ち武者の一族とかもありますね」


「落ち武者!」


 松井田さんは急に興奮したように、落ち武者というワードに食いついた。


「そうです! 俺、爺ちゃんに聞いたことがあるんスよ……この辺りには、平氏か源氏の落ち武者伝説が残ってるって!」


 これは驚いた。

 推論がぴったり当たっていたことにも驚いたが、まさかこんな身近に落人おちんど伝説が残っていようとは!

 その事実は、歴史好きには見逃せないものであった。


「それ、詳しく聞きたいです!」


 僕は営業トークも忘れ、落人伝説について聞き入った。

 どうやら松井田さんの家は、切山地区ではかなり古い家柄のようで、かつては庄屋しょうや……乃ち村の首長を務めていたようである。そして親父さんは今でも、切山地区を祀る神社の神主をやっているようで、正月には祭りでずいぶんと忙しくなるという。


「もうちょっと丘を登ったところに、その神社があるんスよ。5分くらいで行けるし……気になるなら、行ってみますか? つーかもう、俺が気になって仕方ないッス! なんか、ワクワクしてきましたよ! 自分の住んでた町が、そんなロマンのあるところだったなんて……あー、もう、俺のバカ! なんでもっとちゃんと爺ちゃんの話聞いてなかったんだろう……」


 松井田さんはオーバーに顔に手を当て、悔やんでいた。


「で、どうしますか!?」


 僕は松井田さんの誘いを即決した。

 大丈夫だ、問題ない。これも営業の一環だ。外交だ。

 こうしてユーザーとの信頼関係を深めることもルート営業の大事な仕事の一つなんだ……と、自分に言い訳をするように、松井田さんの後をついていった。


   *   *   *


 崩れかけた土塀どべいを一旦西へくだって、ぐるりとした狭い坂を登っていくと、大きな銀杏いちょうの木にあたった。


「この銀杏を目印に右に行くと、奥に石の鳥居があるんスよ」


 松井田さんの案内を頼りに進むと、確かに鳥居があった。

 大きさとしてはたいしたことはないが、ところどころが欠け、苔むしている様は、なんとも言えない神秘的な重みをたずさえていた。

 それはまさに、この切山地区の歴史そのものの重みなのだろう。


 鳥居を潜り抜けると、片側は暗い杉の木立、片側は笹の葉ばかりの参道に出た。

 登っている間中、僕は外交という名目も忘れ……なんとなく、二人とも無言だった。


 石畳には落ち葉が積もっていた。階段を登るたびに、くしゃりくしゃりと音が立った。薄暮れた参道に静かに響いた。

 もう、夕時だ。

 横に目を遣ると、木枯らしに揺れる木々からと西陽がもれて、目にしみた。目を閉じてもまぶたの裏にはしばらくまたたききが残っていて、残り火が目にきついたようだった。



 ――その時。

 音が、聞こえた気がした。

 ぱっ、と音のした方を振り向いた。


 僕ら以外、誰もいないはずなのに……すぐ奥の森の方から、確かに、音がする。

 人が枯れ枝を踏む音。蹴り転がった、石が落ち葉に埋もれる音。

 

 ナニカが、いる。


 でも、自分の勘違いであってほしい……そんな思いから、松井田さんに確かめるようなことはしなかった。顔を見ることもしなかった。

 ただひたすらに、沈黙を守った。


 恐怖は感じない。でも、一人では来れない。

 ……いや、来てはいけない。……そんな場所だ。本能で、そう感じた。

 

 だが、そう思うと同時に、このおごそかな静寂にいつまでも包まれていたい……そんな相反する感情も、胸のうちのどこかに認められるのだった。

 それはある種の、魔力のようなものなのかもしれない。



 1分くらい敷石沿いに階段を登ると、やっと拝殿が見えた。


 なるほど、こちらもずいぶんと古そうだ。

 だがそれは、一介の村神社としては破格の、予想よりもだいぶ立派な造りのやしろだった。拝殿の奥からは粗末ながらも渡り廊下が伸びていて、更に上方の本殿に通じている。

 ところどころは腐り落ち、木目が裂けている様子などは、大地震が来たらすぐにでも崩れてしまいそうな危うさを感じるほどの、朽ち方ではあった。

 だがそうした様子が、飲み込むような名状しがたい雰囲気を発しているのも、また事実だった。


 社殿の右奥には、木造りの鳥居が見えた。

 入り口の、石の鳥居と比べれば一回り小さいものだが、ところどころがカビで黒ずみ、ささくれている様は、石の鳥居以上の古い年月を感じさせる。

 その鳥居の奥には、木造のほこらがあった。

 花のない、白い花瓶が供えられていた。

 祠に打ち付けられた木札には、なにか文字が彫られていたが、かすれて読めない。祠のは、赤錆びた鉄錠でいかめしく封じられていた。

 さらに、まるで祠のふもとから生えてきたように、一本の木がそそり立っている。


 それはそれは、立派な杉の木だった。

 御神木、というやつだろうか。社殿の屋根をうねるように枝を無尽に伸ばしている様子は、まるで巨大な生物のように思えた。そこに見られるのは、静かだが力強い、エネルギーの奔流だ。



 賽銭箱の上には大きな鈴のひもがぶら下がっていた。鈴の塗装はほとんどがげ、中の金属がさびを吹いているのが見える。


 鈴のそばには、〈八幡はちまん宮〉というがくかっていた。


「八幡宮!」


 思わず、声を上げてしまった。


「……ああーそうです、八幡神社ッス。神社の名前……。アレ、親父、今日はいないのかな……?」


 僕につられたように、松井田さんも口を開いた。


 僕が声を上げたのは、八幡神社のゆえだ。

 そのによって、落人おちんど伝説の信憑性は大きく高まったのだから……。


   *   *   *


 どうやら神主を務めている親父さんは見当たらないようだが、木板に由緒ゆいしょ書きが見つかった。ところどころはかすれて読みづらかったが、松井田さんは確かにこう読みあげた。


「切山は……伝説によると、源平の戦いで丹波篠山から数名の落武者が逃げ隠れ、力を合わせて切山村を開いた地だと、言われています……」


 その言葉を読みあげた瞬間、僕たちは何を話すでもなく、笑顔で顔を見合わせあった。

 そして再び由緒に目を通していった。すると、次のようなことが書いてあった。


 名前のとおり山が多く(切山という地名は、山を切りひらいて作ったことに由来するらしい)、優良な農地もなく、あるのは松を中心とする木材だけであったという。

 そこで村をあげて、宮大工として他国へ出稼ぎをしていた時もあったらしい。やがて明治時代に切山村はもう一つの村と併合され、その地名を失い、さらに昭和の代になると隣町と併合され、〈村〉という概念も失ったという。


 神社の創立は元暦元年(1184年)。天正年間(1573~1585)に、松井田・久保等6名の丹州福知山の武士が来て、地元民と住居を同じくして農業を営んだ。そして彼らは切山の産土うぶすな神を尊崇礼拝そんすうれいはいして、社殿を再興させたという。

 社前にある御神木である大杉は、福知山の士が植えた杉であると伝えられているらしい。


「松井田……松井田……! スッゲー!」

「なるほど……。この村を拓いたのが源平の落ち武者なら、庄屋の松井田家はもしや源氏か平氏の末裔かと思ったんですが……松井田家は江戸時代にここにやってきた一族だったんですね。そして、この村をひきいていったと」

「なんか、俺……今まで歴史って、ずっと自分から離れた……そう、フィクションみたいな感覚が抜けなかったんスよ。俺らの爺ちゃんの代が、外国と戦争してたなんて、とても思えねぇし……。まるで、自分たちとは違った人間がやってたみたいな……、そう思わないと、とても、信じらんなくて……」


 松井田さんの言いたいことは僕にもよくわかった。

 まして江戸時代や源平の時代なんて、僕たちにとってはもはや、大河ドラマや歴史小説の〈物語〉に過ぎないのだ。たとえ歴史の授業で習ったとしても、本当に彼らの血を継いでいるという実感を持っている人は――彼らの子孫であるという実感を持っている人は、ごくわずかだろう。

 僕たちは本当に、かけがえのない長い歴史と、血の果てに生まれ継いでいるのだ。


「俺……もうちょっと、この町の歴史とか、調べてみようと思います。今まで意味ねーと思ってメンドくさがってた祭りとかも……」


 少しだけうつむいて、松井田さんは「今日は本当にありがとうございます」と付け加えた。

 だが、本当に感謝しなくてはならないのは自分の方なのだ。

 というのも、この切山の落人伝説は、歴史好きには見逃すことのできないはらんでいたからである。


「実は、落人伝説は日本各地に残ってるんですけど……そのほとんどは、平氏の落人伝説なんです。源平合戦で勝ったのは、源氏ですからね。

 例えば、愛媛の……偶然にも同じ名前の切山という地域には、平氏の落人伝説が残っています。壇ノ浦で入水自殺を余儀なくされた安徳天皇も、ここで半年を過ごしたみたいです。

 ……しかし、源氏の落人伝説というのは、自分は今まで聞いたことがありません。でも、源氏も全ての戦で勝利をおさめたわけではない。源氏の落ち武者がいてもおかしくはない……。

 ここの由緒には、源平の戦いで数名の落武者が逃げ隠れ……と書かれています。この書き方が、僕には非常に信憑性があるように思われるんです。もし、創作の伝説に過ぎないのなら、平氏か源氏と断定した方が、伝説として箔がつきますからね。

 そして、この神社です。八幡神社は全国にある高名な神社ですが……その祭神、つまり八幡様ですね。こいつは、弓矢の神……武神なんです。それで、源氏の一門は〈弓矢八幡〉と呼んで、あつく信仰していたんですよ」

「つまり……この切山を拓いたのは、源氏の落ち武者ってことっスか……?」

「自分は、その可能性が高いと思っています。もし、これが本当なら……この切山は、非常に歴史的に価値のある地域ですよ!」


   *   *   *


 もうすっかり日が暮れようとしている。

 会社に着いたら定時近くになるだろう。完全に話し過ぎた。

 ……だがまぁ、たまにはこういう日があってもいいだろう。

 ホラ、よく言うではないか……優秀な営業マンは、サボり方も上手いって。

 こうやって息抜きをしつつ、お客様との信頼関係を築いていくのは、理想的なサボり方ではないだろうか。いや、そうに違いない。

 

 しかし、今日は思わぬ収穫であった。

 そうだ、こうした史跡しせきや歴史の遺構が残っているのは、田舎ならではの魅力だろう。

 郷土史を漁って、気になる地域を調べて……。田舎ここを出るのは、それを調べ尽くした後でもいいかもしれない。


 いにしえの歴史が、一本の糸となって現代まで連綿と続いている……源平の生き様は、こんな身近に、確かに残っているのだ……。

 ――そんなロマンを感じたのもつかの間。

 同じ人間同士が繰り広げたとは思えない血みどろの戦い、同じ人間が遭ったとは思いたくもないおぞましい惨劇……そういった負の歴史も、現実の歴史として受け入れなくてはならないのだ……。

 そのことに気づいた瞬間、背中に、どろりとした生々しい重みがのっかかってきたのを感じた。


 また今回の落人伝説には、一つ引っ掛かったことがあった。

 それは、源氏の末裔の話が全く残っていない点だ。切山地区を拓いた首領的存在なのに、彼らの影はほとんど残っていない。源氏か平氏か判然としないのも、その謎に原因にある気がする。

 そう、落ち武者は、人里から離れた山中に……暮らし辛いこの土地に、わざわざ住まねばならなかったのだ。


 追手から、逃れるために……。


 八幡神社は一度没落し、江戸時代に松井田さんの祖先たちが来て、再興させたと由緒にはあった。

 これらの事実が語る歴史は……切山村を拓いた源氏の末裔は、追手に殺されたという可能性である。

 もちろん、推論にすぎない。証拠はない。

 それにもし仮に真実だとしても、だからどうということもない。戦乱の時代だ。彼ら以外にも幾千、幾万の人間が、無残に死んでいったのだから……。



 いやな夢想から目を背けるように車窓に目を遣ると、行きに見つけた柿の木が再び目についた。


 熟れすぎてしまったのか、実の一つは地に落ちていた。果肉が裂け、白い種子は弾け飛び、赤い汁がアスファルトに垂れていた。

 それは一見グロテスクであったが、ひどく美しくも見えた。

 夕日を受けた液体は、いやなくらいに鮮やかに、てらてらとり輝いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る