ド田舎営業紀行
夏藤涼太
勤務地の、ド田舎なりしこと(2018.5.14)
転ぶか転ばないかのギリギリの速度で、階段を駆け下りる。吹きさらしの鉄階段はいたるところが錆びていて、手すりを掴むたびに、ぼろぼろと塗装がこぼれ落ちた。
手すりから指先を放すと同時に、駐輪場へと飛び出す。自分の自転車を視界に捉えた。
自転車のカゴに鞄を放り、右手の鍵で解錠し、左手からハンドルを握り、スタンドを蹴り上げ、その足で発進する――会社に遅刻するかしないかは、この一連の動作をいかに素早く行えるかに懸かっている――たどり着くまでの数秒の間に、何度も何度も頭の中でシュミレーションを重ねた。
そしていざ、ハンドルへ右手を伸ばし――
――瞬間。
感じたのは、違和感。
かさり。
微かな、動き。
――それは。
「うぎゃあっ」
思わず右手を振り上げた。
間抜けな姿勢で静止したまま、問題の右手に恐る恐る目を遣る。右手の甲には、緑色の虫が――バッタが、行儀よく、ちょこんと鎮座していた。
バッタ。
たかがバッタに、あんな変な声をあげてしまったとは……恥ずかしい。
しかし思えばバッタなんて、ずいぶん久しぶりに見た気がする。改めて眺めてみると、バッタというのは――昆虫というのは、本当に気持ち悪い
昆虫はその進化の過程の化石が一切見つかっておらず、地球上の歴史に、突然その姿を現したという。そういったミッシングリンクの謎や奇っ怪なデザインから、昆虫は宇宙から飛来した生物だという話がある。昆虫宇宙起源説……とかなんとか。
いわゆるトンデモ説の一つなのだが、今ならそれも多少は、信じられる気がした。
少年時代には、こんな不気味な生物を嬉々として捕え、あまつさえ飼っていたというのだから、まったく子供というのは恐ろしい。
小学生の時だろうか。確か、体育館の裏側は適度に自然が茂っており、僕たちはそこでよく虫やらトカゲを捕まえていた。図鑑でしかお目にかかれなかったアリジゴクを見つけた時には、ずいぶんと感動した覚えがある。
だがある時から、昆虫は触れたくない存在へと変わり――そして気づけば、全く見かけなくなってしまった――そんな気がする。もちろん蚊やアリのように、未だに見かける虫もいるが……バッタなんて、下手したら数年ぶりに見たんじゃないだろうか。
開発が進み、自然が減り、町から昆虫が減ったということなのだろうか……それとも、意識していないから、気づいていないだけなのだろうか……
――なんて。
やっちまった。こんなノスタルジーに浸っている場合ではない。僕は今、会社に遅刻するかしないかの瀬戸際なのだ。
右手を勢い良く振り、バッタを払い除ける。
地に落ちる瞬間、薄緑色の羽根を細やかに飛翔させ、飛び去っていった。その光景を横目に流しながら、ペダルに力を込める。
あれ? バッタって……あんなに、飛べたっけ? 飛び跳ねるんじゃ――
そんな――浮かんだ疑問を頭の隅に追いやって、会社へ急いだ。
本当に、遅刻になりかねない。
配属されて一週間で遅刻なんて、シャレにならない。
* * *
会社が見えてきた。
出勤時間まであと4分。
ここから会社までは、目算で1分30秒。どうにか遅刻は免れそうだ。
――そう安堵した瞬間、視界の端に一人の老女を認めた。
つばの長い帽子をかぶり、腰を大きく曲げて歩いている。手には台車が握られ、いくつかのダンボールが載せられていた。
ダンボールのデザインからして、何かの家電――そのパッケージだろう。なんにせよ、ずいぶんと重そうである。
車に積み込みたいのか、台車を押して駐車場を進んでいる。いや、正確には進もうとしていた。
駐車場に敷かれた粗い砂利が、重い台車の進みを妨げている。力ずくで進めようにも、老女の腕では叶わず、さっきから、全く進んでいないように見える。
老女の顔は苦しそうではあったが、そこまで辛そうには見えなかった。
その表情には、自らの老いに対する諦めが含まれているようだった。
現実を受け入れた顔。
見るに耐えない、顔だった。
前輪にのみブレーキをかけ――ハンドルを駐車場の方に大きく切った。
* * *
遅刻は、なんとか免れた。
タイムカードの打刻時間は、始業時間ピッタリだった。なんなら、45秒くらいは遅刻していたと思う。タイムカードが分表示で、本当に助かった……
配属されて一週間で遅刻なんて、シャレにならない。
自転車に乗り損ねた際のタイムロスだけならば、余裕のない出勤ではあったが、こうも遅刻寸前にまで至ることはなかっただろう。
あの老女の荷積みさえ、手伝わなければ……
見過ごすことはできなかった。何も決して、自分が優しい人間であるということが言いたいのではない。なぜなら、きっとあの時見過ごしていたならば、今日一日あの老女のことが気にかかり、後悔することになるだろうからだ。
僕はお年寄りを助けたのではなく、自分の精神の健康性を保ったに――自分を助けたにすぎない。
しかしあの老女、車の運転は大丈夫なのだろうか……
タイムカードの打刻だけは死守すべく、その辺りに乗り捨てた自転車を拾い上げた。
全力の運動を急に止めたことで、今までの運動量分の汗が、どっと吹き出してくる。前髪が額にぺったりと張り付いて、気持ち悪い。ポケットからハンカチを取り出し、軽く拭き取る。それでも前髪は、変にまとまったままだった。
五月とは思えない暑さ――という天気予報を思い出す。
確かに今日は暑かった。だがしかし、普段通りの走行を行ったのであれば、きっとそれは、気持ちのいいサイクリングだったのだ。新鮮な酸素と血液は全身に行き渡り、脳を程よく活性化させ、理想的なコンディションで仕事に臨むことができただろう。
――あのバッタのせいで、2分はタイムロスをした。
――あのお婆ちゃんのせいで、3分はタイムロスをした。
朝の5分は大きい。その5分を自転車で取り返すのは、並大抵の走行では叶わない。こんなことが毎日続くのであれば、まったくやってられない。
あのバッタ。そして、おばあちゃん。
ド田舎の、虫とお年寄りの多さときたら!
そう、全てはこのド田舎のせいなのだ!
配属地域での、一人暮らしを初めて一週間。
もう、限界だった。
家事や生活費の捻出が大変? いや、そうではない。そもそも一人暮らしは大学生の時から経験済みだ。ある程度は、慣れている。
だがこの地域の生活の、耐えがたきときたら!
そう、このド田舎での暮らしが……限界だったのだ。
* * *
長く険しい就活を制し、大企業への就職を見事決めたのが去年のこと。
工業用機械の大手商社。ものづくり大国ニッポンを裏から支えてきた歴史ある会社。それが弊社だ。取引先には名だたる大手メーカーが客として名を連ねている。
これからは一流商社マンとして、彼らとビジネスを行っていくのだ。
完璧なレールを歩んできた――そのはずだった。計画して、努力して、実行して、そして実現させた。
自己実現。それが僕の人生だった。
人一倍聡明だった僕は、幼いころからじっくりと冷静に将来を見つめ、人生の本質について考えてきた。少年時代というのは、
人生の戦いは生まれた時、その瞬間から始まっている。そのことにいち早く気づき、鍛錬を怠らなかった者だけが――乃ち僕のような者だけが、上級国民としての生を、真の健康で文化的な暮らしを享受できるのである。
周りがゲームに興じる中、微分積分なんて何の役に立つのと愚痴る中、甘酸っぱい青春に一喜一憂している中、僕はいい会社に入るべく、しっかりと勉学に励み、また時には社会的・国際的な企画やイベントに携わってきた。そうして僕は高い学力と、有益な資格と、プライスレスな経験と、そして宝とも言うべき豊富な人脈を手に入れたのだ。
こうしたシステマチックな人生哲学は、親の教育の賜物であることは言うまでもない。しかしそれに加え、都心部で生まれ育ったことがその大きな一助となっていることは否定できない。
悲しいかな、人間は皆平等ではないのである。都会に生まれた時点で、そうでない人と比べて大きなアドバンテージを得ていることは言うまでもない。環境とは、才能と同等、もしくはそれ以上に当人の能力を形作る重要なファクターである。
そして、それらのカードはついに訪れた就職活動で如何なく発揮され……見事、第一志望の企業への内定を決めたのである。
それからの時の流れのめくるめく、速いこと。
内定の承諾、大学の卒業、そして……入社。
ついに僕の人生が、花開く。そんな想いを馳せつつ、本社における一ヶ月の研修期間はすぐに過ぎた。
研修が終わった。残すは、配属先の決定だ。
蕾が咲く、まさにその瞬間だった。
……配属先は、ド田舎だった。
聞いたこともない、ド田舎だった。
とても勝ち組とは言えない、低級極まりないド田舎ライフが、こうして始まったのだ。
20余年に渡る努力は遂に結ばれた! これで僕も勝ち組の仲間入り……そう、思っていたのに……いったいこれはどういう仕打ちか!
こんな目に遭って、神様がいるなどとのたまう奴は阿呆である。僕は無神論者として生きることを誓おう。
信仰が足りない? まさか、これが神様の選択だと言うのならば、神様がそんなふざけた存在だと言うのならば、ああ上等だ。悪魔崇拝者にでもなってやる!
クソったれな社会人生活一年目は、こうして始まった。
* * *
「よし、じゃあ行こっかー」
はつらつとした声を上げ、先輩は車のエンジンをかけた。
ぶるるん、と車が震える。
「でも凄いよねぇ、配属一週間で遅刻ギリギリ出勤なんて……私には無理だな〜」
「すみません……ちょっと……不注意で……」
本当の理由は言えなかった。お婆ちゃんに構っていたから遅刻した、なんてかっこ悪いし――かといって、バッタにビビってコケたから、なんて言うのはもっとかっこ悪かったからだ。
先輩は、皮肉めいた口調で笑う。運転をしているから顔はずっと前を向いているが、白い歯を覗かせて、ニヤニヤしているのがわかる。
車窓から差す朝日が、血色のいい先輩の肌を、白く照らす。半分ほど開けられた窓からは、心地よい風が吹いていた。先輩の黒髪が、ふわりと棚引く。いい匂いがした、そんな気がした。
「まぁ、遅刻しそうになる気持ちもわかるけどね〜。ホラ、普通の会社はさ? 始業時間は出勤時間ではない、仕事を始める時間だーって言って、30分前とかに来てメールチェックとかするらしいじゃん? 厳しいけど逆に、遅刻するってことはほとんどありえないんだよね。その点ウチは、始業時間までに出勤すればいいからね。ありがたいんだけど、逆に遅刻のリスクは上がるんだよね〜」
「なるほど……確かに、そうですね」
「まぁ月三回まではセーフだから。いやセーフじゃないんだけど……スリーアウトしたら皆勤手当なくなって、給料大幅減だから。気をつけてね」
それはシャレにならない。本当に、対策を講じる必要があるかもしれない。
「先輩は、スリーアウト……したことあるんですか?」
「それは……ヒ・ミ・ツ☆」
なんか古臭いノリでごまかされた。
「完全にやった人間の反応ですね」
「いやねー、仕方ないじゃん? だってこの町、見どころ満載なんだもん。ついつい脇見しちゃって……寄り道してたら、遅刻しちゃうんだよね〜」
照れくさそうに「たはは」と目を細めて笑う先輩に、少しだけ見惚れて――聞き捨てならない発言を、見逃してしまうところだった。
「見どころ満載……? この町が? この田舎がですか!?」
思わず、声を荒げてしまう。
「え? うん……確かに田舎だけど、魅力はいっぱいじゃない? 私は、ここに配属されて良かったと思ってるよ」
屈託のない表情で、曇りない瞳で、言葉をつづる。嘘を言っているようには見えない。
なんてこった。先輩は田舎に侵されて、おかしくなってしまったのか。洗脳されてしまったのか!?
「だってこんな、ド田舎……魅力どころか……なんもないじゃないですか……! いやそれどころか、不便なとこや不満点ばっかりですよ!」
「あのねぇ、ド田舎ド田舎って……そもそもここは言うほど田舎じゃないからね? 君が今までどんな都会に住んでたかは知らないけど……ここなんて、せいぜい郊外レベルじゃない。もっと
電車が30分に一本しか来ないここがド田舎でないのなら、一体どこがド田舎だというのか。確かに1時間に一本とか、そもそも電車じゃなくてバスが公共交通機関の主流みたいなとこもあるらしいけど……それは僕にとっては田舎ではなく、もはや秘境だ。
「そもそも小学校があるでしょ? 本当のド田舎には老人しかいないからね。いや、確かに老人は多いんだけど……」
そうだ。今朝も老人にしてやられたのだ。
困り眉で「うーん」と呟く先輩は、右手の人差し指を顎に当て、片手でハンドルを切る。手のひらでくるくると回す、そのハンドル捌きは見事なものだ。やはり、仕事で毎日乗っていると嫌でも上手くなるのだろうか。
片側二車線の大きな道路を抜け、大きくもない橋を渡る。この町のことはまだ詳しくはないが、たしかこの橋を超えると商店街があるはずだ。
その商店街も、例えば巣鴨や浅草、アメ横のように活気があったり、文化的に価値のあるものなら、観光資源にでもなるだろう。だがこの町にあるそれは、単なる田舎の商店街だ。いずれ淘汰され消えゆく、寂れた商店街だ。
その時、「あっ」と先輩が思いついたように口を開いた。
「ほら見て、あそこのお店。油沙商店!」
先輩が目で示した方向に目を遣ると、いかにも古めかしい建物が立っていた。ずいぶんと黒ずんだ、昔ながらの木造建築だ。
店名の他に、「食用油専門店」「創業1866年」といった題字が、かすれた白い塗料で記されている。
「1866年って凄いよねぇ。江戸時代だよ? 私たちにとっては戦争すら、現実感のない、遠い世界の出来事みたいに感じられるのに……このお店は、江戸幕府の侍から文明開化、世界大戦にバブルだって体験してるっていうんだもん。一種の文化遺産だよね〜」
心底感心したふうに店を眺める先輩。確かに、西暦で書かれるとあまりピンとこないが、江戸時代と言われると凄い。その言葉を聞いていると、黒ずんだ汚れも、150年間の空気や火煙、そして血風の染み込んだ、「歴史の重み」そのものに感じられる。
「続いて、左手の美容院をご覧くださーい」
先輩はバスガイドの真似事のような手振りで、油沙商店の二つ先に建っている美容院を示した。
黒塗りの直方体の建物で、見かけはとても美容院には見えない。しかし扉の上には確かに、白塗りの明朝体で「美容院」とだけ記されている。
「不思議だよねぇ、料金なんかの看板もないし……ここの店の前はよく通るけど、散髪客っぽい人が出入りしてるのも見たことないもん。だからね、私思うんだ。実は美容院ってのはカモフラで……本当は地下のヤバい研究施設とかに繋がってるんじゃないかって……」
先輩が一瞬、ニヤリと笑った顔をこちらに向けた。
「――とか、そう考えると、面白いよね」
そしてまたすぐ、運転に視点を戻す。
「そんでそこにある古本屋。このお店は個人経営なんだけどね……古本好きの間ではちょっと有名なのよ」
確かに個人経営らしい、寂れた感じのお店だ。店名は「
「新聞と広告以外の出版物なら、どんなものでも買い取る、ってのがモットーでね。凄いでしょ? だから、よそでは見つからないような掘り出し物があるって、評判なのよ」
「なるほど……それは、凄いですね……」
「……だけどね」
話はここから、とでも言わんばかりに語気を低めた。
「中にはね、普通は買い取り拒否されるもの……つまり、法外な本もあるらしいのよ……どう? 気になるでしょ?」
それは……ありえる、かもしれない。
途端に、あの寂れた古本屋が、アンダーグラウンドな妖しさを帯びたように見えてくる。
「確かに高層ビルや、洒落たショップなんかは少ないけど……周りをよーく見てみなよ。ここだって、面白いところはいっぱいあるよ?」
先輩の言葉に釣られ、商店街の店々に目を向けてみる。
……一番に目に入ったのは、和菓子屋だ。いくつかのぼりが出ている。「名物 ちんとろ団子」……? ちんとろとは、何なのだろう……?
疑問を解決する間もなく、車は商店街の中をどんどん進んでいく。車窓の景色は次々に流れる。
茶屋、時計屋、看板屋……。
水草屋……椅子屋……。熱帯魚ショップや家具屋はわかるけど、この辺は、いくらなんでも限定的すぎるのでは……? ちゃんと生計は立てられるのだろうか……。それでもガラス張りの店外から見える種々様々な椅子には不思議な趣があり、さながら小さな珍百景のようにも見えた。
「ああ、そこの水草屋でね、昔、まりもを買ったのよ。すっごい大きいまりもが展示されててね……私、まりもって成長しないもんかと思ってたらびっくりしたなぁ」
「水草だけで……生計立てられるんですか?」
「えー? それは知らないけど……ずっとやってるってことは成り立ってんじゃない? あと、水草以外にも海藻とか売ってんのよ。食用のやつね? 寒天とかもあったかなぁ、確かそっちのが評判とかなんとか……」
限定的かと思いきや、存外幅広かった。
「この辺の漢方店や釣具店は行ったことないな〜。あ、そこの鰻屋! そこは鰻よりナマズが美味しいのよー。鰻より高いんだけどね、前、先輩に奢ってもらった時は感動したな〜」
頬に片手を当て、当時の味を噛み締めるように口元を緩ませる。ナマズの味は全くイメージできなかったが、その幸せそうな表情に釣られてか、唾液が舌の裏の辺りから出てくるのを感じた。
その時、ひときわ目立つ看板が視界に入ってきた。「男のビデオ」という極めて挑戦的な店名が、デカデカと配されている。レンタルDVDショップと思われるが……ここで売っているのは……おそらく……
「そんなにじっくり見て〜……気になる? 寄ろっか?」
ニヤニヤしながら先輩がこちらを向く。
「や、た、ただ……この、変な店名が気になっただけですよ!」
たしかに気になることは気になった。だが、どちらかというとその衝撃に目を奪われたのであって、この発言は決して嘘ではない。先輩は「ふ〜ん」と挑発するような声色で前方に顔を戻したが、その表情はどこか嬉しそうに見えた。
「今時は、商店街なんてどこもシャッター街になってるからねぇ〜。スーパーや通販に潰されて……。チェーン店と個人経営の商店街が共存してるこの町は、案外貴重なんだよ?」
まぁ、それもいつまで続くかはわかんないけどね、そう付け加えた先輩の口は、どこか寂しそうだった。
やがて僕たちは商店街を抜け――再び片側二車線の大通りに出た。窓から流れる風景が、なんとなく、灰色に変わった気がした。
* * *
「はい、着いたよー」
言い終わるのとほとんど同時に、路肩に車を停める。
「ここが君の初営業先だね〜、どう? ドキドキする?」
「まぁ、多少は……」
にんまりと、嬉しそうな声色で問いかける。
「あ、名刺用意しといてね」
「はい!」
初営業先は、自動車整備会社だった。だが会社と言っても、一軒家を改造して、ガレージを仕事場にした自営業といった方が正しいのだろう。いわゆる、職人の家だ。
どんな大企業かと思っていたから、はっきりいって拍子抜けした。だが、初回だからオリエンテーションとして、あえて難度の易しい営業先を選んだのだろう。
植え込みにスラックスを引っ掛けないように、慎重に左足を出す。
その時、ガレージに置いてあったコンパクトカーの裏から一人の老人が現れた。職人のお出ましのようだ。
「おはようございまーす!」
先輩が大きな声で挨拶をする。あんな大きな声を出すのは恥ずかしく、僕は普通に相手に聞こえる程度の声量で挨拶をした。小さな声はダメだろうが、無意味に大きな声を出してもエネルギーの無駄遣いだ。それに相手によっては騒がしく、疎まれるかもしれない。
老人は、おぉう、と挨拶らしくない挨拶でこちらへ寄ってくる。少しだけ猫背にして、膝もかがめ気味だ。一歩一歩を踏みしめるような歩速。老人は、思った以上に老人だった。
――また、老人か。
朝から……もう老人はコリゴリなんだが……
「どうですかー? 最近は。忙しいですか?」
「最近はなァ、どこも入らんでアカンわァ」
「そうですよね〜。最近はどこの鈑金屋さんも仕事少ないみたいで……特に
「まぁでも、ゴールデンウィーク入ったらまたみんな事故るでさァ……ってそんなこと言っちゃあ、イカンわなァ!」
先輩と老人は二人で息を合わせたように笑い出した。口を大きく開いた老人の歯は、何本か抜けていた。
笑い終わると、その老いた瞳が僕を捉えた。
「あ、すみません。紹介するのー忘れてました。今年入った新人です」
急に訪れた自分の出番に、少しだけ焦る。鼻で軽く深呼吸をして、研修で習った通りに自己紹介をした。飽きるほど繰り返し練習した文言だったから、半分機械的に名刺を渡すところまで持っていくことができた。
「ホゥン」
少しだけ珍しそうに、渡した名刺を指先でくるくると、弄ぶ。名刺は自分の分身であり、極めて丁重に扱うべし、と習ったものだが――まぁ、模範例とその実態は往々にして異なるものだ。
「おめェももう先輩になったんだなァ。去年まで新人だったろォに」
「いやいや、私も三年目ですからね!?」
「あァ? そんな前だったかァ!?」
無い歯を見せて、滑舌の悪い笑いをこぼす。それに釣られるように、先輩も笑った。
それからの話の退屈さといったら――
「ここにタクシーが来たんだがなァ。朝はいっつも回ってンのに昼になるとトンと回りゃァしねェ」
「あ〜そうなんですね〜」
「でも朝になるとビュンビュン来よるでなァ! やわだげぇ!」
「そりゃあ、たまんないですね〜」
「こんなとこ使うやつおらんのになァ、ビュンビュンビュンビュン、いい加減にしろって話だぜェ」
老人は眉をひそめたり、目を開いたり、語調に節を込めたりと、情感たっぷりに話している。
「本当ですよね〜」
先輩は時折笑いをこぼしているが、それは本当に面白くて笑っているのか、それとも愛想笑いなのかは、僕にはわからなかった。
「そんでオレがカンペのスイセーの講習行こうとしたらいけねェんだもん! パテコやヨーザイがどうか知らんけど今更だげぇ、まァでもウチはカラトギだで吸っとるでなぁ〜こういうんのはイサンの方でもやっとるンかァ?」
「まぁ〜最近はどこもそうみたいですね〜ゴエスやらリスクアセスメントやら、うるさいみたいで、勘弁してほしいですよね~。テーブイオーシーやイチエキが基本になって、やっと慣れた頃に出てくるんですもんね……」
「エポキシなんかは……プライマーなぁ、アレはキツィけど、ヨーザイなんてもう何も感じんぞォ、俺はァ……ブハッ……」
自分の話のおかしさに耐えきれないようで、話し終わる前から笑いが溢れ出している。
「そんなのにビュンビュンビュンビュンしとるからなぁ、昼間は!」
ここが笑いどころと言わんばかりに目を見開く。相変わらずの歯抜けた口での大笑いだ。
先輩もそれに呼応するように歯を見せて笑った。
いや、もう、何を言ってるのかさっぱりわからない。滑舌が悪いのもあるし、方言もあるし、専門用語が混じっているのもあるのだろうけれど、話があっちにいったりこっちにいったりで、全く頭に入ってこない。笑いどころもわからない。似たような話を二周三周してるような気さえする。話よりも、そのやけに黒くてもっさりした耳毛のほうが面白い始末だ。だって、髪や眉は白いのに……
だから僕は適当にうなずきつつ、ほほえむ他なかった。こんな話につきあって、的確に笑っていられる先輩には感服する他ない。いや、それも営業の仕事の一環なのだろうか……
というか、終わらない……話は唐突に方方に飛び、そして同じ話を繰り返してるものだから、話の切れ目が出てこない。先輩が相槌を打つ限り、この会話は永遠に終わらないのではないだろうか。体感時間で、少なく見積もっても20分は話している。ただでさえ外回りの営業は移動時間が多いというのに、貴重な仕事の時間を、こんな老人の四方山話に費やしている暇はあるのだろうか……
――その時、背中の方から鳥の声が聞こえた。反射的に、後ろを見る。鳥が二羽三羽はばたき、木にとまる。
鳥は首を素早く動かし、朱色の
見たことがない鳥だ。
黄色いくちばしを細かく上下させ、朱色の
その光景に、妙に心を奪われてしまった……
ちょん、と肩をつつかれる。先輩が「ちゃんと話を聞きなさい」という表情を一瞬見せた。
目が覚めたような思いで、意識を老人に戻す。やっぱり話題はループしていた。先輩は、まったく同じ反応をしていた。
……なるほど、参考になる。
よく見ると、その老いた見かけは、肥えているところと
手や首元は肉が削げ、血管と骨が浮き出ている。その薄い皮膚もシワまみれである。そのシワの多いこと、職人として過ごした歳月の長さが刻みつけられているようだ。
それでも頬のあたりはふっくらしていて、血色もよい。目は小さいものの、しっかりと光を映していて、その表情は豊かだ。老いていてもなお健康で、きっと、幸せな証なのだろう。
そんなことを注視していたら、どこからともなく現れたもう一人の従業員と先輩が話し始めだした。そしてそのまま、奥の方へと消えていった――
自分一人、老人の前に取り残される。
なにか、話さなくては……
突如訪れた焦りに苛まれていたその時、聞かれたのだ。「さくらんぼォ、食ってみっか?」と。
老人だ。
どうやら、鳥が
確かに実こそイメージされるさくらんぼより小さいものの、よく見ると、一つの軸から複数の房を垂らしている――そのつくりは、確かにさくらんぼだ。
老人はこっちの返答も待たずに木の方へと進む。手の届く範囲の梢を振るい、実を一つもぎった。
確かに色は綺麗だ。ツヤも良い。
まさかあの会話中にしっかり見られていたとは……ボケ老人だと思って舐めていた自分を恥じたい。
だがしかし!
そんな、洗ってない――商品でもない、こんな野性味あふれるさくらんぼは……!
――そんな表情を読まれたのか、「大丈夫だ、農薬は巻いてねェからそンまま食べていいぞォ」と付け加えてきた。
いやいやいや、そういう問題ではない。
「まァ、そンせいで実が成る一ヶ月くらい前は虫だらけだったけどなァ!」
こいつは傑作だ、と言わんばかりにガハハと笑う。青々と茂った葉に毛虫が群がる様を想像してしまった。笑い事ではない。余計に食べる気が失せた。
だがしかし!
応えなくてはならない!
先輩がくだらない話につきあっていたように、自分も戯言に応えなくてはならないのだ!
食べる……これは、仕事の一環だ……そう念じ、目をつむった。
そして一思いに、口に放った。
……甘い。
そして、すこしだけ酸っぱい。自然と手が伸び、もう一粒もぎる。口に放る。
美味しい。
老人はにたにたと、満足げな顔をしていた。
ちょっとだけ悔しかったが、誇れる味だと……素直に思った。
老人が渡してきたポリ袋に、口から取り出した種を入れた。
「鳥が……凄いですね」
「おぉう、鳥なァ……ありゃあ渡り鳥だぞ」
「え、ああ、渡り鳥……なんですか。あのくちばしが黄色いやつ……」
「あぁ? くちばしが黄色ぃ? あぁ、ありゃあムクドリだわァ、ムクドリ。スズメもカラスも来るけどなぁ、今日は来とらんな」
いやいや、どっちだよ。まぁ渡り鳥と言われてもムクドリと言われてもパッとイメージはわかないし、わからないのだが。
「でぇもなぁ、ここ数年は鳥の数も減ったなぁ」
「え、これでも減ったんですか?」
「おぉう……昔はなァ、こんの十倍くらいはおったげなぁ」
笑いながら恐ろしいことを言う。今でもパッと見、十匹近くはいると思うのだが……
「新聞にも載っとったぞぉ? 最近はスズメが激減しとるってな」
その時ふと、思い出した。子供の頃住んでたマンションの駐車場の……いや、駐輪場の屋根裏に、雀が巣を作っていたことを。だからたまに……自転車に乗ろうとすると、雀の死体が転がっていることがあったのだが……
いつの間にか、それも見ることはなくなった。
朝の虫にしてもそうだが、ここのところ、鳥もめっきり見なくなった気がする。鳥が木の実をついばむ……という、なんてことはない様子が妙に気になったのは、そのためかもしれない。
脳裏に続くこの記憶は……ちょっと田舎の、おばあちゃんの家に泊まった時のことだ。だいぶ昔の……きっと、自分が小学生くらいの頃。
僕は二階に布団を敷いて寝ていた。そして朝、鳥の鳴き声で目を覚ますのだ。ふと窓を見ると、鳥が、赤い木の実をついばんでいる……
フラッシュバック。
この感覚は、懐かしさ……なのだろうか。
「こいつは25年前に子供の就学記念に植えた苗木でなァ。そん時は20センチくらいだったんだが……今はこんなにも大きなった……。もぉ、枝が伸び放題でかまわんわァ」
老人の言葉で、現実に戻される。
「他にはイチョウの木もあってなァ……四国で拾った種を巻いたんだが……一つしか成らんかったわ。しかも実ィが成らんでなァ。こりゃオスだげェ」
でっへっへ、と一通り笑うと、次は道路側の鉢を指差した。
「そこにゃあ、金柑の木があんぞ。小さく見えっけど、もう成木だ。季節になると、うめぇ金柑をどっさり付けんだ」
嬉しそうな笑顔を浮かべ、両の手を使ってザルの形を身振りで表す。みずみずしい金柑が、網籠の中にどっさりと収穫された絵が思わず浮かんだ。
「それは……美味しそうです……」
自然と、口に出た。
「おっ、じゃあ来年はわけてやンよ」
「えっ」
予想外の返しに、一瞬詰まってしまった。
「あ、ありがとうございます……来年が、楽しみです」
それを聞いて嬉しそうな顔を浮かべた時、先輩が戻ってきた。そして老人は、再び先輩と話し始めた。
来年も、ここに来ることになってしまった。
* * *
長かった会話を「ではまた、モノの方、入り次第持ってきますんで」と締め、「ありがとうございます」と付け加え、先輩は老人の元を去った。僕もあわてて、「ありがとうございました!」と復唱する。
そのまま道路に出た時、腰を曲げた老女が向かってくるのが見えた。どこか、見覚えがある。
「おはようございます!」
「おはよぉ」
「あの人はね、ここの大将の奥さんね。事務仕事とかをやってんのよ」
「あ、そうなんですか……おはようございます!」
頭を軽く下げてそう挨拶した時、ぱっと思い出したのだ。
「おぅアンタぁ、朝の若いのじゃないの! ありがとねぇ、助かったよぉ」
見覚えがあって当然だ。この老女は、今朝駐車場で台車を押していた……危うく遅刻しかけた原因の一つとなったその人だったのだ!
「え? なにそれ?」
何も知らない先輩は、戸惑いの表情を見せる。
「アンタ、ここの新人さんかねぇ! ええ子が入ったねぇ! 知ってる? アンタ。この若いの、今朝私が扇風機運んでんの困ってた時、車まで運んでくれたのよぉ」
「え、そうなんですか!」
にんまりとした、何とも言えない笑顔を僕に向ける。隠していたから、なんとなく恥ずかしくて、目を背けた。
「自分の不注意だなんて言いながら、人助けしてたんだねぇ、君。それで遅れてたのね〜。いいとこあんじゃん」
恥ずかしいことなんて何もしてないはずなのに……なにも答えられず、顔がほてった。まぁでも、遅刻の誤解が解けたのは……よかった。
老女は「ありがとねぇ」と、店の目の前の自販機にお金を投入した。
「ほれ、今日は暑いで……アイスコーヒーでも飲みゃぁ」
老女の両手には二つのアイスコーヒーがあった。奢ってくれるのだろう。
「あ、すみません……私は何もしてないのに……ありがとうございます。いただきます」
「あ、ありがとうございます。いただきます!」
先輩に習い、うやうやしくコーヒーを受け取る。無糖の缶コーヒーだ。缶が水滴に濡れていることから、その冷たさが伺えた。
五月初めとは思えない暑さだったから、缶の冷たさが身体に染み入る。
コーヒーはそんなに好きではないから、カフェに入った時以外、飲むことはほとんどない。缶コーヒーなんて、本当、ずいぶんと久しぶりに飲む気がする。しかも、無糖の……ブラックは――受験の時、試しに飲んだの以来だろうか……。あの時は飲みきれず、母親にあげた気がする。
そもそもカフェなんかに行っても、普段はカフェオレやカフェモカ、フラペチーノばっかりだ。
だがしかし! これは仕事の一環であり……受け取ったものは、ありがたく頂戴しなくてはならないのだ。
先輩は、ごっごっと喉を鳴らし飲んでいる。
僕も……恐る恐る、飲む。
冷たい塊が食道を流れ落ちた。
……苦いし、少し酸味がある。
けど、すっげぇ、美味しかった。
「ありがとうございます!」
自然と、大きな声が出た。
* * *
先輩の上手くもなく特別下手でもない運転が、路面からのショックをごとごととシートに伝えた。缶ホルダーに並んだアイスコーヒーが不規則に揺れ、コーヒーの
僕たちは再び商店街の通りに入った。
「わたしは、この町が好きだよ」
唐突な告白。
「就活する時にさ~、好きなことを仕事にするか、そうでないかを、迷ったのよね。まぁ、ベタな悩みなんだけどさ」
告白は続く。
「それで私は最終的に、好きなことを仕事にするのはやめたの。好きなことを仕事にすると、嫌いになるって聞くし……なにより好きなことを仕事にして、しっかり稼げる人はごく僅かだからねぇ〜。つまんない、現実的な理由。だから私は、仕事はお金を得るための手段として……好きなことをするためのお金と余暇とかだけを見て、この会社に決めたの」
先輩の志望理由は、自分とは全く違った。
「だけど実際に、社会人になってから気づいたの。社会人って、本当に、仕事を中心に生活が回ってるんだって……」
それは、ある意味では当たり前のことかもしれない。
「一週間のうち五日間は働いてる。その五日間は、簡単にズラしたり休むことはできないから……自然と仕事を中心に予定を組まなければならない。そんな生活が、あと四十年も続く……いや、私たちの世代は、五十年、六十年と続くことになるのかもしれない。そのことに気づいた時にねぇ、もう嫌になっちゃってさぁ」
ちょっとだけ恥ずかしそうに、先輩は苦笑した。
「いや、なに当たり前のこと言ってるんだ……って、思う人が大半だと思うんだけどさ。私にはとても……なんというか、耐えられなかったのよ。だから私は……好きなことを見つけようって、仕事に楽しみを見つけようって、決めたの」
好きなことを、見つける。
「本当は、仕事そのものが楽しいっていうのがベストだと思うよ? プロジェクトの達成感、セールスの成功体験、モノづくりの面白さ……。でも私には、そんな簡単に仕事に楽しみは見出せなかったから……私は、社会人"生活"から楽しみを探すことにしたの。そうしたら、楽しいことって、案外どこにでもあるんだって……気づいたのよ。そんでね、色んな場所や色んな人と関われるこの仕事は、楽しみが色んな所に潜んでる、それは魅力的な仕事だって、気づいたのよ」
全く前を向いたまま、缶ホルダーに手を伸ばす。慣れた手つきでコーヒーを口に持っていった。水滴がしたたる暑い五月だった。
「今年初めての缶コーヒー。今日の素敵。楽しいものや素敵なものは、案外どこにでも転がってる。せっかく週五日、四十年間も一緒に付き合うことになるんだから……何かしらの楽しみはないとね。こうやって楽しみを探しながら働くのが、私流の仕事のコツ、かなぁ。まぁ上司からは、それでお前は余所見ばっかりしてるって怒られるんだけどね」
恥ずかしそうに舌を出す先輩の顔には、少しだけ嬉しげな表情がないまぜになっていた。
「いやまぁ、……てっ言ったって、私だって、まだ三年目のペーペーなんだけどね。いやぁ、なんか恥ずかしいなぁ。偉そうに変なこと、いっぱい喋っちゃったよ……」
ひとしきり語り終わると、たはは、と照れくさそうに笑った。
西陽に照らされた先輩の笑顔は、妙に眩しかった。
その時、フロントガラスを滑るように黒い鳥が旋回した。
ツバメだ。
別に鳥類に詳しいわけでもないし、正確な姿形をしっかりと目で捉えられたわけでもないが、なんとなく、そう直感した。
思えば、ツバメなんて写真やフィクション以外で、初めて野生で見たかもしれない。いやもちろん、意識してなかっただけで、すれ違ったことや視界に入ったことは幾度となくあったのかもしれない。
けれど今初めて気づいたのだ。
ツバメって、案外かっこいいんだな、って。
ざっと二十秒くらいそのツバメに見惚れていた僕は、ツバメが車窓から見えたのは、きっと二秒にも満たない刹那だったことに、後から気づいた。
まぁ確かに……ド田舎でも楽しいものは――なにかしらの
* * *
帰宅そうそうしたことは、小便だった。電気を点けて便器に腰を下ろした瞬間、まるで湯船に漬かった瞬間のように、今日一日の疲れがどっとのしかかってきた。だがその疲れは、今日一日の想いや経験も含まれたもので、決して不快なものでもなかった。でもなかなか、用を足した後も僕は便器の上から動けなかった。
そしてやっと、重い腰を上げ……ズボンやらを履き上げた瞬間、視界の端に、変なものを認めたのだ。
素早くも小刻みな、黒い動き。不規則な黒い動線に――朝バッタを見つけた時よりも、遥かに大きな声量で、呻きを上げた。
実家はマンションの高層階だったから、こんなもの……ゴキブリなんて、家の中で認めたことはなかったのだ!
よく漫画やドラマで、ゴキブリに発狂する女の子の描写をしばしば見るが、それらはつくづくオーバーなリアクションだと思っていた。そんな愚かな自分を過去に戻ってしばいてやりたい。
しかしこれは……気持ち悪い。人間が本能的に拒絶するタイプの動き方だ、そう思った。この忌避感は、宇宙から飛来した外来生物に対する拒絶反応だと言われても、今なら納得してしまうだろう。
産まれて初めて身近に見たゴキブリは……エイリアンなんかより、よっぽどリアルなオカルトだった。
この、ド田舎め!
やっぱりド田舎での生活は……もう限界だ!!!!!!
ド田舎の、虫の多さときたら!
ド田舎の生活の、耐えがたきときたら!
そう、全てはこのド田舎のせいなのだ!
やっぱりド田舎での暮らしは……もう限界だ!!!!!!
朝から晩までそう思い、僕は配属初日を終えた。
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