白雨が降ったら会えますか
あやぺん
俺が住む、1K和室の格安アパートは、窓を開けると墓が目の前。暮らして三年、特に恐ろしい思いも、変わった事もない。俺に、霊感のれの字もないからかもしれない。
まあ、墓というのは、仏様がいる場所。熱心に墓参りする方や、親に「走るな」の代わりに「転んだら腕を置いていかないとならない」などと脅される小さな子。そういう、非日常だけど日常の延長線がある場所。恐ろしいどころか微笑ましさすら感じる。
それより、俺が気になっているのは、職場へ向かう道の途中の、とある交差点。自転車通勤で毎日通るその場所に、ある朝花束が置かれるようになった。
新聞の地域欄に、小さく載っていたのは、夜に女性が轢かれて亡くなったということ。逃亡した犯人はまだ見つかっていないという。
一月経つが、小さな花束は毎日新しいものに変わっているようだ。
☔︎☔︎☔︎
その日、俺は自転車で片道十五分かかる道のりを歩いていた。夜勤入りの日が雨だったので、自転車が無いせい。職場から自宅に向かう道は茜色に染まっている。夕焼けが、街を焦がすのではないかというくらい赤い。
帰りにいつも寄る商店街。アーケードの中は濡れないし、夜に近い商店街は生活臭が漂い賑やか。雨は嫌いだが、歩くのは嫌いではない。
「よお、
行きつけの飲み屋の店長に声を掛けられた。父親より少し若い彼は、商店街の中でも気心知れているので、顔を見るだけで元気が出た。
「いや、早くないんですよ。夜勤明けで今です。おまけに明日も仕事。帰ってすぐ寝ます」
店長があからさまに気の毒そうな顔をした。それから、あっという顔をした。
「大変なんだな。そうだ、会ったらこれをやろうと思っていたんだ。婆ちゃんが煩くて。ほら」
店長がエプロンのポケットから何かを出した。
チリン。
鈴が小気味良い音を鳴らした。紫色をした和柄の小さな巾着だった。御守りのように見える。
「御守り?」
「もうすぐ盆だろ? 盆の夕暮れ、そこにしとしと雨や
三年も住んでるので、俺は首を傾げた。そんな話、初めて聞いた。都会育ちの俺には、慣れない話。
「ふーん。去年も今年も何もなかったですよ」
「俺なんて三十年以上、何にもないぜ。子供の頃なんて、しょっ中失くして怒られてた」
店長が「がはは」と豪快に笑った。俺は一応、店長から御守りを受け取った。和物は好きだ。紫色の秋の実りの柄。キーケースがまだ空いているので、つけてみる。
「ははははは! それ、見せると毎回一杯目は半額だ。好きな常連にやる、婆ちゃんの趣味。人の好意を有り難く受け取るか、それが大事らしい。ボロ酒場の伝統ってやつ」
店長が俺の背中をバシバシ叩いた。
「俺、試されたんですか?」
ニヤリと笑った店長が、パン屋に目配せした。
「まあな。話の種にするがいい。どうせ、あそこには寄るんだろう? 」
バレてないと思ったら、バレている。俺は肩を竦めながら、斜め向かいのパン屋へ歩いていった。
昔ながらのパン屋。自動ドアではなく、自分で押さないとならない。ドアを開くとリンリンリンと風鈴の音が響いた。この風情ある感じが気に入っている。
「いらっしゃいませ。あらー、今日は早いのね。それに
店長の奥さんが楽しげに笑った。
「あのー、それ本人に言わないで下さいよ」
俺がいつものメロンパンをトレイに乗せる前に、奥さんはもう包んでいる。俺はレジ前に移動して、ポケットから財布を取り出した。
「昨日、うちの娘。メロンパンさん、今日はこないね。ですって」
その一言に、俺は頭を掻いた。しばらく、この店に来るのは止めよう。
「なによ、そんな暗い顔をして。お節介の勘違いだったかしら」
俺は曖昧に笑った。何となくそんな気はしていて、悪い気分でも無い。ここのパン屋の娘は、溌剌としていて笑顔が素敵な女性だ。正直、少し惹かれている。
それなのに、俺はまだ前に進む気持ちになれない。踏ん切りがつかない。女の勘か、年の功か、奥さんは俺の態度の不振さに突っ込んではこなかった。代わりに袋に入れられたメロンパンを渡され、お金を要求された。
「なら、他の常連を焚きつけておくよ。男っ気がなくて困ってて、つい余計なことを言っちゃうんだ。気にせずまた来て下さいね。毎度ありがとうございます。また、どうぞ」
「ええ。また来ます。そういえば、はくうって何ですか? 夕方にしとしと雨やはくうだと、霊に会うって聞いたんですけど」
店を出る前に、俺は振り返った。先程もらった御守りを見せる。
「これ、吉井さんとこの婆ちゃんだね。あの人、神社生まれらしいから御利益あるよ。はくうっていうのは、夕立の事だね。夏の夕方に降る激しい雨。白雨の時は連れていかれるから振り返るなって、祖母に言われて育ったよ。まあ、足元に気をつけないと転ぶ、前を見ないと轢かれるってことなんでしょうね」
話しながら、俺はキーケースとメロンパンが入った袋をリュックにしまった。
「墓で走り回るなっていうのを、転んだら腕を置いていけ、代わりは袖だって言うのと似たようなものですね」
俺の発言に、奥さんが目を丸めた。
「へえ、ここらじゃ靴って言うよ。まあ、子供なんて霊だとか何だとか、怖いもので脅すと身に染みて気をつけるからね。私も未だに雨の日に後ろを振り返るのを躊躇うもの」
ドアを開けてくれた奥さんに会釈をして、俺は店の外に出た。途中、肉屋に寄っていつもの手作り弁当を購入した。アーケードを抜けると、夕焼けはすっかり雲に覆われていた。風が強い。
家に向かって歩いていると、ポツリ、ポツリと雨が降り出した。傘を持っているので安心。そう思っていたら、急に雨脚が強まった。バケツをひっくり返したような、とはまさにこの雨。傘があまり役に立たない。
——白雨。夏の夕方に降る激しい雨。
——白雨の時は連れていかれるから振り返るな
轢き逃げ事件があった交差点まで辿り着いた時に、俺はふとパン屋の奥さんの言葉を思い出した。
キーケースには新しい、御利益があるという御守り。
電柱には今日も花束が飾ってある。小振りの向日葵が数本。横目で見ながら通り過ぎ、俺は足を止めた。跳ね返る雨で靴もズボンもびしょ濡れ。向日葵も殴られているように、激しい雨に襲われている。
俺は向日葵に傘を掲げ、それから来た道を
「連れて行かれないで、会うだけなんて都合が良いか。そもそも、何もないよな」
大雨で視界が悪いが、人も車も来る気配は無い。雨音と、白んだ世界。白雨とは、雨が降りすぎるとこのような景色になるからだろう。
俺は傘を置いて、前を向いて、歩き出した。傘は明日の朝にでも回収しよう。折角の弔い花がこのままでは悲惨な事になる。
最早風呂代わりだな、と俺はアパートまでのんびりと歩いた。通り雨だったようで、次第に雨の勢いは弱くなっていった。しとしと雨、そう呼んで良いだろう。前方はもう雲がまばらになり、夕日が覗いている。アパートに着いた時には、もうすっかり晴天だった。
錆びた階段を上がり、一番右端の自分の部屋まで移動する。
ヒタヒタ……。
ヒタヒタ……。
濡れた素足で床を歩くような音がして、俺は階段の方、左側に体を動かした。水色のワンピースを着た、青白い顔の長い黒髪の女性が立っていて、俺は小さな悲鳴をあげた。
馬鹿な真似をするんじゃなかった。会いたい彼女ではなく、事故死した女が現れるだなんて。
そんなの当たり前か!
物憂げな女の霊に、全身に鳥肌が立った。
「あの、この傘……。いくら壊れていてもあんな所に捨てるなんてと……」
耳障りの良い声に、はっきりとした足元。素足ではなくヒールのない、リボンがあしらわれたサンダルを履いている。彼女が俺に、俺の黒い傘を差し出した。反対側には白地に青い水玉の傘を持っている。
馬鹿なことを考えたが、普通に人間だ。足に傘もだが、小さな呼吸音がそう物語っている。雨で寒いからか、唇は紫色で少し、震えている。伏せた睫毛の長さと、綺麗な顔立ちに、少し見惚れた。
「壊れて? 花の雨避けにと思ったんですが、そうですよね。風で飛ばされるかもしれないのに、どうかしていた」
夜勤明けでそのまま夕方まで働き続けて寝不足。疲れでおかしくなっている。俺は苦笑いしながら、すみませんと傘を受け取った。
「あの、余計なお世話だと思うんですが……。今夜は塩が入ったお風呂に入って、枕元に盛り塩をした方が良いです。それが言いたくて……」
悲しそうに、寂しそうに笑うと、彼女はクルリと俺に背を向けた。フワリと広がった黒い髪から、甘い香りがした。どこか、懐かしい芳香だった。
今、何て言った?
何故?
問いかけようにも、彼女はもう階段の下まで降りていた。俺は思わず身を乗り出して、彼女の姿を目で追った。左手に進んで、すぐに路地を曲がったので、あっという間に姿が見えなくなった。
家に入った俺は、急に倦怠感に襲われて、服を脱いでタオルで体を拭くと、ベッドにダイブした。買ってきた惣菜を食べることもせず、風呂に入るのも忘れて。
謎の女性の忠告を聞かなかったことを、俺は後悔することになった。
☔︎☔︎☔︎
体が鉛のようで、息苦しい。パチリ、と目を見開いたのに指一本動かせない。人生初の金縛り?
クーラーを掛け忘れたので、蒸し暑い。なのに、全身に流れる汗が冷える感覚。全身がゾワゾワとする。
ヒタヒタ……。
ヒタヒタ……。ヒタヒタ……、
昼間聞いたのとは違う、本当に裸足で床を歩くような音が玄関の方から聴こえてきた。
ポタ……。
ポタ……。
水道の栓をきちんと締め忘れたのか——それにしては音が違う——水が滴る音。足跡と水の落ちる音に、恐怖が込み上げてくる。
無理矢理体を動かそうとしたが、やはり指一本動かない。夜勤明けで、睡眠バランスが崩れて、レム睡眠の最中に意識が覚醒してしまっただけ。自分にそう、言い聞かせるが、息苦しいのに寝返りも出来ないのは中々怖い。
ヒタヒタ……。
うろついているような足音にも感じられる。金縛りの時は幻聴を伴うのだったか?
ポタ……。
ポタ……。
ガンガンガンガン! ガチャガチャガチャガチャ!
突如、玄関扉を叩く音と、ドアノブを勢いよく回す音がして、心臓が口から飛び出そうになった。
瞬間、首にヒヤリとした冷たい感触がして、俺は悲鳴をあげた。つもりだったが、声は出なかった。唇も動かない。
しんっと静まり返り、ふいに体の強張りも消えた。
「うわあああああああ!」
俺は叫びながら、体を起こした。
キイイイインと耳鳴りがして、耳を抑える。俺は這いつくばるように台所に移動して、定位置に置いているキーケースをひっ摑んだ。それから食卓塩の瓶。
妙に現実感がある感触。怖いもの見たさで、俺は玄関の覗き穴に目を当てた。
真っ暗な廊下には、誰もいない。しかし、玄関前だけびしょ濡れになっている。そこに水を零したというように。
——がいたの……
玄関の向こうから掠れた女性の声がした。俺は息を殺して、覗き穴から少しだけ離れた。カラカラの口の中、寝起きの嫌な味がする。ヒタヒタという足音がまたして、徐々に遠ざかっていった。
いたの? 何がいたんだ?
俺は振り向いた。暗く、蒸し暑い部屋には誰もいない。しかし、俺には扉の向こう側にいたらしい霊が見えなかった。今も、見えないだけ?
いや、全部夢か?
古典的というか、意味があるのか分からないが、俺は自分の頬を抓ってみた。
「痛い……。怖っ……」
身震いしてから、俺は風呂場に向かった。こんな時に水回りなんて怖いが、思い出した。
——今夜は塩が入ったお風呂に入って、枕元に盛り塩をした方が良いです
全身、汗びっしょりなのもあり、俺は急いで風呂を汲んだ。暑いので湯と水を半々にして、早々に食卓塩を振り入れる。こういう時、どの位塩を入れるものなんだ? 適当に塩を入れ、台所に戻った。食器棚から小鉢を出して、残った塩を全部入れた。盛り塩は、三角錐にすれば良かった筈。
恐ろしくて、寝室の方へ戻れない。
浴槽に半分も水量が無いうちに、俺は風呂に入った。頭まで沈んで、直ぐに洗い場に出る。何度か頭から湯をかけた。烏の行水だが、これでも十分だろう。今の状況、風呂場というのは恐怖でしかない。塩を流すべきなのか迷ったが、シャワーは止めた。
脱衣所に出て、体を拭いていると、洗面台の鏡が目に入った。俺は腰を抜かしそうになった。
首筋が青黒くなっている。
せっかく汗を流したのに、変な汗がドバッと滲んだ。動機が激しい。しかし、体は妙に軽い。塩風呂の効果?
俺は脱衣所から出て、冷蔵庫を開けた。作ってある麦茶を容器から直飲みする。
こんなの眠れる訳が無いと思ったが、あまりにも強い睡魔に襲われて、俺は盛り塩をした小鉢を手にして寝室へ移動した。反対側にはキーケースを持った。御利益があると言っていたが、本当にあったのかもしれない。
倒れるようにベッドに横になると、俺はあっという間に眠りについた。
薄ぼんやりと、リンリン、リンリン、と風鈴のような澄んだ音がして、なんだか安心した。
翌朝、首の痣は消えていた。ホッとして、夢だったのかと思いながら出勤の為に支度をして、家を出た。
「嘘だろ……」
開いた玄関扉の正面足元が濡れていた。灰色のコンクリートの廊下が、そこだけ黒くなっていて、水溜りかみたいになっている。おまけに薄い赤色も混じっていた。玄関扉の外側にも水がついていた。ドアノブも同じく濡れていて、ポタリ……と雫が落下した。
その日は一日中、仕事に集中出来なかった。帰りに粗塩を買った。インターネットで調べて、塩と酒を入れると良いと発見したので、日本酒も購入した。
口にしたら現実だと認めるみたいで、俺は誰にもこの話をしなかった。
☀︎☀︎☀︎
怖かったので、通勤経路を変えて、事故現場を避けて過ごした。酒と塩の風呂に毎日入っておいたお陰なのか、事故現場に近寄らないようにしていたからなのか、異常な夜は、一夜だけだった。
次の休みの日、お盆に入ったので、俺はアパート裏手の墓にお参りに行った。花はいつものピンク色のカーネーションに白いかすみ草。
彼女の墓は俺のアパートから見て、右手の奥の方。アパートのベランダからは見えない位置。アパートからも確認していたが、墓の近くまで来てからもう一度、彼女の家族が居ないかを確認した。日にちもずらしたし、午後にしたし、今年も誰もいなかった。
墓を軽く洗い、花を生けて、線香をあげる。俺はしゃがんで両手を合わせて、目を瞑った。照りつける炎天下、滲む汗。
十年以上前の冬、彼女は学校の屋上から飛び降りた。新聞記事によれば、噂によれば、受験ノイローゼと家庭不和が原因だったらしい。俺は、密かに彼女が好きだった。いつも明るくて、笑顔で、悩みなんて無いと思い込んで、どちらかというと陰鬱だった俺とは正反対。
眩しくて、近寄る事に怯えていたが、挨拶とたまにする他愛のない会話にいつも胸を躍らせていた。大人になった今なら、上手く振る舞えるのにといつも苦々しくなる、ほろ苦い思い出。俺はいつも彼女に対して、他の誰かに対しても、かなりぶっきらぼうだった。
飛び降りる直前、俺の携帯電話に彼女からの着信があった。不思議なことに、他の誰でもなく、俺にだけ。
出なかったことを、俺は未だに悔いている。
転勤になり、たまたま彼女の墓がある土地だった。墓の近くのアパートを借りるくらいには、後悔している。化けて出ないかと、子供みたいに期待した。白雨で振り返ってみたのも、彼女が俺を連れに来ないかと思ったから。俺の浅はかな考えを笑うように、事故死した女性か、他の何者かが現れただけだった。
「あの……」
聞き覚えのある声に、俺は振り向いた。鮮やかな青空と同じ色のワンピースが、ふわりと風に揺れた。俺に傘を届け、塩風呂に入って盛り塩をしろと言った女性だった。顔色は少し悪くて、青白いが唇は桃色。サラサラと揺れる黒髪は艶やか。
「この間の……」
立ち上がった俺は、思わずあの晩の事を話していた。
「なので、あの、ありがとうございます。俺、霊なんて初めて見ました。いや、見てはいないんですけど……。ああ、名前。名乗りもせずに、いきなりこんな話をすみません」
何故いきなり、堰を切ったように語ってしまったのかと、急に恥ずかしくなってしまった。女性はクスクスと笑い、それから柔らかく微笑んだ。
「ううん。
俺は瞬きを繰り返した。目の前の女性は、どう見ても彼女とは顔も声も違う。なのに、俺は確信した。眼前の女性は彼女だ。
「危ないから、もう振り返っちゃダメだよ。たまたまその人、私のですよーって言えたけど、もう行くから次は言えないの。あの夜ね……。賢輔君と明日も会いたいって思って、止めようと思った。なのに、足を滑らしたの」
ごめんね。それから、ありがとうと彼女の声が木霊した。雲一つないのに、バァァァァァッと降り出した雨に突風。目が開けられなくなった。
白んだ世界に、まだ彼女がいる。
俺が良く知っている、彼女の姿に変わっていた。小動物みたいな顔立ちに、ポニーテール。セーラー服に赤いマフラー。花みたいな匂いは、先日と同じだった。あの時、気がつけば良かった。もっと話せたかもしれない。いや、そんなことは無かったのか? これは俺の願望で、白昼夢?
俺は手を伸ばした。
指が、掌が、腕が、彼女をすり抜けた。
「ずっと言いたかった。賢輔君、枕元に立っても全然なんだもの。お母さん達には届いたのに。この間の時の為だったのかな? 」
楽しそうな声も、かつて教室で聞いたものと同じに変わった。
「来れるの、お盆の時限定だから、こんなに時間がかかっちゃったのかな? いつもはね、寝てるみたいに意識がないんだよ。もうすぐ、生まれ変われるとか何とか。何になるんだろう? もうすぐって結構長いらしいから、賢輔君と入れ違いかな?」
屈託無い笑顔に、その懐かしさと愛おしさに俺の視界は滲んだ。もし、会えたら。数え切れない程そう考えたのに、何にも言葉が出てこない。
「沢山笑って、元気に長生きしてね。ずっと覚えていてくれそうだもの。ありがとう」
花が咲いたような彼女の笑顔に、胸が締め付けられて、俺もう一度手を伸ばした。しかし、触れられないどころか、もう誰も居なかった。
忽然と消えた彼女と残された俺。激しい雨が次第に止み、夢だというようにサアッと晴れた。
俺の体も服も乾いている。周りを見渡すと、どこもかしこも濡れていなかった。
頬に涙が伝う。
ふわりと甘い匂いが鼻先をくすぐった。
☀︎☀︎☀︎
非現実的な墓参りの後、俺は飲み屋でビールを飲みながら彼女の思い出に浸った。昼間っから飲むのは珍しいと、店長に言われたが、珍しいも何も人生で初めて。
「足を滑らした……か……」
あの夜、彼女からの電話に出ていたら、何かが変わっていた。そう思う度に苦しかった。もしも会えたら、謝ろうと思っていたのに、何も言えなかった。謝罪は必要ではなくて、むしろ感謝されるだなんて、そんなこと思いつきもしなかった。体育祭のリレーで、盛大に転んだ彼女を思い出した。たまたま帰りが一緒になって、電柱にぶつかったのも見た。確かに彼女は抜けていて、危なげだった。
俺はしらすの
いつもいつも、後悔ばかりだ。
「ほお、スッキリしたようだねえ」
俺の目の前に、店長の祖母千代さん、が卵焼きが乗った皿を置いた。
「あの、これ……」
「ババの御守りは効くだろう? 何かまとわりついていたがもう居ないね。先生、鈍感なようだし心配なさそうだけど一応と思ってな。この辺りの土地は、悪さしないのものまで悪くするんだ。また働けるのも先生のお陰だから、特別だよ。もう元気だから、次の診察で最後にしてくれよ。孫にも絶対秘密だからな」
ふふふっと皺を深くして笑う千代さん。入院したのに、旅行と偽った嘘つきお婆さん。命に別状がなさそうだったので黙っておいたが、今度千代さんを説得しようと思った。家族が知らないでいるのは良くない。俺のように後悔して欲しくないし、加担するのも嫌だ。ぼんやり働いていたんだなと思い至り、情けなかった。
でも、俺は気がついた。
胸を張って、笑い返す。千代さんが目を丸めてから、歯を見せて笑った。
「そのくらい笑うと、より良い男だねえ」
「根暗って良く言われます。でも、少しずつ変わりたいです。経過観察が必要だから、まだまだ通ってもらいますよ。ありがとうございます」
俺は少し大きめの声を出した。
——がもういない……
——先約がもういない
耳元で掠れた声がして、ゾワゾワした。寒気もする。
千代さんにポンポンポンと肩を叩かれる。急に体が温かくなった。
「まあだ、いるようだ。何かちょっと違う気もするな。先生、病院勤めだから仕方ないのかもねえ。まあ、先生は鈍いから大丈夫だ。今もケロッとしてるしな」
大丈夫、大丈夫と言いながら千代さんは厨房に戻っていった。俺は椅子から落ちそうになった。千代さんの霊能者っぷりもだが、それより何より「先約」に驚いた。
「お盆時限定って嘘か。嘘つきめ……。ストーカーはお互い様ってことか。やっと、成仏したってことだよな? 霊感があったら楽しい同棲生活だったな。何て、俺はアホか。生まれ変わったら、何になるのかな? か。彼女なら、何でも楽しむだろうな」
俺は独り言を呟いて、卵焼きを口に放り込んだ。だし巻き卵の汁が口一杯に広がる。教室で、友人達と弁当の具材を交換して笑う彼女を思い出す。甘いのも、しょっぱいのも好き。そんな話をしていた。
悩んでいるなんて素ぶりを友人達に一度だって出さなかった彼女。泣き顔も見てみたかった。そうしたら、きっと抱き締め……ヘタレな俺は今日みたいに何も言えずに、手を伸ばすくらいしか出来なかっただろう。自嘲が込み上げる。
俺にずっとまとわりついていたらしいのに、先約だったのに、結局俺の背中を押してくれた彼女。最後の言葉の優しい響き。俺を連れていったら、彼女にとって良くなかっただろう。千代さんの御守りの効果だろうか?
俺はもう二杯、ビールを注文した。
一つを向かい側において、乾杯というようにジョッキ同士を軽くぶつけた。前に進むという宣言にして、もっと変わっていこうという決意。
「ずっと好きでした」
初めて口にした、小声の告白。
口にしたら、終わってしまう気がして胸にしまっていた。
次こそ相手に向かって口にしようと、俺はビールを呷った。
二杯飲み干すと、俺は会計を済ませて店を出た。斜め向かいのパン屋に向かって歩き出す。デート先は何処が良いだろう? どう切り出すか。
俺は軽やかな足取りで進んだ。
白雨が降ったら会えますか あやぺん @crowdear32
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