一晩戻らなかったことを、旅館の女将さんはとても心配してくれていた。理由をどう話すべきか迷ったが、正直に話そうと思った継に、女将さんは笑って「次からはちゃんと連絡してね」と額を小突いてきた。本当に、この町の人達は温かく、優しさに溢れている。悠禅町は不思議な場所だ。


 この町には特別、妖や精霊様、神様が多く住んでいる。来る者を拒まず受け入れる。それが神様であろうと、精霊様であろうと、妖であろうと関係ない。どこにでもいて、皆が気付いていないだけで、《見える子》にはちゃんと見えている。共存することができている。

 人生とは物語であり、物語を彩る全てのものは、言葉と同じく意味を成している。だとしたら、意味を成しているとすれば、この長年に渡って抱き続けている恋心も、片想いも、再会することのできないこのもどかしい時間も、何かしらの意味を持っているということになる。そうなると、あの少女と再会できない理由が、会ってはならない事情があるのかもしれない。それを、継は今まで考えようとはしてこなかった。

 ほとんどのお客は祭に向かい、旅館には女将さんや厨房の人達ぐらいしかいない。おかげで自由気まま、継はゆっくりと思い出の大木の傍までやって来た。

 持ってきた蚊取り線香を足元に置いて、撫でるような風が枝を揺らし、葉が数枚、ひらりひらりと舞い落ちる。クスノキの枝木、その中の一本に、雨風に晒されて傷んだ紙が結われてある。継が初めてあの少女と出会った夏の終わりに結びつけた、手紙だ。源爺から聞いたことのある伝説を真似してみたが、当然返事が来ることはなかった――だが。

「ない……」

 旅館に来てから確認したはずの結わった手紙が、枝木から姿を消していた。慌てて地面を探すが見当たらない。

「しょうがないか……もう七年も経つんだ」

 七年。それが長いのか短いのかはわからないが、こうしてこの町に今年もやって来た。探しに来た。だが、それを継は辞めようと考えていた。あの犬の妖と出会って、そう決めた。

「……僕はずっと、自分の片想いばかりで、ちゃんと考えてこなかった」

 人と妖。精霊様や神様と同じく、人と異なる存在。そっと大木に――クスノキに手を添えて、優しく小声で語り掛ける。

「僕は君が妖であることを知っている。もう随分前に、出会った時から、知っていた。源爺から話を聞いたときに確信した」

 この町の樹木は、ほとんどがクスノキ。そのすべてが――彼女自身だ。悠禅町のあちらこちらに、彼女はいる。だが、姿を見せてくれることは、なかった。

「今日、助けてくれたのも君だよね。矢を僕に渡してくれたのも、君だ。この町に根を張る樹木に宿った妖――君の名を僕は知っている……僕は間違っていたんだ。気持ちだけでも伝えたい一心で今まできたけれど、伝えたい相手である君は、妖だ。価値観も違う。人生の長さも違う。見えている世界も違う。それなのに、僕は無神経に君を探し続けてしまった」

 人と妖は、本来交わることのない存在。関わることのない存在。

「本当はきっぱり否定したいけれど、それはできないんだとわかった。人が妖に恋をするのは、無謀なことだったんだ。叶わない恋だったんだ」

 いくら気持ちが強くても、壁は越えられない。一人では越えられない。だが、それでも継は笑顔で囁くようにして言った。

「でも、僕は後悔なんてしていない。これからも後悔はしない。僕は君に出会ったあの日から、君に恋をした。恋に溺れた。例え君が人間でも、妖でも、精霊様や神様であっても」

 一呼吸置いて、思いを乗せる。


「僕は変わらず――あの日の君に恋をした」


 あの日から何も変わっていない。恋文は消えてなくなってしまったが、ちゃんと気持ちを、思いを、言葉にして言うことができた。

 聞こえているだろうか。

 聞いてくれているだろうか。

 届いて、いるだろうか。

 添えていた手に力を込めて見上げる。しっかりと根を張った大きなクスノキ。台風が直撃しようとも木枝の一本も折れないほどに頑丈だ。

「こんな高い木だっけ」

 小さい頃はそういうことを気にせずに登っていたのだなあ、と昔の無邪気さがどれだけ無頓着なものだったか、継は苦笑いを浮かべつつもゆっくりとクスノキを登り始めた。一年登らなかったせいだろうか、中々思いどおりに登ることができずに苦戦する。するすると登っていた記憶があるのに、今はずるずると落ちそうになりながら、少しずつ、少しずつしか登ることしかできない。あの犬の妖にしがみ付いていた時のことを思い出しながら、力いっぱい登っていく。額に汗が滲み、登りながらこの三日間を思い返す。慌しい三日間、考えた三日間、新しい出会いの三日間、変わらず想った三日間――刻んできた時間。

 太い枝に足を掛けて一気に高い場所にある枝を掴む。

「くっ……!」

 集中力を乱してしまったのか、継の足が枝から滑り落ちる。寸でのところでもう片足で踏ん張って落下は免れた。下を覗き見て、結構な高さに少しだけ身震いする。舞い落ちる葉は悠然と地面に着地する。夏休みの初めから病院生活など堪ったものではない。この夏休みも、冬休みも、来年の春休みも――これからもずっと、この町で。

 踏ん張ってもう片足で身体を持ち上げる。それでも、継の身体はなかなか持ち上がらない。

「あ」

 見上げた先に――花火が打ち上がった。青やら赤やら緑やら、様々な色で夜空はいっぱいになっていく。八時ちょうど、本当は枝に座ってゆっくりと眺めるはずだった花火を、こんな体勢で見ることになるとは。しかし、それにしても、やはり、今年の花火もまたとても美しく――その花火が欠けていることに気付いた瞬間、継は胸の中がとてつもなく熱くなった気がした。

 欠けた花火。

 その欠けたところに見えた人影は、そっと手を差し伸べる。その手に向かって、継はどこからともなく湧いて出てきた力で、強引に手を伸ばした。掴んだ手をしっかりと握り締め、継は全身全霊、思いを込めて、一気に身体を持ち上げる。木枝にしっかりと足を乗せ、継は静かに心の中で声を漏らした。

(やっと、会えた)

 目の前にいる少女は幻などではない。それを、この手の温もりが証明してくれている。しっかりと握り締め、継は七年間の思いを胸に、初めての言葉を交わす。

「僕は青桐継、あなたのことを、ずっと探していました」

 打ち上がる花火は、二人の距離を幻想的に彩る。そして、少女は――文は、困ったように、しかしどこか嬉しそうに、継の手を握り締めた。

「私の名前は文、あなたのことが、ずっと好きでした」

 その言葉に、継は優しく微笑む。

「僕も、あなたのことが、ずっと好きでした」


 花火が上がる。

 儚く散ろうとも心に残る、とても綺麗な花火だった。


 ◇


 春は桜、芽吹く新しい命と共に、新たな一歩を歩み出す季節。

 夏は花火、夜空を彩る星空と共に、新しい世界と出会う季節。

 秋は紅葉、枯れ、実り、彩り、夜長と共に思いを馳せる季節。

 冬は雪、深々と降り積もる粉雪と共に、人肌恋しくなる季節。


 どれも美しく、ときに儚く、ときに素敵で――巡る季節は町に命を吹き込み、巡る物語に色を落としていく。


 とある青年は少し不安げな面持ちで電話を耳元に当て、一言二言しゃべり、しばらくして目元を手で覆い「ごめんなさい」と「ありがとう」と涙ながらに微笑んでいる。手には風鈴を、夜空に咲く大輪を眺めながら言葉を送り――右手首の白いひもは小さく揺れ、風鈴の音色は花火に掻き消されることなく、青年の心に響いていた。


 とある少女は時折何かを思い出すようにして笑みをこぼし、時折寂しげな顔をし、隣の神様にちょっかいを出す。神様はそんな少女の優しさに酔いながら、再会を待ちわびるようにして酒を口に運び、終わりゆく花火を目に焼き付ける。


 とある妖の少女は、逃げてきた時を悔やみながら、しかし隣の少年はそれを咎めることも責めることもせず、ただただ、一緒に居るこのひと時を幸せそうに生きている。その少年の手を握り締め、零距離の初恋。

 かつて二人で見た時と同じように。花火の思い出を、今に重ねて頬を染めた。



 それぞれの違う爾後じごの形、物語は歩む道の先に。

 しまいに歩む、その道半みちなかば。

 道草の物語。


 今宵の花火が終わる。

 夜空に、最後の花が咲いた。




『道草物語 ~夏の陣~ 』了

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道草物語 黛惣介 @mayuzumi__sousuke

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