◇
賑やかな声が飛び交う。うねる高波にさらわれそうな騒がしさに眩暈が起こりそうになるが、今の伊織は、聞き流すことができる。行き交う人を避けながら走り、周囲に隈なく目を向ける。辺りはいっそう暗くなり始めていた。提灯の明かりが穏やかに伊織を照らす。遠くに土産物屋のおばあさんもいる。食べ物をくれたおじさん達もいる。幸せそうに笑いながら、楽しそうにお酒を飲んでいる――良かった、と伊織は息を切らしながら背を向ける。
騒がしいと思っていた雑音に祭の音が混じり、心地良いBGMのようにも聞こえ始める。夏の風物詩が溢れかえって煌めいている。うっすらと夕空には星たちが顔を覗かせた。もうじき打ち上がる、夏の夜の大輪を待ちわびているかのように瞬き始める。
あの時、自分には関係ないと思って逃げ出そうとした。だが、そうしなかったのは、自分を受け入れてくれたこの町の人達――この町を守りたいと思ったからだ。大切だと思ったからだ。
――俺はもう、逃げないから
大切なものを傷付けた自分に、チャンスをもらえるのであれば。
――もう二度と、逃げ出さない
体力の限界、走り過ぎて疲れ切った伊織は、人混みから抜け出して、人気の少ない路地へと向かう。壁にもたれかかり、自分の過ちを後悔しながら拳を握りしめる――その拳に、温もりを感じる。固く握られた拳が、少しずつ、少しずつ、心を落ち着かせるかのように解かれていく。
懐かしい温もりのようにも思えた。両手を、左右の祖母と祖父に握ってもらい、たくさんの道を歩いてきた。その道々の記憶が蘇り、涙腺は唐突に緩んだ。温かい。懐かしい、温もり。
伊織は、静かに泣いた。誰にも気付かれないように、そっと、泣いた。
少女は、伊織の手をそっと握り締めていた。少女と目が合い、少女は変わらぬ笑顔を伊織に向ける。無垢で、無邪気なその笑顔は、伊織の心をも和らげる。
「悪かった……手、離しちまって……逃げてしまって」
ニコッと少女は笑う。涙を拭った伊織は、少女の手を握り返した。
「花火、見に行こう」
少女は、何度も頷いた。薄らと頬を染めるほどに興奮している様子に伊織はつい笑ってしまう。伊織はそれほど子供が好きというわけではない。ただ、放っておけない。おそらく、昔の自分を思い出してしまうからだ。両親がいないことで小さい頃は友達に話のネタにされてはからかわれていた。辛い記憶だ。今となっては過去の話だが、心のどこかで伊織は引きずっているのだ。少女のその笑みに、伊織はどうしても心を許してしまう。少女が精霊様であろうとなかろうと――優しくありたい。
伊織は人混みを見る。鬱陶しいと思っていた雑踏は、様々な人の幸せで満ちていた。笑顔、そして楽しげな会話、温かい雰囲気に、逃げていた自分が馬鹿馬鹿しくも思えてくる。
少女が口を動かす。何を言っているのかはわからない。まったく、聞こえない。だが、伊織は少しだけだが、少女の声が聞こえてきたような気がしていた。言葉は耳に届かない。声も届かない。だが、少女の目を見ていると、伝わってくるものがあった。
「わかった、花火の前に好きなもの買ってやるよ」
頷いた少女の手を握り返し、伊織は人混みへと足を向けた。心も、身体も軽い。
少女はリンゴ飴を見つけて伊織の手を引いた。引かれるがまま、露店の前に着いた伊織は、リンゴ飴を二つ買うことにした。
一度土産物屋に戻り、伊織はビニール袋を右手に、左手に少女の手を握る。継に教えてもらった高台へ向かう。もうじき花火が打ち上がる時間だ。照らしてくれる照明はどこにもないが、夜空に浮かぶ星空は、優しく二人の足元を照らしてくれていた。
高台はすべて砂利で埋め尽くされていて、柵の近くには木製のベンチがいくつか設置されていた。持っていたハンカチをベンチに広げて、もうすぐリンゴ飴を食べ終える少女を座らせて、伊織も座る。ちょこんと座った少女は、今更ではあるが本当に小さい女の子だった。まるで最初に出会ったときと同じように座り、伊織は改めて今日のことを思い返していた。
「……あのさ」
静かに口を開いた伊織に、少女の視線が向いた。少しだけ戸惑った伊織だが、少女の笑顔に心が穏やかになっていく。
「この町に来る前、俺は……ばあちゃんとじいちゃんのことを疎ましいって思っていたんだ。何かをすればいちいち何か言ってくるし、何かしようとすればいちいち何か言ってくるし……うるさいなって思いながらずっと聞き流してきた」
少女は脚を揺らす。
「でも、それって、俺のことを考えてくれていたんだよな。親がいないから、その代わりになって、必死に、俺のことを、見てきてくれた……俺は、最低なことをしたんだ」
歯噛みし、伊織は俯く。目頭が熱くなって思わず手で両目を覆った。
「二人の優しさを、踏み躙ってしまった。二人の言葉に耳を貸さずに、耳を塞いで、聞かないように、逃げてしまった…………ずっと考えていて、ようやくわかった」
みっともない、と思いながらも、伊織は泣き顔を少女に見せて訊ねる。
「お前の声が聞こえないのは、俺が何も聞きたくないと思ったから、願ったから、だろ?」
少女は何も答えない。ただただ、そのあどけない笑みを伊織に向けているだけ。
「ばあちゃんとじいちゃんの声、どうしても思い出せないんだ」
胸が苦しくなる。顔は浮かぶ。しかし、伊織には声が思い出せなくなっていた。鬱陶しいと、口うるさいと思ってしまった声を、今、伊織は思い出せずにいる。
「これは、罰なんだよな? 二人の気持ちを踏み躙った、罰なんだよな?」
少女は何も言わない。口を開いても、何も聞こえない。と、伊織の涙は緩やかに止まった。少女の手は、伊織の手を強く握り締めてくる。温もりが、優しさが、痛いほど伝わってくる。
「……だから」
声を絞り出すようにして、伊織は言う。
「帰るよ、俺」
少女は、笑う。
伊織もつられて、笑った。
「ばあちゃんと、じいちゃんのところに、帰る。許してもらえるかどうかはわからないけれど、でも、このまま二人の下を離れるのは身勝手すぎる。今更だよな。でも、ようやくわかった。この町の人達と触れ合って、わかった。俺は……ばあちゃんとじいちゃんが、二人が、大好きだ」涙を袖で拭った伊織は、力強く言う。「帰って、謝る。許してもらえなくても、ちゃんと謝る。もし、許してもらえるのなら……これからも、ずっと一緒に居たい」
いつか一緒には居られなくなる。しかし
「大事な時間を、取り戻したい。だから」
伊織は目を見開く。
森の奥から吹き抜けた風は、懐かしい、風鈴の音色を伊織に届けた。
もう、大丈夫だね?
少女の透き通った声は確かに伊織の耳に届き、ゆっくりと、風が過ぎ去ると共に――少女は静かにその姿を消した。ハンカチだけが残った隣の席。見つめる先にいない少女に向けて、伊織は精いっぱいの、笑顔を浮かべた。
「もう…………大丈夫だよ」
手に残った温もりは、消えない。少女の笑みは、伊織の中に確かに残っていて、少女の言葉に、伊織は止まっていた涙をぼろぼろとこぼし始めた。
あの少女はもういない。いや、そうじゃないと伊織は歯を食いしばりながら泣いた。神様は、精霊様は、どこにでもいるのだ。この夜空にも、この森にも、木々にも、風にも、砂利にも、草花にも――どこにでもいる、そんな存在。少女が宿るのは一体何なのか、伊織は傍らに置いていた、ビニール袋に入れてきた小さな箱から、風鈴を取り出した。麻でできた紐を抓んで、夜空を透かして見てみる。そよ風で垂れた短冊が揺れる。ああ、と伊織は涙で滲んだ目でその風鈴を見つめた。少女の姿を思い出し、溢れる涙は徐々に緩やかになっていく。
「……もう割らない。大事にする」
腕に揺れる縁輪を見て、伊織はそっと瞼を閉じる。
「ばあちゃんとじいちゃんにも、買っていくか」
もうじき花火が打ち上がる。この町を壊すのではなく、彩る花火が打ち上がる。伊織は涙を拭い「笑え、俺」と自分に言い聞かせる。
「来年からは、毎年この町に来るよ。ばあちゃんとじいちゃん、二人を連れて、この町に」
優しい、懐かしい音色が風邪に乗って飛んでいく。
賑わう声も、森のざわめきも、どれも美しく、心に残る音で。
しかし、それぞれが混同することなく、静かに、緩やかに。
喧嘩することなく、伊織の心に沁み渡っていく。
「もう、逃げないよ」
どこかで少女が『うん』と言った。
伊織には確かに、そう聞こえた。
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