駆けて行った先の、いつもの石垣。その近くに生える木の横に佇む人影を見て、柚季はゆっくりと走る速度を緩めていく。じっと遠くを見つめるその姿は、儚さが溢れ返りそうなくらいに切ないものだった。

「継、旅館に戻っていると思うよ」柚季は声をかけ、少し迷ってから言葉を紡ぐ。「継に会いたくないの?」

「……もう、私が何者なのか、わかっているのね」

 ――緑色の瞳が、暗闇の中でぼうっと光る。その瞳の美しさは、天積之神に似ている。綺麗、とこぼし、柚季は瞳を潤ませる。継や伊織に手を貸してくれたのは天積之神だけではない。継が心当たりのあるという『木』、柚季はそれを聞いた瞬間、柚季はすぐに文を思い浮かべた。木々に宿る妖――継はすべてを知っている上で、文を探している。

「継は……あなたのことをずっと探している。気付いているよ、ちゃんと。継も、あなたが妖だって気付いている。あなたが人間ではないこと、ちゃんと気付いている。それでも継は

 この町でずっとあなたを探しているよ」

「私は……継の気持ちを知っている。確かに知っている。それに、自分自身の気持ちにも気付いている。でも、私は人間ではない。妖だ。この町に根を張る樹木に宿った妖だ。言うなれば、木そのもの。人間ではない。私は妖、継は人間だ。一緒になんか、なれやしない」

 妖。

 人間。

「――好きになってくれた。すごく嬉しかった。手紙も貰って、すごく嬉しかった。私のような妖に恋など存在しない。そう思っていたのに、あの子は私に恋をしてくれた。私も……あの子に恋をしてしまった」

 震える声に、柚季は胸を締め付けられる。

「好きになってしまった。でも、私は人間ではない。この地に根を張る樹木に宿った妖。これは、叶わない恋だ。人間は、妖とは一緒になれない。なってはいけない。絶対に、あの子は後悔する。遅くはない。今からでも間に合う。私をすっぱりと諦めて、探すのをやめて、新しい恋を見つけるべきだ――なのに、私は、あの子に、伝えられないでいるんだ」

 文の瞳から、流れ星のように涙が落ちていく。暗がりでもわかるその妖の涙も、人と同じだ。見ているだけで、胸が痛む。何も違わない、と柚季は無意識に顔を左右に振る。

「好きなら、好きでいいんだよ」

 文はじっと夜空を眺めたあと、目線を下げ、柚季に顔を向ける。

「妖が人間と愛し合うことを誰が禁じたの? もしもその誰か、というのが目の前にいたとしたら、私は二、三十発殴ってあげるよ。でも」一呼吸置いて、柚季は言う。「そんな奴、この世にはいないんだよ。決め付けようとしているのは、文、あなた自身。好きなら、好きでいいのよ。好きになっちゃったのなら、それでいいの」

「でも」

「あなたが生まれた時の話は聞いた。だから、あなたが怯えるのもわかる。躊躇するのもわかる。それに妖や精霊様、神様は人間と違って老いることはないだろうし、きっと、そういうところもあなたは気にしているはず。人間の脆さを知っているから、あなたは継のことを考えているから、身を隠してきた。違う?」

「……だって、そうじゃない? 辛いだけじゃない?」

「それを、あなたは継に確かめた?」

 文の表情が変わり、大きな瞳がきらりと煌めいた。

「中途半端な気持ちだったら、あなたが妖だって知っていながら七年も探し続けたりなんかしない。全部知っていて、受け入れられる覚悟を決めているから、継はあなたを探している。文にとって、これは初恋?」

 はい、と文は恥ずかしそうに言う。その初心な感じが可愛らしく、とてもじゃないが妖だとは思えないほどのもので。甘酸っぱさに、思わず柚季は駆け寄り、文の両手を握り締める。

「あのね、初恋っていうのは人生に一度しかないの。それは人だけじゃないんだよ。大事にしなきゃ駄目。大切なのは、ここ」

 握った両手を、ゆっくり文の胸元へ持っていく。

「私みたいに手遅れになったら、絶対に、ぜーったいに! 後悔するから!」

 頑張れ! と柚季はそっと文の手を離す。そしてすっかり慣れた草むらに飛び込んだ。

 石の階段を駆け上がり、何故かこぼれ落ちた涙を、柚季は笑顔を浮かべて腕で拭った。

「私も頑張れ!」

 自分を励ましながら、鳥居を潜る。本殿は僅かながら天積之神が力を取り戻した影響で小さくともその姿を形あるものへと復活していた。その本殿の階段に座り、目を瞑った天積之神が微笑する。

「一人で笑っちゃって、気持ち悪いよ」

 柚季の言葉に黙り込んでいた天積之神は、そっと瞼を上げて苦笑する。柚季も階段に座り、前方に打ち上がる予定の花火を待つ。

「少しだけ、背中を押してあげただけだよ」

 酒瓶を傍らに置き、天積之神は柚季に訊ねてくる。

「いいのか、お嬢ちゃん。こんな寂れたところじゃなくて、もっと賑やかなところで花火を見ればいいのによ。まあ、ここからの花火も綺麗と言えば綺麗だが……露店もないこんな場所じゃあつまらんだろう。何より、俺なんかと一緒にいたって面白おかしい話なんてできやしねえぞ?」

「そうね、すごくここは寂れていて、賑やかじゃないし、露店もないから何も買えないし、おじさんの話はちょっと難しいから面白くないもんね」

「お嬢ちゃんは酷く正直者だな」

 それでも、と柚季は天積之神に微笑み掛けた。

「寂しがり屋の神様のために、今日ぐらいは一緒に居てあげたいの」

 膝を抱えて、少しだけ顔を逸らす。そっぽを向いたわけではなく、ただ、少々恥ずかしいことを言ってしまったような気がしたからだ。

 何だかんだ言っておきながら、詰まる所、柚季自身も寂しいのだ。町に行けば友達にも会える。そこには、もしかしたらあの二人もいるかもしれない。しかし、それが一番の大きな理由ではない。ただ、今日の花火は特別、この神様と見たいと柚季は思ったのだ。

「今まで妖だとか神様だとか、そういうものを見たことなかったのに、どうして見ることができるようになったのかな?」

「《見える子》には色々あるが、ほとんどが先祖代々の体質だったりするんだろうな。あとは思いの強さだったり、俺達側から特別視されていたり……でもまあ、稀だよ。この悠禅町に限らず稀な存在だ」

 稀な存在。

 だったら、と柚季は口を尖らせて言う。

「……これからは、私、ここに来るよ」

「おいおい、毎日はやめろ」

「毎日なんて言ってないよ、おじさん」

「あのさ、おじさんっていうのやめない?」

 くすくすと笑って「だって天積之神って名前、略せないし、変に長いんだもの」と天積之神の肩を軽く叩いた。

「毎日は無理よ。私にもやりたいことがまだたくさんあるし、学校だってあるし、友達との約束だってあるもの」

「そりゃあな。それが正しいと……うん、おじさんもそう思うよ」天積之神は酒をあおって静かに息を吐き出した。「足しげく毎日願い事をしに来ていた人もいたが、その人はけして自分でどうにかしようとはしていなかった。何度も願ったところで、根本的なことが変わらない限り、現状は何も変わらない。災厄を背負ってあげられても、人生を背負ってあげることはできないからね。足を運んだ回数じゃない。どれだけ努力したか、どれだけ尽力したかどうか――お嬢ちゃんは、神様に今、何を願いたい?」

「叶えてくれるの?」

「訊いてみただけさ」

 ちぇっ、とわざとらしく拗ねたあと、柚季は願い事を呟いた。

「……今の自分を、忘れませんように、かな?」

 感じた胸の痛みを、心苦しさを、悲痛さを、強烈な辛さを――感じた温もりを、優しさを、喜びを、幸せを。今の甘原柚季のすべてを、ずっと忘れないようにしたい。誰かのためになるかもしれないから、と。

「毎日来ないと寂しいっていうのなら、来てあげなくもないけれど」

「じゃあ毎日来て賽銭箱にだな」

「私のお小遣いを搾取するつもり?」

 からころ笑って柚季は階段に立った。

「継と向坂さんと三人で明日倉庫を直しに行くの。初めて他所の人と仲良くなったの」

「そりゃあ良かったな。恋じゃなくとも、人はちゃんと心を通わせることができる。お嬢ちゃんの次なる恋を願って、千日参りで毎日のようにお参りに来てもいいんだぞ?」

「……どうしても毎日来てほしいみたい。そんなに寂しい?」

「馬鹿野郎。寂しいのは懐だ」

「懐が温まる日が来るように願ってあげようか?」

 冗談交じりの会話に、柚季は笑顔を浮かべる。楽しい、と柚季は思っていた。もちろんこの夏は恋色に染めようと思っていた。だが、恋は見事に破れた。それでも、こうして笑っていられる。

 大丈夫だよ、と心の中で柚季は文に語りかける。人と妖は、ちゃんと通じ合える。結ばれてはならないなんてことはない、ようは心なのだ。恐がる必要もない。何せ、相手は七年間もずっと、心から思いを馳せてきた。妖であることを、彼はもう気付いているはず。それでもちゃんとここに来ている。大丈夫、あなたは心から愛されているから――携帯の時計で時間を確認し、もうじき花火が打ち上がると天積之神に伝える。

「この花火を俺はここ何百年と見てきたが、今の代が一番だな。実に立派な花火だ。やはり腕のいい花火職人なのだろう」

「ああ、それうちのじいちゃんのことだよ」

 その言葉に天積之神はぽかんとしていた。

「今年で花火師やめるんだって。腰とか目とかが悪くなったから。それなのに今回はあの化物に邪魔されて、大変だったわ。あ、来年の花火はお弟子さんが引き継ぐのよ。大丈夫、おじいちゃんの技術はちゃんと受け継がれているから」

「そうなのか……少し残念な気もするが、だとしたら、ちゃんと見ねばならん。鳥居のところまで行こうか、お嬢ちゃん」

 階段を下りて行く天積之神に言われて付いて行った柚季は何気なく振り返った。小さな本殿が天積之神の力を示すものだとすれば、あの大きな鳥居に対を成すほどの大きさだったはず。今からそれだけの大きさにすることはできないかもしれない。しかし、今の神様には自分がいて、継もいる。少しでも力になってあげられたら。

「何してんだ?」

「ううん、今行く」

 そんな願いを、この神様にしても意味はない。これは、願うことではない。自分が動かなければ、実行しなければ、何も意味はない。願っているだけでは、願い事は叶わない。

 もう、それは充分にわかっていることだ。

 鳥居に二人並んで立っていると、天積之神がおもむろに「お嬢ちゃん」と言って笑い、柚季の頭を撫でた。そして不意に、神様は言う。

 はっきりと聞こえる、優しい声だった。


「ありがとう」


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