全身を包む青い炎は、覚えのある温かさだった。まるで、あの神様のような、温かさ。そして、この風鈴の音色が徐々に激しく脈打っていた心臓を、鎮めていく。気付けば、左足の痛みも消えている。ああ、あの少女だ、と継はゆっくりと立ち上がる。再び、いくつもの石が転がり落ちてくるが、すべて自分の身体を通り抜けて、後ろへと転がり落ちていく。犬の妖が斜面を駆け下り、走ってくる。継は急いで弓矢を探し、どうにか弓を見付けて駆け寄る。

「矢が……!」

 弓は無事だが、肝心の矢が折れている。いくら無敵のような状態であっても、打つ手が無ければ意味がない。以前状況は不利――と。

「!?」

 反射的に、頭上から落下して来たものを躱す。地面に突き刺さったそれを見て、継は思わず周囲に視線を向ける。だが、周りには伊織以外にいない。

「考えている場合じゃない」

 突き刺さったソレを――矢を手に取り、継は弓を構える。

「二度もまぐれが続くと思うなよ、人間!」と犬の妖は斜面をジグザグに走り回り始める。あざ笑うかのような動きに、狙いが定まらず焦りが出始める。弓を打ったことは一度だけあった。しかし、それは小さい頃の話で、ましてや誰かに向けて、動いている何かに向けて打ったことは当然ない。素人同然の弓矢を動いている相手に当てることはほぼ不可能だ。それでもやるしかない、とぎりぎりと弦を限界まで引いて音を立てる。

「外すなよ? 外すんじゃねえぞ? 外したら終わりだぞ?」

 焦らせる言葉に、継の手が緩みそうになる。ゲラゲラと笑う犬の妖を睨み、指先が震え出す。外せば次はない、外せば終わる。一瞬の迷いが致命傷になる。視界が揺らぎ、精神的な限界が――揺れ? と継は辺りに注意を向ける。地面が、揺れている。犬の妖のせい、そういうわけではなく、何かが地面の中で蠢いている――徐々に上へ、上へとやってくる。そして周囲の木々が騒めき始めると、地面が隆起し始める。継の足下ではなく、犬の妖が走り回る場所一帯から、埋まっていた木の根が姿を現し、まるでタコの触手のようにうねり出す

「何だ――っ!」

 一番驚いていたのは、紛れもなく犬の妖だった。うねり出した木の根が四肢に絡みつき始め、さらにめきめきと音を立てながら、周囲の木々が犬の妖を囲うように密集し始めた。まるで犬の妖の退路を断つかのような囲いに、さすがに動揺の色が見られた。

「誰だ! 誰が俺の邪魔をしている!」必死に木の根から抜け出そうとするが、犬の妖に容赦なく四肢を、身体全体をも絡みついて覆い始める。「何故、人間に手を貸す!」

 前足に絡みついていた木の根を引き千切り、大きく振りかぶる。巨大な斬撃を生み出す爪が、大きく弧を描く。木々が覆い、犬の妖の動きは止まり、囲われて逃げ出す場所は正面だけ。向き合う形になって、継はゆっくりと狙いを定める。

「犬の妖よ」

 放たれた斬撃は、やはり継の身体を通り抜け、静かに継は弓を引く。


「君は、ここに来るべきじゃなかった」


 叫ぶ犬の妖に向けて、継は冷静に矢を放つ。放出された矢が、真っ直ぐ飛んでいく。邪魔になる枝や草が自ら避けて道を譲る。矢が当たる直前、木々が瞬時に元の場所へと戻り、木の根も瞬時に離れていく――木々の間に、人影が見える。それは紛れもなく、懐かしく――忘れようもない姿だった。

 鋭い鏃の切っ先が犬の妖の胴体へ触れ、触れた箇所が一瞬にして爆散する。墨のような黒い液体が辺り一帯に散らばっていく。爆散後も形を留めていた下半身と上半身が、少しずつも黒い靄となって霧散していく。犬の妖の力が失われていく光景に、継は静かに佇む。中から現れた大玉花火がゆっくりと地面へと下りていき、その傍らに小さなものが落下する。

「……それが君の本当の姿なんだね」

 犬の妖が体内に隠してあった大玉花火は無傷。そして、その傍らに、威嚇するようなポーズを取る、小犬がいた。しかし、威嚇するにはあまりにも小さく、あれだけ鋭く威圧的だった牙も、八重歯に近い。覆っていた力を失った犬の妖は、唸り声は上げているものの、今にも逃げ出してしまいそうなほどに震えていた。

 周囲の木々が落ち着きを取り戻し、静寂が戻ってくる。遠くに見た人影はもうない。しばし黙り込んでいた継の身体がから、青い炎が消えていく。優しく微笑み、継は犬の妖を見下ろす。

「これが答えだよ、犬の妖……皆、力を貸してくれた。君が見下してきた人間を助けてくれた。この町が正しくないというのであれば、君もその正しい、本来の姿で訴えかけるといい。耳を傾けてくれるかは、保証できないけれど……もう二度と、こういう行動には出ないほうがいい。君が思い描く理想郷は、ここにはないよ」

 言って、弓を地面に付き刺す。びくっと身体を震わせ、元狂犬、子犬の妖は、ばつが悪そうに、とんとん、と音を立てながら空を駆け上がり、遠く――夕焼けの向こう側へとその姿を消していく。

 足の痛みはなくなったが、これほどまでに心身ともに疲弊した経験はなかった。ほとんど体力を使い切り、継はその場に座り込む。「継はすごいな」と尻餅をついていた伊織が、親指を立てて見せてくる。頷いて返し、大きく息を吐く。そして転がる巨大な4尺玉を眺めながら、小さな声で「ありがとう」と、力を貸してくれた者達へとお礼の言葉を口にした。


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