何かが飛んできたのはわかった。それが何だったのかはすぐに理解することはできなかったが――犬の妖、継が掴まる背中の一部がえぐり取られていた。

「いや――こいつが身に纏っている力が削ぎ落されたんだ……!」

 致命傷とまではいかないが、犬の妖を止める手があるということ。遠くで「効いた!」と声がする。すぐにそれが伊織だとわかり、手に持っているのが弓矢であることに気付く。以前、悠禅町の奉納祭で見たことのある弓矢。悠禅町の守護する神々への奉納品。源爺が言っていた去年の弓矢だとしたら、妖に効果があってもおかしくはない。実際に犬の妖の力を削ぎ落したのだから、間違いない。

「伊織さん! あるだけ打ち込んで!」

「それが……矢は三本しか見当たらなくて……」

 奉納祭で使う程度の矢、たくさんあるほうが珍しい。しかし、今、その弓矢以外にこの犬の妖を止める手は――と、犬の妖の様子が一変する。黒い靄が、いっそう濃くなっていく。

「人間風情が……やってくれるわ」

 よだれをダラダラと垂らし始め、ぎらつき始めた眼球が伊織のいる方角へと向けられる。

「伊織さん! 一旦身を隠し――」

 言葉が――置き去りにされる。弓矢を構える伊織の姿が、一瞬にして継のすぐそばまでやって来る。否、そうではない。犬の妖が、一瞬にして伊織の目の前まで移動したのだ。

 一旦身を隠して体勢を整えて。そう言おうと思った瞬間の出来事。人間程度の動体視力で反応などできるはずもない。振りかぶった腕が、伊織を弾き飛ばす。後方――小屋の後ろにある崖へ伊織が吹き飛んでいく。

「あ――」

 握力の限界、どうにか掴んでいた犬の妖の背中から、手が離れる。宙を浮いた身体が、反転して真正面に犬の妖の顔が見える。怒りに満ち溢れた鋭い眼光に、ゆっくりと広がる口が、根元から大きな牙を見せる。斜面を転がり落ちた伊織が何かを叫んでいる。無事でよかった、そんなことを思いながら、どうやら自分の最期はこういう結末なのか――と緊張の糸が途切れる。あの子に会いたかった、もう一度会って、思いを伝えたかった。あの神様にも、もう一度会ってお礼が言いたかった。源爺の花火も見たかった。土産物屋のおばあにも、米屋の親父にも――家族にも、ちゃんと。

 ゆっくりと、走馬灯が流れる中、牙が向かってくる。伊織の叫び声も聞こえなくなってきて。

 犬の妖の牙は、容赦なく継の身体を――貫いた。

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