◆
「この町は、どうしてこんなに温かい人達ばかりなんだろう」
もうじき日が沈む。石垣に、少し距離を置いて座る伊織と柚季は、時間が経つのを忘れるように悠禅町を眺める。伊織の言葉に、柚季は考えるように一度見上げて、微笑みながら答えた。
「向坂さん、温かいのは人だけじゃないよ」
人だけじゃない。その意味を伊織はすぐに察した。現に、自分も見て来た。
「……とか言って、私も最近までそれほどこの町のことを考えたことはなかったんだ。でも、少しずつ考えるようになった」
「俺も同じようなものだ」膝を抱え込むようにして座り、伊織は遠くを眺める。「この前までは考えもしなかったことを、この町に来て、考えるようになった。どうしてもっと早くに気付けなかったんだろうって、後悔することばかりだ」
あの少女が連れて来てくれたこの町は、伊織にたくさんのことを気付かせてくれた。人の優しさも、温かさも、自分の愚かさも、過ちも。
「甘原さんは、人以外の存在と会ったことがあるんだね」
苦笑した柚季は、頬を掻いて頷いた。
「……笑わない?」
「笑えないよ。人とは違う――おばあさんが言うには、精霊様らしい。その精霊様が、この町に俺を連れて来てくれた」
「そっか……私は、災厄を背負ってくれるっていう神様と、人間の男の子に恋をしている文っていう妖と出会ったわ」
「神様に妖……そうだ、青桐継って高校生も、そういう存在が見えているのか」
継。彼も見える側の人間だ。あのナデシコの花を助けようとしていたのも、あそこにいた小さな生き物、妖のような存在のためだったのかもしれない。しかし、あの少女のことは見えていなかったようだった。だとしたら、妖の類だけを見ることができるのかもしれない。すべては推測だが、彼もまた、何かに導かれてこの町にやって来たのかもしれない。
「継……おじいちゃんが話していた子かな。ずっとこの町で初恋の相手を探しているって」
「初恋の相手をずっと?」
「七年、だったかな? ……でも、探しようがないよね」
何か言いたそうにしていたが、柚季は顔を左右に振って「何でもない」と言った。話の流れから、おおよそのことはわかる。きっと、継が探している初恋の相手は、人間ではない。そして、彼女が話していた『人間の男の子に恋をしている妖』が、繋がってくる。好きになった相手が人だから、もう会ってはいけないと思っているのか。
「心まではわからないか……そうだよな」
自分も、わからないでいる――あの少女は、精霊様はどこへ行ってしまったのか。伊織が、逃げた先でさらに逃げ出そうとして、愛想を尽かせてしまった、なんてこともある。何にしても、もう会えないように思えてならない伊織は、自分がしてきたことの後悔に押し潰されそうになる。自分も、継と一緒で、もう会うこともできないのかもしれない。
「私ね、昨日失恋したんだ。私の場合は恋した相手と会おうと思えば会える。でも、会おうと思っても会えない、そういう神様だとか、会いたくても会ってはいけないと思っている妖がいるってことを知ってさ……自分がどれだけ恵まれているのかが、わかった」苦しそうに胸元を抑えて、柚季は薄ら涙を浮かべる。「明日でいいとか、先送りにしてきちゃった。何でもっと早く、気付けなかったんだろうって……二人共、私なんかよりも、ずっと辛かったはずなのに」
水晶玉のように透き通った涙が、ぽろぽろと流れ落ちる。それを見て、伊織は静かに立ち上がった。
「俺はじいちゃんとばあちゃん、二人と喧嘩して、家を飛び出してきたんだ。でも、今になって思うんだ。あの二人が大好きだって、ちゃんと謝りたいって……この町に来て、そう思うようになった。俺もそうだ、もっと早くに気付けていれば、二人を傷付けずに済んだ」
――二人の声を失わずに済んだ。もう、頭の中を探しても見付からない、二人の声。そして、最後まで聞くことができなかった少女の、精霊様の声。ここに連れて来てくれたのは、伊織に気付かせるためだ。
「向坂さんは、乗り越えられたの……?」
「いや、まだだな……まだ、自分の中でちゃんと整理できていない」
「文も……例の妖も言ってくれた。心の整理をしなさいって。人が気付けていないことを教えてくれる……本当は都会にある学校に進学しようと思っていたんだけれど、考えが変わった。私、この町がやっぱり好き。田舎でも、ここにしかないものがあるから」
流れ落ちる涙を、何度も拭いながら、柚季は精一杯笑おうとしていた。彼女が出会った神様と妖は、どんな姿をしていたのだろうか。きっと、精霊様と同じように、心がほっとするような、そういう姿をしていて、心を優しくしてくれる力を持っている。継が探している妖も、そういう妖なのだろう。
人よりも、人をよく知っている。それは、長い歴史と人とが寄り添って生きてきた、変わらないこの町だからこそなのかもしれない。人と人外が共存する町。
「帰る前に花火は見ていってよ、向坂さん」柚季は鼻をすすって言う。「うちのおじいちゃんがずっと花火師として打ち上げてきたんだけれど、今年を最後に花火師辞めるの。最後の花火だから、よかったら」
「うん、そのつもり。花火が良く見える高台を継に教えてもらったんだ。そこに行こうかと」
「嬉しい。でも、最後の花火なのに……トリを飾る花火が消えちゃったらしいの」
「花火が消えた?」
「それを継って子も探してくれているらしいんだけれど――」
岩をどけてまでナデシコの花を助けようとした、あの優しい継なら、そういう事情があればきっと探しに行くだろうと伊織は思った。彼もこの町のことを好いている。それは少しの間だけ接しただけで分かる。この町の人達と同じ目をしていた。優しい目をしていて、同じ雰囲気をまとっていた。
「でも、花火の時間って、もう一時間もないんじゃないの?」
腕時計の盤面を柚季に見せて、柚季が「花火も男の子もどこに行っちゃったんだろ」と呟く――その時、山の奥から響いた地鳴りに、伊織と柚季は身体を震わせた。音のした方角、ぎらりと光る何かが揺れては消え、揺れては消える。木枝が弾かれて葉っぱが吹き飛ぶように散らばる。何かが――走ってきている。
「下がって、甘原さん!」
伊織が叫び、柚季は急いで石垣の傍にある木の陰へと逃げ込む。伊織は身構えて、山の奥を凝視する――動き方からして俊敏な獣。四本足で走っている。だが、ただの獣ではない。
「大きい……!」
草木を押し退けて走ってくるその姿は、まさしく化物だった。真っ黒な毛で覆われた巨体、大きな口からは鋭い白い歯が剥き出しになっている。周囲を払いのける手には、銀色に煌めく爪が、一瞬にして眼前の木々を薙ぎ払う――その姿が道路に出てくるや否や、この世のものとは思えない、おぞましい咆哮が襲い掛かってくる。
「――何なんだこいつ!?」
衝撃波でも飛ばしているかのような咆哮に耳を塞ぐ中、伊織は目の前の化物の背中に、誰かがしがみついているのを見付ける。それが青桐継だとわかった瞬間、目を丸くさせた。
「継!」と伊織が叫ぶ。すると、その声が届いたのか、継が顔をしかめながら、化物に負けない大声で叫ぶ。
「こいつ、花火を町の中心で爆発させる気だ!」
「町の中心で爆発……!?」
そんなことが起きれば、大参事どころではない。最悪の場合、爆発後に火事が起こる可能性だってある。海に面していても、これだけの山に囲まれているこの町に逃げ場はない――あのナデシコも、出会った人達も、柚季が出会ったという神様や妖も、あの精霊様も、巻き込まれてしまうかもしれない。
「くそうっ……!」
継が目をつむり、化物がさらに暴れ出し、伊織たちの前を凄まじい勢いで走り抜ける。巻き起こった風が伊織を吹き飛ばし、隠れていた柚季も必死に木にしがみ付く。ようやく風が静まり、身体を起こした伊織は、ぽっかり穴が空いたように拓けた山を見て、息を飲む。
継は――あの恐ろしい化物相手に、立ち向かっている。この町のために、ここに住まう者達のために。
「止めないと、大変なことになる……」
「あの化物が花火を爆発させる……それって、おじいちゃんとか、おばあちゃんとか、皆、巻き込まれるってことだよね!?」
顔を真っ青にさせた柚季が、今にも倒れてしまいそうなぐらいに過呼吸を起こし始める。この状況、すぐにでも町の皆に知らせなければならない――どうやって? と伊織は固まる。確かにこの悠禅町の町民は妖のことも、精霊様のことも、神様のことも信じている。信じていても、見たことはない。
「俺たちが何を言っても……逆にパニックを起こすだけになるんじゃないか……」
見えるだけで――何もできない。どうする、と伊織が頭を掻きむしる。すると、柚季が呼吸を乱しながらも何か呟いていることに気付く。精神的に追い詰められているのではないかと駆け寄る。
「甘原さん、大丈夫か?」
「そうだよ、皆が、危ない……あの子も、継もあのままだと死んじゃうかもしれない……そうなったら文は……? 駄目! できること、私にできること、あるかもしれない……!」
言って、柚季は突然走り出し、道路を突っ切ると、草むらを掻き分けて行く。追いかけようとした伊織は、しかし、ぴたりと動くのを止める。
継のような行動は、自分にはとれない。ましてや、打開策もない。柚季が何かをしようとしているのはわかる。だが、彼女が向かう先に、自分にできることはないということもわかる。所詮は余所者。勇気もなく、逃げて来た臆病者。
「……俺にできることなんてないんだ」
震える脚を動かし、目を逸らす。自分は余所者で、ただの観光客。出会った人達もただの他人だ。
「…………」
泊めてくれた土産物屋の店主も、あの青桐継という少年も、町を彩る妖も、祭りを盛り上げるために動き回る町民も、食べ物をくれて、優しく接してくれた人達も――あの精霊様も。
「他人……」
それでいいわけがない。
「……なんかじゃ、ない!」
振り向いて、震える脚に拳を叩き付ける。
「放っておけるか!」
叫び、伊織は化物が作った穴へと突っ込んで行く。
伊織は自分のことが憎たらしくてたまらなかった。あれだけたくさんの優しさを、温もりをくれたあの人達を、他人と位置付けて逃げ出そうとしてしまいそうになった自分が、憎くて憎くて、たまらない。
「もう、他人とか、そういうんじゃないんだ!」
今までに走ったことのないほどの速度で、山の中を駆け抜けていく。足がもつれそうになりながらも、呼吸をするのが辛くなりながらも、走る。あの町を、あの人達を見殺しになんてしない。殺させやしない、壊させやしない。
「見付けた……!」
歯を食いしばり、走りながら転がっていた石を拾い上げる。開けた場所で、さっきの化物が継を振り払おうと必死に身体を動かしていた。獰猛な獣、黒い靄が辺り一帯を覆っている。
その靄を払いのけ、伊織は手に持った石を思い切り化物に投げつける。
「継と花火を返せこの野郎!」
投擲し、石は化け物に命中する。しかし、効いている様子はまったくない。それでも伊織は手あたり次第、周囲にある石や木の枝を投げ続けた。これぐらいしかできない、この程度のことしか自分にはできない。悔しい思いを噛み殺しながら、投げ続ける。だが、化物の動きはいっそう激しくなり――油断する。
「かはっ――!」
化物の巨大な尾が突如弧を描き、木々をなぎ倒していく。その中に、伊織はいた。腹部に尾を思い切り叩きつけられ、一瞬だけ意識が飛んだ。軽々と吹き飛ばされた伊織の体は、近くにあった木造の倉庫にぶつかり、貫通する。砕け散った倉庫の壁に埋もれ、伊織は痛みに悶える。ただの人間にできることは限られている。それでも、立ち上がって、立ち向かわないといけない。その理由がちゃんとある。
「どうする……どうする」
柚季にも何か策があるのかもしれないが、それを待っていては、継が先に振り落とされてしまう。今は継がしがみついているせいであの化物も動揺している。チャンスはちゃんとある。だが、そのチャンスを活かす手段が。
「……これって」
小屋の中、貫通してできた穴から夕日差し込む。茜色が染め上げる砕けた木片の中に、他とは違う形状のものが混じっている。痛みを堪えながら木片をどけていくと、そこには弓矢が落ちていた。
「使えるか……?」
何にしても、石が効かなかった。飛び道具としては使えるが、効果はわからない。
「やってみるしかない」
弓道の経験はない。だが、今は経験云々ではない。やるかやらないか、自身の行動で決まる。今にも崩れ落ちそうな倉庫から出て、唸り声を上げながら尾を振り回す化物にできる限り近付く。弓を構えて、震える指先で矢を引く。
――当たれ、当たれ、当たれ、当たれ!
強く願いを込めて、伊織は思い切り引いていた矢を――放った。
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