◇
甘酸っぱくて、乾いていた喉は少しだが潤っていく。
「死ぬかと思ったけど……すごいな、生きてる」
ナデシコの妖からもらったナワシロイチゴを食べながら、自分が落ちて来た崖を見上げる。暗くてよく見えなかったが、朝を迎えてようやくはっきりと見ることができた。かなりの高さで、おそらく途中に生えている木がクッションの役割をして衝撃を和らげてくれたのだろうと、ひとまず自分が無事であることを確認する。しかし、無事であっても無傷ではない。怪我は回避できなかったようだった。左足が思うように動かせず、痛みがある。おそらく捻挫。骨折であれば、もっと痛みが響くはず。歩けないことはない。こうして明るくなって足元もしっかり見ることができる。危険もない。さすがに明るい状況で二度も崖から落ちることもない。
傍に落ちていた木枝を支えに、足元の悪い山の中を進んで行く。徐々に霧が出てきて、危険だと判断した継は一度立ち止まる。その時、微かに犬の妖が放っていた臭いが漂う。
「……こっちか?」
空気の流れから、継が落ちた崖から右手の方向だと継は歩を進める。朝露に濡れた苔が足を滑らせようとしてくる。蜘蛛の巣もあり、中々、思うように前に進むことができない。
「急いでいるのに……どうして、こうも悪化するよ」
悠禅町に来たのは、初恋の相手を探すため。それなのに、花火を二度も盗まれ、走り回ってこのざまだ。こればかりは自分の失態でもあり、誰も責められない。責めたくとも、相手もいない。深い、幻覚でも見てしまいそうなほどの霧に動きを止める。その時だった。霧の中、微かに見える巨大な黒い塊に、継は少しずつ近付いて行く。
「――お前か」
再び対峙する、巨大な犬の妖は、眠るように横たわっていた。昨夜ははっきりとその姿を確認することはできなかったが、こうして明るい時間帯に見ると、その巨体は継が思っていたよりも大きかった。ダンプカーに匹敵するその身体は、黒い毛で覆われ、鋭い牙と爪がただならぬ殺気を放っている。不気味な雰囲気を纏いながら、犬の妖は巨大な尾を揺らしながら鼻息を吐いた。
「《見える子》よ、俺の邪魔をするなら今すぐ殺してやってもいいんだぞ?」
「邪魔をするとか、そういう話じゃない。僕はただ、花火を返してほしいだけだ」
「……これがそんなに大事か?」
犬の妖、その身体を覆う黒い毛が逆立ち始め、横っ腹が少しだけ透け始める。透けた先にあったのは、紛れもない花火の大玉だった。
「それを返してくれ」
「そいつは無理な相談だ。この花火は今日、この町で大輪を咲かせる予定だからな」
その言葉が『返却する意思』でないことは明白だった。そして、その言葉はあきらかに何かを企てているものだ。嫌な予感しかない。
「何を、する気だい?」
恐る恐る、継は訊ねる。犬の妖は静かに大きなどす黒い瞳を継から逸らしていく。牙を剥き出しにして、おそらく笑っている。人間が浮かべるような、怪しげな笑顔のようだった。
「花火大会、そこには大勢の人間が集まるんだろう? 色んな会話を耳にして、俺は好機だと思った。この花火は、その中心で爆発させる」
爆発させる――あの祭の会場にはたくさんの人がいる。これからもっと増えて、町民だけじゃない、この悠禅町を訪れている観光客もたくさん集まってくる――この町にはたくさんの妖が、精霊様が、神様がいる。まだこっちに来て会えていないあの神様も、道沿いの石の神様も、ナデシコの妖も――あの人も。
唾を呑み込み、手を震わせる継は、冷や汗交じりに問いかける。
「……本気なのか? そんなことをしたら……!」
「ああ、大勢死ぬだろうな」
ニタッと笑い、犬の妖は喉の奥から笑い声を出した。巨大花火が祭の会場、その中心で爆発でもしたら――被害は甚大ではない。想像も付かない。そんなことを、この犬の妖は、間違いなく実行に移す。そういう目をしている。
「何故、この町に災厄をもたらす。お前はどこから来た」
「北からここまで走って来た。俺は一定の年月を超えるとその場所に居られない、渡り歩く、旅をする妖だ。この町には、餌になりそうな妖を探しに来た……だが、この町はどうかしている。人と妖が共存しているこの町は間違っている。どうやら多くの神も住んでいるようだが、弱々しい力しか感じられん。平和ボケして、力の使い方を忘れた精霊もいる。俺は、それが許せない。そして原因はすべて――人間にある」
再び花火の大玉を黒い毛が覆い隠す。
「我々は人間の遥か上をいく存在だ。それだというのに、どうしてこの町に住まう輩は、人間との共存をよしとしているのか、俺にはまったく理解ができん」
「人と妖が共存する町の、何がいけない!」
犬の妖の言葉に、継は食らい付く。
「共存してはいけない、ではない。共存できるわけがないのだ」
否定しないでくれ――しないでくれ、と継は恐れを振り払い、犬の妖に歩み寄っていく。
「僕は何年もの間、この悠禅町を訪れているけれど、知っている妖も、精霊様も、神様も、皆幸せそうにここで生きている。誰も人間を恨んでいない。とある神様は僕に優しくしてくれた。泣き虫だった僕に、優しくしてくれた。僕はそんな皆が大好きだ。僕が《見える子》じゃなくても、目に見えなくても、声が聞こえなくても、妖や精霊様、神様がこの町に住んでいると皆信じて生きている。それはこれからも変わらない! 見えなくても、ちゃんと繋がり合っているんだ!」
黒い靄を振り払い、なおも声を張り上げる。
「共存はできる。してはいけない理由がただの優劣であるのなら、優劣のある人間だって共存し合って生きていけないはずだ」
「人間の枠に我々を入れるなよ、小僧」
犬の妖が思い切り振り下ろした手は、地鳴りを引き起こしてしまいそうなほどの衝撃で、激しく地面を揺らす――異質、出会った妖の中で最も邪悪な空気をこの妖は纏っている。喰われてしまったまん丸な妖や、あの小さなナデシコの妖とはまるで違う。本当に、太刀打ちできるような妖ではない。
「妖と人は、どれだけ時間を長く共有しようとも、共存はできん。住まう世界が違う。ましてや――絆も愛も、結ばれることなど、絶対にあり得ん」
「それは……」
紡ぐ言葉が見つからず、継は力なく俯く。それを見ていた犬の妖は、身体を起こして鼻息荒く笑い出す。爛々とどす黒い瞳を光らせ始める。
「もしや貴様、何かの妖に恋でもしていたか?」
「……だったらどうだっていうんだ」
「馬鹿馬鹿しい。人からの好意など、妖が受け取ると思うか? 気持ちの悪いことを言うなよ、小僧」
言われて、唇を噛み締める――継が小さい頃に出会ったあの子が人間ではないことは、もうわかっていた。出会った時から、そうじゃないかと継は感じていた。彼女の闇夜にぼうっと光った緑色の瞳は、今も忘れられない。目と目が合った瞬間、それが一目惚れだとはっきりわかった。もう二度と会えないような気がして、約束を交わした。そして、翌年の夏休みに、彼女は姿を現さなかった。現してはくれなかった。
もう約束なんて忘れてしまったのかもしれない。もしかしたら、会ってはいけないと思っているのかもしれない。だが、この犬の妖の言葉に、会いたくないと思っているのではないか、という不安が一気に押し寄せて来る。ただの口約束、あの時の困った顔は――迷惑だったから。
「……それでも僕は、もう一度彼女に会いたいんだ」
持っていた木枝から手を離す。屈んで、靴紐を思い切り結び直す。しかし、捻挫した左足は悲鳴を上げたくなるほどの激痛を全身に走らせる。蹲り、必死に痛みを抑え込む。
「ああ気持ち悪い、気持ち悪い……気持ちの悪い小僧の血肉で口の中を汚したくはないんでねえ、貴様は俺がこの花火で地獄を見せている間も、この山の中を彷徨っていればよい。今宵の花火が、平和ボケした者共と人間共に、地獄を見せ、正常化させてやる」
耳をつんざくほどの笑い声を上げて、犬の妖はゆっくりと山の奥へと歩いて行く。この妖を止める術を継は持っていない。だが、止めずにいれば、大勢の人達に被害が及ぶ。この凶行を止められるのは――《見える子》しかいない。
(捻挫した足が痛む、けれど)
動け、動け、動いてくれ、と必死に歯を食いしばる。歯と歯が押し潰し合う。全身が強張り、一歩目を踏み込んだ激痛に気を失いそうになる。だが、この激痛よりもはるかに上回る痛みは、いつだって胸の奥底で響いている。
――二度目の夏、あの子と再会できなかったことが悔しくて、悲しくて。誰かの前で泣くのが恥ずかしかった。一人で森を歩き回って、迷った道の先で出会った神様は、泣きじゃくる継のために胸の苦しさを背負ってくれた。優しい神様だった。今の継があるのは、その優しさに触れたからだ。あの神様はこの町を心から愛していた。参拝客が居なくなってからも、この町を見守り続けてくれている。そして、毎年のように、継の背中を押してくれていた。昨年は悠禅町に来られなかったが、今年はちゃんと会いたいのだ。この町には、まだ会いたい存在がたくさんいる。神様にも、精霊様にも、町の人達にも――あの子にも。
もう二度と会えなくなる。
そんなことは絶対に阻止する。
――諦めてたまるか
走れ、と自分に叫ぶ。
何かが千切れるような音が足から響く。それでも、足を踏み出す。地面を蹴るように跳び、犬の妖目がけて手を伸ばす。
「!? 小僧っ!」
犬の妖の黒い毛を掴み、継は必死の形相で睨み付けながら咆哮する。振り払おうとする動きに、懸命に耐える。
「逃がさない。誰も傷付けさせやしない!」
「離せぇっ!!」
叫び、犬の妖は疾走する。風を切り裂き、継を振り落とそうと、地面を穿って、上空へと跳び上がる――見える山々よりも高く、雲にも届きそうな高度、脚が震えあがりそうな高さに思わず目を瞑りそうになる。手も、離しそうになる。左足の感覚はもうない。ただの人間が、これほどに凶悪な妖に抗おうなど、馬鹿げているかもしれない。それでも、継は堪える。
「死んでも離さないぞ――お前が諦めるまで」
「言ってろ!」
そこから一気に空中を蹴り、犬の妖は継を背中にくっ付けたまま急速落下、風圧が少しずつ継を押し退けていく。死んでも離さない、そう断言した継は、腕が千切れそうになっても、離すことはなく――周囲の木々をなぎ倒すほどの衝撃が落下地点から広がっていく。烏や小鳥が騒ぎに気付いて逃げ出していく。怒り狂ったように再び犬の妖は走り出す。一瞬の気の緩みが命取り。それは同時に、この妖を止める術を失うということ。この町に災厄をもたらすのを許してしまうということ。
「その花火を待っている人がいる――これだけは絶対に譲れない!」
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