失恋をしてから、身体の芯が抜け落ちてしまったかのように力が全身に入らないでいた。

 リビングで兄姉からの無言の視線を受けても、何一つ訊いてこない両親のわざとらしい無関心さも、何もかもがどうでもいいものだった。

 ぽっかりと空いてしまった胸の穴、埋めるべきものが見つからず、どうせ夏祭りにはもう行かないと決めた柚季は夏休みの課題に向き合うことにした。浴衣も姉に返して、もう後戻りはできない。しかし、頭の中では考えないようにしようとしているはずなのに、課題は一向に進まない。

「柚季ぃ、暇なら祭の準備、手伝ってくれ」と源爺が部屋に入ってくる。

「乙女の部屋にノック無しとか……課題があるから無理」

「どうせ進んでねえんだろう?」

 図星をつかれて、ため息を吐く。

「昨日言っていた昔話、文のこと教えてやるからよ」

「……しょうがないなぁ」

 それは気になる、と柚季は適当な服に着替えて、源爺と一緒に祭の会場へ向かうことにした。運動靴を履いて、玄関先で待っていた源爺は「これ持ってくれ」と缶ジュースの入ったビニール袋を手渡してきた。

「例の花火、探してくれた弟子たちにな。本当は継にも渡したかったんだが、どこをほっつき歩いているんか、見付からん」

「もしかして山の中に入っちゃったんじゃ」

「あの子はそういう無茶はしねえよ。多分、例の女の子探しに出るんじゃろ」

 今日もまた暑い陽射しが肌に突き刺さってくる。

「それで、おじいちゃん、文って子の話だけど」

 んん、と源爺は咳払いをしてからタオルを頭に巻いていく。

「……昔、この町に身分の違う男女がおった。その二人は言葉を交わすことすら禁じられ、それでも二人は愛し合っておったそうじゃ。そこで女はあることを考えた。言葉を交わせないのであれば、言葉を文にして男に送ろう、と」

「文通?」

「まあ、それに近いな。女は男がいつも訪れている大木へ向かい、その大木の木枝にそっと思いを込めた手紙を結び付けた。男はその手紙に気付き、今度は男がその場所に女への手紙を結び付けた。それから二人は手紙のやり取りを続けた。そして、その木には二人の思いの強さから一人の妖が生まれた――その妖の名が、『文』」

 ざあ、と風が地面を這って流れ込んで来る。足元を攫って行きそうなほどの風に、柚季は足を止める。源爺は柚季が止まったこと気付いて、立ち止まる。

「その話が広まってからはこの町では好きな相手への手紙を木の枝に結ぶ、ということが流行り始めた。もちろん、その手紙を意中の相手が読んでくれることはない。そりゃあそうだ、これだけ自生している木々に結び付けても、好きな相手がその手紙を見つけて読んでくれるわけがない。だから、結ぶ人たちは伝えるためじゃない、願うために想いを綴った手紙を結び付けるようになった――『文』は、その想いを伝える妖だと言われておったが、実際はそうじゃない。恋文のやり取りをしていた男女は結局、結ばれることはなかったのだからな」

「じゃあ、文は」

「想いを伝える妖ではない。悲しいかな、二人の男女の深い愛から生まれただけの妖。この町じゅうの木々に宿っているという言い伝えがある」

「じゃあ……文が恋をしてはいけないって思い込んでいるのは」

「妖と人が結ばれてはならないと思っているか、もしくは、愛し合っていた二人すら結んであげることができなかった自分が、誰かと結ばれることを躊躇しているか、だな。もしかしたら、その両方が苦しめているのかもしれんなぁ……」

 そう言って、源爺は黙り込んだ。柚季も黙り込み、静かに歩いて行く――切ない、と柚季は瞳を潤ませる。人の愛から生まれて、人の信仰心から生まれて。文も自称神様も、人を思って過ごしてきた。それなのに、勝手な思い込みで苦しめて、自らの形に合わせて見向きもしなくなって。文はきっと、大好きな男の子と結ばれたい思いでいっぱいだ。仕方ない、と思いつつ、自称神様だってもう一度皆の顔が見たかったに決まっている。どうして、こうも交わることができないのだろうか、柚季は奥歯を噛みしめる。

 祭の会場に着いて、源爺の周りに人が集まり始める

「……浴衣姿で、本当はここに来る予定だったのにな」

 いくつもの露店、金魚すくい、ヨーヨー釣り、ピンポン玉すくい、綿あめ、リンゴ飴、射的、輪投げ――この中を、一緒に歩きたかった人がいた。中学に入学してすぐに一目惚れした彼と、一緒に歩きたかったのだ。あれがどうだとか、これがどうだとか、どうでもいいことを大げさに、他愛ないことを長々と、無駄な時間を一緒に過ごして意義のあるものにしたかった。しかし、現実はそう甘くなかった。

 この夏を、初恋色に染められたらどれだけ幸せだろうと何度も妄想していた。でも、結果的には叶わなかった。好きな人には、ちゃんと隣に居てくれる人がいた。いつから二人だったのかはわからない。羨ましい、と柚季は思う。自分が先に出会っていれば、もしかしたら彼の隣には自分がいられたかもしれない、と。しかし、それは傲慢だった。そして後の祭りなのだ。柚季は首から下げられるようにしたお守りを服の上から握り締める。過去は変えられない――でも、未来は変えられる。それだけの力を、今、柚季は持っている。

 立ち止まり、柚季は強くお守りを握り締めた。

「……夢だったら、どれだけ幸せだろうね」

 少し離れたところに、二人はいた。幸せそうに、何かを話している。何を話しているのだろうか、時折笑い合い、時折ひそひそと耳元で囁き合っている。二人とも浴衣姿で、火が灯れば幻想的な光景になる提灯の下にいた。祭の主役のような二人に、柚季は握り締めていたお守りから手を離す。付け入る隙もない。ぴったりとくっつく二人を眺めていた柚季はふと思う。

(使ったら、どうなるんだろう。彼は、私のことを好きになってくれるのかな)

 そうなると、彼女のほうはどうなるのだろうか。彼を取られる形になり、彼女は柚季以上に辛い思いをするに違いない。それでも、一度味わった失恋がリセットされるかもしれない力を手にしている。自分の指先が震えていることに柚季はちょっとした恐怖心を覚えた。この力を使えば何でも願いが叶う。恐ろしくも魅力的な力だ。これさえあれば、これさえ使えば、何でも、叶う。

「……これを使えば、文の思いが叶うのかな」

 狡いよね、と思いながらも、使ってしまおうかと柚季は思った。何でも願いがかなうなら――と、柚季は力を抜き、お守りを取り出してじっと見つめた。

「だったら、どうして? この力を使えば、自分の願いを叶えられたんじゃないの?」

 はっとして、柚季は目を見開いた。自称神様がくれたこのお守りは、元々は彼自身の力のはずだ。だとしたら、この力を自分のために使えば、ずっと来ていてくれた少年とも出会えたはず。もう一度自分の神社を立て直すことだって、なんだってできたはず。

「誰かのために、何かをしてあげたい、から? 妖や神様は、自分のために何もできないの?」

 柚季は思い出した。自称神様は言っていた。神様は万能じゃないと。朽ちるときは朽ち、壊れるときは壊れると。人間と――何も変わりはしない、と。文も同じだ。妖であっても、人間と同じように感情を抱くことができる。変わらない。違うのは存在の定義だけ。

 自分なんかのために、こんなものを遺して、力を使い切って、消えてしまって――再び、柚季は前を向いて、二人の姿を見る。楽しげな二人を見て、柚季は口元を緩めた。しかし、表情は辛い思いを滲ませ、涙は次から次へとこぼれ落ちていく。

「狡い、よね」

 言って、柚季は何気なく上を見上げた。お気に入りの石垣がある丘を見上げて、源爺の下へ向かう。

「おじいちゃん、ごめん、ちょっと今日は無理かも」

「……そうか、しょうがねえ。じいちゃんの最後の花火、ちゃんと見とけよ」

「うん」

 約束し、柚季は一度あの二人を一瞥し、それから背を向けてその場から離れた。

 このお守りをあの自称神様は何のために自分に残したのか。恋を成就してほしいと願ったからか。普通に考えればそうかもしれないが、柚季には別の答えが浮かんでいた。

「願い事は願うもの。叶えるのは、自分の力で、だよね。戒めかな、これは……あの人はきっと」きっと、と柚季は繰り返して言う。「使わないって信じて、あえて私にこれをくれたんだ」

 涙を拭いながら、柚季は歩き続ける。

「困った時の神頼み、だなんて……神様は、自分のためには何もできないんだよね。だったら……すごく、辛いよ」

 あの自称神様はずっと待っていた。毎年来てくれていた少年が来る日を、待っていた。でも、来なくなった。そして彼はいなくなった。少年にどれだけ会いたいと思っていたか、少しだけ柚季には気持ちがわかるような気がしていた。週が明ければ、休みが終われば、自分は好きだった彼と会えた。不幸がなければ、会える。しかし、自称神様は会いたくても会えないのだ。願おうにも自分のためには力も使えない。ずっと待ち続けるしかできない。

「……何よ、私のこと慰めちゃったりして」

 涙は止まらない。恋が破れたときよりも、涙の粒は大きい。そして熱い。

「そういえば……名前、訊いてなかったな」

 訊いておけば良かった。名前で呼んであげれば良かった。今更だが、自分が来られるときに神社に行ってあげるとでも言ってあげたら、もしかしたらあの人は消えずに済んだのかもしれない。自分のことばかりで、あの人の気持ちも、状況も、何も理解してあげられなかった。見苦しい言い訳になるかもしれない、と柚季は鼻をすすって立ち止まった。

 自分のことで精いっぱいだった。それは間違いない。しかし、神様だって同じ思いだったはずだ。消えてしまう自分のことで、精いっぱいだったはずだ。最後に柚季のために力を振り絞って、何かをしてあげたいと願って、思って――ありがと、の一言では足りなかったと柚季は後悔するしかない。

 親身になって話を訊いてくれて、怪我を治すために力を使って、最後の最後まで気を遣わせて、心配させて、願い事が叶うようにと力まで残して見せて、大切なことに気付かせてくれて。

「もっと……理解できていたら、あの人は消えずに済んだのかもしれない。私のためなんかにお守りを残さなかったら……」

 文も、自分の方がもっと辛いはずなのに、慰めてくれた。そっと頭を撫でてくれた。優しくて、温かくて、人間と変わらなかった。

 脚に力が入らず、ふらふらとしながら進む。歩いているだけなのに、浮遊感が尋常ではない。何かが欠けてしまったかのように、歯車がずれてしまったかのような感覚だ。涙は止めどなく流れ続ける。拭う術があろうとも、この涙を拭う気力が湧いてこない。自分の弱さに苦笑する。そして柚季は――いつもの石垣に、無意識に辿り着いていた。そこには人影があった。とても落ち込んだ顔をしていて、今にも石垣から飛び降りてしまいそうなぐらいに、暗い。

「……飛んじゃ駄目だよ?」と、柚季は自然とその男性に声をかけていた。

「飛ばないよ」と男性は虚ろな瞳を柚季に向けて、微笑んだ。

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