三日目

 敷いた布団が小さく見えるほどの大広間、眠りから覚めたのは外から聞えてきた風鈴の音色がまるで起きてくるように言っているようだったからだ。少女はぐっすり眠っていて、起こさないようにゆっくりと布団から出る。大広間を出たところにあるトイレの洗面所で顔を洗い、階下へ向かう。伊織たちが泊めてもらったのは老夫婦が営んでいる土産物屋。木の香りが漂う店内にホッと胸を撫で下ろすような感覚に包まれる。民芸品、陶器や扇子、刀まで置いてある。鮮やかな店内に魅入っていると、手作りのアクセサリーに目が留まった。真っ白な、ミサンガのようなもので、手作り感たっぷりだった。

 店先に出て、大きく背伸びをする。そして、軒先に揺れる風鈴を見上げた。

「風鈴か……」

 無色透明の硝子に小さな金魚が小さく描かれ、水草や水泡もまた小さく細く描かれた風鈴だった。昔、家に同じようなものがあったな、と伊織は昔懐かしむように見つめた。

「おはようさん、早う起きたねぇ」

「あ、すみません、おはようございます」

 箒と塵取りを手に店主のおばあさんが背後から声をかけてきた。伊織は一瞬だけ硬直し「昨晩は急にすみません」と頭を下げる。おばあさんは、ちょうど伊織の祖母と同じくらの歳、おそらく七十を過ぎている。箒と塵取りを置いて、腰が曲がりかけているおばあさんは顔を綻ばせて伊織に訊ねてきた。

「よう眠れたか?」

「はい、とても」

 本当は何度も途中で目を覚ましてしまい、少々寝不足気味ではあった。言い淀んで視線を逸らし、透き通った音色を奏でる風鈴に向ける。

「そん風鈴、気に入ったんか?」

「あの、えっと……」頭を掻きながら、伊織は恥ずかしそうに答える。「昔、家にあったのを俺が割っちゃって……だから、今はもうないんですけど、似ているなって」

 祖父が大事にしていた風鈴。

 興味本位で手に取って、伊織が小学生の頃に割ったことがある。その風鈴に、目の前の風鈴は本当によく似ていたのだ。その時に祖父が伊織を怒ることをしなかったことが印象的で、怪我がないかと騒いだだけであった。思えばあの吊るされた風鈴を取ろうとして割ってしまったのは、間近で眺めたいと思うほど綺麗だったからだ。

 随分昔の話のはずが、ぽんと出てきたことに伊織は少しばかり驚いた。今まで夏は幾度と過ぎてきて、思い出す機会はいくらでもあったはずなのに、今の今まで思い出す日は一度もなかった。鮮明に思い出される過去の出来事に――しかし、ノイズが混じり、当時の音や声の記憶は再生されることはなかった。

 戸惑いが入り混じる中、おばあさんが朗らかに笑って曲がりかけた腰を軽く叩いた。

「そりゃあ運命じゃろて。売りもんじゃなかけんど、大事にすっなら譲ってやるよ」

「え?」

 返答するより先に、おばあさんは椅子を土台にしてふらふらとしながら風鈴を取り外し始める。椅子のふらつきが気になって伊織は椅子を掴んで揺れを抑えた。

「ありがとよう」

 そう言ってゆっくりと降りてきたおばあさんは店の中に入っていく。慌てて追って、扉を閉める。すると、階段を下りて来た少女が、伊織の周りを走り始め、何かにぶつかったらまずいと、少女を捕まえる。すると、少女が興味津々といったふうに、さっき見付けた小さなミサンガのようなものを覗き込む。小さな子供が興味を持ちそうなものではないようにも思えるが、そういえばミサンガは小さい頃に流行ったなぁと、懐かしがりながら伊織は一つ手に取った。少女は手に取らず、じっと見つめている。大きな瞳が光を受けたビー玉のように煌めき、それが物欲しげな目であることに伊織はようやく気が付いた。

「……買って、やろうか?」

 伊織は目をぱちくりとさせ、ミサンガを持ったまま笑顔の少女を見つめた。そして

(え?)

 驚き、伊織は呆けるように少女を見つめた。少女は『本当に?』と言った、ように見えたのだ。口が動き、そう言っていた。間違いなく、言っていた。違和感が容赦なく伊織に襲い掛かる。言っているはずなのに、聞こえない。間違いなくそう言っているはずなのに、少女の声は微塵も聞こえない。口がきけない、そういう子ではない。そう確信できたこの一瞬の出来事に、伊織には嫌な予感がしてならなかった。胸がざわつき、息を呑む。

(まさか)

 自分の中に『答え』のようなものが浮き上がって来た時、奥から戻って来たおばあさんが嬉しそうに声をかけてきた。

「おう、そんば買うか?」

 丁寧に、小さな箱に風鈴を詰めて持ってきたおばあさんに伊織は小さく頷いた。

縁輪えんわって地元ん人はみんな昔からそう呼んじょるね。こん町の子供たちが作ったんよ。丁寧に、丁寧に編んでな。利き腕の手首ん付けておけば、幸せが訪るうぞ」

「幸せ、ですか」

「ん。にいちゃんは、今幸せか?」

「俺は……」

 伊織は顔を伏せて「わかりません」と呟く。すると少女が伊織の手を握った。おばあさんはにこりと笑ってビニール袋に風鈴の入った箱を詰めて差し出してきた。

「生きとりゃ人生何かある。悩むことは生きる上で大切なことよ。悩むことは成長できるってことやぞ? そんに、今のにいちゃんは健康そのものやろう? 御家族がにいちゃんを大事に育ててきたからじゃないか?」

「……それは」

 否定できず、伊織は俯く。

「健康でいられるんは幸せなことじゃ。そん幸せを、少しでえいから他ん人にも分けてあげんさい」

 顔を上げて、伊織は縁輪を見つめて、そっとおばあさんに手渡す。

「大切な人に、分けてあげな。そしたら、輪は広がっていくじゃろ? そん人の幸せがまた別ん人に、その別ん人がまた広げていく。にいちゃんの幸せが、そうやって広がっていくんよ。そんで、縁は繋がっていく。縁はどこで繋がるかわかりゃせん。一人じゃなかって思うと、勇気だって湧いてくるやろ? ほい、百円」

 よぼよぼで、しわだらけの手に、伊織は百円を乗せる。そして伊織はもう一つ縁輪を手に取って百円を追加した。

「風鈴、本当にいいんですか?」

 おばあさんはニコニコと笑って、大きく頷いた。

「今度は、割らんようにな」

「……はい。ありがとうございます」

 大切な人に幸せを分ける。買ったばかりの白い縁輪を少女に渡すと、嬉しそうに受け取ったはいいが、どうもうまく結べないらしい。悪戦苦闘していた少女に代わって伊織が付けてやる。太陽に手の平を翳すようにして手を上げて、嬉しそうに縁輪を眺める少女に伊織は言葉を付け足す。

「幸せ、訪れるといいな」

 少女は『うん』と頷きながらそう言った――言った、そう思えてならない違和感。聞こえない少女の声に、伊織の胸は締め付けられていく。自分も縁輪を付け、少女が嬉しそうに微笑む。

(やっぱり、そういうことなのか?)

 信じたいとは思わない。しかし、伊織には心当たりがある。だからこそ、少女の声が聞こえない理由は伊織の罪悪感を強めて苦しませてくる――少女の声を聞くことができない理由は簡単だ。伊織は、何も聞きたくないと思っていた。祖母や祖父の声を、言葉を、思いも何もかも。これは罰なのだ。聞きたくないと、何も聞きたくないと願った。だから伊織はこの少女の声が聞けない。すべては逃げている向坂伊織の弱さが原因だ。

「にいちゃん、今日は祭の準備があっから、店は閉めっけど、どうする?」

 一日中こもっていると迷惑になりそうで、無償で泊めてもらった分ぐらいは、何かしておきたいと、伊織は「何か手伝うことがあれば、言ってください」とおばあさんに言った。

「そいじゃあ、祭の準備ば手伝ってもらおうかね」

 祭の会場はほとんどが準備万端といったところで、伊織は踊りで使うという太鼓を運ぶのを手伝うことになった。少女も手伝うような素振りをしながら伊織と一緒に太鼓を運んで行く。

「観光客、多いな……」

 少しばかり不安になるが、少しぐらいは手伝わないと申し訳ない。頼まれたのは太鼓運び、それから漁港から氷を取ってくること。しかし、氷を取りに行くのは昼過ぎのことで、太鼓を運び終えてからはゴミ箱を設置してくれとおばあさんに伊織は頼まれた。

 振り返り、空を見上げる。蒼天、しかしどこか寂寞としている。青い空は、歩いて来た海岸沿い、そしてバスから眺めたあの大海原を思い出させる。一人ぽつんと小さな船に乗って航海しているかのような、孤独感。自分の意思で、たった一人で海に出た、愚か者。千切れて浮かぶ白い雲は、さながらうねる波風。愚か者は、向坂伊織。

 物思いに耽っていると、少女の手が伊織の手を握り、どうやら始まる前の露店を見に行きたい様子だった。抵抗する間もなく、伊織は祭の中心へと引っ張られていき――心臓が強く打ち始める。じっとりと嫌な汗が全身から噴き出し始めて、視界が揺れる。

「悪い、人混みは――あ……」

 人混み。

 人の声。

 騒がしい空間。

 一人になりたい――飛び交う声が、会話が、言葉が、混ざりに混ざって――祖母と祖父との喧嘩を彷彿とさせる。浮遊感に囚われ、脚が覚束なくなり、自分が祖父母に向けて発した雑言が爆音のように脳内を駆け巡った。

 ――伊織は『逃げて』来た。忘れようと、耳を塞ぎたい思いで逃げてきた。

 呼吸が荒くなる。汗が止めどなく流れて服がべったりと肌にくっ付いてくる。喉が渇いて定食屋の水を思い出し、苦し紛れに唾を飲み込もうにもその力さえ出てこない。指先が震え出し――少女の手を離した伊織は、気付けば一目散に走り出していた。

(苦しい)

 走って、走って、疲れても足は止められない。

(思い出したくない)

 声が蘇る。祖母の涙声と、祖父の慌てふためく声。家を飛び出してもなお伊織を呼び続ける二人の声。謝る、声。

(なんで二人が謝るんだ?)

 ついに体力が底尽き、足を止めて膝に手を置くと肩で激しく呼吸をする。

(謝らなきゃいけないのは……!)

 はっとして、伊織は勢いよく振り返った。空いている手の平が、夏だというのに酷く冷たい。少女を置いて来てしまったことに気付き、足を動かそうと、その足を、伊織は自分の意思で止めた。俯いて、自分の腕に付けた縁輪を見つめる。

(また、逃げるのか?)

 伊織は、歩き始めた。来た道を戻り、汗だくになりながら人混みに向かって行く。心臓が張り裂けそうなほどに苦しく、呼吸は詰まり、汗は止まらない。町の人だけではなく観光客の姿も増えてくる。さっきいた場所付近で見渡しても、その群集に少女の姿は、どこにもなかった。目立つはずの麦わら帽子も、人混みに呑まれて見えやしない。呆然として、伊織は人混みの中立ち尽くしてしまう。

「どした? 急に走り出したから、驚いたよ」

 おばあさんに声をかけられて、伊織は我に返る。

「すみません、少し、体調が悪くなって……」

「そりゃいかん。鍵ば渡すから、早う寝とけ。太鼓ば運んでもらっただけで充分じゃけん」

「本当に、すみません」周囲を見渡し、ぼんやりとした目を凝らす。「あの、一緒にいた女の子、知りませんか?」

「女の子?」とおばあさんが首を傾げる。その瞬間、少女が人外の存在であることを忘れていたことに気付く。頭のおかしな子、などと思われるだろうと伊織が誤魔化すために口を開こうとして、おばあさんの口から飛び出した言葉に言葉が詰まった。

「何や一人で誰かに話しよって変わった子やねえとは思っちょったが、うん、もしかして、にいちゃんは神様んでも会ったんかもなあ。いんや、もしかしたら精霊様かもしれんな」

「……精霊?」

 妖の類ではないのか、と伊織はおばあさんの言葉に耳を傾ける。

「こん町には、昔からいろんな神様がたくさんおる。ほれ、こん地面に転がっとる石。こん石にも、神様だったり精霊様だったりが住み着いとることもある。あんなあ、神様は、精霊様は、どこんでもおる。みんなが気付かんだけで、そこにおるもんよ」

 おばあさんは空を見上げて微笑んだ。

「にいちゃんは、そん神様と……精霊様と出会ったかんもしらんな。そんに、神様や精霊様は無意味に人ん前には出てきやせん。何か、意味があって、姿を見せるもんよ――にいちゃんは、なしてこの町に来た? ただの観光にしちゃあ軽装じゃけんな、ちょっと気になっとったんよ。……ああ、言わんでいい、言わんでいい。でんも、ここに来た理由が、そん神様か精霊様の姿を現した理由だとしたら、意味があって、ここんに連れて来られたんかもしれんなあ」

 笑って、おばあさんは腰を叩きながら伊織の背中をぽん、と叩いた。

「今は何も考えんでええ。今日の花火ば見て、ゆっくりして、考えればええ」

 言われて、伊織は半ば強制的に土産物屋の合鍵を渡された。おばあさんに大工道具を持った男性達が歩み寄って来て、その場をすぐに離れる。誰かが今朝からいない、という話らしかったが、耳に入ってくることはなかった。


 歩いていれば、もしかしたら少女が隣にぽっと現れるかもしれない――そんな淡い期待はすぐさま自分の首を締め上げた。あの少女とは、もう会えないのかもしれない。声を聞くこともできない。「ああ」と伊織は目を固く閉じた。もう会えない。それは、少女に対してだけではないのだ――喧嘩をしたっきり、もう二度と顔も合わせないで家を出ようと決めていたのに、祖母と祖父のことが頭から離れないでいる。思い出がたくさん蘇る。両親の代わりに精いっぱい自分に愛情を注いでくれた二人を、自分は鬱陶しいと思ってしまった。怒鳴ってしまった。二度と会いたくないと思ってしまった。二度と、声も聞きたくないと思って、願ってしまった。

 蘇る喧嘩の光景。怒鳴っていたのは、自分だけだった。感情的に言葉を吐き捨てていたのは、自分だけだった。祖母は、祖父は――心配してくれていると、わかっていたのに。

「二人の声……どんな、声だっけ」

 雑音が脳内で反響する。人の声が混ざり合って脳を揺らす。吐き気も催し、眩暈は身体を揺らす。立っていられないほどの気分の悪さに、伊織はよろめきながら、人を避けるようにして近くの壁にもたれかかった。

 高齢で、そんなに健康な身体とも言えない。老い先短いのは間違いない。家を出てからまだ数日、しかし、伊織は随分と長いこと会っていないような、そんな気がしていた。今までずっと一緒にいた二人を、置いて来てしまった罪悪感。突き放して拒絶してしまった罪悪感。不意に蘇る思い出が胸をさらに締め付けていく。

 人混みから抜け出し、土産物屋に戻ろうとしたが、少し歩きたいと思った伊織は上を向いた。山の方を見て、ゆっくりと歩き出した。


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