今日もまた、何もできなかった。花火の大玉を持って行った妖はナデシコの妖だったが、結局、さらにそのナデシコの妖から盗んでいった犬の妖の情報は、まったく得られなかった。おそらくナデシコの妖のように、どこからかやって来た妖か、それとも、新たに生まれた妖か。どちらにしても、探し出して返してもらわないと、時間が迫ってきている。明日には花火が打ち上がる。最後の花火がないのは、駄目なのだ。

「犬の妖か……」

 石畳に躓きそうになって、立ち止まる。道沿いの提灯がぼうっと明かりを灯し始め、薄暗くなってきた町並みが一気に別の表情を見せる。情緒にあふれた幻想的な光景、その世界の中に自分がいるのが不思議な気分になる。

 都会に暮らしていると忘れてしまう何かを、ここは思い出させてくれる。荒んだ心も、錆びついた体も、暗く落ち込んだ表情も、かつての自分を取り戻させてくれる。だからこそ、今この町で起きている事態は、重く見るべきなのかもしれない。

「あのう」

 声をかけられて、周囲を見るが、誰もいない。

「あのう」

 もう一度声をかけられて、ようやく足元へと視線を落とす。足元にいたのは、今日出会ったナデシコの妖の二人だった。瓜二つ、とても小さな二人の妖は、両手いっぱいの小さな果実を持っていた。

「ナワシロ」と一人が言う。

「イチゴ」ともう一人が言う。

「僕に?」継は二人から果実を受け取る。「ナワシロイチゴか……甘酸っぱくて美味しいんだよね。ありがとう、もしかして、お礼のつもりなのかな?」

 そう訊ねた継に、二人はにこにこ微笑み、照れたように二人仲良く手を繋ぎ、走って行った。二人の仲の良さは微笑ましく、助けられて良かった、と継は大事にナワシロイチゴをハンカチに包み、持って帰ろうと――不意に聞こえた唸り声に背筋を震わせる。

「まさか……!」

 重く、低い唸り声。提灯が並ぶ道の先、誰も居ない場所に、黒い塊が何かを喰らっているように見える。気持ちの悪い咀嚼音が不気味に響く。ぎらりと煌めくのは、どす黒い目。暗さに慣れてきた継は、その黒い塊のカタチをはっきりと捉える。

 獣。

 犬。

「犬の、妖……!」

 そう呟いた直後――そのどす黒い目が、いきなり継の目を捉える。完全に目が合ってしまい、身体が恐怖心に凍り付く。黒に対を成す白、真っ白な牙に纏わりつく赤い液体が滴り落ちる。今まで出会ったことのないタイプの妖――危険な気配に、緊張感から喉の渇きが酷い。咀嚼をやめて、顔を上げる。巨大な身体。大きく太い腕の先、すべてを引き裂いてしまいそうな銀色の爪の先が、白い何かに食い込んでいる。何を喰らっていたのか――それはすぐに継は理解した。白いその物体は、あのまん丸とした妖だ。

 完全に絶命しているようで、身動き一つしない。

 妖同士の共喰い、初めて見た継は恐ろしさに身を震え上がらせる。

「人間か?」

 身体を押し潰しそうな声に、怯みそうになる。しかし、もしこの犬の妖が花火の大玉を盗んだ奴だとしたら、取り返さないといけない。

「小さな妖から、花火を奪い取ったのは君か?」

「ああ――ああ、俺の声が聞こえるということは、お見える子か」

 犬の妖はまん丸な妖を踏み潰し、よだれを垂らしながら黒い息を撒き散らしていく。

「……お前をここで殺すと、騒がしくなる。それでは駄目だ。せっかくの花火だ」

 人が騒ぎ出すと困る。その言葉の真意を継が理解できないでいると、犬の妖がゆっくりと山の方へ身体を向け始める――逃がしてはいけない。偶然遭遇することができたが、次にもう一度遭遇できるかどうかはわからない。神出鬼没でないにしても騒がれることを避けているとなれば、身を潜める可能性が高い。それこそ、見付けることが困難になる。

 絞れるだけの勇気を振り絞るしかない。

「待て!」

 叫び、継が走り出したのと同時だった。犬の妖は一気に加速、酷い臭いのする黒い靄を撒き散らしながら、山の中へと飛び込んだ。

「くそっ……!」

 見失ってたまるか、と継は森の中に飛び込む。草木を掻き分け、足場の悪い道を走り抜ける。犬の妖は遠く、木々の隙間を縫うようにして走っている。生身の人間、追い付けるはずもないことは継もわかっている。だが、何もせずに突っ立っているだけでは何も変わらない。ましてや「妖が花火の大玉を盗んで行った」などと応援を要請すれば、ついに壊れたかと心配されるだけで終わってしまう。妖の言う《見える子》が悠禅町の町民にいるという話は聞いたことはない。そこに偶然居合わせた《見える子》である継は、ある意味一部の妖達には不都合な存在でもある。

 少しずつ夕陽すら届かなくなる山の奥へと足を踏み入れていく。視界も悪い。微かに見える犬の妖が残す黒い靄だけを頼りに走り続け――不意に、浮遊感が襲い掛かった。

「あ――」

 真っ暗な足元、そこに足場はなく――本当の闇が埋め尽くす崖の下へと、継の体は吸い込まれていく。森の中にこだました継の叫び声も、深い山の中で掻き消されていった。


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