泣き顔を家族に見せるのは恥ずかしい。他人に見せるほうが、まだ楽だった。

 石垣に腰掛けて、空が夕焼けに染まるまで柚季は涙を流し続けた。一人になりたいと思っていながら、誰か傍に居て欲しい、そういう矛盾した思いが入り混じる中、静かに、隣に座ってくれている文は、優しく柚季の頭を撫でてくれている。温かくて、ほっとする手の平で、そっと文が抱き寄せて来る。

「そっか、失恋しちゃったんだね」

「……文さんは、失恋したことある?」

「うーん……ない」

 僅かに嫉妬を抱き、しかし彼女の浮かべる表情が、自分のバカげた嫉妬に後悔させる。

「失恋はしたことがないの。恋をしたくても、できないから」

 それって、と訊きそうになった口を静かに閉じる――こうして触れてみて、わかる。この感覚は、あの自称神様に触れた時と同じものだ。そういうことだ。

 文は、人間じゃない。

「好きな人はいるの。でも、私は恋愛だとか、そういうものをしちゃいけないから」

 遠くを見つめる儚げな彼女を見て、柚季は文がずっと探しているという男の子の話を思い出す。断片的な会話だったが、もし探しているその男の子のことが――だとしたら。

「その男の子のこと、好きなのに、告白とか、そういうのは駄目なの?」

「駄目というか……なんでしょうね、難しい話です」

 笑って、文の指は柚季の目元を丁寧に、ゆっくりと拭う。

「もうじき暗くなります。今日はもう帰ったほうがいいですよ」

「……うん」

 自分のことでたくさん泣いたのに、別のモヤモヤした気持ちが胸の奥で渦巻いている。自分はもう告白しても意味がない。意味がないとわかっていて、諦めなきゃいけない現実に追いつけないでいる。だが、文は違う。好き合ってはいけないと思っている。気持ちを伝えることすら駄目だと思っている。自分が人間じゃないと、恋をしてはいけないの? と心の中で問い掛ける。それを見抜いているのか、文はそっと立ち上がり、柚季の手を取り引っ張り上げる。

「私のことは気にしないで。あなたはあなたの、心の整理をしたほうがいいわ」

「文……あのね」

 言いかけた言葉が、喉の奥で引っ掛かって止まる。そして「柚季ぃ」と祖父の声が背後から聞えて来て、振り返る。その瞬間――手の平から文の温もりが消える。慌てて顔を向けるが、もう、そこには文の姿はなかった。

「どうした? 目腫らしてまあ」

「別に……ちょっとセンチメンタルになっていただけ」

 失恋した、なんて言えず、源爺と慕われている祖父と一緒に夕焼けに染まる道を歩いて帰る。

「おじいちゃんは、こんなところで何してんの」

「ん……花火大会が終わったら、次は奉納祭があるだろ? その責任者も任されているからな、忙しいんだよ。去年納めるはずだった鏡だとか弓矢の余ったやつをちょいと倉庫に運んできたところだ。来年の正月に燃やすからよ。まあ、そいつは事のついででな……実は、明日の花火大会で使うトリを飾る大玉が消えちまって、そいつを探していた」

 源爺の花火師最後の傑作、その大玉花火が消えた。他の町民が聞いたら騒ぎ立ててしまいそうな話に、柚季は冷静を装って源爺の顔を見る。どこか悲しそうで、強がる笑顔が余計に胸を詰まらせる。

「こうしてあっちこっち探して回っているんだがな、見付からん。弟子達だけじゃなくて継も探してくれているんだがな、連絡がねえってことは、見付からねえんだろうな。もう、諦めるしかねえな」

「継って?」

「北條さんちの親戚の子だよ。去年は事情があって来られなかったが、夏休みとかはほとんど悠禅町で過ごしとる。何でも、初恋の相手を探しているらしい」

「初恋の相手……」

 まさか、と思いながら、でも、と躊躇う。

「しかしまあ、誰が持って行ったんだろうな……もしかしたら、そこら辺の妖怪が悪戯して持って行っちまったか?」

 笑っているようで笑っていない、源爺の乾いた笑い声の中、柚季は唇を噛み締める。妖怪、妖。そういう話は小さい頃から聞いてきた。この悠禅町にはたくさんの妖が、精霊様が、神様が住んでいると。不意に蘇る、自称神様。そして、文の温もり。

「おじいちゃん、神様だったり妖だったり、そういう存在は人と一緒になったら駄目なの?」

「何だいきなり」

 源爺の驚いたような顔に、思わず目を逸らす。少し恥ずかしいが、真剣な質問だ。

「そうだなあ……わしはバアさん一筋だからよ、妖やら神様がどれだけ美人でも揺るがねえ自信はあるぜ。ただ、そうだな、それでも好きになっちまったら」ニカっと笑って、源爺は言う。「互いの壁とか垣根とか、全部乗り越えたっていいんじゃねえのか。一途に、そして一筋だったらよ、好きにしたらいいとわしは思うぞ? ようはここよ、ここ!」

 源爺は嬉しそうに拳を自分の胸に押し当てる。それを見て、柚季は「そうだよね」と呟いた。 

「何だ柚季、妖や神様にでも恋でもしたのか」

「違うよ。ただ」

 言おうか迷い、しかし自分の中で押し留めておくことが柚季にはできなかった。出会った文のことを話すと、源爺が少し悲しそうな顔をし始める。

「そっか、文、ねえ」

「何か知っているの?」と少し喰い付いた柚季に、源爺は「今度、教えてやる」と答えるのを渋った。何故だろうかと柚季はそれ以上源爺に訊ねるのをやめた。何か事情があるのか、あまり話したくない内容なのかわからない。わかるのは、明るい話ではないということだけだ。


「柚季!? 何その顔!」

 姉に見つかって騒がれ、兄にからかわれ、しかし空気を読んだ兄は火が消えたように黙る。母親と、仕事から帰って来ていた父親は何も言わずに二階に上がる柚季を見上げていた。部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。ふかふかのベッド、泣き疲れて今にも瞼が下りそうになる。握っていたお守りを見つめて「夢じゃなかったんだよね」と、自称神様――神様との出会いを確かめた。温かいお守りは脈を打っているかのように思える。温かく、そこにいるかのような感覚に再び涙がこぼれ落ち始めた。

「願い事を一つだけ叶える……」

 実に単純な説明だった。しかし、その単純さとは裏腹に、持っている力の強大さはとてつもないものだ。何でも願いが叶う、というのは、人間が最も欲する力の一つ。どんな願い事でも叶う、世界征服だって叶うかもしれない。世界の独裁者になって世界を動かせる人間にだってなれるかもしれない。もしかしたら不老不死になれるかもしれない――それに、一世一代の初恋も、破れた初恋も叶うかもしれない。

「願い事……今の私が、望むモノ」

 ぽつりと呟き、瞼は自然と下り――それでも柚季は御守りを握り締めていた。何を願おうか、何を叶えようか――自分が今、何を望んでいるのか、柚季は夢の中でも考える。そして、失恋の傷が思ったよりも軽く、涙の重みも違い、辛さや悲しさが薄らいでいるように柚季は感じた。あの文という女の子のことも気になり、源爺が語るのを渋っていた理由も気になる。どうしようもなくモヤモヤして、それでも睡魔は襲ってくる。今の自分の願いは何だろうか。

 擦り剥いた膝に貼ってあった小さな白い札は、傷と共に綺麗に消えていった。


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