◇
朝からずっと姿見に映った自分の姿と睨めっこ、姉から借りた浴衣を何着も着ては脱ぎの繰り返し、自分にしっくりくる柄を柚季は迷いながら選んでいた。新調したくとも母親にはすぐに「お姉ちゃんのがあるでしょう?」と返ってくるのは見え見えで、仕方ないことではある。物を大事にする姉で良かったが、やはりどこか納得がいかない気持ちはある。
「よし、これに決めた!」
紫を基調とした金魚柄の着物。小物類だけは小さい頃から大事にしてきたものを使うとして、髪は姉に頼み、ついでにネイルなんかもしてみようと企む。すると、ふと目をやった時計が正午を示そうとしていることに気付き、柚季は慌てて私服に着替え直し、玄関から飛び出した。
「もう! このタイミング逃したら大変なのに!」
走りながら誰にぶつけるでもない文句をぶつくさ呪文のように唱え続ける。意中の彼は夏休みであろうと部活に参加している。サッカー部で来年はキャプテンだと噂されるほどの実力者だ。午前中の部活は正午に終わり、学校終わりにいつも商店で買い食いしていることは知っている。その帰り道に誘おうと柚季は決めていた。このタイミングを逃すと自宅に直接行くか電話で誘うしか手段がなくなってしまう。携帯の番号も知らないだけに選択肢は限られている。
うねるような石畳の小道を抜けて割と広い大通りへ出る。走る柚季に驚きもしない猫の大あくびを横に、必死に走る柚季は熱気に顔をしかめながら靴紐がほどけそうな靴で坂道を駆け上がった。
(明日、最高の思い出を作るんだ!)
胸踊る未来がもうすぐそこにありそうな予感がして、いっそう走る脚にも力がこもる。その途中、あの不思議な少女、文と会った場所を通り過ぎる。今日はいないのかな、と思いながらも、心はすぐに思い人のことでいっぱいになる。昨日腰掛けていた石垣を過ぎ、例の神社に続く石段を通り過ぎる。灼熱光線を放つ太陽が影を大きく後ろに伸ばしてくる。その影を引き離さんと全力疾走で今度は駆け下りていく。
人生の中で、おそらく今が一番一生懸命に走っている瞬間だ。それだけ、意中の彼が好きだった。だから疲れも感じないし、徐々に暑さも気にならなくなってきた。心臓が強く鼓動しているのもわかり、表情もしかめっ面から笑顔に変わって崩れない。
明日を最高の思い出に、そしてこの恋が成就することを願って――握り締めた手が、緩む。
速度も落ち、少しずつ走るのをやめ、歩き、最後に立ち止まった。
呼吸も、止まったかのように小さくなり、流れてきた汗が背中や胸元を流れて落ちていった。蝉の声がうるさく感じ、同時に胸が締め付けられ始め――涙腺が緩み、大粒の涙は止めどなく流れ落ち始めた――意中の彼は、同級生の女子と一緒に歩いていた。仲親し気に、この暑い中手を繋ぎ、誰がどう見てもお似合いな二人に柚季は静かに、近くの電信柱に身を隠した。電信柱にくっ付いている蝉の抜け殻の横で、二人が通り過ぎるのを待ち続ける。笑い声はとても楽しそうで、入る余地もなく、ただただ待ち続けた。
「…………帰る?」
柚季は自分に問いかけた。目を大きく見開いたまま、柚季はその場にぺたりとしゃがみ込み、両手で顔を覆った。声を押し殺して肩を震わせる。持っていたハンカチも取り出そうにも涙が止めどなく流れ落ちて間に合わない。家には帰れない。こんな姿を家族には見られたくはない。しかし、町中を歩いていれば否が応でも知り合いと顔を合わせる。もしかしたら友達と出くわすかもしれない。そうなると、話をせざるを得なくなる。話せば、迷惑をかけることになるかもしれない。
「それは、駄目……」
座り込む地面が熱い。しかしまだ立ち上がれない。今すぐにでも、爆発しそうな感情を曝け出して思い切り泣きたい。誰もいないところで、思い切り泣きたい。
柚季は、おもむろに立ち上がって走り出した。無我夢中で下ってきた坂道を駆け上がり、途中で柚季はぼうぼうと生える草むらに突っ込んで行った。忘れられない光景が脳裏に蘇り、さらに涙がこぼれて後ろへ飛んで落ちていく。
(知らなかった、知りたくもなかった)
石段を駆け上がる。鼻をすすりながら懸命に石段を駆け上がり、草が脚を掠めて切れる。しかし、それでも柚季は走った。まるで、あの自称神様が住まう神社のように、柚季の心はボロボロになっていた。力が一瞬だけ抜けて、最後の一段で躓き、柚季は盛大に転げていく。鳥居の前で蹲り、むせび泣く。膝を擦りむいたかもしれない。そんなこと、今の柚季にはどうでもよかった。張り裂けそうなくらいに痛む胸。止めどなくあふれ出る涙。嗚咽を漏らして蹲る柚季は――やんわりとした声にゆっくりと顔を上げた。目の前には、自称神様が心配そうに柚季を見つめていた。
「どうした、お嬢ちゃん」
耳がおかしくなったのか自称神様の声は消え入りそうなくらい霞んで聞こえてきた。しかし、気にせず、柚季は思わず彼の懐に飛び込んだ。心が落ち着く御香の香り。とにかく、声を押し殺せないこの辛さが、柚季を突き動かす。自称神様は柚季の肩に両手を添え「そこのベンチに座りな。ぼろいけれど、まだまだ壊れんよ」と柚季を支えながらベンチへと向かった。落ち着くこともできない柚季はベンチに座ってもなお泣き続けた。
「こりゃあ……重症だな。何か、おじさんにできることがあったら言いな。話を聞いてあげるくらいのことは、できるからよ」
座る柚季の前でしゃがみ込み、自称神様は優しく笑って見せる。顔を覆う手の平、その指の隙間から僅かに見えたその笑顔に、柚季はぐっと涙を堪えて一度唇を噛んでから口を開いた。
「好きな、人がね、同じクラスの女子と、一緒に……仲良くさ、手え繋いでてさ」
「うん。うん」
「それを、見ちゃって、今、見て、そしたら、急にさ……胸が苦しくなって、涙止まんなくって、辛くて、辛くて……気付いたら、走ってて」
「そっか……おう、膝、擦り剥いちまってんな」
自称神様は懐から小さな札を取り出した。白く、まさに純白といったその札をそっと柚季の膝にできた傷に乗せる。温かさが痛みを和らげていく、不思議な感覚。
「……災厄を背負う神様のくせに、お嬢ちゃんの災難を背負ってやれなかった。せめてもの償いだ。多少時間はかかるが、こいつを付けておけば綺麗に治る。消えてなくなるから、このまま貼っておきなさい。俺の力を込めてあるから、大丈夫だ」そう言って自称神様は立ち上がった。「純愛だからこそ、脆いんだよな。ああ、おじさんは恋をしたことがないからよくわからんが、幾度となくここから見てきたからね、多少はわかる。そんなに好いてもらっている子は、幸せだな。お嬢ちゃんの恋心に、もっと早くに気付いてもらえていたらって思うよ。でも、その子のせいじゃない、それだけはお嬢ちゃんにもわかるだろう?」
「……うん」
「だったら、まずは顔上げな。泣き顔は、お嬢ちゃんには似合わんぜ。そこに水場がある。ちょいと冷たいが、顔を洗ってきな」
言われるがまま、というわけではないが、柚季は立ち上がって自称神様の言うとおりに顔を水で洗った。冷たい水が顔全体を洗い流す。そういえば軽くメイクをしていた、と柚季は無性に悔しくなって何度も顔を水で洗い流した。受け取った白い布で顔を拭い、少しだけ落ち着きを取り戻した柚季は、自称神様と目が合い、無性に気恥ずかしくなった。
「あのさ」
「あん?」
「……ありがと」
ぽつりと言った柚季の頭を、自称神様はがしりと掴んで髪を軽く解す。それがどうにもむず痒く、柚季は照れるように自称神様の手を軽く払いのけた。
「元気、少しは出たようだね」
「そう、かな?」
目元を拭って、口を尖らせる。思い切り泣いたおかげか、ほんの少しではあるが身体が軽い。とはいえ完全回復とまでには至っておらず、足元はふらふらしている。本殿に足を向け、自称神様の後を追うように足を動かす。
(あれ?)
ぴたりと足を止め、柚季は本殿を見上げる。見上げる、というよりも目線を少しばかり上げる程度だった。昨日の本殿に比べると――心なしか、とても小さくなっているような気がしたのだ。全体的に、縮んでいる。そんなふうに見えるのは錯覚かもしれない。しかし、妙な違和感はそれだけではなかった。自称神様の後ろ姿を見て、何度か目を擦る。
「ねえ、一つ訊いてもいい?」
躊躇うように振り返った自称神様はどこか儚い雰囲気を醸し出しながら、無理をするように笑って見せた。息を呑んで、柚季は訊ねる。
「おじさんの身体――透けて見えるのは、私の目がおかしいからかな?」
心音がやや強まる。目の前にいる自称神様は、正面の本殿がぼやける程度ではあるが、透かして見えるほどに――まるで、向こう側をぼかすビー玉のように透き通った身体をしていた。
自称神様の表情は、少しずつ変化し、とても、とても悲しそうになっていく。柚季は嫌な予感がして身体が強張るのを感じた。
「……消え、ちゃうの?」
「どうしてそう思うんだい?」
「それは……そう思えて仕方ないから」
「はははっ! そりゃあ答えになってねえよ、お嬢ちゃん。いや、しかし、それがお嬢ちゃんの優しさなのかもなあ」
自称神様は前に向き直して腰に両手を置いた。じっと廃れた本殿を見ながら、やはり、今にも消えてしまいそうな声で語り始めた。
「……信仰心は神様の支えだからね。支えを失えば、こうなるさ。神様っていうのは万能じゃない。朽ちるときは朽ちる。壊れるときは壊れる。人間と何も変わりはしないんだ……あれを信仰心と呼べるかはわからんが、何年も前からここに来てくれていたあの子が唯一の支えだったんだ。小さな柱だった。それでも、大きな支えだった。だから、俺は今までここに居られたんだ」
たまに強がるかのように笑って見せ、自称神様は本殿に向かって歩をゆっくりと進める。近付けず、柚季は立ち止まったまま、彼の言葉に耳を傾け続けた。
「ここはもっと大きな神社だった。四季折々に表情を変えて、人々の目も楽しませてきた。でも、今は見る影もない。衰退していき、誰にも知られずに朽ちていく。気付かれないようにひっそりと朽ちていく。随分と、小さくなっちまったものだ……」
たまらず柚季は口を開こうとした。だが、自称神様はそれを阻んだ。
「お嬢ちゃん。お嬢ちゃんの言いたいことはわかる。そうだよ――俺は、もうじき消える」
ざあ、と風が吹き抜けて柚季の髪は揺れた。熱くなっていた身体が急に冷め、変な寒気が背筋をなぞった。自称神様は服も、髪も、何も揺れない。代わりに、陽炎のように揺らめいているだけ。
「長いことここに居られたことに、俺は感謝している。この町が、俺は大好きだからな。それに、最後の最後でお嬢ちゃんに出会えた。これを運命だのくさい台詞を吐くつもりはない。でもよ、これも何かの縁だ。俺は災厄を背負う神様。すべてを背負い込む神様。お嬢ちゃんの辛さを、苦しみを、悲しみを背負うように――最後の一滴まで力を注ぐよ」
そう言って振り返った自称神様は柚季に向かって手招きをした。最初は躊躇った。しかし、自称神様の温かい微笑みは、柚季の足を動かしていく。そっと差し出された藍色のお守りを受け取った柚季は、僅かにそのお守りから温もりを感じた。まるで生きているかのようなそのお守りを手に、顔を上げると自称神様は静かに、さらに透明度を増していた。
「これ……」
「曲がりなりにも、一応神様だ。厄災を背負うのが役目であり、その役目を果たすための力だってある。この数年間、俺は何も、たいしたことを誰にもしてやれなかった。だから、形を変えて、お嬢ちゃんにそれをあげよう」
自称神様は、微笑む。
「俺の力をそのお守りにしっかり込めておいた。背負うだけの神様だけれど、形を変えたら願いを叶える神様だからね……そいつは、そのお守りは、たった一つだけ願い事が叶う力がある」
自称神様の手の平が柚季の頭に乗る。今度は、払いのけない。何故なら、自称神様の手の平は、とてもとても軽く、そこに本当にあるのかさえわからないほどに希薄な存在感だったからだ。だが、伝わってくる温もりは、お守りのそれと同じく、とても優しく、温かかった。緩んでいた涙腺から再び涙が流れ落ち始める。
(何で、私泣いているの?)
お守りをじっと見つめて、それから消えそうになっている自称神様を見上げる。
「それをどう使うかは、お嬢ちゃんの自由だ。恋を叶えるなり、金持ちになりたいと願うなり、何でも一つだけ叶えてくれ」
「どうして、私に、そんな」
「俺はな、誰かのために何かをしてあげたい――そういう性分だからよ。それに、お嬢ちゃんなら、変なことには使わないと信じている」
「……もしも、私が悪い子で、変なことに使ったら、どうするのよ」
「そんな未来、おじさんには見えないよ」
ぽん、ぽん、と柚季の頭を叩く自称神様の手の平が離れていく。瞬間、柚季は驚く。
「――別れのときだ。悪いな、消えるところは誰にも見られたくない」
――柚季はいつの間にか鳥居の外側へと移動していた。急いで自称神様を探し、しかし、声だけが柚季に届く。それはとても静かで、風の音にすら負けそうな、小さく儚い声だった。
「じゃあね、お嬢ちゃん。何もしてあげられなくて、ごめんな」
何かに軽く身体を押される。後ろに倒れ込む柚季は――遠くに微かに見えた自称神様に、必死に手を伸ばす。鳥居が遠ざかり、奇妙な浮遊感が柚季に襲い掛かる。それでも、柚季は手を伸ばし続けた。
(消えちゃうの? 本当に、消えちゃうの?)
空しくも、伸ばした手の先は空に移動する。完全に後ろに倒れ込んだ柚季は、止まっていた涙が宙に飛んでいくのを見た。どうして泣いているのだろう、と柚季は目を閉じた。恋に破れて、それが辛くて、悲しく泣いていた。それなのに、どうしてこんなにも胸がさらに苦しく感じるのだろうか、と。
自称神様は、神様だった。
見せつけられたというよりも、感じさせられた。
あの人は人ではない、と。
次に目を開いたとき、柚季の身体は直立し、石段の麓にあった。太陽が水平線に沈む直前、影が前に大きく伸びる。見上げた先、ここからでは鳥居も見えない。もう一度登ってみようか、と一瞬だけ足を動かしたが、柚季は立ち止まった。しばらくじっと佇み、それからゆっくりと歩き始める。
「どうしたの?」
優しい声が撫でてくる。声の主を探して振り向くと、石垣の傍に生えた木に手を添えて、文が立っていた。彼女を見付けた途端、涙腺が崩壊した柚季は――枯れることなく流れ落ちる涙を何度も腕で拭った。もう、涙の止め方がわからなくなっていた。
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