甘原柚季

 恋する相手のことを考えると、本当に夜は眠れなかった。

 考えれば考えるほど目が冴えて、何かの病気になってしまったのではないのかと心配になるほど胸が苦しくなる。これが恋、これが初恋。人生においてこれほどまでに恋に焦がれる人と出会ったことはあっただろうか、甘原柚季あまはらゆずきは悶える思いを抑えて髪を指先で遊んで笑顔をこぼす。

 この田舎町、学校の生徒も少なく、少人数の男子の中で唯一のイケメン男子が初恋の相手だ。スポーツもできて、勉強もそこそこできて、優しくて、笑った時の笑顔が可愛い。えくぼなんかもたまらないほど可愛い。それでいてきりっとした顔立ちは、そのギャップから胸がときめく。

 きっと、否、間違いなく他にも彼を狙っている女子はいるのだろうが、行動に出た女子はいなかった。田舎町の情報網は迅速かつ正確、それ故に未成年者の誰それと誰それがうんたらかんたらしていれば即座に、昼夜問わず会っているのを誰かに見られようものなら、翌日には悠禅町の東西南北境界線まで、すぐさま町民の耳に届いてしまうのだ。そして、それ以上に困ることは、数少ない同年代の女子との間に大きな亀裂が入ってしまうかもしれない、ということだ。

 友達も大事、しかし恋も大事にしたい。そういった想いが交錯するせいもあって、告白すらしていない現時点で、まるで付き合うことが前提のような、複雑な心境になってしまう。

「でも、もう決めたんだから」

 夏休みが始まって、少しだけ茶色に髪を染めた。少し大人っぽく見せるためにメイクもしてみた。中学生のくせに、と姉や兄からはからかわれたが、しかし柚季は気にせずに心を躍らせていた。

 今年も、初夏を飾る毎年恒例の花火大会がある。天候も問題なし、毎年観光客も大勢訪れるこの花火大会は、開催から五十年近く経ったというのに、今まで一度も雨に当たったことがない、ある意味奇跡の花火大会だ。曇りにすらなったことがない花火大会、まるで特別な日のようにも思えてくる。その今年の花火大会は、甘原柚季にとっては恋の駆け引きとなる舞台だ。

 花火大会がきっかけで、甘い夏休みを過ごせるかどうかが決まると言っても過言ではない。この田舎では、行事という行事が若い学生とは無縁のものばかり。唯一、この町で若者が楽しみにしているのはこの花火大会だけ。これを絶対に逃すわけにはいかない。

 毎年私服で花火大会は回っていたが、今年は浴衣を選んだ。定番とも言える浴衣姿のデート。といっても意中の人と花火大会に行く予定はない。作戦も何も、告白も何もしていない。

 というよりも、夏休み前にすべきだった告白をすることができなかったのだ。

「大丈夫……きっと大丈夫だから」

 姿見の前で気合を入れる柚季だったが、やはり行き当たりばったりは不安だった。間違いなく彼は花火大会に来るだろう。その前に、部活帰りの彼を見つけて、いつもとは違う自分を見せる。そして偶然を装って声をかけて――上手くいく保証はない。いっそのこと電話で誘えばいいのだが、その勇気がわかない。電話で断れでもしたら、と考えると不安で仕方なないのだ。

 花火大会は明後日、時間だけは辛うじてある。準備が始まった露店や看板を設置する地元のおじい、いつもどおりのんびりと犬の散歩するおばあ。

「平和だなぁ」

 恋い焦がれる相手を探すように、柚季は丘の上にある石垣から遠くを眺める。いつも考え事をする時は、決まってこの石垣に腰掛けてから物思いに耽る。海底までよく見えるほど透き通った青い海、蝉の鳴き声がこだまする山々、ごつごつした岩の隙間を縫って流れるせせらぎ、空はとてつもなく高く――陽射しは子供たちのアイスを情け容赦なく溶かそうと躍起になっている。

 ド田舎というほどでもないが、柚季の生まれ育った悠禅町はかなりの田舎だ。生まれながら山と海と川に囲まれて生きてきた。柚季は、本当は都会のどこかで生まれたかったと幾度となく思ったことがあった。それを両親に言えば「大人になったら都会に行けばいい」といつも笑って流される。娯楽施設もなく、きらびやかな店もなければ流行り物はいつも時期外れに遅れてやって来る。高校は都会に、と夢見ながらも最初は勉強があまり進まなかった。しかし、意中の彼も都会に近い高校を目指していると話に聞いた日からは、真面目に勉強に取り組み始めた。恋は人を変える大きな力を持っていると柚季は実感していた。だからこそ、この恋を成就させたいと願っているのだ。

「さて……物思いに耽るの終了、と。そばかすができちゃう」

 ひょいと石垣から飛び降り、下から吹き上げてきた風に思わず目を瞑る。瞼を開いて風の行方を追うように振り返ると、少し上がった先の草むらが風で揺らめき、石段がちらりと見えた。何気なく坂を上がって草むらを覗き込む。古びた石段、苔だらけで人が上がった形跡が一切見られない。半年、いや一年以上は誰も通っていないだろうと柚季は見上げた。


 地元民だが、この町に生まれて十三年間、気付かなった。草が茂っていて一見すればただの草むらだ。しかし、よくよく見てみれば上へ上へと石段が長く続いている。柚季の足は、どういうわけか引き寄せられるかのように石段へと向けられた。

「神社は下にたくさんあるけど……この上にもあるのかな?」

 信仰心が強いのか、それとも神様が多すぎるのか、この悠禅町には神社や寺がかなり多い。お盆前になると決まって掃除当番が各区域に回ってくるのだが、この上に神社や寺といったものがあるとは、まったく気付くことがなかった。

 石段は途中でうねっていて先がどうなっているのかは下からは見ることはできない。携帯で時間を見て、柚季はもう一度石段を見る。もし、この上に神社があるとしたら、参拝客など皆無だ。そうなると、願い事をすれば、神様への願い事を独占できるかもしれない――と柚季は考える。少しでも勝率を上げるためにも、神頼みでも何でも、できることはすべきだ。願掛け一つでも変わるやもしれない。そう思った柚季は周囲を見渡して誰もいないことを確認すると、思い切って草むらを掻き分け、石段を少しずつ登って行った。


 一度抱いた都会への憧れは簡単には消えやしないし、今もこうやって草むらを抜けた先にある石段を「えっさほいさ」と登っている姿は、格好も悪い。可愛らしさよりも勇ましさ。女らしさよりも男らしさのほうが強く出てしまう。こんなところを彼には見られたくない。しかし、この先にあるかもしれない神社での願掛けで、少しでも勝率を上げられるのなら、ジッとしてなどいられない。

 急な石段を抜けたところで柚季は額に掻いた汗を袖で拭うと、目の前に現れた大きな鳥居を見上げて、しばらく呼吸をするのを忘れてしまう。立派な佇まい、蔦やら苔やらが侵食していても、まるでそのすべてを受け入れるだけの器を有しているかのように、神々しくそこにある。身が引き締まりそうな雰囲気の中、息を呑んで柚季は足を踏み出す。

 石畳の道を進み、鳥居をくぐる。両端にはおそらく像があったのだろう、今となっては鎮座する像の姿は台座のどこにも見当たらない。足元に岩が散らばっているが、それがそうなのかもしれない。

 奥へ進むと本殿があった。本殿にしてはかなり小さい。鳥居が大きく厳粛たる雰囲気だったせいで、もっと厳かで巨大な神社があると思っていただけに残念感が湧いてくる。拍子抜け、しかし賽銭箱も鐘もある。神社としての形が保たれている以上、ここが神社であることには変わりない。御利益や効果も何もわからない神社ではあるが、今の柚季は何にでもすがりたい一心。どんな神様がここにいようとも、願う思いは一つだけ。順序はうろ覚えだが、思い出しながら柚季は財布から小銭を取り出して数枚投入、鐘を鳴らして二礼二拍手、そして心の中で願いを伝える。

 努力はします。勇気をください。できれば運もください。頑張ります。

 柚季は顔を上げる。そして賽銭箱に座っている中年の男を見て眉間を指で押さえた。

「暑いからかな……うん疲れているんだ、私」

 やれやれ、と袖で流れる汗を何度も拭う。袈裟のような服に穏和な表情。銀髪に近い頭髪は短く、がっちりとした身体付きに比べて頬が少しばかりこけ、やややつれている。男は大きな欠伸を漏らし、持っていた酒瓶をゆっくりと傾けて飲み始めた。酒の臭いは本物だ。まさか視覚と嗅覚がおかしくなってしまったのだろうかと、止めどなく流れ出る汗を拭って背伸びをしてみる。首を回して一息吐く。

「……ふう」

「今、目が合っただろ?」

「合ってない!」

 現実逃避、柚季は耳を塞いでその場から離れた。

(誰!? 完全に不審者なんですけど!)

 誰も来ないことをいいことに住み着いている輩だとしたら、すぐに町長に連絡、自警団か消防団に連絡をしてもらわなければ。平穏な田舎町に不審者ほど恐ろしいものはない。誘拐でもされたら、この自然に囲まれた町の中、捜索隊は手こずり、殺される前に救出される可能性など限りなくゼロに近い。

 こんなことになるならさっさと告白して人生初の彼氏と一緒に最高の花火を眺めながら甘酸っぱい青春を謳歌しておけばよかった――などと被害妄想と妄想などをごっちゃにしていた柚季に、未だ賽銭箱の上に座っている男が面倒臭そうな声で訊ねてきた。

「何を一人でぶつくさと言っているんだい、お嬢ちゃん」

「おじさん不審者でしょ? それとも賽銭泥棒? そこから動かないで! すぐに町長に連絡をしてとっ捕まえてもらうから!」

「おいおい。そんなことをしたら大変だぞ?」

「そうよ、大変よ! 逮捕されるんだから当たり前じゃない」

「いやいや、俺が、じゃなくて……お嬢ちゃんが大変だって言いたいわけよ」

 男の言っていることを何一つ理解できない柚季は、携帯を取り出して通報の準備をして見せる。しかし男はまったく動揺する気配も見せず、酒瓶を揺らしてへらへらと笑った。

「あのね、俺は通報してもらっても全然構わない。通報されても俺は酒を飲みながら夏の詩を聞きながら転寝でもするぞ」

「夏の詩?」

「蝉時雨さ」

 男は瞼を下ろして蝉の鳴き声を全身頭から浴びるようにして両手を大きく広げた。その行動に柚季は怯えながらも周囲に耳を傾ける。夏の詩、蝉時雨。人の声も車やバイクの音もない山奥の神社、静けさの中に降り注いでくる蝉時雨は心を洗うかのような、優しい詩のようにも柚季は思えてきた。男は言う。

「生きとし生けるもの、いずれ死に絶える。しかし、愛おしい風景、優しく撫でる風、頬に当たる雨粒、耳を劈く雷の音色、ありとあらゆるものと一緒に命もまた記憶という形で心に刻まれ、いついつまでも胸の奥で鼓動を鳴らしていくものだ。蝉の短き一生を我々はしかと耳で、肌で、全身で……彼らの生き様を感じ取ってあげてほしいと、俺はこの季節が訪れるたびに希うものだ」

 愁うようにして薄ら笑った男は、もう一口酒を飲んで真っ直ぐ柚季を見てきた。汚らしい格好ではあるが、大海を思わせるコバルトブルーの瞳に、神聖さを柚季は感じ取っていた。

 懐かしいような、知らない人ではあるが、いつかどこかで会ったことのあるような、不思議な感覚がお腹の底からふわふわと浮いては、はじけて体中に広がっていく。

「……何か、器の大きな神様みたいな言い方だね、おじさん」

「まあ、神様だからね」

「はい?」

 広げていた両手を戻し、酒瓶にもたれ掛った男は朗らかに言う。

「唐突だから呑み込めないのは当然だ。でもさ、実際に本当の神様だからさ、俺を逮捕なんて人間にはできやしないんだよ。お嬢ちゃんが、もし自警団をここに連れて来ても、俺の姿は見ることはできない。だから通報したお嬢ちゃんが悪戯と判断されて捕まっちゃうかもしれないってこと」

「…………」

 痛い人だと柚季はこめかみに指先を押し当てた。

(神様、神様ね。はいはい、すごい、すごい)

 単なる勝率アップは、痛い人との遭遇をもたらした。何のご利益もない、貴重な青春の時間を無駄に浪費しただけ。しかし、ここで町長や自警団を呼んで騒動を起こしたところで柚季が得することは何もない。不審者ではあるが、賽銭泥棒というわけでもなさそうで、わざわざ騒動を起こし、渦中に自分をを置くことを考えると、騒々しいことこの上ない傍迷惑な話である。しかし、彼の言葉を根底から否定するに至れない自分が、何より柚季には不思議だった。

「証拠は?」

「うーん……証拠って……そりゃあさ、どう証明したらいいのか思い付かないけれど、できれば神様だって証拠を見せてあげたいけれど……じゃあ、どうしたら証明できると思う?」

 知るか、と言いたいところだったが、柚季はしばし考える。そもそも神様など会ったことが無いのだから、空を飛べたり、未来が見えたり、そういうことができるものが神様なのか。

 仮に証拠として変な石ころを取り出されて「これが証拠だ」などと言われてもどうリアクションをとればいいのかもわからない。つまり、証拠も何も、話が噛み合わないことだけは間違いない。しかし、そんな柚季に男は言う。

「そうだなあ。なら、お嬢ちゃんの願い事、言ってみるとしようか」

 無言の願い事。確かに言い当てれば証明の一つになる。虚言だろうと柚季は念のために携帯を手に無言で立ち尽くす。徐々に、男の放つ雰囲気が変わり、自称神様の発言に、柚季は口を開くのを躊躇った。

「この手の願い事はあまり口にしたくはないんだが……致し方ない。そうだね、いやなに、そんなに好きなら告白してしまえばいい」

「ちょっと待った!!」

 ビシッと手の平を突き出して、男の口を遠くから閉じさせる。きょとんとした顔で男は柚季を見ていた。心臓がバクバクと音を立てているのが、耳を澄まさずともきちんとはっきりと聞き取ることができる。それほどまでに動揺した柚季は、顔を赤らめながら訊ねた。

「……どうして、わかるの? 私、言葉にして願い事を言った覚えがないんだけど?」

「んー……うん、いや、俺って神様だからさ、君が願ったことをちゃんと聞いていないとあれだろ? だから、耳を傾けていたから知っているんだよ。これで証明になったよな?」

 柚季は男の笑顔に脱力した。

(……神様?)

 いいや、そんなはずはない。そう思いたい柚季は否定し続ける。否定はする。一応は、する。だが、目の前の男は柚季の願い事を知っている様子だ。家族にも、親友にも話したことのない恋心。さらに「そんなに好きなら告白してしまえばいい」という男の言葉が、完全に柚季の心の中を見透かしていた証拠である。疑いたい。その疑心すらも、男は掃う。

「お嬢ちゃん、信じてもらえた?」

「信じ……はしない」

「ありゃ?」

「だって、そんな、いきなり言われても」

「まあ、そりゃあな。いやしかし、手遅れだったが、俺は嬉しいね。こうして参拝に来てくれる人がいるんだ。四百年生きてきたが、恋愛成就の願いをしに来たのはお嬢ちゃんが初めてだね」

 男は賽銭箱から降りて本殿の扉を開いた。酒瓶を引きずりながら暗い本殿へ進み、男は振り返る。屋根に穴が空いているのか、天井から差し込んだ日差しが男に陰影を生み出す。その姿は、まるで神々しい――

「神様やって四百年、色んな人間を見てきた。お嬢ちゃんもその中の一人だ――この町は、昔から平和だった。荒れ狂うことも、波風立つような大事件も、人が人を殺して恨みつらみを蔓延らせることもない。とにかく、平和だった」

「四百年……信じてはいないけれど、四百年もずっとここにいるわけ?」

「例外はあるが、俺はどこへでも自由に動き回れるわけじゃない。ここにいて、自分の役目を果たすだけ。だからここの清掃も何もできない。したくても、できることとできないことがある。その清掃をやってくれていたじいさんが五年前に死んだらしい、おかげでここは一気に廃れていったよ……草木は伸びて道を覆う。石段の隙間からは新しい息吹が芽生え始める。一度途絶えると、人間はなかなか訪れなくなる。誰かが管理していなければ、そこはすぐに風化し、過去のものになる。ここは、すでに過去のものなのさ」

 寂しげに言う男は無理矢理にといったふうに笑って見せた。

「そりゃあ……こんな場所に神社があるだなんて知らなかったし……あんなに草が生えていたら普通だったら通ろうとする人もいないし……」

「だろう? でもね、七年前からずっと訪れてくれていた少年がいるんだ」

 懐かしそうに、思い出すかのような男の表情は、少し幸せそうだった。

「春と夏と冬。どういうわけか秋には来てくれなかった。でも、七年前からずっと、あの少年はこの神社でお参りをして、願い事を残していっていた」

「……もう、来てないの?」

 恐る恐る訊くと、男は苦笑いを浮かべた。

「去年、ぱったりと途絶えたよ。それから、ここには誰一人として訪れはしなかった……そして今日、君が来た。来てくれた。俺はさ、嬉しいんだ。こうして、俺のためなんかじゃなくてもいい、この神社のためなんかじゃなくてもいい……ただ、ここに気付いてくれた人がいたことに、俺は嬉しくて仕方がない。しかし、如何せん。俺は恋愛成就の神様ではないんだ。だから、君の願いを叶えてあげるのは難しい」

「……じゃあ、あなたは、何の神様なの?」

「俺は本来、災厄を背負う神様だった」

 座り、男は見上げる。つられて柚季も見上げる。高い、高い青空。吸い込まれてしまいそうなほどの青さ。蝉が鳴き、そよ風が木々を揺らし、飛行機雲が白い線を生み出す。じっとりとした汗が首筋を伝って、胸元に向かって流れ落ちていく。

「負となるものを背負う。それが俺の役目だ。不安、不満、恐怖、畏怖、苦悩、苦痛……人間が抱え込むと厄介なものを、少しだけ、背負う。俺はそういう神様だ。この近くに海があるだろう? そこの漁師は昔からここを訪れては災厄を俺に背負ってもらおうと参拝していたんだが……時の流れには逆らえん。簡易な像を漁港に立てたと風の噂で聞いたよ。こんな不便な場所に来るには、やはりじいさんばあさんの足腰じゃあ苦しいもんな。若い連中が減った、という証拠でもあるだろうが、致し方ない」

 雲が太陽を覆い隠し、一時の影が辺りを飲み込む。柚季が目線を下した先、男はまだ空を仰いでいた。儚げなその蒼い瞳がくすんだように見えて、柚季の胸を締め付けた。

 ――この町には多くの神社がある。柚季が知っている限りで三つの神社がこの数年の間に取り壊された。老朽化、そして支援不足。神社も誰かの支援なしには建て替えることも補修することもできない。この男が言うように、神様は神社自体を立て直すような力はないらしい。ただ自分の役目を果たすだけ。それ以外のことは、人間の手に委ねているということ。

 この神社も、いずれは取り壊される運命なのかもしれない。土壁は崩れて竹格子がむき出しになっている個所もある。鐘に繋がる紐も、強く引けば脆く千切れそうだった。

「若い連中はこういう古びた場所は好まないんだろうな。そりゃあ小汚い場所にわざわざ足を運びたいっていう輩はそういないか」

 自虐的な台詞に柚季は何かを言おうとして、別の言葉を口にしてしまう。

「そりゃあ、こんな汚い場所には私だって来たくはなかったわよ。服だって汚れちゃうし、汗掻いてちょっと気持ち悪いし、石段辛いし、ちょっとかび臭いし」

「そんな場所に来てまで叶えたいくらいに、その男の子を好いているんだな。いいね、純愛だ」

 顔を火照らせながら柚季はキッと男を睨んで歩み寄る。

「どうやって私の願い事がわかったのか知らないし、神様とか胡散臭くて信じていないけれど、いい? このことを別の誰かに話したら本当に私は怒るから。一生呪ってやる」

「神様を呪うのはけしからんな」

「毎年来ていたっていう男の子も、きっとここが汚く寂れていったから来なくなったんじゃない? そりゃああんな石段を登らされてこんなに寂しい神社を見たらがっかりよ。だって、あんなに鳥居が大きいのに神社の本殿はこんなに小さいのよ? 私もがっかりしたんだから」

「……まあ、それはすまない」

「災厄を背負う神様だっけ? だったら私にはあんまり関係ないわ。私はこの恋を成就させたいの。その後押しだけでも欲しいなってここに汗掻いてまで来たのに、すごく残念。災厄じゃなくて最悪よ。看板でも作って出しておくべきよ、どうせなら」

「看板か。今の若い子は道しるべがなければ進みたくないようだな……手え、出してみ、お嬢ちゃん」

 立ち上がって、男は賽銭箱の裏側をいじると、柚季が入れた小銭を取り出した。そして柚季が出し渋っている手を強引に掴み、手の平に小銭を包み込ませる。

「何もできなくてすまなかった。お嬢ちゃんのために何かできないか、一生懸命考えていたんだが」

 胸が痛む。しかし、言葉は強くなってしまう。

「当然よ。詐欺よ、これ。何の神様だとかわかるようにしておいてよ」

 本当は、どんな神様でも良かった。しかし、素直になれずに柚季は踵を返して神社に、そして神様を名乗る男に背を向けた。

「お嬢ちゃん。確かに俺は災厄を背負うだけの神様だ。だけど、曲がりなりにも神様だ。できることとできないことはあるが、それでも俺は誰かのために何かをしてあげたい――そういうふうに生きてきた。だから、もし何かあれば」

「ここに来いって? ……こんな神社、すぐに潰れちゃうわ」

 走り出し、柚季は鳥居を抜ける。

(どうして怒っているんだ、私は)

 自分の恋が上手くいっていないから――そう柚季は歯噛みする。これでは、鬱憤を晴らしているだけだ。人に当たって、ストレスを発散しているだけの性格の悪い人間。しかし、そもそもあの男が神様だと決まったわけでもない。それに、自分にだけ見える、などと漫画のような展開をどう信じられようか。他に誰かがいればわかることだが、もう二度とこの石段を登ることはない。あの神社はいずれなくなる運命にある。別に胸は痛まない。

「そういえば……」

 石段の中腹で足を止め、ゆっくりと肩越しに上を見る。男は言っていた。「手遅れ」だと。もしかしたらあの男が神様だとしたら、もうすでに悟ってしまっているのかもしれない。あの神社がもうじき意味をなさなくなることを。誰の記憶からも消え去ってしまうことを。毎年訪れていたという少年が唯一の――しかし、もう誰もあの神社に足を踏み入れない。柚季も踏み入れない。誰にも知られず、ひっそりと消えていく。

「……酷いこと、言っちゃったかな」

 古きは大事にするべし。しかし、誰しもそうではない。柚季は都会に憧れているのだ。

 新しいものがいい。綺麗なもののほうがいい。冷たいよりも温かいほうがいい――ふと、さっきの神社を思い出す。古くて、汚くて、温かさはない。しかし、どういうわけか柚季は彼に、そしてあの場所に懐かしさを覚えた。小さい頃に訪れたことがあるのかもしれないが、はっきりとした記憶はない。両親は一般企業に勤めていて地元で働いてはいない。正月に立ち寄る神社も決まっていて、あの神社とは縁遠い家庭とも言える。それなのに、と柚季は石段を再び下り始める。

「神社がなくなったら……神様はどこに行っちゃうんだろ……」

 住む場所を失った神様は、信仰心の薄れた神様は、その後どうなるのだろうか。振り払っても、振り払っても柚季の頭から離れない疑問。あの男は別に柚季に悪いことをしたわけではない。それに、賽銭箱に入れたお金も返してくれた。悪いのは、この口だ。甘原柚季の口の悪さだ。不審者ではあったが、意地になって、心にもないことを言ってしまった。

 忘れよう。そして、これからのことを考えようと柚季は気持ちを入れ直す。最後の石段を下りて草むらを抜ける。まだまだ夕方には早い。浴衣は姉から借りて、髪形を決める――足を止めて、ふと道沿いの錆びたガードレールに歩み寄る。古い家が立ち並び、少し遠い海は穏やかな揺らめきが陽射しを受けて煌めいている。車が走る音よりも海鳥の鳴き声や猫と犬の鳴き声、そして蝉時雨のほうが多い。くすっと笑ってしまった柚季は、本当に田舎だなあ、と躊躇わず錆びたガードレールに手をついた。都会に憧れている。それは変わりない。最新のものを見たい、触れたい、感じたい。でも、こうして自分の生まれ育った町を一望して、安堵している自分がここにいることがむず痒くなる。

「都会に行っても……戻ってきたくなるのかもなあ……」

 嫌いではない。この町は好きだ。家族も、そして、意中の人も好きだ。ここには、自分の好きなものがある――あの男は、この町のことをどう思っているのだろうか。振り返って山を見上げる。四百年ここにいると言っていたあの男の目には、この町がどう見えてきたのだろうか。

 平和だったと言っていた。たくさんの人が昔は参拝に来ていて、でも、時代の移り変わりと町民の年齢変移で訪れる人がいなくなった。まるで用済みのように、清掃もされず、ぞんざいな扱いをされて朽ち、それでもあの自称神様はこの町を好きだと言ってくれるのだろうか――馬鹿馬鹿しいことを考えて、と柚季は自嘲するも、やはり、どういうわけか気になって喉の奥がつっかえる。

「一人で、ずっとあそこに居て、寂しくないのかな……」

 自分は恋い焦がれた相手に学校で会えない土日が苦しくて仕方なかった。月曜日になって学校で会える。その瞬間と平日の間が幸せだった。絶対に会える。しかし、夏休みのような長期休暇は辛いの一言に尽きる。好きな人に会えない苦しみ――あの神様は、毎年来ていた少年に会いたいと思っているはずだ。

(きっと、私と同じような気持ちなんだろうな)

 柚季は俯いて下唇を噛む。夏休みが終わればまた会える自分と、ずっと会えないであろう神様。どちらが幸せか、などではない。

 今の柚季は好きな人に告白すらしていないのだ。夏休みを一緒に過ごしたいと願い、ずっと一緒に居たいと願っている。まだ、自分の恋が叶ったわけではない。どちらが幸せなど、今の自分が言えるはずもない――

「駄目。私はあの人に告白するんだから。行き当たりばったりだけれど、計画的な恋愛よりもそっちのほうが初恋の色はより濃くなるはず! 明日、必ず約束とるぞ!」

 拳を突き上げたのち、柚季は坂を下りていく。男には悪いが自分を優先、恋を優先する。嘘でも真でも、明日が勝負のとき。振り返りそうになったが、柚季は踏み止まり真っ直ぐ坂を下って行く。蝉時雨は相変わらず、夏を彩っていた。

「今年こそは必ず――ん?」

 蒸し暑さに顔をしかめながら、目を細めて遠くを見る。いつも腰掛けている石垣から少し歩いたところ、ほとんど錆びてしまっているガードレールから身を乗り出している女の子がいた。

「見たことない子……観光客かな」

 しかし、この時期の観光客なら、ここから遠く下った先にある、露天や土産店が多く集まった場所をうろついているはず。この近辺に観光するような場所もない。神社や祠はあっても、歴史的価値云々で訪れる人は、地元民である柚季は見たことがなかった。しかも、かなり若い。自分より少し大人、といったところだ。

 道に迷ったのだろうか、間違って山道に入れば、確実にこの深い山で遭難する。この悠禅町で事件という事件が起きたことは柚季が生まれる前から一度もない。騒がしくなるのは、人口の大半を占めるお年寄りが亡くなった時や、台風といった自然災害の時だけだ。さすがに、都会に焦れているとはいえ、事件が起きると気分が悪い。

「声かけてみるかぁ……」

 しょうがない、と柚季は歩み寄る。ひび割れてしまったアスファルトの照り返しに唸りながら、女の子のほうへ歩み寄り――この灼熱の太陽の下、柚季の背筋が凍り付く。身を乗り出していた女の子の身体が、ゆっくりと傾く。

 ――飛び降り!?

 まさか、まさか、と柚季は走り出す。女の子は真っ直ぐ前を向いたまま、しかし身体は今にもガードレールの先、崖へと向かって傾いていく。

「待ったぁあああっ!」と柚季は手を伸ばし、女の子の服を掴んだ。一気に引っ張り、引き寄せると、女の子はとても驚いた表情で柚季の腕に抱かれる形で倒れ込む。

「飛び降りは駄目! 命は大切に!」

 混乱していた柚季は必死に引き留めるような言葉を絞り出すが、どうもこれ以上思い浮かばす、とにかく女の子をなだめようとして――女の子は困り顔で首を傾げた。

「――私はただ、遠くを見ていただけですよ?」

 いつもの石垣に腰掛け、流れる汗を何度も拭う。傍に生えている木が、辛うじて木陰を生み出し、涼しさを柚季に与えてくれている。その柚季が勘違いで出会った女の子は、石垣から遠くを眺めていた。

「身を乗り出してまで、何か探していたの?」

 自分が早とちりしたことをなかったことにしたかった柚季は、恥ずかしさから顔を真っ赤にさせながら訊ねる。女の子はきょとんとした顔を柚季に向けてから、目線を遠くへ戻した。

「人です」

「ふうん……男の子?」

 もしや彼のことではないだろうか、意地悪な気持ちが湧き上がってくるが、女の子は遠い目で「ずっと会っていない男の子です」と悲しげに答えた。

「あなたはこんなところで何を?」と女の子は訊ねて来る。

「私はちょっと……恋愛成就のお願いをしようと思って、そこの上にある神社に行ってきたところだけど、自称神様のおじさんがいるだけで、恋愛成就どころか願い事一つできずに戻って来たところ」

「この上の神社……そうですか」

 変なおじさんだったよ、と話した柚季に、女の子は微笑んで目を瞑った。

「――この町には、たくさんの神様が住んでいますから。もしかしたら、そのおじさんは本当の神様だったのかもしれませんよ?」

「まさかぁ」

 とぼけて言って、心から言えていないことに柚季は気付く。

「恋愛、成就すると良いですね」と女の子は言う。

「すると良いんだけどね」そう言って、柚季は苦笑いを浮かべる。「そうだ、あなたの名前は?」

「……ふみ、といいます」

「私は柚季、よろしく。文さんはやっぱり花火目当てでこの町に?」

「まあ、花火は毎年楽しみにしています」

「だったら、今年は最高の花火が見られると思うから、見てあげて」

「? ……はい、ではよりいっそう楽しみにしています」

 他人だから、だから気持ち良く話すことができる。もし身内であれば、恋愛成就云々という話だけでへんな噂が立ってしまう。もう少し話していたかった柚季だが、この炎天下、紫外線はお肌の大敵だ。文と名乗った女の子と別れて、しばし歩いて行ったところで、何気なく振り返ってみる。さっきいた場所に、文の姿はもうなかった。さすがに崖の下に、なんてことはないだろうと一応確認して、呟く。

「少し変わった子だったけど……うん、明日はきちんと告白するぞ」

 今一度拳を突き上げて、柚季は今年の夏休み一味違うものにしてみせる、と意気込んだ。

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