助言3:好きな気持ちを思い立ったらすぐ行動しなさい
「まず、褒め言葉から。やればできるじゃん」
宿題をする僕の後ろで、リコが語りかける。振り返れば、まるで自分の手柄のようにドヤ顔を決めるリコがいる。
「それと、アンタが桃ちゃんに片想い中なのも、これからみんなに知れ渡りそうで良かったじゃん」
リコはすぐさま僕の核心を揺るがすようなことを言ってきた。
「明日からアンタは、桃ちゃんとの恋を応援してもらえる立場かもよ」
「そんな純粋なもんじゃないよ。冷やかす奴だっていたの、見ただろう。中にはそれどころか、桃ちゃんを泣かせたら許さないって脅してきた女子もいたし」
「男なら、どんなことにもビビッちゃダメなのよ」
リコが真顔で僕を諭した。
「そりゃ、『好きな奴いるの? ヒューヒュー』とからかったり、『女泣かせたらアタシが承知しねえからな』とか言ってアンタを巴投げしちゃったりしそうな人もいるとは思うけど」
「悪いけど、瑠奈の得意技は大外刈りだよ」
「ならアンタを大外刈りしそうな人もいるとは思うけど、いちいちそんなことで一喜一憂していてはダメ」
リコが僕の近くへ飛びついてくる。
「今のアンタの人生で一番大切なものは何か言ってごらん?」
「……恋」
「誰との恋?」
「……桃ちゃん」
「それなら、今は桃ちゃんを彼女にすることを一番に考えればいいのよ。あっ、もちろん人間的なモラルは外さないでよね」
「空気読めないオバケがよく言うよ」
僕は呆れて、机の方を向きながら言った。次の瞬間、僕の頭蓋骨が、再び見えない万力によって圧迫され、砕けそうになった。
「ううっ、またこれかよ、やめろ!」
リコが、再び拳を、頭一つ分の距離を空けた状態で向かい合わせ、力を込めている。そしてそれぞれの拳を、グリグリと回している。
「これでも私は、あなたのためを思って適宜または逐一アドバイスを送ってあげているんですけど。それが空気読めないって? だったらアンタのこと、二度と空気吸えなくしてあげてもいいのよ?」
「ごめんなさい。申し訳ありません。だから僕をこの苦しみから解放して」
「恋煩いですか?」
「違う! いや、それもちょっとあるけど、とにかく頭があああああっ!」
それからしばらく時間が経った後。僕は疲れに甘えて浴槽の縁にアゴをもたげていた。
「お前にグリグリやられた名残りが、まだこの頭に残っているよ」
「だって私のことを、余計なお世話みたいに言うから」
同じ湯舟の中で、リコがすねた様子を見せる。
「余計なお世話って言ってないよ。せめて僕が桃ちゃんやクラスメートとやり取りしている時は、空気を読んでくれと言ってるんだ」
リコはこっちを向かないまま、また両手でグリグリの形を作る。
「だからそれやめろ!」
僕が頭を押さえながら叫ぶ。この時のリコは大人しく両手を引っ込めてくれた。
「ところでさ、桃ちゃんを彼女にしようプロジェクト、これからどうするの?」
「さあ、どうしようかな? また彼女と色々お喋りしたいな~。明日は何喋ろうかな~。映画の話とか?」
「アンタ、今、流行りの映画知ってるの?」
「う~ん、何だろう。『ル・ル・ワールド』とか」
「それ、もう古いよ?」
「別に古くないだろ?」
「だってそれ、去年の夏に流行った映画じゃん。今はもう4月なのに」
「まだ公開してから1年経ったわけじゃないじゃん」
「アンタ、ホント鈍いわね。やっぱり鈍い頭はこうやって……」
とリコは再び万力のポーズを作り出し、僕をドキッとさせる。
「だからもうやめて!」
僕は再び頭を押さえながら叫んだ。
「何よ、まだ極(き)めたわけじゃないのに」
「まだ? て言うことは極めようとしたんだろ?」
「そんなに極めて欲しいんだ」
リコが悪意ある笑みから、向き合わせた拳を突き合わせる素振りをする。僕は慌ててリコの両手を引っ込めようとするが、生憎なことにまたすり抜けてしまう。
「オバケは人体に触れることはないのよ。勉強好きのくせに、こういうのはなかなか学習しないのね」
「うるさいなあ、もう!」
僕はイラッとしながら、素手でお湯を思いっきり弾き、リコにかけた。しかし、彼女はビクともしない。
「知ってる? 私はオ・バ・ケ」
もうどう足掻いても無駄か、と僕は諦めた。次の瞬間、僕は重大な事実に気付いた。
「ちょっと待って。と言うことはお前、この風呂の湯加減」
「何よ。雰囲気だけでも味わっちゃ悪い?最もオバケは現世に行くときはクレアパウダーを全身にまとって、この世のほとんどの汚れを寄せ付けないから、積極的にこんなことする必要もないんだけどね~」
とリコは自慢げに語った。
「で、明日は桃ちゃんと何を喋るの?」
「ああ、その、何て言うか……」
出まかせに話のネタを思いつこうとするが、悲しいことに僕の頭は空っぽのままだった。
「何喋ればいいか分からないんでしょ?」
リコがねちっこく僕を問い詰める。
「別に、そんなこと」
リコが再び万力のポーズ。
「すみません、何を喋ればいいのか分かりません」
「あれはどうなの? 『爆男に気をつけろ!』とか言う恋愛リアリティーショー」
「あっ、そうだ」
「あれさえ見ておけば確実に良い話のネタになるんじゃない? だってそれは高校生の男女四人ずつの恋愛物語。しかし男子側のうち一人は爆男。女子たちは爆男に引っかかることなく、本当の恋を成就させなければならない。まさに画期的かつ過酷な青春リアリティーショー」
「確かにそんな風だったけど、君はオバケなのに、どうやってそれを知ったんだ?」
「その番組なら、私が高一の時に始まった。私、普通にファンだったんですけど」
「あっ、そうか」
「でも、あのトラックの陰から飛び出してきた【車種名】のせいで、私はこの有様。タブレットにも触(さわ)れやしなくなっちゃった」
「それは残念だったな」
僕は再び語られた彼女の悲劇に、しみじみと同情した。
「それ以来、アドバイスする相手を探すついでに、私は忍び込んだ部屋で、タブレットで『爆男に気をつけろ!』に夢中になっている女子を見つけるや否や、こっそり覗き見て楽しんでいる」
人間がやったら法的に完全にアウトなことでも、ゴーストなら大きな特権と化すやり方を聞き、僕は愕然とした。
「その目は何? 今から通報? 現世の人間を使って私を捕まえられるのなら、是非捕まえてごらんなさい」
リコが上から目線で言い放ったが、僕は構うだけ無駄だと思い、再び浴槽の縁にアゴをもたげた。
「ところで平太、宿題は終わったの?」
この一言だけなら、リコも母親じみているように感じる。
「終わったよ」
僕は、やらなきゃいけないがちょっと辛いことをついつい後回しにするタイプではないので、当然のようにそう答えた。
「じゃあ、これより私からの宿題を課します」
「何だよ?」
別に僕は宿題を嫌と思ったことなど微塵もなかったが、こんな夜に、それもオバケから追加の宿題となると、さすがにちょっと嫌な予感を覚えた。
「今から『爆男に気をつけろ!』を見るわよ」
「えっ?」
「何よ、『えっ?』って」
ギョッとしたリアクションを真似るリコには、ちょっと腹が立った。
「ムスッとしないの。明日桃ちゃんとお話しようとしても、お話できなければ、またあの時みたいに嫌な沈黙が流れて気まずくなるだけよ。むしろそっちの方がいいとか?」
「そんなことないよ」
「それじゃあ、『爆男』見るわよね? 最もあれは毎週土曜日夜10時から放送だけど、前回の分は今なら次の放送開始までの間に無料見逃し配信中だし」
「分かった、分かった。見ればいいんだろう、見れば」
僕はリコを煩わしく思いながらも、彼女の要求を受け入れた。しかし、次の瞬間。
「うがああああああああああっ!」
リコの容赦ない万力拳が、僕を襲った。
「何よその投げやりな態度。それが恋愛成就を願う男子の態度ですか? ええ? 答えなさいよ」
リコが冷徹なジト目で僕を責め立ててくる。
「頭が、頭がああああああああああっ!もうやめてくれええええええええええっ!」
「平太!?」
母が仰天して風呂場に駆け込んできた。僕が母の姿に驚いた時には、頭蓋骨を締め付ける悪魔的な圧力は、一瞬で消え去っていた。
「あなた、頭がどうしたの?」
「いや、何でもないけど」
「無理しない方がいいわよ。頭が痛いなら、風呂に入ってのぼせた時に、危ないから、早く上がりなさい」
僕は素直に母に従った。しかし、浴槽から出たところで、挑発的な目つきで舌を出しながら、両手の中指をおっ立てるリコの姿に気づいてしまった。
「お前、だからそれやめろ!」
すぐさまリコの指に掴みかかる。そして掴めないことをあっさり忘れていた自分に気づく。そんな僕を嘲笑うかのように、リコはその中指で百裂拳的なアクションをかまし僕を威嚇する。
「本当にどうしたの!?」
母が心配のあまりにちょっと語気を強めてきた。
「リコが!」
「リコ?」
母が浴槽を確かめる。
「誰もいないけど? もしかしてお熱? 風邪でも引いてる?」
「いや、風邪なんて全然引いてないけど」
母は構わず、僕の額に手を当てる。
「熱はないみたい。でも今日は着替えて早く寝なさい。宿題は終わったよね?」
「終わったよ」
「じゃあ、ゆっくり休んでね。ところで何でお風呂に海パン履いてるの?」
母の指摘に、僕は不意を突かれた。リコに全裸を見られたくなくて履いていたが、リコの存在は母に見えない以上、そんな説明はできない。
「いや、たまにはお風呂でも水着で入ってみようかなって」
と、作り笑いで誤魔化す。
「お風呂はプールじゃないんだけど」
母はやれやれという感じで言い残して去った。
「早く寝ちゃう気? 仮病使って」
風呂の縁で頬杖をついていたリコがさらにややこしい言い方で僕を追い詰める。
「僕、マジで病気でも何でもないから!」
「じゃあ『爆男』見るわよね? 寝たら万力拳じゃ済まないわよ」
もはやリコと母、どっちが僕の本当の保護者か分からなくなってきた。
「母は本当に僕のことを病気じゃないかと心配しているんだよ。ここは大人しく寝たいんだけど。ネット番組なんか見ていたら、いよいよ怒られちゃうかもしれないよ」
「ネット番組見なきゃ私が怒るわよ?」
「僕の母はお前ですか? 違いますよね?」
「アドバイザーだって、立派な保護者です」
「屁理屈を言うな」
「屁理屈じゃないもん。これなら分かるわよね」
リコは風呂場を飛び出すと、洗濯機の上にあった自らのローブのポケットから、一枚の紙を取り出して広げた。
「はい、これ契約書!」
リコが突き付けた「契約書」には、こう書いてあった。
私は、自身の一世一代の願望を叶えるため、ファンタストピア国のゴーストアドバイザーのお話をちゃんと聞いて、自身の大望成就のために一生懸命努力します。
署名:十文字平太
願望:彼女ゲット
ゴーストアドバイザー:内山莉子
「ちょっと待ってよ! 僕、こんなの見覚えないけど! いつサインした!?」
「昨日、て言うかアンタが桃ちゃんに話しかけて、変な男子に絡まれてボコボコにされた日の夜。私はアンタの部屋にこっそり入るなり、サインさせた」
「どうやって!? 僕、寝てたんですけど!?」
「この紙をアンタの近くにかざしたら、アンタらしい筆跡で、署名欄にしっかりアンタの名前と願望が浮かび上がった。これで契約成立」
「そんなの認められるかよ! 完全にそっち都合じゃん! て言うか一方的に契約押し付けてきてんじゃん! いいか、契約ってのは、ちゃんと双方の合意がないと成立しないものなの! それに何これ、こんなラフな感じで、契約書って言えるわけないだろ! それに、筆跡が僕の名前も含めて、全部一緒なんだけど!」
「ファンタストピア国の書類って大体こんなもんよ!」
「いや、日本だったらこんな契約書見せられたら、『ナメてんのか!』って怒鳴られて、即刻破り捨てられるから! とにかく、こんな契約無効だ!」
「へえ、じゃあ、桃ちゃんを彼女にできなくて、一生童貞のままでいいんだ」
リコの嫌らしい切り返しに、僕は一瞬動揺する。
「私がアドバイザー辞めたら、あなたは一人。一人で桃ちゃんを彼女にできるの?」
「で、できないことはないよ」
「嘘おっしゃい。私がいなかったら、アンタはずっと桃ちゃんの姿を遠くから指をくわえて眺めているただのモジモジ童貞メガネに甘んじていたくせに」
図星を突かれた感じがして、僕は恥ずかしくなった。
「桃ちゃんとお話できたの、誰のおかげかな?」
リコのジト目が、僕の視界にドアップになった。
「リ、リコのおかげです」
僕は目を逸らしながら言った。
「パチパチパチ、よく言えましたね」
リコが気のこもっていない拍手をしながら言った。
「それじゃあ、一緒に『爆男』見る?」
「一緒じゃなくていいよ。お前と付き合うわけじゃないから」
「私があの番組好きなの。一緒に見せて」
「仕方ないな」
その後、僕たちはベッドの上で『爆男』を見た。それはシーズン最終回で、学校で桃ちゃんが見ていたエピソードを最初から最後まで見た形になったのだが、改めて男子組の中に爆男がいて、それに告白してしまった女子の哀れな末路を見たときは、思わず見ていられなくなるほど可哀想だと思った。やっぱりこれは、高校生にとっては過酷過ぎる。青春リアリティーショーという爽やかな響きとは裏腹な残酷さが、タブレットの画面から浮かび上がってきていた。
「さあ、行ってらっしゃい」
「うん、分かった」
翌日の昼休みに、僕はリコにB組の教室へ送り出されようとしていた。
「あっ、ちょっと待って」
「ん、何?」
リコの急な引き留めに僕は戸惑いながら、回れ右をした。
「そろそろ桃ちゃんの連絡先聞こうか?」
リコのさらなる無茶ぶりに僕の体が震え上がる。
「いや、まだそこまでしなくても……」
「何甘えてるの? 連絡先聞かなかったら、帰り道に人前でアンタの手足を操って」
「いやいや、やめてくれ! それ以上聞きたくない!」
「じゃあ聞くよね?」
「何でそんな唐突に指令を出してくるんだ? しかも連絡先? まだ僕とリコの関係はそこまでの段階じゃないんだけど」
「あ~あ、石橋を叩きに叩いてぶち壊して通行不能にして、器物損壊罪で逮捕される男みたい」
「何でそこで犯罪者扱いされなきゃいけないんだよ」
「あのね、好きな人は恋人関係になってから連絡先交換するものだと思ってる? そんなの遅い遅い、アンタは鈍い鈍い」
「せめて同じ言葉を二回も繰り返さないでくれる?」
「ちょっとでも誰かを好きだと思った地点で、その誰かと連絡先を交換しちゃうのができる人のやり方よ」
「僕、そんなに軽くないよ」
「アンタが重すぎるのよ。石橋どころか、アンタの体質が石そのものじゃないの?」
「イシイシうるさいな」
「モテる人間は高校生でも女子の連絡先など2、30人知ってるのは当たり前よ。は~い、さっさと行ってらっしゃい」
リコは言うだけ言って僕から離れる。そこで「どうぞ」とばかりに向こうへ手を差し向けていた。僕はやれやれと思いながらB組の教室へ入った。
「あの、桃ちゃん?」
「平太くん」
その時の桃ちゃんの机上には、またもタブレットがあった。
「昨日、見逃し配信中だった『爆男』のシーズン最終回を、改めて最初から最後まで見たんだ」
「そう、もしかしてあなたも恋愛に興味あるの?」
桃ちゃんの何気ない一言が、僕の心を余計に緊張させた。嬉しさもちょっとあったけど、この先に進んだときに自分が、桃ちゃんとの関係性がどうなっているのかが怖かった。
「どうして今、ビクッとしたの?」
「いや、何でもないよ。恋愛には、ちょっと興味あるかな」
とここは謙虚にしておく。
「そうなんだ。じゃあ、これ見て」
桃ちゃんがタブレットを僕の方に傾けた。見ると、今度は地下道にいる制服姿の三人の女子高生が、牢屋の鍵を開け、三人の男子高生を助け出している。明らかに昨日見たものとは別のリアリティーショーだった。
「あの、これ、何?」
「『恋愛ダンジョン』」
「れ、恋愛ダンジョン?」
「そう、地下室で出会った六人の男女が、「恋愛ダンジョン」と言われる地下部屋で真実の恋を求める恋愛リアリティーショー」
「へえ、そうなんだ」
とうわ言っぽいことを呟いている時には、僕は一瞬にしてタブレットの中に釘付けになった。僕自身、実際にモテない地獄の牢屋に閉じ込められた囚人みたいなものだから、桃ちゃんにこうやって助けられたいと、妄想タイムになった。
「平太」
桃ちゃんが僕を言いながら、その目前で手をひらつかせてきた。この間のハグほどではないが、急なアプローチに僕はハッとした。
「ご、ごめん!」
「あなたの気持ちはよく分かるわ。私も恋愛リアリティーショーによくはまっているから。日本、海外問わず」
「あの、海外だったら、何があるの?」
「アメリカだったら、失恋したカップル4組が集められて、海辺のシェアハウスで暮らす『マッドネス・オブ・ラヴ』とか」
僕は耳を疑った。まさにそれしか形容できない感覚になった。別れた恋人同士が再び顔を合わせるだけでも複雑なのに、それが4組、しかも同じ場所で暮らさなきゃいけないなんて。モテないのもキツいが、それもそれでちょっとキツい。「爆男に気をつけろ!』もなかなか過激な企画だが、アメリカのテレビ制作会社の意地悪ぶりはそれを遥かに喰ってしまっている。
「しかも、四日目になったら、ある一組のカップルが分かれた原因となった、彼氏の浮気相手もやって来たりして、もうすごい展開になっちゃうの」
修羅場過ぎる!そんな状況、僕のメンタルじゃ到底耐えられない!憧れの桃ちゃんとこうやって話すだけでも、常人以上に神経をすり減らしているのに、そんな修羅場過ぎる状況に対応できる自信など、到底ない。高所恐怖症の人がスペースシャトルに乗って宇宙に行くのと一緒だ。
それ以上に凄いのは、桃ちゃんが過激なリアリティーショーを、爛々とした目で話していること。眩しすぎる! こんな形で女子の瞳から放たれるきらめきを受けるなんて、夢のまた夢にも思わなかった。
清純な華憐さと、話す内容の物々しさのアンバランスが、僕の心を再び迷わせる。僕は後ずさりし、思わず出口の方を向いた。
リコが腕を組んで、監視するような目を僕に向けながら漂っている。こちらの視線も、僕の心を容赦なく乱すものだった。これにより、今逃げ出せば、僕の運命は地獄の奥底へと葬られることが予期できてしまった。だから僕は、また桃ちゃんと向き合う。
「ねえ、教室の出口なんか見て、どうしたの?」
僕は「しまった」と思った。桃ちゃんをはじめ、僕以外の誰もが、リコの姿が見えないはずなのに、ついつい僕が気にしてしまうばかりに、その様を不審がられてしまう。学校の通知表では、中学から体育以外は3以下になったことがないのに、どうしてこれだけは学習できないんだと呪いそうな自分をこらえる。
「いや、別に何気なく眺めてみただけ。よくあるじゃん。何気なく明後日の方向をついつい見ちゃう時って。例えそこに何もないと分かっていてもね」
「アハハ、確かに。思えばリアリティーショーの高校生たちも、よくやってる」
よし、自然な形でしのいだ。
「そうだ。平太くん。今後のために、連絡先交換しない?」
出た。リコからの急な追加指令が、桃ちゃんから切り出すことにより、クリアが間近に迫ることになった。
「ええ、いいの?」
「じゃあ、ケータイ出して」
と言いながら桃ちゃんはすでにピンク色のカバーがついたスマホを取り出していた。僕もどぎまぎしながらスマホを取り出す。
「それ、赤外線通信対応している?」
「う、うん!」
急に張り詰めた緊張から、思わず必要以上にアクセントを込めて返事してしまった。
「どうしたの、何か顔が赤いよ?」
「えっ、そ、そうかな?」
桃ちゃんはいきなり席から立ち上がると、僕の額に手を当てた。何と柔和な触れ心地だ。僕は一秒、二秒、三秒とその手触りを感じるうちに、この世に生きられる有難みを実感した。目の前の、センター女子、いや、センター天使ミカエルのタッチを受けることで、僕はモテとは無縁の暗闇の人生から、一気に光に満ちた天上の世界へ招かれたとさえ思った。
……そう考えているうちに、僕の全身から力が一瞬で失われた。僕は重力に抗えなくなり、床に崩れ落ちた。
「どうしたの?」
桃ちゃんの動転したような声が聞こえて、僕はハッと我に返る。
「ご、ごめん、何でもないよ」
僕は気まずくなりながら大丈夫だとアピールした。
「やっぱり熱でもあるんじゃ」
「いやいやいや、本当に大丈夫だから」
僕は必死で桃ちゃんの伸ばす手を遮った。
「無理しないで。スマホの赤外線通信は私がやってあげる」
桃ちゃんはそう言って、僕のスマホを取った。
僕のスマホが、桃ちゃんの手に渡った。彼女は一人で、自分のスマホと僕のスマホを赤外線通信させることで、互いの連絡先を向こう側に送っている。
何よりも、僕のスマホに、あの桃ちゃんの指紋が。あ~、やっぱりもう駄目かも。そう思った時には、僕は教室の床で大の字になり、天を仰いでいた。
「はい、できたわよ?」
桃ちゃんの声で、僕は思わず起き上がる。彼女から差し出されたスマホに伸ばす手は、震えている。ここでスマホを取れば、僕の指紋が彼女の指紋に重なる。二人は遂に、リンクする!
「ねえ、どうしてそんなにためらっているの?」
桃ちゃんが首を傾げる。僕は強引に手を急がせ、スマホを掴んだ。ゆっくりとスマホを持ち替えつつ、桃ちゃんの指紋が加わった感触を確かめる。そっとスクリーンに指をすべらせること数度、連絡先をチェックすると、「聖護院桃」という名がリストに加わっていた。メールアドレスと電話番号がしっかりとセットになり記録されている。この事実は、僕が今、天国にたどり着いたという告知か。僕は立ち上がり、桃ちゃんに頭を下げる。
「どうもありがとうございます!」
「平太くん!」
「連絡先、教えてくれて本当にありがとう」
「うん、こちらこそ」
「じゃあ、僕は今から教室に帰っていいかな?」
「いいわよ」
「分かった。また、明日会おう」
「明日まで待たなくても、折角連絡先交換したんだから、メールしてくれていいわよ」
「そうだね、ハハハ。それじゃあ」
と言って出口に目を向けた僕だが、そこにはリコはいない。廊下に出てあたりを見回しても、リコの姿は見えない。連絡先交換により一段落がついたことで、彼女は消えたのか。僕はそんなことを考えながら、A組の教室へ戻って行った。
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