助言2:気になる女子がいたら、例え彼女が高嶺の花でも勇気を持って話しかけなさい

 そんなこんなでお昼休みである。

 さっさとハムカツサンド二つを平らげた僕は、それらを包んでいたラップを詰めたビニル袋を丸めて教室入口近くのごみ箱に押し込む。

 僕はB組の教室の入り口から、桃ちゃんの様子を窺う。


 世界史の教科書を読んで、「ああ」と納得している。どうやら彼女も勉強熱心なのか、それともただ理解しきれないままどうしても気になった箇所が腑に落ちただけなのか。

 桃ちゃんが教科書を閉じたタイミングで、僕は意を決して教室の中へ入る。桃ちゃんに近づく度に、体が強張るのを感じる。でも、ここで歩みを止めるわけにはいかない。何としても彼女に話しかけるんだ。オバケのリコの指令だからって言うのもあるけど、とにかく僕はクソマジメガネな自分と決別したいんだ。


 そう決め込みながら桃ちゃんの方へ足を進める僕を、当の彼女は屈託なく笑いながら見つめていた。

「あの!」

 僕は緊張の余り、声のボリュームを今ひとつ制御しきれなかった。

「どうしたの? 同じ側の手と足が一緒に出てたけど」

「えっ!?」


 確かに、桃ちゃんの方へ歩いている間、何か手と足に違和感があるなとは薄々思っていた。まさか、本当に右手と右足、左手と左足が同じタイミングで前に出るのを繰り返していたなんて。

 周囲を見渡すと、他の生徒たちが僕を見て、クスクス笑っている。見知らぬ小太りの男子が「何アイツ、女の子と話すのにそんなにテンパっちゃって、バカじゃねえの!」とデリカシーなく声を上げながら爆笑してあがる。よく覚えとけ。僕が百倍強くなったらお前の家へ殴り込んでやる。


「それにしても、随分痛々しいお顔。本当に大丈夫なの? もしかして両方の頬とも傷ついちゃったの?」

 桃ちゃんが心配そうに僕に問いかけてきた。

「いや、片方は今日学校行く時に転んでできた傷だから」

「ウソ、大変」


 桃ちゃんがいきなり僕に抱き着いてきた。その瞬間、桃ちゃんの全身の程よい温もりが、僕の体中に伝わってくる。桃ちゃんのバランスよく膨らんだ胸が、僕の体に見事に当たっている。しかし、彼女の体からの温もり以上に、僕の体内は一気にヒートアップした。


 マズい、目が回りそうだ。女の子にハグされるの、確かに夢には思っていた。しかし相手は、校内一の美少女「センター女子」、すなわち高嶺の花。すなわち、ひめさゆりかこまくさか。高山に咲き誇る、到底、手の届かない花のように可憐な美少女に、こんな僕が抱いてもらっていいのか。そう思った瞬間、自分の中で必死に抑え込んでいた、弱虫なクソメガネの自分が一気に頭を出した。


「ごめん!」

 僕は強引に桃ちゃんのハグを解くと、一目散に教室から飛び出してしまった。一気にA組の教室へ駆け戻り、バタバタと自分の席へ戻る。乱れた息を必死で整えた。僕が走ってきた跡に、気まずさが漂っているのを背中で感じる。教室内の生徒たちは、僕の異変を何だと思っているに違いない。でも、今の僕にとっては、それどころではなかった。


 その時、僕は、重大な事実に気づいた。

 これを、リコに報告しなきゃならない。

 僕の記憶の中には、確かにあった。今でも新鮮な形で脳の中に残っていた。て言うかさっき聞いたばかりのことだから、忘れるはずもない。


「それじゃあ、放課後、中間報告してもらうからね。バイチー」


 リコは僕にそう言っていた。クソマジメガネのガリ勉で今まで通してきていた自分のことだから、嘘をつくなんて、しょうもない悪童じみた真似なんて出来っこない。まず僕自身がそんなこと許せない。素直に言うしかないか……。


「ごめん!」

 放課後の路地裏で、僕は桃ちゃんとの出来事をありのままに告げた後、申し訳なさから咄嗟に頭を下げた。

「面を上げい」


 似合いもしない殿様口調で、リコは僕にそう命じた。僕は言われたままに、おそるおそる顔を上げる。

「バンッ!」

「うわあっ!」

 突如飛び出してきた拳に、僕は怯んで尻餅をついた。


「何よ、寸止めしただけなのに」

「もう殴られるのマジで嫌なんだけど!」

「何? 女の子のハグを嫌がったアンタに『嫌』とか言われたくないんだけど」

 リコが白々しく言い放つ。

「立てよ、鶏肉」

「チキンって言いたいのか?」


「正直言って、アンタのこと、今すぐパン粉をまぶして揚げたい気分。でも、それって骨二本が平行に通っているもんだから、正直食べづらいのよね。特に骨と骨の間の肉をどうかじるか。これ、毎回の由々しき課題じゃない。ほら、気持ちよく片方の骨をピキッと外せたらいいんだけどね。それに手が油でベタベタになるし」


「フライドチキン! やっぱり僕のことチキンって言いたいんだよね?」

「そう思いたきゃ勝手に思っとけば?」

 素直に「その通り」とか言えばいいのに、このオバケはどこまでヒネくれてんだ。


「つーかさ、さっきの話、要約したら、折角のセンター女子にお近づきになったチャンス、思いっきり棒に振ったってこと?」

「だって、正直アガリ過ぎちゃって。いきなり桃ちゃんにギュッとされるなんて想定外だったから、もうドキドキし過ぎたんだ。その先はどうなるのかと思うと、怖くなっちゃったんだ」


「怖くなった? 目当てのセンター女子に抱かれることほど、男子にとって素晴らしい機会はないんじゃないの? アンタ、至高の喜びに値する場面にめぐり会えたんだよ? それなのに逃げ出すってどういうこと? インターハイで優勝してもらったトロフィーを、『試合内容に納得いきませんでしたから』って、その場で叩きつけてぶち壊すのと一緒よ!」


「トロフィーをぶち壊すのとは、ちょっとワケが違うんじゃないかな」

「一緒です! とにかく、アンタさ、男の癖にビビるなんて、情けないのにも程があるわよ!」

「す、すみません」

 オバケに巡り逢ってしまうどころか、まさかオバケに謝る時まで来てしまうとは、僕は夢のまた夢にも思わなかった。


「ズボン捨てろ。明日からスカートで学校通え」

「それは無理」

「何でよ。アンタ女々しいんだもん。見ているこっちもアンタが女々しくて女々しくて辛いよ。桃ちゃんのことをからかったの? あんなに好きでいたのに」

「何か聞き覚えのあるフレーズ」


「うっさい! マジで女装してくれない? それと胸の中にグレープフルーツ詰めてくれない?」

「何で胸の大きさまで指定されなきゃいけないんだ!」

「だってアンタ女々しいんだもん。『女』と、繰り返しの漢字と、『しい』と振り仮名をつけて『女々しい』。だからアンタはほぼ女子みたいなものよ」

 クドクドと説教と嫌味のハイブリッドを垂れ流すリコに、僕は辟易しきっていた。


「とにかくマジで女装してくれない? そしてそれをSNSにアップしてくれない?」

「嫌に決まってるだろ!」

「ほら、女装UP、女装UP、誰が何と言おうと女装UP」

「そんなことしたらオレの株が余計にDOWNするだろうが」

「もともと底値のくせに」


「何でそこでオレが気にしていることピンポイントで突っつけるんだよ!」

「そうツッコむってことは、やっぱり自分でも薄々気付いているってことだ?」

 リコが口元に手を優しく当てながら、からかう目でオレを見てくる。

「ああ、もううるさい、うるさい! もう家に帰るから!」


 オレは付き合っていられないとばかりに、早歩きで彼女から離れようとした。次の瞬間である。背後から、冷淡な気配がオレの体を貫いた。まるで悪意に満ちたタックルを受けたかのように、オレは倒れた。でも、実際に背中から受けた衝撃は皆無だ。オレが驚いて、よろめいて、転んだだけで、どこも痛くない。白地にラベンダーの縁が取られたローブの少女が、わずかに地面から足を浮かせたままオレの方を振り向く。


「リコ!」

 オレは遺憾の余りに彼女の名を叫んだ。

「何か、アンタを倒せって声が聞こえたから」

「自分で勝手にやったんだろうが!」


「もう、最近何かイジワルな幽霊のオジサンがひょっこり私の前に現れて、『真面目なメガネ男子の部屋のお風呂に入り込め』とか、『真面目なメガネ男子のベッドにもぐり込め』とか、『真面目なメガネ男子に学校での帰り道で置いてけぼり食らいそうになったら、追いかけてタックルしろ』とか、色々命令してくるのよね」


「それも全部ウソだろ。本当は幽霊のオジサンの声なんて聞こえてないんだろう」

 リコはあっさりと頷いた。

「やっぱりウソかい! て言うか何で命令の内容が、いつも『真面目なメガネ男子』を相手にしたものなんだ。もしかして僕のことか?」


 リコはわざとらしく大袈裟に頷いた。

「やっぱり僕かよ」

「だってさっきも言ったじゃん。百軒ぐらいのお家を巡った結果、アンタこそ、私がアドバイスするに最もふさわしいに決まったんだから。あっ、家宅侵入し放題というツッコミは繰り返してもらわなくていいから」


「どこまでマイペースなんだよ」

「マイペースじゃない、アドバイザーはアドバイザーなりに二十四時間真剣に考えてるのよ」


「じゃあ、どんなアドバイスだよ」

「そうね、今のアンタの場合なら、明日こそは桃ちゃんとちゃんと会話すること。て言うか、今日の非礼はちゃんと詫びること」

「それは分かったよ」


「勝手にアンタに逃げられて、桃ちゃんもきっと不愉快になったと思うから、ちゃんと『勝手に逃げ出して、桃ちゃんに迷惑かけちゃってごめんなさい』って言うのよ」

 コイツは僕のもう一人の母ですか。しかし彼女は僕と同世代。自分で「真面目な女子高生でした」とか言っているぐらいだしな。


「それじゃあ、さっさと帰るわよ。私について来て」

 リコは偉そうに僕を先導し始めた。

「ところでさ……」

「何?」

「……アンタのお家ってどこ?」


 ズコッ。


 ガチでこけた。拍子抜けの度合いが凄くて今度はガチでこけた。

「僕の家も知らないくせによくリードする気になったな!」

「ごめんごめん、学校に行くときアンタについて行くのに夢中になり過ぎて、全然ルート覚えなかったから」

「仕方ないな。僕が案内してあげるよ。ついて来て」


 僕がリコの前に出て、先導を始めて数秒後だった。

「ところでさ……」

「今度は何?」

「アンタ誰?」


 ガチでこけた。さっきよりも盛大にコケた。これ以上顔に余計な傷をつけないように、一応背中で受け身を取った。


「十文字平太! アドバイスするなら僕の名前ぐらい把握しとけよな!」

「ごめんごめん、アンタのお世話をすることに夢中になり過ぎて、全然名前聞いてなかったから」

 ひょうきんに弁解するリコを前に、僕はため息をついた。

「仕方ないなあ。とにかく帰るよ」

「は~い」

 子どものような伸びやかな返事でリコは従った。



「へえ、そう? で、何? そっちは順調ってことでいいの?」

 部屋に帰った後、床に寝転がったリコは人差し指をこめかみに当てて、誰かと交信しているみたいだ。僕はさっさと宿題を済ませてしまおうと勉強机に向かっていたが、正直そっちもそっちで気になっていた。


「ウソ、アンタがアドバイスする相手、留年してるの!?」

 リコが思いも寄らぬ情報に驚いた。僕も不覚なことに気になった。て言うか、ちょっとニヤケた。どういう背景か知らないが、とりあえず留年する奴はシンプルな愚者だと思っている。国民の三大義務は勤労、教育、納税というが、本当は「勉学」も加えての「四大義務」が人生に設けられていると、僕は考えている。その勉学という義務を放棄した者は、後々の人生でジワジワと代償を払い続けるわけだ。


「で、アンタはその留年しちゃってもう一回高1をやる羽目になった男子のゴーストアドバイザーになったわけだ」


 どうやら交信相手は、リコのゴーストアドバイザーとしての同僚のようだ。そしてその相手は、留年した高校生。本来の同級生から置き去りにされ、新たに入学してきた代の高校生たちに1人だけ混じる羽目になった不名誉なろくでなし。努力を放棄したことによる恥を、変わり果てたクラスメートの顔ぶれでジワジワと味わい、真綿で首を絞められ、今にも魂が果てそうな思いを1年間味わい続ける、まさに無間地獄をこれから最低3年間堪能する。ざまあみろ。そうだ、勉強しなかったカルマだ。報いだ。せいぜい苦しめ、叫べ。そして自分の頭の悪さを呪い、貧困と言う名の底なし沼にでも……。


「あっ、ちょっと待ってくれる?」

 リコが突如、同僚に断りを入れる。

「アンタ、ちょっと立ちな」

 いきなりシリアスな口調で僕は立ち上がらされた。次の瞬間、リコは僕の腹にリアルなワンパンを入れた。僕はその瞬間、声を失った。


 リコの手は、文字通り、僕の体内にめり込んでいる。まるでナイフで刺されたかのように、僕の腹を貫いている。しかし実際の感覚が何もないのが恐ろしい。腸がくすぐられる感じさえもしないことに、僕は異常な気味悪さを感じていた。

「アンタ今、心の中で留年した人を軽蔑したでしょ?」


 僕は耳を疑った。確かに僕は留年した奴らに対し、汚れたイメージしか抱いていなかった。しかし、それをリコの前で口にした覚えなど一度たりともなかったはずだ。

「べ、別に、バカにはしてないよ」

「ウソおっしゃい」


 リコが静かに言いながら、自らの手を、さらに僕の腹の奥深くまで突き進めた。肘まで体内に潜り込んでいるところを見れば、もう彼女の手は、僕の背中の外側に飛び出していることが分かる。手先だけが、能天気に結んで開いてしている。


「バ、バカにしてないって」

 僕は必死に口では否定した。それ以上に、自分の本音をリコに、正確に見抜かれてしまっているという現実に戦慄していた。そして僕の腹を貫通する彼女の手に対しても。

「ふ~ん」


 リコは静かに僕の腹から手を抜いた。幸いにも、と言うべきか分からないが、彼女の手には血一滴ついていない。まあ、彼女が立てた中指を収めようと格闘しても、てんで掴めなかったぐらいだから、これがある意味当然なんだろうけど。

「ソレ」


 リコはおもむろに自らの両手で、僕のそれぞれの手を指差した。彼女は指を高く掲げると、僕は強制的にバンザイの体勢になる。

「ウソ、操られている!?」


 僕が思わず上げた声に、リコはコクリと頷く。しかしその目は、間違いなく、お仕置きだと語っている。そして彼女は、お腹の方に両手を持っていく。僕の両手は、制服のズボンを留めているベルトの間近に下りた。

 リコはいきなり、そのベルトを外す素振りを見せた。それに合わせて、僕の両手は勝手にベルトを外し始めた!?


「おい、何するんだ、やめろ!」

 しかしリコの暴走は止まらず、今度はズボンの留め具、そしてチャックを下ろさせると、再びバンザイを強いた。

「ウソツキ、私にはアンタの考えていることが分かるのよ。留年した人をクズ呼ばわりしてたって、お見通しなのよ」


 リコが改めて痛烈に僕の本心を言い当てる。


「あのね、いい? 確かに留年ってのは、高校生活において屈辱的な出来事の一つ。それも自身の怠惰によって引き起こされ、その人の一生に影を落とす事態。でもね、例え留年を経験した人でも、そこから先の人生をやり直す権利はあるのよ。本来の同級生に置き去りにされて辛いでしょう。一つ年下の子たちに混じって、最初から浮いた存在として一年間、彼らと同じ教室を共にしなきゃいけないと知れば、体中がムズムズとするような辛さをずっと味わう気分になるでしょう。でもね、本当に大切なのは、留年のような大失敗を恥じることじゃない。その大失敗を糧にして、自分なりの明るい未来を切り開くことが大切なのよ」


 全く明るくない、魂を吸われそうなオーラに包まれながら、リコが壮大な言葉を連ねた。

「そう、留年した人には、留年した人なりの明るい人生を切り開く権利がある。留年した後の教室に入れば、周りは一歳年下の子ばかり。じゃあ何だって言うのよ。人生の一年先輩として、周りの子たちが味わったことのない経験を生かして、素敵なアドバイスを送ることだってできるでしょ。それに、大人になったら、一歳年下どころか、10歳年下の異性と付き合っている人だっている。高校じゃ一歳違いのカップルなんて、もはや常識の範囲内よ」


 留年した人なりのポジティブな要素をためらいなくつづるリコの目は、冷たくきらめき、もはや狂気さえも匂わせる。


「留年した人にもね、そこから心入れ替えて頑張って、一流企業に正社員として就職したり、社長になったり、芸人としてブレークしたり、セレブになったりした人がいるのよ。そんなことも分からないで留年生をバカだクズだ恥だなんて罵っているアンタこそ、世間知らずのバカクズ恥メガネよ。分かってるの、この水色パンツ」


 僕は思わず自分の下半身を見た。ベルトと留め具とチャックが解除されたズボンは、耐えきれずにずり落ちてしまっていた。僕は慌ててズボンを上げるべく、バンザイ状態のままの両手を動かそうとしたが、まだリコの魔力にロックされたままだった。


「『留年生をバカにしてすみませんでした』って言わない限り、その手は自由にしてあげない。いつまでも謝らないなら、どうなるか分かってるわよね」


 リコの手が、お腹の上部に移る。そこは、僕のブレザーのボタンと同じ位置だった。そしてボタンが一つ、二つと外され、無造作に脱ぎ捨てられる。ネクタイも手際良くほどかれ、これまたポイと放り投げられる。そして今度はワイシャツのボタンに手がかかる。

「すみません! 留年生をバカにしてすみませんでした~!」


 僕は本能のままに絶叫した。するとボタンにかかった僕の手が、正面に突き出される。リコがそこに二本の指を突き出すと、数秒後にそっと下ろす。僕はそっと自分の両手を引き寄せてみた。見えざる力は消え去ったと分かった。すかさずズボンを上げ、チャックと留め具、ベルトを元通りに付け直した。

 その間、僕の体は、冷え切っていた。リコがオバケとは言え、人を強制的に辱めるあんなスキルを持っていたなんて思わなかった。


「ああ、ごめんね、ちょっと待たせちゃって。そうそう、分かるよね。人生の失敗は、いつでも誰にでもあるのに、留年一回ぐらいであんなにケチョンケチョンにされたら、たまったもんじゃないわよね。だからちょっとアドバイス先の少年へのお説教に時間かけちゃったってワケ」

 リコはさっきまでの呪わしい風情が嘘のように、お気楽なガールズトークを再開していた。



「ごちそうさま。今日も夕飯、おいしかったよ」

 僕はオバケの存在も感じさせないように、気丈に母に振舞った。

「ありがとう。何と言っても平太の大好きなハンバーグだったものね」

「うん」


「いつも使っているデミグラスソースだけど、昨日買った分は、スーパーでラスト一本、ポツンと残されていたものだったのよ。ギリギリセーフで助かったわ」

「アハハ、そうだったんだ」

「ところで、まだオバケ見えてたりするの?」

 母が唐突に僕の核心に触れてきた。


「えっ、何で、母さん、オバケ見えないんじゃないの?」

「見えないけど、ほら、あなたは朝、オバケのことで騒いでたじゃない。あれはもう大丈夫なの?」

「大丈夫、問題ないよ」

「そう、ならいいけど。お風呂、もう沸かしてあるから、入ってね」

「うん、分かった」


 母の言葉に甘えて、僕は裸になって、浴室の扉を開いた。沸き立てのお風呂、程良く立ち込めた湯気。雰囲気はまるで小さな銭湯。そこには一人の先客が……先客?

 そこにいるのは、紛れもなく、アイツだった。


 僕は驚きの余り、声も出せず、咄嗟に浴室の扉を閉めた。

「何してるのよ。お風呂入りたいんでしょ。さっさと来なよ」

 扉の向こうからリコの能天気な声が聞こえるが、構わず僕は、平静を装いながら、バスタオルを腰に縛り付け、浴室の扉を開け直す。


「も~、何恥ずかしがってるの」

 リコがジト目で僕を見つめてきた。彼女の場合は、紺色の肩ヒモが見える。スクール水着的な感じか。


「だって、勝手に僕んちの風呂にお前が入ってるから!」

「せっかくお家にお邪魔してるんだから、お風呂だってチェックしたくなるわよ」

「おい侵入者、何勝手に人ん家の風呂を思う存分満喫してるんだ」

「侵入者とは物騒な。私はアンタのアドバイザーって決まったんだから、充分ここのお風呂に入る権利だってあるのよ」

「そんなのお前の独断と偏見とエゴだろ」


 僕は不満を漏らしながら、シャワーを浴びて体を温める。

「早くどいてくれないか?」

「もう、何よ」

 リコはそう言いながら、ちゃんと端には寄ってくれた。僕は浴槽の空いたスペースにゆっくりと入る。その瞬間、リコの顔がニヤリとしながら、ちょっと赤くなる。そしてお湯の中からピースサインが現れる。


「混浴成立」

「そんなつもりじゃないから」


 僕はすぐさまリコとは反対側の端に寄って、あくまでも混浴じゃないことをアピールする。

「何で逃げるのよ」

 リコが容赦なく距離を詰めてきた。


「おい、寄ってくるなよ」

「明日こそ、桃ちゃんとしっかり話せる?」

「ど、どうかな……」

 僕は、あの時桃ちゃんからの突然のハグという想定外のスキンシップに恐れおののいた自分を思い返し、不安に苛(さいな)まれていた。

「ちゃんと答えなさいよ!」

 リコに強い口調で言われ、僕はたじろいだ。


「アンタのタイプのコなんでしょ? だったらしっかり最後までコミュニケーション取らないでどうするのよ!」

「でも、正直、僕、いざ女の子を相手にすると、どうしていいか分からなくなるし」

「堂々としなさいよ、男らしくないわね。じゃないとさっきの呪術で今度はタオル剥ぎ取るわよ?」


「それはやめろ!」

「じゃあ明日、ちゃんと桃ちゃんとコミュニケーションする?」

 独特の言い回しながら、リコの目つきは、僕のヘタレぶりを非難しているようだった。

「分かったよ」


「今日の朝、学校に着いたとき、ホームルームまで10分以上あったわよね。カバン下ろして、教科書とかノートとか机に入れるまで一分ぐらい、A組からB組への移動時間もせいぜい片道徒歩五秒ぐらいだから、桃ちゃんと話せる時間は9分ぐらいはあるわよね」

「ちょっと待って、明日の朝、いきなり桃ちゃんと話すのか?」


「何ためらってるの。だから女の子の前でも、タオルで下半身を隠しながらコソコソ風呂に入るような女々しい童貞なのよ」

「童貞だろうが童貞じゃなかろうが、女の子が風呂にいたら普通隠すだろ!」


「とにかく、明日の朝、学校に着いたら、桃ちゃんにアプローチすること。いい? アプローチ&コミュニケーションよ」

「いちいち妙な言い回しするの、何なんだよ」

「何だっていいの! アプローチ&コミュニケーション。桃ちゃんと話す時間なくすために、わざと学校に遅れて着こうとするのナシだからね!」


「しないよ。わざと遅刻する人なんかいるかよ」

「ここにいそう」

「やめろ! 遅刻なんて怠け者の象徴だ!」

「じゃあアンタは恋愛を怠けたりしない? 勉強並にちゃんと頑張る?」

「分かった。頑張るよ」


「じゃあ約束よ。口にしたことはちゃんと実行すること。有言実行よ。ほら、指切り」

 リコが立てた小指に、僕が合わせようとした。しかし、僕の小指は、リコの小指をすり抜けてしまう。そうだ。彼女はゴーストだったんだ。

「ごめん。私、オバケだからアンタの体には一切触れられないんだったっけ」

 まるで確信犯的な一言に僕は思わずうなだれた。


「まあいいや。とりあえず、ここで約束は成立ってことで」

 どこまでもマイペースなリコである。そもそもゴーストって、こんな感じだったっけ。

「ところでさ、お前、夜、寝る時どうするの?」

 僕は目先の気になる素朴な疑問をリコに投げかける。リコが口を開こうとした瞬間だった。


「僕と一緒に寝るのはナシ」

 最も想定しうる答えをすんでのところで阻止した。それは僕にとっては最も気味が悪い答えでもあったからだ。確かに僕は女子にモテたい。でも亡霊にモテたいと思ったことは一度もないし、ましてや亡霊と添い寝だなんて、怖すぎてできっこない。

「分かりましたよ。ゴーストはゴーストらしく、クローゼットにでも収まってるわよ」

 リコは悔しそうに言った。



 スマートフォンに設定した、朝の目覚まし代わりの着メロが鳴り響く。結婚行進曲だ。そう、僕は女の子にモテたいという願望だけでなく、25歳で嫁をもらい、抱きたいという思いを着信音に込めている。その着信音を止めた。

「おはよう」


 独り言を呟きながら、僕は精一杯両腕を天に突き上げ、強張った筋肉を伸ばしてあげる。

「その目覚ましの音、おかしくない?」

 例の女子の声が聞こえた。それも、僕の隣の方から。


「うわあああああっ!」

 僕は驚きの余り、ベッドから転げ落ちた。リコはそんな僕のことなど意にも介さず、ほくそ笑みながら、ピースサインで勝ち誇っている。

「お前、僕と添い寝はダメだって言ったろ?」

「だって、生きているうちに男子と添い寝できなかったんだもん」

「女子高生にして何つう願望抱いてたんだ」

 呆れる僕の前で、リコはするりと布団とシーツの隙間から抜け出し、宙に浮いた。


「それに、アンタが桃ちゃんとカップル成立した時のために、桃ちゃんの立場に立ちながら寝てみようと思ったのよ」

「ちょっと待て、もう僕と桃ちゃんが添い寝すること想像してたのか?」

「ダメ?」

「ダメだよ。まだ僕は、桃ちゃんと付き合うこともできていないんだよ? ましてや添い寝だなんて、そんなの早すぎるって!」


「つまんな。本当だったらさ、昨日、アンタが桃ちゃんから逃げ出さなかったら、今頃もう桃ちゃんと添い寝できたかもしれないんだよ?」

「何で付き合ったその日に家に連れ込むんだよ! 桃ちゃんはそんな軽くありません!」

「つーかアンタ、重いのよ。何で目覚ましの音が結婚行進曲なのよ」

「いやいや、これはいいんだよ! だって女の子にモテて、25歳のうちに結婚したいんだから!」


「プラン無謀過ぎない? 今日という今日まで、童貞行進曲奏でてきたような人間が」

「んな行進曲あるか! 第一、お化けに結婚のプランまで否定される筋合いはないからな。僕はこのまま突き進むから!」

 僕はリコにそう告げて、クローゼットから制服を取り出し、パジャマのズボンを下ろした。

「あっ、今日は青のチェック柄」

「見るな!」


 そんなわけで、僕は機嫌ななめで学校までの道を歩いていた。

「もう、パンツ見られたぐらいでそんなツンツンしなくていいじゃん」

 と言いながら、リコは僕の頬をツンツンしてくる。しかし、驚くほどに突かれている感触はない。リコの指は、僕の頬に弾かれることなく、軽く口の中を入ったり出たりしている。てことは、彼女の指は今……。

 そう思うと、僕はゾッとして立ち止まった。


「あっ、そうだった」

 リコはローブのポケットからハンカチを取り出し、指を拭き取る。どうやらハンカチはゴーストの世界から持ち込んだものなのか、一応触れられるようだ。て言うか僕の体に触れられないなら、嫌な話だけど唾液もつくわけじゃないんだが、まあそこは女子なりのエチケットというものだろう。


「さあ、早く行くよ」

 リコがハンカチをポケットに戻しながら、急発進した。

「ああ、ちょっと待って!」

 僕は慌ててリコを追いかける。しかし、十字路に差し掛かったところで、彼女は急停止した。


「ねえ、どっち行けばいい?」

 僕はまたも文字通り、ズッこけた。

「ルート覚えられないなら先導するんじゃないッ!」


 僕が教室に着き、カバンから教科書とノートを机に移そうとした時である。

「おーい」

「何?」

 僕は面倒臭いと思いながら、カバンの奥からジト目だけを浮かべる彼女に応対した。

「それよりも、やることあるんじゃないの?」


「え~、今から?」

「もしかして、『やっぱり気持ちが整ってないから、次の休み時間にしてくれない?』とか思ってる? この甘ったれメガネ」

 ソフトな罵倒が、僕の心をムズムズとさせる。

「分かりましたよ、行けばいいんでしょ、行けば」


 と強がってはいるが、正直、カバンを机の横の金具に引っ掛ける手が震えた。そして、恐怖心を振り切るように気合を入れたはいいけど、その後歩き出すときに、多分右手と右足、左手と左足が同じタイミングで出ていたと思う。


「ほら、さっさと行きなさい」

「ええ」

 僕は怯えるように声を漏らした。

「何ビビッてんのよ。男でしょ。もしかして今回は話しかけもしないで逃げるつもり? そうしたら何が待ってるか分かってるわよね?」


 ここで手を操られでもしてみろ。僕は桃ちゃんにモテるどころか、学校の恥さらしにもなりかねない。まさに恥さらしだよ。そうなるぐらいなら、僕は前に進むしかなかった。

「あの、桃ちゃん!」

 僕は突っ張った声で、桃ちゃんを呼んだ。

「平太くん?」

「そう、僕が、平太」

「それは知ってる」


 緊張した僕を、桃ちゃんは和やかな笑顔で見つめた。僕は思わず、桃ちゃんから目をそらす。照れているどころか、緊張感で顔の内側がちょっと熱くなっているのを感じた。

「昨日、どうして急に逃げ出したの?」

「ああ、そのことは、本当にごめんなさい」

 僕は全力で桃ちゃんに頭を下げた。きっかり九十度に背を曲げた。


「大丈夫、大丈夫、気にしないで」

「いいの?」

 僕はスッと顔を上げた。

「私も急にハグなんかしちゃったもんだから、ビックリさせちゃったんだよね」

「ああ、そうか」

「ところで、平太くんは……」


 と言いかけたところで、桃ちゃんの言葉が止まる。僕は一体どうしたものかと、周囲にキョロキョロと助けを求めたが、何も起きない。

「どうしたの?」

「いや、何でもないんだけどね……」

 と笑って見せる桃ちゃん。でも僕には分かる。彼女は、今、何を話せばいいのか分からない。正直な話、それは僕も一緒。いたずらに時間が一秒、二秒、三秒と流れていく。


「どうしたのよ」

「えっ、何でもないけど」

「この沈黙が何でもないって言えるの? 男女揃って急にフリーズするってどういうことよ」

「僕だって、フリーズしたくてしてるんじゃないよ」


「フリースタイルラップみたいに、適当に言葉でも出しでもしときゃ良かったのに。『好きな食べ物 おかめ納豆 朝の通学路で鳴いてた カッコウ』」

「僕、納豆嫌いなんだけど」

「どうしたの?」


 急に桃ちゃんが僕に対して心配そうな表情を見せた。これは明らかに何かの目的を持った演技ではなく、本気で僕を心配していることが見て取れた。さらに周囲から、妙に冷たい気配を感じるなと思い、見回してみると、他の生徒たちも、まるでこの世にないものを見るような視線を僕に集中させていた。

「そこに誰かいるの?」

「えっ?」


 僕はまさかと思いながら、桃ちゃんが指差した方を向いた。そこには紛れもなく、リコがいた。そう、リコは、ゴースト。母同様、他の生徒たちにも、彼女の姿は見えない。つまり、桃ちゃんどころか、教室内の誰もが、僕が存在しない人物と話しているように感じてしまった。


「コイツ、もしかして中二病?」

「エア友達がいるの?」

「超絶イタイ奴、発見~」

 嘲笑の声の数々は、それこそ氷のように冷たかった。


「いや、何でもないよ。ちょっと、独り言喋っちゃった」

 僕は必死で取り繕いにかかる。

「そう?」

 桃ちゃんがアゴに人差し指を添えながら首を傾げる。その動作超絶可愛いけど、今の僕にそれを味わう余裕はない。


「本当、本当。大丈夫。この通り、普通だから、気にしないで。じゃあ、また昼休みに会おうね」

「うん」

 ここで桃ちゃんは、取り繕う僕に合わせて純粋に微笑んでくれた。僕はそれを良いことに、B組の教室を後にした。


「あ~あ、また投げ出した」

 事の重大さを知らないリコが、呑気な調子で嫌味を放つ。

「お前、お昼に呼び出しだ。それまで僕に関わらないでくれる?」

 僕はそれだけ言い残して、A組の教室に戻った。



「さっきは何てことしてくれたんだよ!」

「何よ、私が助太刀しなければ、ホームルームのチャイムが鳴っても、二人してフリーズしたままだったでしょ!」

 屋上で、僕はリコと激しく言葉を戦わせていた。

「大体、ここで男女二人が一緒だったら、お昼に弁当食べているもんじゃないの?」

 リコがげんなりした様子で言う。


「確かにそれラブコメあるあるだけど、話をそらすんじゃない」

「私もここで誰かにア~ンしたいと思ったんだけどな~」

「だからその話じゃないって! お前のせいで僕は変な奴だと思われただろ!」

「私がいなくても元々変な奴だったでしょ」


 リコは未だに悠長な態度で言い返してくる。

「変じゃない! 僕はごくごく普通の、恋に憧れる16歳の高校生男子です!」

「自分で自分のことを普通だなんて言ってる。そんな人って大体普通じゃないんだよね~。変な一面が色々だだ漏れしてるんだよね~」


「少なくともエア友達がいると思われた件は、お前が茶々を入れたせいだからな」

「人のせいにしないでよ。自分がモテないのは自業自得。こんなことになる前にどうして恋愛体質になるように鍛えておかなかったの? ずっと勉強、勉強、勉強ばっかのつまらない人生送ってきたから、世間知らずの浦島太郎になっちゃったんでしょ」


「確かに、そういう意味ではちょっと僕にも責任あるかもしれないけど」

「ちょっと?」

 いちいち挙げ足を取ってくるリコが、僕のイライラを増幅させる。


「とにかく、もう出しゃばって来ないでくれる!? ついて来ないでくれる!? 僕に付きまとわないでくれる!?」

「約束はできない」

「しろよ、このストーカー!」

「あっそう」

 リコはジト目のまま、両手を拳にして突き合わせた。次の瞬間、僕の頭が、いきなり万力のように強く締め付けられる、不快極まり感触が襲いかかった。


「うっ……あっ……何だこれ!」

 頭蓋骨が今にも歪められ、粉々に砕かれてしまいそうだ。苦しすぎて、まともに息もできない。僕は思わず、その場にくずおれた。

「誰がストーカーだって? せっかく私がアンタにモテるようになるためにアドバイスしてあげようとしているのに、その恩義も知らずに私を罪人呼ばわりするの? その姿勢がもう女心を分かっていない証拠なのよ。少しは反省したら?」


「ごめんなさい、反省します」

 その時、頭蓋骨を締め上げる謎の強大なエネルギーが、きれいさっぱりに消え去った。

「分かってくれたらいいのよ」

 拷問から解放された僕は、うつ伏せでコンクリートの地面にべったりと横たわった。


「ほら、さっさと立ちなさい」

「ちょっと休ませてくれよ。さっきの、マジで痛過ぎるぐらい痛かったんだから」

 と言いながら僕はゆっくりと立ち上がる。

「分かる? ゴーストアドバイザーは、一度お目にかかった相手とは、目標成立までずっと一緒でい続ける決まりなのよ」

「何だそれ、完全にそっちの都合で、知らず知らずに契約結ばれたみたいじゃん」

「実際そうだから」

 リコは悪びれもせずに言い放った。


「契約解除はできないの?」

「目標達成までは不可能よ」

「その目標ってのは、僕が桃ちゃんと付き合うまでか?」

「その通り。あっ、まさかそんなこと考えてないだろうけど、桃ちゃんじゃやっぱり荷が重いから他の相手にしようなんて言ったら」


 と言いながらリコは再び自らの拳を突き合わせようとした。

「やめろやめろ! そんなことは微塵も考えてないから!」

「じゃあ、今度こそ桃ちゃんとちゃんとコミュニケーションする?」

「絶対するよ。その代わり、今度こそ出しゃばって来ないでよ」

「うん」

 とリコは一応了承してくれた。



 改めてB組の教室に、僕は平静を装いながら足を踏み入れる。

「桃ちゃん」

 この時の彼女は、タブレットを食い入るように見つめていた。

「ひど~い、この人がバクダンだったなんて……」


 桃ちゃんは何を言っているんだ。つーか、そのタブレットの中で何が起きているんだ。僕は思わず彼女のタブレットを覗き込んだ。

 そこには、広場で泣き崩れる一人の制服女子が映し出されていた。

「あの……バクダンって……」

「『爆弾』の『爆』に『男』と書いて『爆男』なの」


 桃ちゃんがそう話している間に、タブレットは、爆男と思われる一人の制服男子を映していた。何か、悪いことをしたのに悪びれていないように佇んでいる。

「こいつが、どうしたんだ?」

「彼は、恋愛する気もないのに、この高校生同士の恋愛リアリティーショーに忍び込んだのよ。つまり、女の子の好きな気持ちを、まるで爆弾のように木っ端微塵に砕いてしまう。だから彼は『爆男』なの」

 桃ちゃんの説明を受けて、僕は改めてタブレットを見た。その中では、爆男の餌食となった哀れな女子が、人目もはばからず、地面に突っ伏す形で泣き崩れていた。


「レイラちゃん……」

 悲しみの感情移入を受けたのか、桃ちゃんが思わず声を漏らした。僕は思わず、彼女の隣に並び、両ヒザ立ちで寄り添うようにタブレットに目を向けた。

「ひどいな。誰か、レイラちゃんを助けてくれないのかな」

「いいえ。彼女は爆男に好きな気持ちを吹っ飛ばされたという残酷な結果を受け入れ、この場所から帰るしかないの」


「じゃあ、このリアリティーショー、これで終わりなの?」

「うん」

 僕はタブレットの向こうに映る残酷な現実に絶句した。

「で、これってそもそも、どういう番組」


「は~い、そろそろ時間。次の授業を知らせるチャイムまであと2分だから、そろそろ戻りましょうね」

 いつの間にか現れていたリコが、僕に時間がないことを告げると、さっさと教室を飛び立って行った。教室内の時計を見ると、確かに次の授業を告げるチャイムまで、あと1~2分ってところだ。この僕に限って、授業に遅れることなんて到底許されることではない。

「じゃあ、また後で」

 僕は急ぐようにB組の教室を飛び出して行った。


 放課後、自分の班が掃除当番だったことで、僕はせっせと教室中のゴミをホウキで一ヶ所に寄せ集めているところだった。

「ほらほら、ノロノロしない、急いだ急いだ!」

 リコが容赦なく急き立てるのにつられ、僕のホウキを動かすペースも思わず早くなる。


「はい、ここに入れて!」

 クラスメートの尊が、ちり取りを構える。

「ほら、ショット!」

 リコの指示につられて、僕は思いっきりホウキでゴミをちり取りに入れようとして、勢い余って尊の方へ飛ばしてしまった。


「うわっ、ゲホッ、ゲホッ!」

「あっ、ごめん! 力入り過ぎちゃった! 大丈夫!?」

「うわあ、ゴミかけちゃった~。そんな風に人の健康害するなんて最低~」

 リコが自分の指示を棚に上げて、僕を非難した。

「リコ、掃除ぐらい僕なりのペースでやらせてくれる!?」


「桃ちゃんに会いたくないの? そんなに掃除に時間かけてたら、桃ちゃんはさっさと帰っちゃうわよ」

「いや、桃ちゃんには会いたいけどさ、掃除は掃除でちゃんとやらなきゃ」

「ちゃんとできてないじゃん、尊にゴミをナイスショットしてんじゃん」

「お前がショットって言ったからつられちゃったの!」

「平太くん……?」


 尊が僕とリコのモメごとに割って入った。彼は、何やら怪奇的なものを見るような視線を、僕に向けていた。それに気づいた僕は、まさかと思った。まさかと思った時には、もう遅いとも思った。同じ班の周りの生徒たちが、ドン引きしたり、中には好奇の目でからかう準備が万端だとアピールしたりしていた。


「リコって、誰?」

 美由紀が素朴な顔をして僕に問いかけた。僕は答え方に困り、本人の姿に訴えた。当の彼女は、またもあの指を立てている。

「だからやめろって!」

 僕は再び彼女の手を収めようとしたが、何度やってもすり抜けてしまう。


「平太くん、何やってんの……?」

 尊が、恐れた様子で僕に声をかけた。僕はリコの姿を見直して、気づいた。やっぱり、彼女の姿は、僕以外には見えない。

「あの、何でもないから、気にしないで。掃除、続けよう」

「なあなあ、桃ちゃんのこと好きなの?」

 別の問いかけが、僕の心にグサリと刺さった。凱斗が、正に芸能レポーターがグイグイ迫る時みたいな下世話な表情で僕を見ていた。


「べ、別にそんなことないけど?」

「でも言ってたじゃん、『桃ちゃんに会いたい』って」

 凱斗のグイグイ迫ってくる様が、実に嫌らしく過ぎて引く。

「もしかして、桃ちゃんってあのセンター女子?」

「すご~い、センター女子を好きだって堂々と言えるなんて」

 芳香と花は僕の望まないカミングアウトを好意的に受け取っているようだ。


「ドン!」

 教室に激しく、重い足音が響き渡った。まるで恐竜が一歩踏み出したかのようだった。

「何喋ってんだ、さっさと掃除続けろよ!」

 こう言ったのは、担任の先生ではない。先生はホームルームが終わってから、用事があるのかすぐにこの教室を去った後だ。


「もう、そんなツンケンしなくていいじゃん、瑠奈ちゃん」

「うるせえ!」

 瑠奈は聞く耳持たず、班のリーダーどころか、ギャングのドンみたいな威厳で芳香を黙らせた。芳香が思わず青ざめた様子で後ずさりする。それもそのはず、瑠奈は柔道部で、階級は無差別級だ。


「尊、ごめん。もう一度ゴミを集めなおすから、位置変えてくれるかな?」

「うん」

 尊にその場をどいてもらい、みんなでさっさと散らかったゴミを集める。僕が改めて尊の構えるちり取りにゴミを入れようとした、その時だった。


「あの桃が好きなんだって? 傷つけたら女の敵じゃ済まないぞ」

 まるで僕が柔道部の下っ端で、先輩から脅されていると思ってしまうぐらい、瑠奈の言葉には重みがあった。僕は改めてゴミをちり取りに入れようとするが、ホウキを握る手が震えまくって、動かせなくなった。


「どうしたの、平太?」

 花が思わず僕を心配する。

「いや、何でもないよ」

 僕はとにかく気丈に振る舞い、手の震えをこらえながら、慎重にゴミをちり取りへ持っていった。またシュートしてしまわない分、僕の精神的なダメージは一線を越えていないと分かった。


「桃ちゃんはどこ?」

 僕はB組の教室を尋ねる。

「今、美化委員会の仕事で、体育館に行っているよ」

「体育館?」


 僕はオウム返しのように呟いた。

「そうだよ」

「分かった」

 で、僕は体育館前で彼女を待つことにした。


「フッフッフッ、これでアンタが桃ちゃんのことを好きだってこと、みんなに伝わるね」

 不意を突くようにリコが背後から声をかけてきた。

「なあ、せめて驚かさないで僕を呼ぶぐらいできないのか?」

「アンタがビビリなだけ」

「人のせいにするな」

「私のせい? アンタのそれこそ人のせいよ」


「いいや、お前のせいだ」

「アンタのせいよ。自分のビビリを私に責任転嫁するわけ?」

「責任転嫁じゃないよ」

「いいの? そうやって押し問答して、桃ちゃんが戻ってくるの見逃すわよ?」

 ハッとした僕は、体育館の中に目を向けた。


「平太? どうしたの?」

 ちょうど正に桃ちゃんが体育館から出てくるところで、僕を見つけた。僕もすぐさま、桃ちゃんの方へ駆け寄る。


「桃ちゃんこそ、何、してたの?」

 締め付けられるような緊張感と格闘しながら、僕は言葉を絞り出す。

「電動で天井に向かって折り畳まれるバスケットゴールが、降りなくなっちゃって。システム修理をしていた。あと、バスケットボールが1個、バレーボールが2個、空気が抜けていたから、空気を入れ直してあげたの。


 かく言う桃ちゃんは、現に携帯型のボールポンプを抱えていた。針の方は、通りがかりの誰かに刺さらないように、ちゃんと斜め上を向いている。と思いきや、リコが確信犯的に僕の表情を窺いながらポンプの針に近づき、口を開けた。

「リコ、やめろ!」


 リコは咄嗟にポンプから離れた。しかし僕を見つめる表情は、いかにも壮大なイタズラが好きそうな子供のようだった。

「リコって誰?」

「いやあ、何でもない。ちょっと、アニメの見過ぎかな。最近のは、リコって女の子がいて、ソイツが中二病で面白過ぎてさ」

 と誤魔化す僕。


「そう?」

 桃ちゃんが不思議そうに首を傾げる。

「ほら、リコっていたずら好きで、無用なスリルを求めたがる娘だから、それこそ、実際にそのポンプの空気を吸おうとしたり」


「えっ、それ危ないわよ?」

 桃ちゃんが普通にドン引いた。

「あっ……まあ、幸いにも、吸う素振りを見せただけで、その時も主人公が全力で『やめろ!』って止めて事なきを得たからさ。まあ、よくあるラブコメの女子の悪ふざけってやつだと思うけど、あれは確かに僕も見ててやば過ぎるとは思ったな」


 何て誤魔化すけど、このとき両方のこめかみの辺りに流れた、一筋の冷たい汗の感触は決して幻なんかではなかった。

「ほらほら、それ、さっさと返そう」

「あ、うん、そうだね」

 とボールポンプに彼女の意識を集中させることで、話を何とか軌道に戻した。僕は少しばかりは軽くなったドキドキ感をコントロールしながら、彼女について行った。

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