鯨探し

キィ(ツッパリ)

鯨探し

 ボウさんは、とても背が高く、いつも無表情で、少しカタコトの日本語を話す。日本語が少しカタコトであることから日本人ではないと思われる。彼は僕の大学のサークルの先輩である。皆ボウさんボウさんと呼ぶので僕は本名を知らない。年齢も知らない。学年も知らない。どの学部で何を専攻しているのかも知らない。噂では、考古学とか、生物学とか、民俗学とか、何かそういう物を研究していると聞くけれど、それはボウさんというイメージありきで付いてきた結論だと思う。本当は大学生なんかじゃなくて、不法入国してきた怪しい外国人が、娯楽を求めて大学に忍び込んでいるだけだと思う。他の先輩にボウさんについて訪ねたことがあるのだが「ボウさんはボウさんだから」と言って何も教えてくれなかった。

 ボウさんはいつも頭オカシイんじゃないの、という話をする。深海を歩くライオンの話とか、本物のネズミをひたすら生け捕りにしている警官の話とか。みんなどうせホラだと思って面白がっているけれど、稀に物的証拠を提示してくることもある。

 いつか、ボウさんが獣っぽい臭気を漂わせて部室に入ってきたことがあった。

「ボウさん、なんだかすごい臭いですよ」

「昨日、道を歩いていたらイエティに遭遇しまシタ」

「イエティ?雪男のことですか?」

「ハイ。今日はイエティの指を持ってきまシタ」

 そう言うとボウさんはテーブルの上に血で汚れた麻袋をドサリと置いた。

 麻袋の血は既に乾いていたが、臭いがひどい。血と獣の臭いが鼻腔をハンマーで殴りつけてくる。

 なぜ道を歩いていたらイエティに遭遇するのか。そもそも「道」とはなんなのか。どこの「道」なのか。その麻袋には何が入ってるのか。本当に指が入っているのか。何本入っているのか。

 麻袋の中身がなんであれ、彼がどこかキテレツな人物であることは間違いない。

 

 まだ梅雨の湿り気が残る7月頭のことである。その日、5限の講義を終えた僕は、部室でパイプ椅子を開き窓際に座っていた。外は雨が降っている。ぼんやり窓を眺めていると水滴がつつーと引力に引かれて、他の水滴を巻き込みながら下へ下へ落ちていく。6月が置いていった湿気は、この部室にもベットリ貼り付いていた。僕はTシャツの上に来ていたYシャツを脱いで、椅子の背もたれにかけた。

 部室のドアが開く音。

「ノガミくん、こんにチハ」

「こんにちは」

 今日は特に怪しい物は持っていないようだ。

 ボウさんは部室中央の長テーブルを挟んで僕の正面にパイプ椅子を開いた。

 しばし沈黙。ボウさんの表情を伺うが、いつも通りあまり表情は読めない。口を一文字に結んで、まるで彫刻のよう。

「今日はカッパを持ってきまシタ」

 ボウさんが切り出した。カッパとはなんだろうか。常識的に考えれば雨合羽に違いない。しかしボウさんの場合、麻袋に妖怪・カッパの骸を入れて大学に来たっておかしくない男なのだ。

 鼻を意識して呼吸してみる。特に変な臭いはしない。やはり雨合羽なのかもしれない。或いは、カッパの骸は無臭なのかもしれない。異臭のしない死体とは、一体どういうことであろうか。それは生物と言えるのだろうか。僕は急にカッパというものが怖くなる。異臭のしない死体。血の通っていない肉体。ひんやりとした感触。

 鼻から大きく息を吸う。口から吐く。そして問う。

「カッパというのは、お皿を頭に載せている、あの生き物のことですか」

 一瞬、ボウさんは虚を衝かれたような顔をした後で、爆笑する。本当に爆笑する。あひゃひゃひゃひゃ!ひー!ひー!ひー!と笑う。呼吸困難になって死ぬんじゃないかと思う。僕にはボウさんの笑いのツボがわからない。

「すみまセン。あんまりおかしなことを言うものだカラ」

 おかしいのはアンタだ。

「ボクが言っているのは、雨合羽デス。雨を凌ぐ道具ノ……」

 ボウさんは一瞬でまた元の無表情に戻って言った。

「今日は雨ですからね」

「ノガミくんの分も用意してありマス」

「それはどうも。でも僕は傘を持っています」

「傘ではいけませンネ」

 いやな汗が額に浮き上がるのを感じる。この男、今日はまだホラを吹いていない。僕にはこの「雨合羽」が恐ろしくて仕方ない。

「今からクジラを見に行きます」

 また唐突なことだ。

「クジラって、今から海に行くんですか」

「違いマス。山に行きマス」

「山にクジラなんかいやしませんよ」

「クジラは大きくて怖いので、ノガミくんにも来てほしいのデス」

 子供みたいな理由。山にクジラとはなんなのか。山の上に水族館でもあるのか。そこまで考えたところで、クジラを飼っている水族館など、この地上に存在するのだろうか?という疑問が浮かんだ。なにしろクジラは巨大な生物である。それを飼う水族館など、ちょっとした小国ほどの面積が必要ではなかろうか。

「クジラを飼っている水族館なんてあるんですか?」

「山に水族館はありまセン。山にクジラを見に行くんデス」

 はあ、と僕は間の抜けた返事をした。今の僕はボウさんに乗せられてかなりバカっぽくなっている。けど、ボウさんはもっとバカバカしい。

「とにかく行きマス。車もありマス」


 A県B市は市街地を一歩抜けると田んぼと山しか無いようなところだ。僕はボウさんの車に半ば拉致みたいに乗せられてA山の峠道を走っていた。軽自動車の運転席に収まった細長いボウさんの姿はなんとも不格好で、笑ってしまう。

 既に日は落ちており、ガードレールから生えている反射材だけが、ヘッドライトに照らされてギラリギラリと後ろへ横へ流れていく。

 なんでクジラを見るのに峠を登らなくてはならないのだろう。この峠は1本道で、登りきった先には山の頂があるのみだ。だから山を越えて海へ行こうなどという話ではない。

 車に乗ってしばらくは色々質問してみたのだけれど、ボウさんの回答はいずれも要領を得たものではなく、僕は面倒くさくなってやめた。

 ワイパーが一定間隔で振れるのを助手席から眺めていると、心身が瞑想状態に入っていく。冷静に考えれば、僕はキテレツな何かに引きずり込まれているに違いないのだが、一定のリズムを刻むワイパーは僕から現実感を薄れさせていく。

 ウィーイン。

 ウィーイン。

 ウィーイン。

 ふと、運転席のボウさんに目線をやる。彼は相も変わらず無表情のまま、ハンドルを握っていた。ただ、いつもと違って額に汗をかいていた。僕は部室にやってくるボウさんしか知らない。僕の知っている限りでは、彼が額に汗をかいているのは初めてのことである。

「その……山に住んでいるクジラというのは、一体どういうことなんですか」

 瞑想を中断した僕は急に心細くなって聞いた。

「とても巨大なクジラデス。空を飛びマス」

「それはおかしいですよ。クジラが空を飛ぶはずはない」

「飛びマス」

 やはりボウさんに質問しても無駄なのだよなぁ、と思う。余計に不安が増すばかりで、何も解決しない。一体彼は僕に何を見せようとしているのだろう。ボウさんはまだ額に汗をかいていた。エアコンは快調に動作していた。


 峠を登りきったところに、開けた駐車場がある。ボウさんはそこにゆっくりと車を停めた。

「つきましタヨ」

 ついに我々は峠の頂上までやってきた。ボウさんはエンジンを切ってルームランプを点けると、後部座席に身を乗り出して荷物をゴソゴソやった。そして僕に雨合羽と懐中電灯を差し出した。

「ここから歩くんですか」

「ハイ。ここから少し歩いて展望台まで行きまスヨ」

 いよいよ肝試しじみてきたな、と思う。

 雨合羽を着て車の外に出た。まだ雨は激しく降り続いている。懐中電灯のスイッチを入れると、光の中に数十の白い線が浮かぶ。いつの間にか車を降りていたボウさんは、既に歩きだしていた。その背中を照らしながら、追う。

 

 展望台への道は木々が茂って歩きにくい。一応、人が歩けるように整備はされているのだが、脇から伸びてくる枝々が伸びっぱなしである。確かにこの道で傘をさすのは難しいだろう。だけど枝葉のおかげか雨は幾分か弱まって地上に届く。これはありがたい。足元も木が雨を凌いでいるからなのか、スニーカーで歩けないほどぬかるんではいなかった。

 しばらく歩くと、開けた場所に出た。ここが展望台らしい。頭上を覆うものが無いのに、雨合羽を叩く水音が消えている。雨が上がったのだ。前を照らすと、少し錆びたフェンスが浮かび上がった。真夜中に見る錆びた構造物は、どことなくホラーで寒気がする。フェンスに近寄ってみると、その先は下り坂、というより崖になっている。もし昼間で、空も快晴ならば、ここから雄大な景色が望めるだろうと思う。なんでこんな真夜中にクジラを見に来なくてはならなかったのだろう。

 クジラは飛んでいるだろうか。見上げると、まだ雲が引いていないのか、小さな星が2つ見えただけだった。昔、山で見た星はこんなものではなかったから、少し残念だと思う。雲を貫くほどには、この山は高くないらしい。

 山の上でも湿気は健在で、ジメジメとした生暖かい風が僕の肌を撫でた。

「さすがに山だから、雨も何も無いと静かですね」

 ボウさんの大きな背中から返事が返って来ないので、僕はボウさんに近づいて様子を伺った。空を見上げている。顔は暗くてあまり良く見えないけれど、酷く荒い呼吸をしていた。心なしか体も震えているように見えた。

「ちょっと、大丈夫ですか?」

「いや、すみまセン。やはり恐ろしクテ。やはり帰りましョウ」

 意外な言葉に驚く。

「恐ろしいって。ええっ、ここまで来たのに」

「すみまセン。あの」

 ボウさんが何か言いかけたところで、急に雨が降った。数秒間だけ、激しい雨と風とが降りそそいだ。雨風が地上とか合羽を叩く音だけが全部で、他は何も聞こえなかった。

 雨と風の直後、ボウさんはブツブツ呟きながら元の道を走っていった。

「ちょっと!」

 あわてて僕もそれにならう。枝が顔に当たらないように左手で顔をガードして、右手に懐中電灯を持ってボウさんの背中を追う。ボウさんの様子は尋常でない。何かから逃げるように走っている。僕も走っている。枝々が体中に当たって痛い。ひょっとして雨合羽を貫通して切り傷を作っているかもしれない。

 僕が駐車場まで辿り着いた時、ボウさんは既に車のエンジンをかけていた。

「はヤク!」


 山を降りるまでボウさんはものすごいスピードで車を走らせていたが、峠を下りきると法定速度で走り始めた。車のオーディオに付いているデジタル時計を見ると、既に時刻は0時を回ろうという所であった。

 ボウさんが落ち着いたところで、僕は切り出した。

「一体どうしたんですか。急に。驚きますよ」

「すみまセン」

 彼はただ謝るばかりで、何も説明してはくれなかった。諦めた僕は急に眠気を思い出し、シートに全体重をかけた。

 

 誰かに揺すられて目が覚めた。誰か、といってもボウさんなのだけれど。

「家、つきましタヨ」

 まだ意識のハッキリしない視界を眺めると、そこには確かに僕の住んでいるアパートがあった。2階建て。六畳間のボロアパート。名をハイツ今井という。ハイツ今井は電柱に付いている弱々しい蛍光灯に照らされてようやくその存在を確認することが出来た。アパートの窓々には一つも明かりが無い。

「あ、家まで……どうして僕の家を」

「学生証に書いてありまシタ」

「勝手に見ないでくださいよ」

 ボウさんに住所を知られるのは、なんだか危ない気がする。

「今日は残念でしたね。クジラ……見れなくて」

「とにかく無事帰ってこれたのデス」

「そうですね。夜の山って危ないし」

 その後、僕は軽くおやすみなさいとか挨拶してボウさんを見送った。

 思う。今日のは一体何だったのだろう。やはり山にクジラはいなかった。いるわけがないのだ。水族館もなかった。あるはずがないのだ。それでも、どこか満足感があるのはなんだろう。

 見上げれば、いつもの星。数十数百の星。

 山で見えなかった星々が、僕とハイツ今井の頭上にあった。

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