第三集 『御陵あるまの日報』
第26話 ○○入りチョコレート 問題編
参考:アントニー・バークリー原作『毒入りチョコレート事件(原題:The Poisoned Chocolates Case)』
僕のホームズこと、御陵あるまは、甘いものが好きだ。
それが女子だからか、それとも探偵だからかなのかは分からないけれど、椥辻刑事やリンネさんも、お見舞いの品としてお菓子やフルーツを買ってきてくれる。
また、この時期、つまりは二月の上旬には、お兄さん達や数少ない友達から、所謂「友チョコ」が送られてきたりするので、基本的に二月頭のアルマお姉さんの機嫌は良い。他の人には分からないだろうけど、僕には分かる。
ワトソン君だからね。
「殺人事件のトリックを解く上で、意外と厄介なのが、人間は意外と、不合理な行動をするということなんですよ」
手作りのチョコレートを、その形の良い唇へと運びながら、お姉さんは言葉を紡ぐ。
一連の所作は思わず、どきりとするくらいに魅力的だ。
チョコを作ったお兄さん――マキナお兄さんと言ったかな? も、きっと喜んでいることだろう。
「どういうこと?」
ベット脇のパイプ椅子に座った僕は、同じくチョコレートを口へと放り込み、続きを促す。
うん、美味しい。
ちょっとビックリするくらいに。
……これ、本当に手作りなの?と疑問を持ってしまうくらいだけど、作成者はアルマお姉さんの兄、しかも、あの天才のお姉さんが「私よりも才能に溢れている」と評するくらいの大天才だから、万能の天才ってやつはいるものなのだろう。
お姉さんは言った。
「なんとなく、の話です」
「なんとなく?」
「はい。人は、なんとなくで行動をしてしまう時がある。なんとなく、普段と別の道で帰ってみる。なんとなく、寄り道をしてみる……。勿論、理由があることが大半ですが、その理由が他人にとって推測不能ならば、不合理な行動と言って差し支えないでしょう」
例えば、その人が片想いをしていたとして。
好きな人と出逢ったのが公園だったから、その人と話せた日は公園を通って帰ると決めていたとして。
それは、その人の中では合理的な行動だけど、行動原理の分からない他者から見れば、全く不合理そのものだ。
単に、「なんとなく公園を通って帰った」と判断できてしまう。
「ある人物が地下室で殺害されたとします。その人物は地下室に誘い込まれたのか。それとも、たまたま地下室にいるところを襲われたのか。この二つには大きな差異があります」
後者の場合、と紅茶を一口飲んで、彼女は続けた。
「地下室に、見られては困るものがあった、と推測することもできます」
「なるほどなあ……」
「トリックを考える側に立てば、意外と難しいのは、標的を犯行現場にまで誘き寄せることでしょう。言い方を変えれば、『都合良く一人の状態になってくれること』。言うまでもなく、物事には例外というものがありますから、他の人間の目を盗んで犯行に及ぶ、ということもありえなくはないですが……。大多数の犯行は、犯人一人に対し、被害者一人で行われます」
隠蔽やアリバイ工作をしやすいですから、とお姉さんは纏めた。
その日は二月の上旬の火曜日で。
つまりは、数日後にはバレンタインデーを控えていたのだけれど。
アルマお姉さんはふと、話し出した。
たった一つのチョコレートで、被害者の行動を支配してしまった犯人のことを。
●
それは僕がこの精神科病院にやって来て一年目の秋のことだったらしい。
椥辻刑事が久しぶりにお見舞いに来てくれるというから、僕はお姉さんの部屋で待っていたのだけど、お昼を過ぎても、三時を回っても、一向に訪れる気配がなかった。
椥辻さんが忙しいのは僕も知るところだから、仕方なしに、僕は自身の病室に戻った。
物語はその直後から始まる。
窓際でアントニー・バークリーを読んでいたお姉さんは、自身の型落ちの携帯電話が震えたことに気付き、手を伸ばした。
「はい」
お姉さんは、電話に出ても、「もしもし」とも「御陵ですが」とも口にしない。
この番号に掛かってきている段階で、こちらが御陵あるまということは相手も承知しているだろうから、名前を名乗ったりとかそういうことは、無駄だと考えているのだ。
分からないでもないけれど、本当に社会性がない人だなあと思う。
これは僕と椥辻刑事の共通の見解だ。
『御陵か? 椥辻だ』
電話口にいたのは件の椥辻刑事だった。
「これはこれは、ナギさん。お忙しいでしょうに、どうしたのですか? 眼帯君との約束をすっぽかすくらいですから、相当に立て込んでいるのでしょう?」
『……皮肉はやめてくれ。私が一番、自己嫌悪に陥っているんだから。それに、今すぐ府道をぶっ飛ばせば夕方までには病院に着く』
「お急ぎになるのは結構ですが、法定速度以内でお願いしたいものですね」
『阿呆が。法定速度なんていうのは、「とりあえずこの速度なら安全です」という建前の決まり事なんだよ。つまり、破る為にある』
無茶苦茶な言い分は冗談だったのか、すぐに彼女は本題に入った。
『お前に相談するのは業腹なんだが、』
「でしたら、他の方に相談されてはどうでしょう? 京都府警の方を紹介しましょうか? 鴨土という刑事ですが」
『……鴨土さんなら隣にいる。そして、苦虫を嚙み潰したような顔をしている』
お姉さんは頭床台から折り紙を取り出し、鶴を折り始めながら言った。
「と、言うことは、殺人事件の話ですか。今日は昼から時間があるので、あの子のお見舞いに行こうと思っていたのに、現場が近いからと無線で呼び出され、そこで足止めを食らっているというわけですね」
『仰る通りだよ。普段ならば、私はお前に相談するなんてことは好かない。お前がどれだけ賢かろうが、素人だからな。捜査上で得た秘密を漏らすわけにはいかない』
「ご立派な職業意識です。素人探偵に簡単に情報を提供してしまうフィクションの刑事達に見習わせたいですね」
『だが、今日は話は別だ。私はさっさと切り上げて、そっちに行きたいんだ』
ふぅん?とお姉さんは鼻で笑うと、椥辻刑事は静かに、けれども強い意思を込めた声音で、こう言ったのだという。
『……あの子と約束したんだ。「今日、お見舞いに行く」と。大人として約束した。それを破ることは許されないだろう』
「……なるほど」
アルマお姉さんは、一羽目の鶴をベッド脇のビニール袋に落とし、笑った。
「ナギさんはあの子のこととなると、途端に真剣になりますねえ」
『当たり前だろう、あの子は私が担当した事件の被害者なんだから。……ん? ちょっと待て、私はいつも真剣だ』
「あら、そうですか? それにしては、私に対しての態度がつれないものだったので」
『それはお前が皮肉ばかり言うからだ』
「まあ、構いませんよ」
と、お姉さんは言った。
「私としても、私のワトソン君が悲しむのは望むところではありません。事件の話くらいは聞いてみましょう」
●
事件は複雑だったが、椥辻刑事達が悩んでいるのは、たった一点だった。
「被害者をどうやって一人にさせたか」。
事件が起こったのはある小さなペンションだ。
当時、そこには五人の人間が集っていた。
ここでは便宜的に被害者をAとしよう。
『被害者達は、午前中に山菜採りを行い、その後、昼食を摂った。しかし、食事が始まってすぐ、Aは体調を崩して、自室に戻った。……問題となっているのはここだ。他にも、殺人の動機や凶器の入手ルート、事件か事故か、どの程度の殺意があったか等、考えるべきことはあるんだが、とにかく、今はここが問題なんだ』
「つまり……。どのような事件かは分かりませんが、犯人にごく都合の良いように、被害者Aは体調を崩し、一人になった、と……」
『そういうことだ』
毒でも盛ったんじゃないですか?と軽い調子でお姉さんが返すと、椥辻さんは言った。
『その可能性もある。が、どうやってAにだけ毒を飲ませる?』
「Aが座る席のグラスに仕込んでおいた」
『席は自由だった。別の人物が座る可能性もある』
「隣に座った人間が気付かれないように毒薬を入れた」
『対面には二人、他の人間が座っているのにか? リスクが高くないか?』
「食器を配る際にそれとなく毒が塗られたものをAに渡した」
『ナイフやフォークを配ったのはA自身だ』
「山菜採りに持っていった水筒に毒が仕込まれていた」
『鑑識の調べではそれはないらしい』
お姉さんはやや考え、その場にいた五人の特徴を聞いた。
A、今回の事件の被害者。男性。Bの夫。
B、Aの妻。菜食家。ハンドルキーパー。席はAの右隣。
C、料理人。女性。山菜とジビエのコースを振る舞う。席はAの左斜め前。
D、Aの友人。男性。食事が始まって早々にお手洗いに立った。席はAの前。
E、Aの友人。男性。体力がなく、山菜採りには同行しなかった。席はAの右斜め前。
お姉さんは言った。
「他に、椥辻さんから見て、気になることはありましたか?」
『特にはない。ごく普通のペンションだ。木製で、木の香りがして、リビング・ダイニングがあり、テレビが点いていて、リビングの机の上にはお菓子が盛られた皿がある』
「菓子器、というやつですか」
『チョコレートだな。お前が好きそうなやつだ』
「……なんですって?」
僕のホームズは折り紙を折り進める手を止め、訊いた。
『だから、お前の好きそうなチョコレートが盛ってある』
「……ナギさん、大丈夫ですか?」
『何がだ?』
「チョコレートが盛ってあるのならば、それに決まっているじゃないですか」
未解決の謎。
未解決の謎。
この事件にはもう、謎はない。
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