第23話 私の身体に流れるものは 問題編



参考:S・S・ヴァン=ダイン原作『ベンスン殺人事件(原題:The Benson Murder Case)』





 たった一人で夜を駆ける


 答えを求めて一人行く


 誰も私を見ておらず、私も誰も見ていない


 誰もが独りの夜の中、私は独りで待っている


 自分が何をしたいのか、何を望んでいるのかを、教えてくれるその人を


 「誰か、私を連れ出して」


 呟いてみた言の葉は春の夜風に吹かれて消える


 夜を切り裂き、空の下、走る私はヒトリキリ


 私の嫌いな私自身が私に小さく囁いた


 「あなたはどうして生きているの?」


 思わず私は足を止め、空を見上げて目を閉じた


 静かに降りゆく雨の中、私は一人で泣きながら、答えを求めて彷徨った―――





 その日、僕ははじめて一人きりで自分の病室から外に出た。


 先生や看護婦さんには、ずっと前に――ずっと前に?

 ……ずっと前だっけ?


 とにかく今日じゃない日に、「もう病院内なら自由に出歩いていいよ」と言われていたけれど、あんなことがあった後だったからそんな気にもならなくて――あんなこと?


 僕は、何を。

 僕に――何があったんだっけ?


 ……とりあえず、僕ははじめて一人で外に出た。

 ざらざらとノイズばかりで調子が悪い頭を引き摺るようにしながら、僕は白い廊下を一人で歩く。

 精神病院というのは不思議な場所で、おかしいと思ったらおかしくなかったり、おかしくないと思ったらおかしかったりする人が沢山いる。

 どちらにせよ、おかしい人なんだけど。

 いつだったかそういうことを僕が言うと、先生は「異常な状況や背景がある場合に異常が出るのは異常ではないよ」と笑った。

 多分僕は訳が分からないと言わんばかりの表情をしていたんだろう。

 すぐに先生はこう言い換えた――「高いところから落ちた人が高所恐怖症になるのは普通、ってこと」。

 精神科医の先生による、とても分かりやすい『異常者』の評。


 でも、じゃあ。

 僕は、どうしてこうなってしまったんだろう?

 一度二度人にぶつかりそうになりながらふらふらと廊下を進んで、階段を上る。

 上り切ったその先には飾り気のない扉がある。

 これが噂に聞いていた屋上へ続くドアか。

 良く晴れた日にあそこでひなたぼっこをするのは気持ち良いよ、と誰かが笑っていたことを思い出す。


 うーん……でも、誰が言っていたんだっけ?

 最近の記憶は曖昧だ。


 思い出す作業を一旦打ち切って、扉を開ける。

 その先には、青い空が広がっていた。

 日に温められたコンクリートへ、一歩踏み出す。

 春風を感じながら屋上に立つ。

 高い金網にこそ囲まれているけれど、この病院の中で一番開放的で、気持ちが良い。

 と、伸びをしながらぐるりと辺りを見回した僕は、屋上の片隅に先客がいることに気が付いた。


 金網の向こう側を見つめていたその人は、ふと、振り返った。



「あら。見掛けない顔ですね」



 最初に目を奪われたのは、見たこともない色合いの、両の瞳。

 深い蒼色の、目。


「……う、わ……」


 一言で印象を纏めるとすれば、ゾッとするくらいに綺麗な人だった。


 生活感のない、まるでお伽噺のお姫様のような顔立ち。

 モデルさんみたいな身長にすらりと伸びた四肢。

 白い肌に長い睫毛。

 どれもあまりにも現実感がなかったから、思わず僕は残った片目を擦った。

 彼女はそんな僕を見て微笑む。

 ……その笑い方は何故か全然お姫様っぽくない、口端を歪める性悪な感じのものだったけれど、とにかく綺麗な人だった。

 肩まで伸びたダークブラウンの髪が風に吹かれて小さく揺れた。


「……お姉さんも、入院してるの?」

「ええ、あなたよりずっと長く」


 というよりもこの病院自体が私の為に建てられたようなものです、なんて風にそのお姉さんは呟く。

 嘘だとしても凄い発言だ。


「ねえ、綺麗なお姉さん」

「なんですか、可愛らしい少女」

「可愛らしい少女……。えっと、お姉さんはなんて名前なの?」


 お姉さんの言葉に戸惑いながらも僕は訊いた。

 彼女はその女の人としては少し低めで、でもとても聞き取りやすい声で答えた。


「御陵あるまと申します」

「みささぎ、あるま……変わった名前だね。自分の名前、好き?」

「嫌いではありませんよ。父から聞いた話によると男なら『マキナ』、女なら『アルマ』という名前にしようと決めていたそうです。だから『マキナ』の方がカッコ良かったかな、とは思います」

「……外国の人?」

「少なくとも国籍は日本です」

「そんな風な目の色なのに?」

「それは可愛らしい子が眼帯をしていたからと言って悪魔と契約していると断定するくらいに愚かな判断ですよ。あなたは眼帯をしているようですが、別に両親を惨殺されたわけでもサバトの生贄にされかけたわけでも、況してや悪魔の執事を従えているわけでもないでしょう?」

「言っていることは良く分かんないけど……。でも、そんなこともないよ」


 だって。

 僕の、両親は。



「僕の両親は――誰かに、殺されたらしいから」



 一瞬の無音の後、屋上に一陣の風が吹いた。

 灰に近い色合いの蒼の瞳が細められ、僕を見た。

 彼女の両目と僕の片目が繋がった。


 きっと彼女は僕の瞳から僕のことを読み取ろうとしたんだろう。

 できるはずなんてないのに。

 お姉さんもすぐに諦めたようで、彼女はまたあの妖しい微笑を浮かべて言った。


「私としたことが、それは失礼しました。私も母親が目の前でぐしゃぐしゃになっているので、お相子ということで」

「何もお相子になっていない気がするけど……」


 お互いにブルーな気分になった、という意味ではお相子なのかな。

 いや、そうでもないけど。

 僕も、きっとこのお姉さんも。


「……先ほどの質問に答えますと、日本人でも東北には青い目の方がいるそうですよ。尤も私の瞳はロシア人だった祖母からの遺伝だと思いますが」

「ふーん……。お姉さんはさ、」

「なんですか?」

「お姉さんの家はさ、どんな家だった?」

「答えるのが難しい質問ですね。というか、先ほどからずっと私に訊ねてばかりですね。答えることは吝かではありませんが、せめてあなたも自分の名前くらい名乗ったらどうですか? まさか自分の名前を呼ばれることにトラウマがあったり、名前を名乗らないことを自慢に思っているわけじゃないでしょう?」

「そういうわけじゃないけど……。あんまり、名乗りたくないんだ」


 促されても、僕は首を振ることしかできなかった。

 だって、僕は。


「…………記憶喪失、だから」


 この病院を訪れたまともな大人は皆、僕に対して憐れみの視線を向ける。

 可哀想に、かわいそうに、カワイソウニ―――。


 だけどそんな勝手な同情をされたところで、僕はそれらしい反応を返すことはできないんだ。

 だって、僕には記憶がないから。

 家族が誰かに殺されたことも。

 片目が潰れていたことも。

 自分の名前でさえも。

 自分のことなのに、僕にとっては他人から話に聞いただけの、遠い世界のことだから。


 だから。


「……名前、先生から聞いたし、看護婦さんからも呼ばれるんだけど……。自分の名前って気がしないんだ」


 僕は、本当にそんな名前だったのだろうか。

 だとしたら誰が名付けたのだろう。

 お母さんか、お父さんか、それとも他の誰かなのか。

 そんなことすら僕は分からなくて。


 そんなことすら分からない僕は――本当に『××××』という名前の人間だったんだろうか?


「そうですか。なら名乗らずとも結構です」


 お姉さんはとてもクールにそう言った。

 そうして続ける。


「ではとりあえず、あなたのことは『眼帯ちゃん』と呼ぶことにします」

「…………そのままだね」

「見たままである分、自分のことだと認識しやすいでしょう?」


 言われてみればそうだった。

 幸いなことに、僕が知る限りでこの精神病院に僕以外に眼帯を付けている人間はいない。

 便宜的な呼び名としては良いかもしれない。


 僕は言った。


「じゃあ僕の方は……お姉さんのこと、『アルマお姉さん』って呼んでいい?」

「構いませんよ。私も苗字に関してはあなたと近い状態なので、どちらかと言えば名前で呼ばれる方が好ましいです」

「じゃあさ、アルマお姉さん」

「なんですか、眼帯の少女」


 『眼帯ちゃん』って呼んでないし……。

 まあいいけど。

 今の僕が始まってから、病院や警察の人以外で初めて知り合ったその人に、僕は訊いた。


「これからも、お姉さんのこと見掛けたら……声、掛けてもいい?」

「構いませんよ。無視するかもしれませんが」

「それ駄目ってことじゃない……?」

「機嫌が良ければ応えるということです」


 こうして、僕とお姉さんは知り合いになった。







 古びたアパートの一室に一人の女の子がいた


 女の子はその小さな部屋の片隅で図書館で借りた本を読んでいた


 毎日、毎日


 友達と遊ぶこともせず、ただ母親が帰ってくるのを待ちながら、一人で本を読んでいた


 夜遅くに帰ってきた母親に「おやすみなさい」と一言告げて、少女は眠りに付く


 翌日の朝、彼女が起きた時にはもう母親はいない


 朝早くから仕事に向かい、夜遅くまで帰ってこない


 私は明日も一人で準備をし、一人で学校に行くのだろう



 ……ああ、そうか


 何か変だと思ったら、あそこにいるのは私だった


 だとしたらこれは夢なんだろう


 あの人が生きていた頃の夢


 ……でもどうせ夢なのならば、嘘でも良いからあの人に何か言ってやりたかった





 警察の人が来ていると看護婦さんに呼ばれ、「どうせ何も答えられないのに」と面会室に赴くと、そこには椥辻刑事がいた。

 椥辻さんならそう言ってくれれば良いのに、と思いながら椅子に座る。


「こんにちは、椥辻刑事」

「……ああ」


 椥辻小梅刑事。

 荒れ気味のショートヘアに、眉間に深く刻まれた皺。

 威圧感を与える眼光と地を這うイタチのような印象。

 黒のパンツスーツに黒の手帳。

 どれも如何にも『刑事さん』という感じで、ちょっと怖いけれど、カッコ良い。


 そんな椥辻刑事は僕の家族が殺された事件の担当で、そして、僕を助けてくれた恩人でもあった。

 今の僕の最初の記憶は彼女の煙草臭い腕に抱き抱えられているというもの。

 彼女が来てくれなければ僕は出血多量で死んでいたかもしれないらしい。

 尤も事情は良く分からないし、記憶喪失のせいで実感もないけれど。


「……その、なんだ。最近は眠れているのか?」


 目の前に座る椥辻さんはふらふらと視線を彷徨わせつつ、そう問い掛けてくる。

 僕にどう話し掛けて良いか分からないんだろう。

 多分この人、普段は悪い人と怒鳴り合いみたいなやり取りしかしてないから、威圧感を与えずに喋るのが苦手なのだ。

 だから僕はあえて元気良く「うん」と頷いてみせた。


「……そうか。なら、良いんだ」

「椥辻刑事は? どう? 大丈夫?」


 この人はあのアルマお姉さんと違って自分の名前が好きじゃなかったなあ、などと思い出しながら、僕は訊ねた。


「体調はまあ……問題はない。ただ、良い知らせはしばらく届けられそうにない」


 すまない、と椥辻刑事は頭を下げる。

 彼女の言う「良い知らせ」とは「犯人逮捕の目処が立った連絡」ということだろう。


 この街――正確には、この市と隣接する二つの街に跨って起こっている連続無差別殺人はもう五件目、犠牲者は六人になっていた。

 もし僕が死んでいたら犠牲者は七人だったらしいから、僕を助けただけでも椥辻刑事は大金星だという。

 ただ。


「……ごめんなさい。僕も、まだ何も思い出せてないんだ」


 ただ、両親を目の前で殺され、犯人の顔を見ているはずの僕が記憶喪失のせいで、捜査状況が芳しくないこともまた事実だった。

 僕に会いに来る他の警察の人は見るからに苛立っていることが多い。

 この子どもが記憶喪失じゃなければ――皆、そう思っているのだろう。

 唯一の例外が椥辻刑事で、今日もこの人は僕が謝ると焦ったように「そんなことを言うな」と声を荒げた。


「そんなことは、お前は気にしなくていい。……悪いのは私達、大人なんだから」


 そうして彼女は小さく呟く。

 思い出さない方が良いこともあるんだ、なんて。

 両親を目の前で殺されたという僕。

 今は記憶喪失のお陰で他人事みたいに冷静に振る舞えているけれど、記憶が戻ってしまえばそうはいかなくなる。

 その時の記憶を思い出して、僕は僕でいられるのだろうか。

 発狂して自殺してしまわないとも限らない。

 きっと、椥辻さんはそれが怖いのだ。

 自分が救えたたった一つの命が失われてしまうことが、堪らなく恐ろしいのだろう。


「……じゃあ、またな」

「うん。また来てね、椥辻さん」

「……ああ」


 彼女の瞳の奥に見えるのは絶望になりかけている無力感。

 記憶喪失の僕にも、それくらいのことは分かった。







 椥辻刑事と別れた後、僕は屋上へと向かった。


 理由はない。

 強いて言うなら、万が一記憶を思い出して死にたくなった時の為の下見だ。

 ……勿論、冗談だけど。

 実際は暇で仕方ないからだった。

 精神病院に入院している人間は、病状にもよるけれど、カウンセリングなどのその日の治療を受けた後は暇をしていることが多いのだ。


 扉を開けて青空の下に出る。

 今日も気持ちの良い晴れの日だ。

 この青い空の下にある街で何人もの人間が無差別に殺されているなんて信じられないほど、良い天気だった。

 これくらい快晴ならば空の上からでも地上は見えるはずだから、やっぱりきっと神様なんていないんだろう。

 だから僕は空を見るのをやめて、屋上の端、金網に手を伸ばす。

 触ると小さく、がしゃん、という音がした。

 僕の身長より遥かに高い金網は近付いて観察してみると意外にも丈夫そうだった。

 破るのも上るのも多分無理だろう。


「……死ぬのも結構、大変だ」


 ひょっとしたら死ぬことよりも殺すことの方が簡単なのかもしれない。

 そんなことを、思った。


「また会いましたね、可愛らしい少女」


 彼女の声が僕の鼓膜を揺らしたのはその時だった。

 少し低めで、音楽みたいな綺麗な声。

 振り向くとそこには予想通り、御陵あるまさん――アルマお姉さんがいた。


「こんにちは、アルマお姉さん。……あんなこと言われたから、まさか話し掛けてくれるなんて思ってもみなかったよ」

「私、少し躁鬱気味ですから。今日はハイの日というだけです」


 つまり、ローの日には返事をしない、ということなのか。

 僕の隣に立ったお姉さんは、僕と同じように金網を触って、あの灰に近い色合いのブルーの目を細めた。


「病院も馬鹿ではありませんから、早々死ねないでしょうね」

「え?」

「『死ぬのも結構、大変だ』――そう言ったでしょう?」


 聞いていたのか。

 小さな声で言ったつもりだったのに、耳が良いんだな。


「知り合いに聞いた話ですが、自殺する人間の九割以上は何らかの精神疾患を患っているというデータがあるそうです。つまり、異常な状態である、ということですね」

「……えっと……」

「死にたがっている人間は正気ではない、ということです。少なくともそう考える人間にとっては自殺行為は他の問題行動と同じく、理由と背景が存在するものです。そして対処すべきなのはその理由や背景である、という考え方ですね。職場のストレスで鬱になり、鬱になったから死にたがっている人がいたとして、行うべきはまず自殺を止め、鬱を治療し、かつその職場の労働状況や人間関係を改善することです。本人が望んでいるからと死なせてしまうのは不正解だそうです」

「…………そうなんだ」


 綺麗な声だから不快ではないけれど、この人、僕が聞いているかどうかはお構いなしだな……。


「記憶喪失についても伺いました」

「え?」

「記憶喪失――この場合は逆行性健忘に分類される全生活史健忘という症状ですね。多くは心因性で、自分に関するエピソード記憶が想起できなくなった状態のこと。平たく言い換えれば、名前や生い立ちといった自分に関する記憶が思い出せなくなる障害のこと。精神病理学的には解離と同一視され、辛い記憶を忘れてしまおうとした結果起こるのが全生活史健忘、自分の中の他人に押し付けてしまうのが解離性同一性障害」

「う、うん……」


 確か先生からはそういった類の説明を聞いた気がするけど……。


「心因性であることがほとんどだそうですから、漫画で見られるような、頭を打って記憶喪失になる、ということはごくごく稀なケースだそうです。ということは記憶喪失の人間は大抵の場合において何かしらの心的外傷を受けていることになりますね」

「そうなる、のかな? ……僕も、両親を殺されたショックが原因じゃないか、って言われてるし」

「答えたくなければ答えずとも良いのですが、」


 と、そう前置きしてからお姉さんは言う。


「あなたのご両親を殺害したのが、最近噂のあのシリアルキラーというのは、事実ですか?」

「……うん。警察の人達からはそう聞いてる」


 それはあまりにも不躾で、普通は不快に感じるであろう質問だった。

 だけど幸いにも今の僕は記憶喪失。

 自分の身に起こったことのはずなのに、何処か他人事。

 だから特に何も感じなかった。

 加えてお姉さんの表情からは野次馬根性のようなものは少しも伺えず、むしろ物凄く真剣そうだったから、きっと記憶があったとしてもそこまで嫌な気はしなかっただろう。

 なんとなくではなく、何か、確信や思惑が裏にある態度。


「もしかして、アルマお姉さん……犯人を捕まえようとしてるの?」


 僕がそう言うと、彼女は小さく笑った。

 口端を歪める妖しい微笑。


「別に、そういうわけではありませんよ。私は警察でも探偵でもありませんからね。ただ……」

「ただ?」

「興味深いな、と思っているだけです」


 そうして彼女はまた笑みを浮かべる。

 何人も人が死んでいるというのに、そんなことはお構いなしという風に、妖しく笑う。

 不遜で尊大な彼女の微笑を見て僕は思うのだ。

 やっぱりこの人もおかしい人なんだな、と。

 そんな、一般的な倫理観や常識が通用しないらしいアルマお姉さんは、何故か唐突にこんなことを言い出した。


「……明日はお暇ですか?」

「え?明日? うん、多分……。明日もカウンセリングが終わった後は夕方までずっと暇だと思うけど」

「では、都合が良ければ私の病室に来てください」

「……え?」


 アルマお姉さんの病室に?

 良いの?

 でも、なんで?


 そう訊ねようと口を開いた時にはもう、お姉さんは屋上からいなくなっていた。

 

「自分勝手過ぎる……」


 理由もなし。

 挨拶もなし。

 どころか肝心の自分の病室の場所すら告げず。

 ……記憶喪失の人間が言うことじゃないかもしれないけれど、なんて社会性がない人なのだろう。

 驚き呆れながらも一方で、変わり者なあのお姉さんと明日も話せるということを僕は嬉しくも感じていた。







 母子家庭に向けられる視線は決して暖かいものではない


 況してやその子どもが不倫によって生まれた子であれば尚更だった


 「人の噂も七十五日」という格言が嘘でしかないと私は知っている


 物心付いてから私はずっと好奇と嫌悪の視線に晒されてきた


 友達と遊んだ記憶は、ほとんどない


 無料で借りられる図書館の本を読んで暇を潰し、夜になって母が帰ってくるまでの時間は安っぽい刑事ドラマを見て過ごす


 それが私の日常だった


 単なる不倫の子であればどれほど良かっただろう


 贔屓目なしに見ても聡明で、しかも整った造形をしていたせいで、私は余計に周囲から爪弾きにされた


 悲しくて、寂しかったのは最初だけ


 やがてどうとも思わなくなり、むしろ私は周りを見下すようになっていった



 だって、そうでしょう?


 私はこんなにも賢くて


 ……私は少しも、悪くないんだから





 仲の良い看護婦さんにアルマお姉さんの病室について訊くと、なんとも言えない顔をされた。

 その表情が第三者からの御陵あるまという人物の評を端的に表していた。

 この表現はあまり良くないけれど、アルマお姉さんは所謂「手の掛かる患者」ではないらしい。

 どちらかと言えば「この人は本当に病気なんだろうか?」と思ってしまうほど、しっかりしたところがある人だそうだ。


 ……ただ、少ししっかりし過ぎているというか。

 頭が良過ぎるというか。

 大人を苛立たせるような口調と表情と才能の持ち主――というのが、先生や看護婦さん、古参の患者さんから聞いたアルマお姉さんの評価だった。

 僕から見ると彼女はお姉さんだけど、他の大人から見れば彼女は子ども。

 そして、大人という生き物は自分より優れた子どもや子どもらしくない子どもが好きではないのだ。

 あのなんとも言えない顔の意味はそういうことなのだろう。


「……まあ、お姉さんが人を小馬鹿にするような態度をしているのも悪いんだろうけど」


 看護婦さんから「いじめられたらちゃんと言うのよ」と念押しをされ、部屋番号を教えて貰った僕はお姉さんの病室へと向かう。


 開放病棟の最上階の角の一人部屋。

 そこがアルマお姉さんの病室だった。

 市内最大の総合病院から精神科を独立させた別館ということもあって院内はそこまで広いわけでもなく、方向音痴気味の僕でもすぐに目的地に辿り着くことができた。


 廊下の角を曲がった先にある一室。

 部屋番号を確認してノックする。

 一拍置いて、「どうぞー」という男の人の声が聞こえてきた。


 ……男の人の声?

 お姉さんの声は女の人としては低めだけど、ここまでじゃない。

 じゃあ誰か別のお客さんがいるのだろうか。

 後にした方がいいかな。

 扉の前で悩んでいると自動的にドアが開いた。

 実は自動ドアだった――というわけもなく、そこには扉を開けたらしい男の人が立っていた。


「可愛らしいお客さんだね」


 僕を一目見たその人は僕の遥か頭上で穏やかな笑みを浮かべる。

 思わずふっと心が緩んでしまうような、安心感を抱かせる表情。

 お姉さんとは真逆の笑い方だ。

 すぐにその場にしゃがんだそのスーツの人は僕と目線を合わせてから言った。


「……君が、アルマさんの言ってた子かな?」

「う、うん……。多分、そう……」

「そっか。じゃあ、中においで。アルマさんも待ってるから」


 優しそうだけど、でも、なんだか変わった人。

 そして何より、大きい。

 アルマお姉さんもかなり上背があるけれど、この人は百九十近くはあるだろう。

 男の人に続いて部屋の中に入ると、殺風景な部屋のベッドの上に彼女がいるのを見つけた。

 彼女――御陵あるまが。


「……来ましたね。さて、この人は鞍馬輪廻と言います」


 挨拶もなしに見ず知らずの人を紹介される。

 訳も分からないまま、僕は窓辺に立つその鞍馬輪廻なる男の人を改めて見た。

 片田舎の小学校の先生のような穏やかな雰囲気。

 背が高く、男の人としては目が大きめだ。

 カジュアルなスーツ姿の彼の首には吊り下げ名刺が掛けてあり、そこには名前と『ソーシャルワーカー』という単語が記してあった。

 それが、この人の職業なんだろうか?

 僕の頭に疑問符が浮かんだことを読み取ったらしいお姉さんは口を開く。


「簡単に説明すると、困っている方を助ける仕事をしています」

「またざっくりと説明したね、アルマさん……」

「間違ってますか?」

「いや、合ってるけど……」

「ちなみに内面はあべこべミラーに映したハスミンという感じですね」

「また凄い説明だなあ……」

「間違ってますか?」

「いや多分、合ってるけど……。少なくとも医学的な分類としては真逆の人種だと思うし……」


 二人のやり取りを見つつ、僕は一人得心した。

 鞍馬輪廻さんに感じていた僅かな違和感の正体。

 どうして「変わった人」という印象を抱いたのか。

 ……それは、初めて僕の顔を見たあの人が、僕の眼帯に全く注目しなかったからだった。


 他の人は僕を見ると、必ず一瞬は驚愕か同情の感情が顔に出る。

 「可哀想に」と言葉にしてくる大人だっている。

 でも、鞍馬輪廻という人は、平然としていた。

 ジロジロ見られると僕達が不愉快に感じると知っているのだろう。

 どうやらリンネさんが「困っている方を助ける仕事をしている」というのは本当のことのようだった。


「今日あなたをリンネさんに会わせたのは、他でもありません。彼が件のあなたの親を殺した犯人を捕まえる――まではいかずとも、犯人を推理してみせてくれるそうです」

「えっ、そうなの?」

「違うよ。そんなこと僕にはできないよ。なんでそんな嘘を吐くかなあ、アルマさんは……」

「立てば嘘吐き座れば詐欺師、歩く姿は詭道主義とは私のことです」

「それ自体が嘘でしょ、もう……」


 僕が、今の僕になってから、二週間が経とうとしていた頃。

 こんな風にして僕はアルマお姉さんに続いて、リンネさんと知り合いになった。







 小学校に上がる前くらいから母に言われて習い事に通うようになった


 ピアノとダンス、英会話


 あと一つ二つあった気がするけれど、あまり覚えていない


 生活は決して裕福ではなかったのにどうして私にそんなことをさせたのかは分からない


 こんな家庭で育てている負い目か、それとも見栄か


 ひょっとしたら、あの人も私と同じように「私はお前達とは違うんだ」と思っていたのかもしれない


 貧乏だからどうだとか


 片親だからどうだとか


 そんな風に周囲から言われるのが嫌で、だから私を何処に出しても恥ずかしくない『良い子』にしようとしていたのかもしれない


 要領が良く才能もあった私は大抵のことで成果を出した


 コンクールや大会にあの人が来てくれることはほとんどなかったけれど、それでも頑張っていたと思う


 ……そんなくだらない自尊心の為に頑張ったところで、ますます周囲から孤立するだけだということはあの人だって分かっていたはずなのに





 「明日もまた来てもいい?」「構いませんよ」――そんな簡潔なやり取りを経て、僕はお姉さんの病室に通う権利を得た。


 御陵あるまという人は正直言ってかなり偏屈なところがあるし、取り繕うことなく率直に言うと尊大で不遜で性悪な感じのする人だけど、どうしてか僕は嫌いになれないのだ。

 多分、理由は二つ。

 一つ目は、お姉さんが将来こうなりたいと思えるような、飛び切りの美人だから。

 もう一つは、僕の好きな小説の主人公――かの名探偵シャーロック・ホームズと何処か似ているから。

 外面と、内面。

 二つの側面から僕は彼女に憧れのような感情を抱いた。

 ここ、精神病院という場所は退屈で仕方なくて、お見舞いに来てくれる人も仲の良い人も今の僕にはいない。

 つまり、毎日とても暇ということだ。

 どうせ暇なのだから、折角だから少しでも面白そうな人と一緒に時間を過ごしたいと思ってもおかしくはないだろう。


 昨日と同じように病室の扉をノックするが、返事はない。

 今日はリンネさんはいないらしい。

 入るよー、と呼び掛けながらドアを開ける。

 勿論、殺風景な病室のベッドの上にはアルマお姉さんがいた。

 ……薄々予想は付いていたけれど、お姉さんには「ノックをされたら返事を返す」という常識は存在しないようだった。


「こんにちは、アルマお姉さん」

「まさか本当に来るとは思っていなかったです」


 僕の言葉にも彼女は挨拶を返すことなく、口端を歪めてそう言うだけ。

 アルマお姉さんには「知り合いには挨拶をする」という常識もないらしい。

 常識とは無縁の彼女の手にはハサミがあった。

 その下にはいくつかの新聞紙とファイルがある。


「お姉さん、何してるの?」


 来客用の椅子の腰掛けながらそう訊ねると、彼女はまた笑った。


「見て分かるでしょう? スクラップブックを作成しています」

「ふーん……。そういうの、好きなの?」

「別に、好きではありませんよ。面倒だな、と思っています」

「そうじゃなくってさ……。まあいいや」


 僕は「スクラップブックを作るのが好きかどうか」を聞きたかったわけではなく、「情報収集が好きなのか」「何の記事を集めているのか」が聞きたかったんだけど……。

 仕方がないので、僕は片目を凝らして彼女の手元を見る。

 切り抜いている記事の内容は――例の、無差別連続殺人鬼の報道だった。

 予想通り。


「それにしてもお姉さん、なんだかホームズみたいだね」


 何気なくそう呟くと、黙って作業に勤しんでいた彼女が手を止め、顔をこちらに向けた。

 灰に近い色合いのブルーの目が僕を射抜く。


「な、なに……?」

「ホームズみたい、ですか?」

「え、うん……。ホームズみたいじゃない? 興味のある犯罪の記事を集めて、スクラップにしてるって」

「ホームズが作っていたのは事件や人物を纏めた索引でしょう? いえ、失礼……そう言えば、『赤い輪』の中でスクラップブックを作るシーンがありましたね。素晴らしい記憶力ですね、可愛らしい少女」


 何故か褒められた。

 僕はイメージとして言っただけ、言わば喩えとして出しただけで、具体的な作品や場面が思い浮かんでいたわけじゃなかったんだけどな……。

 むしろ「スクラップブックを作るシャーロック・ホームズ」という単語ですぐに短編の名前が出てくるお姉さんの記憶力の方が凄い。

 そう返すと、彼女は首を振る。


「別に、これくらい普通ですよ」

「いや普通じゃないよ……」

「普通じゃないとしてもホームズと比べれば足元にも及びません」


 まず世界一の名探偵と自分を比べる時点で普通ではない。


「それはそうかもしれないけどさ、ホームズは普段使わない知識はがらくた部屋に置いておけば良いって言ってたから、細かなことは記憶してなかったと思うよ」

「それもそうですね。『緋色の研究』や『オレンジの種五つ』の中でそういった旨の発言をしています」

「やっぱり凄い記憶力だよね、お姉さん……」

「そうですか?」


 アルマお姉さんはまた尊大で不遜に口端を歪めてみせた。

 ただ、両の瞳が一瞬間輝いたのを僕は見逃さなかった。

 もしかして、と思い僕は言ってみる。


「お姉さんって、もしかしてシャーロック・ホームズのファン?」

「そうですね。大好きですし、尊敬しています」

「僕も好きなんだ。特に……えっと、どの話だったかな、ホームズが失敗する話の最後にワトソンに言った言葉が……」

「ああ――『もし僕が少し自惚れたり調査を怠ったりしていたら、僕の耳元で「ノーベリ」と囁いてくれないかな? そうすればいくらでも恩に着るよ』ですね。『シャーロック・ホームズの思い出』に収録された『黄色い顔』の締めの一言です」

「そうそう!それ! やっぱりお姉さん、凄いなあ。小説の中の名探偵みたいだ」

「そうですか?」

「そうだよ!」


 別に、これくらい普通ですよ―――。

 そう口にしたお姉さんの口元は僅かに緩んでいて、目はさっきよりももっと露骨にキラキラしていた。

 やっぱりだ。

 確信した僕は続けて訊いてみた。


「そう言えばホームズって、結構褒められると素直に喜んだりしてたよね」

「そうですね。『六つのナポレオン』の事件解決後のシーンや、あとは先ほども触れた『緋色の研究』や『赤い輪』の中でもそういった記述があります」

「そうだよね。やっぱりお姉さん、凄いなぁ……」

「別に、大したことありませんよ」


 決まりだ。

 この変わり者でクールな雰囲気のお姉さんは、シャーロック・ホームズと同じように、意外と褒められることに弱い。







 お姉さんの新たな側面を知った僕はその翌日も彼女の病室を訪ねることにした。

 本当に毎日暇なのだ、僕達は。

 僕の場合、記憶が戻れば警察の調査に協力しなければならなくなるから忙しくなるだろうけれど、今のところ記憶喪失が治癒する目処はなく、つまりは今日も暇ということだった。

 昼下がりの精神病院。

 昨日と同じく病室の扉をノックすると、一昨日と同じく一拍遅れて男の人の声が返ってきた。

 聞き覚えのある声。


 扉を開けると、そこには思っていた通りにアルマお姉さんに加えて、もう一人――鞍馬輪廻さんがいた。

 窓際に立つリンネさんは僕を見つけると「こんにちは」なんて風に優しく微笑んでみせる。

 アルマお姉さんとは違い、「知り合いには挨拶をする」という僕の常識が通じるお兄さんに挨拶を返して、僕は昨日と同じように来客用の椅子に座る。


「リンネさんと言い、あなたも暇なんですね」


 相変わらず挨拶という概念がないらしい彼女は、こちらを向くことなくタブレットを操作している。

 見るからに高級そうな端末を軽快に操るお姉さんはまさに現代っ子という感じ。

 ……来客がいるのに作業を止めないのは現代っ子だからではなく、御陵あるま個人の特徴であると信じたい。

 僕は気にしないけれど、本当にこの人、社会性がないなあ……。


「今日はお姉さん、何してるの?」

「見て分かりませんか?」


 見て分からないから訊いてるってことはお姉さんは分からないのかな……。

 そう思いながら、もしかしたら見て分かるかもしれないと邪魔にならないように気を付けながらタブレットを覗き込んでみる。

 画面には地図が映し出されており、その地図には幾つか赤い点がマークされていた。

 残念ながら見て分からなかった。

 僕が見て分からなかったことを見て分かったらしいリンネさんが口を開く。


「地理的プロファイリング、というやつらしいよ」

「地理的プロファイリング?」

「うん。犯罪捜査の手法の一つで、統計学の手法を用いて犯罪を分析し、犯人の特徴を推測するもの。その真似事、かな?」

「真似事とは失礼ですね」


 顔を上げたお姉さんは言った。


「ちゃんと犯罪心理学や行動科学に関する論文は幾つか目を通しました。何よりFBI捜査官と天才数学者が活躍するドラマは全シーズン見ましたし、最近では警視庁科学捜査研究所の架空の特捜班の話はドラマだけではなく原作も読みました。架空であっても使われている手法は応用できます。物事の基本は応用です。リンネさん、あなたも勉強してみてはどうですか? 徘徊老人を探す手法にも通ずるものがあると思いますよ」

「確かに認知症高齢者の捜索には徘徊のパターン分類や当人の移動能力によって行動範囲を絞る、みたいなごくごく科学的な手法もあるけど、同じ人探しだからって……」


 そこまで言ったところでリンネさんは言葉を切る。

 そうして、やれやれ、という風に苦笑い。

 お姉さんがもう自分の話を聞いていないことに気付いたのだろう。

 既にアルマお姉さんはタブレットの作業に戻っていた。


「……私が言いたいのは、つまり、物事の基本は応用だということですよ」


 自分の答えたいことにしか答えず、しかも自分の言いたいことは言うという、社会性がなさ過ぎる彼女は静かに口を開く。

 タブレットでの作業を終え、僕達二人にゆったりと目を遣ってから続ける。


「この手の愉快犯的な殺人は有り触れたものです。私からすれば捜査に手間取っていることが不思議なくらいですよ」


 尤も、と彼女は呟く。

 「この犯人は中々聡明なようですが」なんて。

 まるで全てお見通しなように。


「それはほら、アルマさん。複数の都道府県に跨っているという事情もあって……」

「複数の自治体に跨っているが為――言い換えれば、複数の警察署が担当することとなった故に足並みを揃えられていないとしたら、それは警察制度自体の欠陥ですよ。マートンが官僚制の逆機能を指摘してから進歩がないようですね、日本の警察は。それともシャーロック・ホームズやファイロ・ヴァンスが警察を無能呼ばわりしていた頃から変化がないんですか?」

「実在の社会学者と創作の名探偵の主張を同等に語るのはどうかと僕は思うんだけどな。それに機能と逆機能が表裏であることはアルマさんくらいなら言われるまでもないだろう?」

「ええ。ですが、だとしても犯人を捕まえられない理由にはならないということはリンネさんもお分かりでしょう。そこにいる、例のシリアルキラーに襲われたという彼女に、そう説明できますか? システム的な欠陥のせいで犯人を逮捕できない、と」

「それは……その通りだね」


 難しいやり取りの末、折れたのはリンネさんの方だった。

 内容は良く分からなかったけれど、これだけは分かった。

 お姉さんは、自分なら警察より早く犯人を捕まえることができると思っているんだろう。

 ……どんな自信家だ。

 それが僕の抱いた正直な感想だった。


「じゃあさ、お姉さん」


 だから僕は言ってみた。

 ワトソン博士が名探偵ホームズに出逢ってすぐの頃――ホームズの著書を読んだワトソン博士が「君を列車の三等車に押し込んでそこの人間の職業を当てさせたい」と言った時のように。


「お姉さんなら、この連続殺人事件の犯人……捕まえられるの?」

「さて」


 彼女は。

 御陵あるまは、あの笑みを浮かべる。

 穏やかさの中に何かを隠した――天才故の尊大さと不遜さを隠し切れていない、妖しい微笑を。


「やってみなければ分かりませんが、賭けても良いとは思ってますよ」

「賭けても良い?」

「はい。早くて三日、遅くとも一週間くらいでしょうか。……私なら、一週間以内に犯人を捕まえられると賭けてもいい、と言っています」

「……本当に言ってるの?」


 お姉さんは微笑んだまま続けた。


「差詰め、あなたがワトソンですね。『緋色の研究』におけるワトソン――『君は本気で言っているのかい? 自分の部屋を離れることなく、他人が手に負えなかった謎を解けると?』とホームズに問い掛けたワトソン博士です。ただ今回の事件では私が駆け回って自分の目で調査する必要があると思いますが……」

「本当の本当に?」

「しつこいですね、本当です」

「じゃあさ、やってみせてよ。お姉さんが、ホームズみたいに、本当に犯人を捕まえられるかどうか」


 身を乗り出した僕に対し、彼女は黙って首を振る。

 そうして続けた。


「できるかどうかと、やるかどうかは別の話ですよ」

「……お姉さん、それ、口先だけ、ってことじゃないの?」

「全く異なります」


 些か不機嫌そうにアルマお姉さんは続けた――「やる理由がないということです」。


「理由?」

「はい。別に、わざわざ私が事件を調べ犯人を捕まえに行く理由がない、という話ですよ。あなたから頼まれたという理由だけでは弱い」

「でも、お姉さんは自分の推理の答え合わせができるじゃん」

「この連続殺人事件の犯人は多少頭が切れるでしょうが、それでもその内に捕まります。いくらなんでも、こんな犯人が捕まえられないほど警察は無能ではないでしょうから。だとしたら、逮捕時の報道で推理の答え合わせはできるでしょう?」

「……でも、でもさ、お姉さん」


 無意識に僕は問い掛けていた。

 視界の隅で今まで黙っていたリンネさんが口を開きかけたのが分かった。

 多分、僕と同じことを言おうとしていたんだろう。


「お姉さんが今動けばもう事件は終わりだけど……。仮に警察の人達に目処が立ってなかったら、警察が犯人を捕まえるまでにまた……犠牲者が出ちゃうかもしれないんだよ?」


 彼女は一度溜息を吐いてから言った。


「それがどうしたんですか?」

「どうした、って……。また誰か死んじゃうかもしれないんだよ?」

「だから、それがどうしたんですか、と訊いているんです。私はこの街に知り合いはあまりいません。私の知り合いが殺される確率は極めて低い。そして言うまでもないことですが、見知らぬ誰かが殺されようと私の知ったことではありません」


 淡々と彼女は口にした。

 何処までも冷たく、涼やかに。

 あまりにも冷めた言葉を。


「……お姉さんは、それでいいの?」

「何がですか?」

「知らない人だから、って殺されるのを放っておいて……・それでいいの?」

「いいも何も……。あなただって、分かっていないわけじゃないでしょう?」

「え?」

「分からないなら丁寧に説明してあげますよ。あなたは世間一般では『両親を殺人鬼に殺され自身も傷を負い、その心的外傷により記憶すら失った可哀想な少女』です。では、その可哀想なあなたはどうして私の病室にいるんですか?」

「どうしてって……」


 どうしても、何も。

 それは僕が入院しているからで。


「アルマさん。それ以上はいけない」

「リンネさんは黙っていてください。私が述べているのはただの事実です。……どうして、私の病室に来れるような暇があるんですか? もっとはっきりと言いましょうか? どうしてあなたの友人は、教師は、親戚は、隣人は――あなたのお見舞いに来ないんですか? 通常ならば家族が来るところですが、家族が死んでいるというのなら尚更誰かがお見舞いに来なければおかしいでしょう?」


 ……ああ、そうか。

 記憶喪失だから思い至らなかったけれど、記憶を失う前の僕には家族だけじゃなくて、友達や先生や親戚の人や近所の人がいたはずなんだ。

 そしてその人達のことを僕は覚えていないけれど、その人達は僕のことを覚えているはずで。

 でも、病院の人以外で僕が会ったのは、椥辻さんくらいで。


 つまり、僕は。


「分かったでしょう? ……あなたも私と同じです。外の世界から拒絶され、独りになったんです」


 吐き捨てるように彼女は続けた。

 どうして私が、私を拒絶した世界の為に動かなければならないんですか―――。


「……アルマさん」

「言っておきますがね、リンネさん。別に私だって社会の全てが敵だなんて自惚れた発言をする気はありませんよ。仮に知り合いが――例えばあなたが殺人鬼に狙われているとしたら、私は犯人を捕まえようとするかもしれません。それくらいの情は私にもあります。ただ今回の事件の場合、被害者は全員私の知らない人物です。だから知ったことではありませんよ。……リンネさん、あなたは財布に余裕がある人間は全員が寄付すべきで、体調に問題がなければ全員が献血に行くべきだとでも考えているんですか? そんな酔狂な人間は数少ないですし、あなたがそういう人間だとは私も存じ上げていますが、残念ながら私はあなたとは違います。見ず知らずの人間がどうなろうと、私の知ったことではありません」


 彼女の言う通りなのかもしれない。

 僕は、もうヒトリキリで。

 多分彼女自身も――ヒトリキリになってしまった人で。

 だから自分を助けず、自分に関わろうとしなかった社会がどうなろうとどうでも良い。

 そう考えるのは決しておかしなことじゃないのかもしれない。


「……でも、でもさ、お姉さん」


 でも。

 僕は言わずにはいられなかった。

 綺麗事だとは知っていたし、記憶のない自分が言えることじゃないとは分かっていたけれど。


「お姉さんはさ、今回の犯人が人を殺した理由が分かってるのかもしれない。人を殺すって大変なことだから、多分、ちゃんとした理由があるんだろうと思う。でもさ、お姉さん」


 僕は言った。


「人が人を殺すことには理由が必要だけど……。人が人を助けることには、理由って要らないんじゃないの?」


 御陵あるまは僕の言葉に少し、驚いたらしかった。

 深い蒼の目を見開き、すぐに目を閉じて、何かを思い出すように――思い出した何かを振り切るように首を振った。

 そうして彼女は小さく儚げに笑った。


「……まったく。何処の高校生探偵ですか、あなたは」

「あ、そっか。漫画の台詞だっけ、これって」

「意識せずに口にしたんですか? とんだお人好しですね、あなたは」

「そう? でも、それにさ、お姉さん。正直に言うとさ、僕はホームズみたいなアルマお姉さんが、ホームズみたいに事件を解くところ……見てみたいなって思うよ」


 やれやれ、といった風にアルマお姉さんは笑う。

 口端を歪めて、でも嬉しそうに笑ってみせた。


「あー……めんどくさいですね」

「嫌なの?」

「いえ、果物屋の店番をやっているトラブルシューターを気取ってみただけですよ。あなたが――ワトソン君がそこまで言うなら仕方がありませんね。私は別に探偵ではありませんが、どうせやることもありませんし、暇潰しで謎でも解いてみましょうか」


 あのシリアルキラーの最後の事件から二週間が経った頃。

 つまり、僕が今の僕になってから、ちょうど二週間が経った頃。

 御陵あるまは暇潰しでこの無差別殺人事件の捜査に乗り出したのだった。




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