第22話 探偵未満 ~御陵あるま、中学生 解答編
参考:アーサー・コナン・ドイル原作『シャーロック・ホームズの冒険(原題:The Adventures of Sherlock Holmes)』より、『ボスコム渓谷の惨劇(原題:The Boscombe Valley Mystery)』
アガサ・クリスティ原作『オリエント急行の殺人(原題:Murder on the Orient Express)』
引っ越しの日の朝。
すっかりと準備を終えた私はお父さんに一言断りを入れて、散歩に行くことにした。
僅か半年間とは言え沢山の思い出を作った場所だ。
だから最後に、毎日通った通学路と友達と行き来したこの街にお別れをしておきたかったのだ。
ひょっとしたらもう二度と来ることはないのかもしれない。
また訪れる機会があったとしても、その時にはきっともう街の風景も様変わりしてしまっているだろう。
ゆっくりと歩きながらそんなことを考えるといつものことながら悲しくて、寂しさを紛らわせるように手にしていた携帯電話を撫でた。
携帯の裏側、電池パックの蓋部分。
そこにはアルマちゃんと撮ったプリクラが貼ってある。
彼女の携帯の同じ場所にも、同じようにプリクラが貼られている。
嫌がる彼女に無理強いして私が貼ったのだ。
あの姫君は「本当に話を聞かない人ですね。なんでここなんですか」と溜息を吐いていたけれど、何処か嬉しそうでもあった。
そう思うのは私の勘違いだろうか?
「まあ……。もう、剥がしちゃってるかもしれないけど……」
あの事件の犯人がアルマちゃんかどうかは私には分からない。
信じていたし、庇いたかったけれど、どうしようもなかった。
結局、それからは彼女にも会えずじまい。
真相も分からずじまいだ。
「こんなことなら、」
こんなことになるのなら、アルマちゃんが好きだという探偵小説をもっと読んでおけば良かった。
そう思って、一人自嘲する。
―――彼が現れたのは、その時だった。
●
ふと顔を上げると、少し先の路肩に大きなバイクが停まっていた。
傍らには背の高い女の人と、これまた長身の男の人。
勝手なイメージで男の人が彼女をバイクに乗せてデートしているんだろうと思ったが、どうやらそういうわけではないらしい。
男の方は被っていた予備のヘルメットを女に渡し一言二言言葉を交わす。
女の人はバイクに跨ってそのまま走り去って行き、もう一方、男の人はこちらへと歩いてくる。
そして相手の顔がはっきりと認識できる距離になった時、私は思わず立ち止まった。
だって、その人は。
そのゾッとするくらいに整った魅力的な顔立ちも、ダークブラウンの髪も、怜悧さが伝わってくる瞳も。
彼女に、そっくりで。
だから私は一目で分かった。
この人がいつだったか話題にした、アルマちゃんのお兄さんなのだと。
「こんにちは、白川菫ちゃん」
私の前に立ったその人は流れる水よりも清らかで透明感のある声で月並みな挨拶を口にした。
流石に声までは似ていないけれど、でもそれ一つが音楽のような美しい声音であることは共通している。
「…………アルマちゃんの、お兄さん、ですか……?」
うん、そうだよ。
私の言葉に彼は微笑む。
穏やかに、嫋やかに。
ちょっとした仕草が驚くほど様になるのもアルマちゃんとおんなじだ。
事前情報が何もなければ俳優かモデルか何かだと勘違いしただろう。
それくらいに魅力的な人だった。
こんなカッコ良いお兄さんがいるなんて……。
はじめて私はアルマちゃんに本気で嫉妬した。
兄のいない女子にとっては年上で頼りになるカッコ良いお兄ちゃんは永遠の憧れなのだ。
「スミレちゃん。君に話したいことがあるんだ。だから良ければ少し、時間を貰えるかな?」
そう問われた私は迷うことなく首肯した。
相手がカッコ良い男の人だったからではない。
アルマちゃんのお兄さんなら、今アルマちゃんがどんな様子か知っているだろうと思ったからだ。
いや、そのことを伝えに来てくれたんだろうか?
一分後、私達は近くの公園に設置されたベンチに並んで腰掛けていた。
僅かな時間だけどお兄さんと一緒にいて分かったことがある。
顔立ちはアルマちゃんと似ているけれど、彼女が有するのが真昼の月のような儚い美しさだとすれば、この人が纏うのは闇夜の月のように人を惹き付けて離さない、幽玄な雰囲気。
微笑を湛えていることが大きいんだろうけど、彼女よりずっと親しみやすい。
また大きな違いとしてアルマちゃんの瞳は灰色に近いブルーだけど、お兄さんのそれはもっと黒に近い色合いをしている。
髪の毛にしてもそうで、アルマちゃんよりもう少し黒っぽい。
より日本人っぽい、というと分かりやすいかもしれない。
全体のイメージを纏めると「男の子になって二十歳くらいまで成長したハーフじゃないアルマちゃん」といった風だ。
「僕はそんなに妹と似てるかな?」
「え? あ、はい……。一目で兄妹だと分かるくらいには」
いつの間にか心の声が口に出ていたのか。
お兄さんはクスリと笑う。
アルマちゃんではありえない、穏やかで嫋やかな微笑。
「……自己紹介がまだだったね。僕は御陵真希波、アルマの兄だ。今日で引っ越すそうだね。今までアルマと仲良くしてくれて、どうもありがとう。兄としてお礼を言うよ」
「いえ……。えっと、多分ご存知なんでしょうけど、私は白川菫と言います」
「うん、アルマから話は聞いてるよ」
一拍置いて、マキナさんは言った。
「最初に君が気になっていることを伝えておこうと思う。アルマは今、病院にいる。軽度のうつの症状が出ているから元気だとは言い難いけれど、無事にやっているよ」
「そう、ですか……」
無事であることを喜べば良いのか。
元気でないことを悲しめば良いのか。
私には分からない。
あんなことになって。
クラスの人間の全員から拒絶されるような真似をされて、平気でいられるわけがないのだ。
「君の為に言うわけじゃあないけれど、アルマはクラス中から犯人扱いされたことくらいで精神に異常をきたすような弱い人間ではないよ。それに、御陵家の人間は遺伝的にセンシティブな側面があるから元々精神病の類ににはなりやすい。だから、気に病む必要はない。『気を病むのは私だけで十分です』なんて、アルマなら皮肉っぽく笑って言うだろう」
……気を病んだ人間が皮肉っぽく笑えるかどうかは知らないけれど、確かに言いそうだ。
それにしても、「クラス中から犯人扱いされたことくらいで」か……。
普通の人間はその事実を「くらいで」とは片付けない。
アルマちゃんは繊細ではあっても脆弱ではないのだろう。
きっと、マキナさんも。
でも、だとしたらどういうことなんだろう?
犯人扱いされたことは原因ではなく、元々不安定だった精神が入院しなければならないまでに悪化することになったトリガー、ということだろうか?
「語弊があったようだね。もう少し、前の段階から話そうか。君はどうやら物事を正確に理解していないらしいから」
マキナさんは私が疑問を口に出す前にそう訂正を始める。
「まず、君の言葉を借りれば『アルマが犯人扱いされた』というビーナス像破壊事件を読み解いておこうか。僕が導き出した結論が正しければ笑えもしない真相だけど……さて、どうだろう。良ければ事件のことを掻い摘んで話して貰えるかな?」
「はい……」
促されて私は事件のことを話し始める。
灰の両目を細める様は驚くほどアルマちゃんに似ていた。
●
私が事件のことを語り終えると、彼は静かに「そうか」と呟いた。
兄妹とは言えどアルマちゃんとは違って話を聞きながら本を読んだり鶴を折ったりはせず、マキナさんは私が話している間、ただ黙って耳を傾けていた。
優秀な人らしいから多分マキナさんも片手間で話を聞くことはできるだろう。
でもそうしないのはアルマちゃんより常識的だからか。
「……最後にアルマちゃんが言った英文?は良く聞き取れなかったですけど、大体こんな感じです」
「一つ、質問しても良いかな。結局学園祭は上手く言ったのかな?」
「はい。壊された像は直せませんでしたが、他の展示品は無事だったので上手く行きました。皆あんなことがあった後だから喜んでました」
「ありがとう」
マキナさんは訊く。
「もう一つ訊ねるけれど、その時アルマが言った言葉は、『It may seem to point very straight to one thing, but if you shift your own point of view a little, you may find it pointing in an equally uncompromising manner to something entirely different. 』――ではなかったかな?」
「……そうだと思います」
聞き惚れてしまうような声音で紡がれたのは、あの時彼女が口にしたのと同じ言葉。
リスニングは苦手なので自信はないけれど、同じだと思う。
「原文の流れを踏まえて訳すとこうなる――『状況証拠というものは非常に危険なのだよ、ワトソン君。それは一つの真相を指し示していると思えるかもしれないが、少し見方を変えると全く別の真相を示していることがありえるのだ』。もうお分かりだと思うが、これはシャーロック・ホームズがある事件で述べた一言だ」
「シャーロック・ホームズが……?」
「アルマはホームズのことが好きだからね。尤も普段の口振りはシャーロック・ホームズよりもファイロ・ヴァンスという感じだが。……と、話が逸れたね。僕が想像した真相を語る前に君に訊いておきたいことがある」
「なんですか?」
「君は、アルマの無実を信じているのかな」
灰色の眼光が私を射抜く。
嘘を吐くことを――自分に逆らうことを許さぬという強い意思を秘めた瞳。
瞳の奥に見え隠れする途轍もない自信は、あの姫の尊大で不遜な態度に似ていた。
「……私は、」
でも、私は言った。
臆することなく。
……いや、臆する必要なんて元よりないのだ。
だって私は本当のことを言うだけなんだから。
「私は、アルマちゃんが犯人じゃないと信じてます。皆は知らないかもしれないけど、私はアルマちゃんが本当は優しい子だってことを知ってます」
少し、口が悪いだけ。
ちょっと、悪ぶっているだけで。
それだけだ。
彼女は、ただちょっと人付き合いが下手なだけの、普通の女の子だ。
「……そうか。アルマが実際に優しい人間かどうかは置いておくとしても、そう信じてくれる友達がいるということは幸い以外の何物でもないだろうね」
マキナさんはそう言って微笑み、話始める。
あの事件の真相を。
「君はあの巫山戯た学級法廷――もとい、学級裁判の場で『C組が練習を始めるよりも早く誰かがヴィーナス像を壊したのかもしれない』とアルマを庇った。その指摘は酷く尤もだ。ただ問題もある。僕が集めた情報によると、その朝C組は担任教師に教室棟の鍵を開けてもらっている。つまりC組のメンバーが集まり始めるまでは教室棟自体が施錠されていた。C組より早く教室棟に入れた人間はいなかった」
「そんな……。でも、なら、」
「そう、君の考えは正しい。C組の人間はアルマが登校する前に教室棟の中にいた。必然的にC組の人間ならアルマより早く、A組の教室に入ることができる。笑えもしない可能性だが、こうなるとC組のメンバー数人――その日の朝最初に集まった生徒達――がグルになってA組の展示の邪魔をしようとした、という結論も導き出せる」
だが、とマキナさんは続けた。
「僕の考える限りでは恐らくその可能性は低い。何故ならばC組の演劇の練習にはC組の担任教師が同伴していたからだ。監督役兼代理だな。アルマがもう少し強く抵抗すればC組の練習で代役を務めていたという南原さんがそう証言していただろう。流石に教師まで片棒を担いでいたということは考えにくい。勿論、可能性としてはあるが、教師までグルだったのならば妨害するにしてももっと良い方法があるだろうと僕は思う」
「じゃあ一体、どういうことなんですか?」
「ところでスミレちゃん、どれか一つでも疑問に思わなかったのかな」
「…………え?」
疑問に思う?
どれか一つでも?
一体、どういうこと?
「例えば――展示物はほぼ完成していたのに、始業四十分前に集まって作業をするということに」
それは。
製作も間に合わないペースではなかったし、確かに不自然ではあったけれど。
「例えば――八時前という朝早い時間帯から学園祭の委員が作業をしていたということに」
そう言えば淀さんは踊り場でどんな作業をしていたんだっけ。
いや、どんな作業をしていたにせよ、それは学園祭数日前の早朝に行わなければならないことだったのだろうか?
「例えば――事件が起こるちょうどその日にC組が劇の練習を行っていたことに」
C組は普段、放課後に体育館や中庭で練習している。
どうしてその日に限って早朝の教室を選んだのか。
「……まさか、」
まさか。
まさか。
そんなこと、あっていいはずがない。
でも、もしそうだとしたら。
彼女の態度にも説明が付いて。
「ところで、君が下駄箱前で出会ったという進藤にこさんは何故『お兄ちゃんが迎えに来てくれる』なんて発言をしたんだろう。忘れ物をして取りに帰ろうとするのは分かるが、迎えに来てくれるような兄がいるのならば、その兄に忘れ物を届けてもらえば良いんじゃないだろうか。進藤家の事情は僕は寡聞にして知らないが、不自然ではあると思わないかな?」
「マキナさん……。じゃあ、あなたはこう言うんですか……?」
震える声で私は言った。
その笑えもしない真相を。
「あの事件そのものが……全部、最初からアルマちゃんを陥れる為に、皆がグルになってやったことだって……!!」
うん、そうだよ。
マキナさんはそう頷いた。
穏やかで嫋やかな微笑を湛えながら。
●
ああ、そうか。
だからアルマちゃんはあんなことを言ったんだ。
私の見たことと聞いたことが全ての真実。
だからもう、無駄なこと。
その言葉の意味が今なら分かる。
「『状況証拠というものは非常に危険なのだよ、ワトソン君。それは一つの真相を指し示していると思えるかもしれないが、少し見方を変えると全く別の真相を示していることがありえるのだ』――アルマが残した言葉は君に対するメッセージだ。『私はやっていない』というね」
だって、そんなことありえるはずがない。
あっていいはずがない。
彼女を取り巻く全てがアルマちゃんの敵だったなんて。
「……真相は単純だ。事件の主犯はアルマを憎んでいた四宮ことはさん以下数人。前日の夜、最後まで教室に残っていた彼女達は自分達でヴィーナス像を破壊し、それに埃避けの布を掛けて教室を出た。君の友人は『見回りの先生は何もおかしなことはなかったと言った』と証言したそうだが、それは単に『展示物に白い布が掛かっている』という意味合いだったんだろう。見回りの教師がわざわざ展示物の一つ一つを見分するわけがないからね」
いや。
それ以前にララちゃんは――本当にその見回りの先生に話を訊いたんだろうか?
友達を疑うことは良くないと思うけれど、もう私はそんなことすら信じられなくなっていた。
「翌日の流れは君が見た通りだ。一つ補足しておくとすれば、下駄箱前にいた進藤にこさんと踊り場にいた淀くるみさんは君とアルマが教室に到着する時間を調整する役目を負っていた――つまり、アルマが教室に入った直後に、君が破壊されたヴィーナス像の前にいるアルマを目撃するように仕向ける役目だ。アルマは毎日同じ時間に教室に向かう。後は君の対処だ。集合時間は決まっているから、それより遅れることはないとして、早く来てしまった場合には進藤にこが世間話を振って君を引き留めておく計画だった。携帯を見ていたのは時間を確認していたのではなく、淀くるみさんからのメールを待っていたんだろう。そして君を真っ直ぐ教室に向かわせるために『私が遅れるということを集まる皆に伝えて』と言付けた」
一度腕時計を確認したマキナさんは少しだけ早口で続ける。
「時間もないから手短に済まそう。……そうして彼女達はアルマを朝一で教室に入らせ、その次に君にアルマを目撃させた。次は演劇を手伝っていた南原さんの役目だ。君がアルマを目撃したことを確認すると南原さんは君と一緒に目撃者としてアルマを見、その後他のクラスメイトを呼ぶ。最後は委員長である岡さんが学級裁判の場で他のクラスメイトがボロを出さないように気を付けながら、それとなく、けれど確実にアルマが犯人であるという結論に持っていく」
「……結局、全員がグルだったってことですか……?」
「それは分からない。例えばC組はかなり微妙だ。C組全体が共犯だった可能性もあるし、C組が劇を始める日に事件をセッティングしただけかもしれない。僕としては、C組の中心的存在の数人が共犯で、事件の日に合わせて練習日を決定した、という説を推しておくよ。君の友人の進藤にこさんにしても、たまたま携帯を開いて見ただけかもしれない。淀くるみさんにしても並々ならぬ事情でその時間に作業をする必要があったのかもしれない。彼女と一緒に作業していた男子生徒はアルマが振ってきた男子達の一人だが、それも偶然かもしれない」
真実は誰にも分からない。
そうマキナさんは言う。
その通りだ。
証言も証拠も何もかもが偽りなら、真実なんて分かるはずがないのだから。
「……アルマも反論はいくらでもできただろう。例えばヴィーナス像は絵の具で汚されていたのに自分の身体には少しも絵の具は付着しておらず、それどころか絵の具自体が仕舞われたままになっていたということに。……いや、アルマの表情から読み取った限りでは、アイツは壊れたヴィーナス像を見た段階でなんとなく察しが付いていたようだよ」
私の見たことと聞いたことが全ての真実。
だからもう、無駄なこと。
その言葉の意味が今なら分かる。
そしてマキナさんが言った「アルマはクラス中から犯人扱いされたことくらいで精神に異常をきたすような弱い人間ではない」という言葉の意味も。
犯人扱いされたことは多分、彼女にとって問題じゃないかった。
周囲がグルになって自分を陥れようとしたこと――その事実を見抜いて、彼女は学校を去った。
だって、出て行かずにいられるだろうか?
矛盾を指摘したところで全員がグルなら数の力で押し切られるだけだろうし、仮に自分の無実を証明したとしても周囲は全て自分の敵なのだ。
だから――「だからもう、無駄なこと」だったのだ。
全部、無駄なこと。
「……そんなのって……! そんなのって、ないでしょ……!!」
「そうだろうか」
「だって、そうでしょ! アルマちゃん、何も、悪いことなんてしてないのに!!」
「だとしたら存在自体が悪いんだろう」
平然とマキナさんはそう言って続ける。
「どんな人間も一人では生きられない。人間は個体ではなく、群体で生きるものだからだ。どんな天才であっても独りきりで生きていくことは不可能だろうし、もしそれができたとしたらそれは最早『天才』ではなく『神様』だ。『お前は自分がいじめられている理由を、自分が強いからだと思っているかもしれないが――お前が皆から無視されているのは、お前の性格が悪いからだ』――さて、これは誰の言葉だったかな。しかしアルマの状況はまさしくこの言葉の通りだ」
彼女の兄は続ける。
彼女と同じ天才は続ける。
その綺麗な灰色の瞳に憐れみと哀しみの感情を滲ませて。
「確かに、才能があるということはトラブルの原因になりやすい。常人が一時間掛かるタスクを半分でこなせる天才がいたとすれば、まず間違いなく妬まれるし疎まれるだろう。それは間違いがない。実際に逆恨みで被害に遭う才人はいくらでもいるだろう。ただ――ただ、だよ? それでも多くの天才はこの世の中で生活しているしできている。何故だと思う?」
「何故、って……」
「一つが、自分が生きていける場所を世界の何処かに見つけた場合だ。自分の才能を上手く活かし、しかも他人に役に立つ――そういう形で上手く世界に溶け込めれば、どんな天才であろうと排斥されることはない。アルマが尊敬するシャーロック・ホームズその人がそうだろう? さてもう一つが、世界に対して妥協しその場所に拘った場合だ。知っているかな。周囲に溶け込む為にわざと自分の能力をセーブしてしまう天才は掃いて捨てるほど存在するんだよ。一人になるのが怖いから、トラブルの元である才能を封じ込めてしまう……。ありふれた話だよ。友人関係は対等でなければ結べない。周囲に自分より低レベルな相手しか存在しなければ、自分のレベルを下げるしかない」
友人関係は対等でなければ結べない。
いつだったか、アルマちゃんも口にしていた。
「簡単に纏めようか? アルマが嵌められたのは自業自得だと僕は思う。アイツに少しでも遠慮か配慮があれば――努力している人間のプライドを傷付けないように手加減するという遠慮か、せめて常識的な振る舞いをする配慮があれば――こんなことにはならなかっただろう」
「……でも、アルマちゃんは普通にしていただけなのに……!」
「さっき言っただろう? 何も悪いことをしていないとしたら、存在自体が悪いんだ。贔屓目なしに見てもアルマは天才だからね、存在しているだけで凡人の努力と自尊心を踏み躙る。その上で協調性がなく排他的で口が悪いのだから、これまで露骨ないじめに遭ってなかったことが奇跡みたいなものだと思うよ」
「でも、でも……っ!!」
マキナさんの言っていることは、私にも分かる。
アルマちゃんは『姫』なんてアダ名を付けられてしまうほど周囲と馴染んでいなかったし、馴染もうともしていなかった。
私だって、彼女の才能を羨ましく思ったことが一度もないと言えば嘘になる。
だからと言って、そんな勝手な理屈が許されるんだろうか?
確かに態度は悪かったかもしれないけれど、アルマちゃんは誰かを傷付けようとしたことはなかったのに。
それどころか、きっと彼女はあのクラスのことがそれなりに好きだったのに。
あの時、自分が嵌められていると気付きながらも工具を拾い上げたのは――少しでも壊れたヴィーナス像を直そうとしたからなのに。
「……でも、良かったよ」
と。
ふとその声音を優しく変えて、マキナさんは呟いた。
「僕は正直、アルマを嵌めた四宮ことはさん達の気持ちは良く分かる。けれど、いくらアルマに社会性がないからと言って、逆恨みでしかないことも分かっている。『クラス』というグループにおいては和を乱す存在を排斥するということは正しいけれど、『人間』の振る舞いとしては間違っているとも思っている。だから、兄として嬉しいよ。妹をそんなに想ってくれる友達がいたことは」
「…………そうです、ね……」
『友達』。
友人関係は対等でなければ結べないという。
だとしたら、私は彼女の友達にはなれていなかったのかもしれない。
彼女に対して何もできなかった私。
私がもう少し利口ならば、あの時彼女の無実を証明することができたかもしれない。
それ以前に、彼女がクラスに馴染めるように手伝いができたかもしれないのに。
……私は結局、彼女の友達にはなれなかったんだ。
そう思うと頬に涙が伝うのが分かった。
何泣いてるんだ、泣きたいのはアルマちゃんの方だろうに。
涙を拭おうとしたその時、マキナさんが優しく私の目元を拭った。
「お願い、泣かないで。……ごめんね、僕としたことが上手く伝えられなかったみたいだ」
「……え?」
「君は自分のことをアルマの友達として相応しくないと思っているかもしれない。でも、それは違うよ。その人を良い方向に変えるのも良い友達だけど、その人をあるがままに受け入れるのも同じくらいに良い友達だと僕は思う。僕の言葉を聞いて――『アルマは嫌な奴だからいじめられて当然だ』という意見を聞いて、それでもアルマを庇ってくれたことが僕が嬉しかったんだ。だから、ありがとう」
それに、と彼女の兄は笑った。
恋をしてしまいそうなほど慈愛に満ちた、穏やかで、嫋やかな微笑。
「ずっと学校がつまらないと口にしていて、機会があれば辞めたいと思っていたアルマだったけど……。君が転校して来てから後の半年間は、少しだけ、楽しそうだったよ。ほんの少しだけだけど、笑顔でいることが増えた気がする。それは多分、君のお陰だ。だから、泣かないで。アルマを悪くないと言ってくれた君は、悪くないんだから。そしてどうか、いつかまた、機会があればでいいから、アルマに会ってあげて欲しい。……アイツ、友達少ないからさ。どうか、これからも仲良くしてくれよ」
「はい、はい……」
ああ、もう。
どうして今日が引っ越しの日なんだろう。
せめて一度で良いからアルマちゃんに会って、謝りたかったのに。
ぼろぼろと涙を流し、マキナさんに頭を撫でられながら、私は思う。
いつか、彼女にちゃんと謝ろう。
何もできなくてごめんねと。
彼女が私のことを許してくれたなら――もう一度友達になって、どうでも良い話を沢山しよう。
友達として、他愛もない時間を過ごそう。
そう私は決めたのだった。
●
エメスさんがアルマお姉さんの中学時代のことを語り終わったちょうどその時、お姉さんが病室へと戻ってきた。
その手には古い型のガラケーがある。
きっと屋上辺りで誰かと通話をしていたんだろう。
件のスミレさん……では、ないだろうけど。
「私の笑ってしまうような中学時代の話は終わったんですか?」
病室の扉をくぐったお姉さんはベッドに腰掛けながらそう言って、口端を歪めて妖しく笑う。
尊大で不遜な天才らしい笑み。
中学生の頃からこんな風に笑っていたんだろうか?
改めてみると、少なくとも良い印象を与えることはない表情だった。
「ああ、ちょうど終わったよ。本人の口から後日談といこうか?」
「別に大した後日談はありませんよ。あなたが何処まで話したのかは知りませんが、彼女とはあの時別れてから一度も会っていません。手紙は何度か届きましたけど」
とてもクールに、かつて『姫』と呼ばれていた僕のホームズは告げる。
「怒ってないんだろ? 返事くらいしてやりゃあ良かったのに」
「引っ越しが多い相手ですから中々届かないんですよ」
「ふん、素直じゃない奴だ。実際のところは口下手だから上手く返事を書く自信がないだけだろう? ユリックにしてもそうだ。お前は嫌いな奴と仲良くすることどころか、好きな相手とさえ上手く付き合えない。そんな風だからいじめられるんだよ」
「ホームレスに言われたくないですね。用が済んだならさっさと帰ったらどうですか?」
言葉の内容だけ見ると険悪な感じがするが、実際は穏やか……ではないけれど、お互いに平然としている。
エメスさんが言っていたように、二人は仲良しなようだ。
そんな、今日も今日とて皮肉げなエメスさんは言った。
「さて、じゃあアルマの顔も見たことだし帰るとするかな。お前も池袋に来た時には顔を出せよ。俺はいつものファミレスにいる」
「なんで池袋まで行ってファミレスに寄らないといけないんですか。そんな時間があれば買い物に行きますよ」
……そんな風だから友達ができないんじゃないかなあ?
内心、僕は一人そう思う。
口には出さないけれど。
「そんな風だから友達ができないんだよ、お前は。まったく、可愛げのない奴だ」
と思ったら、エメスさんがはっきりと述べた。
正直過ぎる……。
「可愛げはないでしょうが、ご存知でしょうけど私は中学時代にかなりモテたんですよ?」
「ソイツ等全員をこっ酷く振って、その結果チンピラに襲われて強姦されかかっていたそうだがな。そんな経験をしても尚態度を改めないお前のことは素直に尊敬するよ」
「聞いた話によると女性ホームレスは強姦被害に相当遭うそうですよ。別にあなたのことなんて知ったことではありませんが、精々気を付けてください」
「俺の聞いた話によると天才は早死するそうだからな。しかも大抵の場合は精神を病んでだ。お前も精々気を付けろ」
まったく、と煙草を出しかけたエメスさんはそれをもう一度懐に仕舞ってから言う。
「お前と話してると楽しくて時間を忘れるよ。そして忘れられるほど無駄な時間は俺にはないからそろそろお暇するとしよう」
「全く奇遇ですね。今日は私も忙しいんです」
「どうせお前がすることなんて推理小説を読むことくらいだろうに……」
「予定があるのは本当ですよ? なので、さっさと帰ってください」
「言われなくとも帰るさ。じゃあな」
愛想がなさ過ぎる言葉を交わし合って、エメスさんは病室を出て行った。
当然お姉さんは見送ることも手を振ることもしない。
これで友達だというんだから、友達の形にも色々あったものだ。
お姉さんとエメスさんの場合には『似た者同士』ということなんだろうけど、あのスミレさんとはどうだったんだろう?
そう僕が訊くと、僕のホームズは笑った。
「ワトソン博士は『這う男』の中で『私はホームズにとっての砥石であり、刺激剤だった』と述べていますね。私は必ずしもワトソン博士がホームズに全面的に劣った人物であるとは考えていませんが、少なくともワトソン博士自身はそう考えていたようです」
「スミレさんも、アルマお姉さんにとってはそういう、自分の頭の回転を促してくれる存在だったってこと?」
「いえ、そういうわけではありません。先の比喩に相応しいのは眼帯君、あなたの方です。私と彼女の関係は、そうですね……」
一拍置いてからアルマお姉さんは言った。
「彼女はその手紙の中で自らを『ヴィクター・トレヴァー』と称していますが、まさにそういう関係だったのかもしれません。休日に一緒に釣りに行ったりするような――つまり、取り留めのない会話をしながら目的なく遊ぶ、そういう関係……。何にせよ彼女といて楽しかったことは事実ですよ。多少こちらの話を聞かないきらいがありましたが、それも個性でしょう」
ホームズ原作の『グロリア・スコット号』に登場するヴィクター・トレヴァーというキャラクターはホームズが大学時代の唯一の友人だったと述べているキャラクターだ。
学生の頃は一人で考え事をしていることがほとんどだったホームズの、唯一の友人。
なるほど、確かにスミレさんがそう名乗ったのも分かる。
そして彼女がどう思っているかはともかくとして、彼女はきっとアルマお姉さんの『友達』だったのだ。
「ところでさ、お姉さん」
「なんですか?」
「お姉さんのガラケー、見せてくれない?」
僕のお願いに彼女は首を振る。
次いで理由を問うことなく「嫌です」と即答した。
「ねえ、見せてよ。操作とかしないからさ」
「嫌です」
「その携帯って、中学生の頃と同じやつなんでしょ? ね?」
「嫌ですよ。まったく……。こちらの話を聞かない友人は一人で十分ですから」
こつこつこつ、と開け放たれたままの扉の向こうから、規則正しい足音が聞こえてくる。
今は一月だ。
別れと出会いの季節にはまだ遠い。
それでも春を思わせる花のような笑顔を湛え、彼女が病室にやってくる。
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