第21話 探偵未満 ~御陵あるま、中学生 問題編



 ―――親愛なる我が友人、アルマへ



 久しぶり、お元気でしょうか?


 私は元気です


 何よりそもそも、この手紙はあなたの元に届いているでしょうか?


 大切な友人であるあなたに懲りもせず手紙でも出そうと筆を取ってみましたが、いざ便箋を前にするといつもと同じく何を書けば良いのか分かりません


 暇ができそうなので近い内にお見舞いにも行きたいけれど、こんな風じゃ実際に会っても何も話せないかな


 でも、いつか顔を合わせる機会があったなら、これだけは言いたいです


 ごめんなさい、と


 文頭には当然のように「親愛なる我が友人」だなんて恥ずかしい言葉を書いたけれど、ひょっとしたらもう、あなたは私のことなんて友達と思っていないかもしれません


 それくらいに私の罪は重いと思っています


 ですが、いつかもし、私に会ってくれるのならば


 そして謝る私をあなたが許してくれるのならば


 どうかもう一度、私と友達になってください


 お返事、いつまででも待っています


 それではまた会う日までお元気で



 あなたのヴィクター・トレヴァーより―――




 追伸


 今は『ホームズ』と呼ばれているそうなので、それに合わせてみました







 『緋色の研究』内には「シャーロック・ホームズ氏について」という表が出てくる。

 ホームズと出逢って間もないワトソン博士がその奇妙なルームメイトの人となりについて纏めたもので、シャーロッキアンにはお馴染みのものだ。


 この表において、かの名探偵は「文学、哲学、天文学、政治の知識は皆無」とされている。

 どれくらいに皆無かと言えば地球が太陽の周りを回っていることを知らないレベルである。

 それについてワトソン博士が驚くと、ホームズは平然とあの有名な屋根裏部屋の喩えを出して反論するのだが、それはともかく。


 ワトソン博士製作の表がどの程度精確かは議論があるらしいけれど、少なくともシャーロック・ホームズシリーズ全編を通して見る名探偵ホームズの印象は「完璧超人」だ。

 弱点らしい弱点が見当たらない、万能の名探偵。

 確か料理をするシーンは一度もなかったとはずなので「もしかしたら料理下手だったかも?」などと想像してしまうが、そもそも舞台となっているイギリスヴィクトリア朝の成人男性は家事をしないものだった。

 だから弱点や欠点と言えば、精々「室内で射撃の練習を行う」に代表される風変わりな行動くらいだろう。


 僕のホームズである御陵あるまと本家ホームズの大きな共通点の一つはこの万能さだ。

 ホームズは万能な名探偵だが、アルマお姉さんも本当に弱点がない。

 しいて挙げるとすれば――というか、彼女が自分で挙げる欠点は「芸術分野において辨別ができない(感受性に乏しい)」だけど、芸術的知識は人並み以上にあるので僕からすると全然欠点に思えない。

 だから、僕の中のお姉さんのイメージは、本当に無敵のヒーローだった。


 彼女だって人間なのだから、欠点がないはずがないのに。

 そんな当たり前のことを僕は分かっていなかった。







「なんだガキ、生憎とアルマならいないぞ」


 ある日の昼下がりにお姉さんの病室に赴くと、ベッド脇の椅子に腰掛けたエメスさんにそう声を掛けられた。

 まだ寒い日々が続く一月で、僕が彼女と初めて出会った事件――あの姿なき復讐者の事件からほんの数日後のことだった。


 何日か振りに会ったエメスさんは前と変わらないパーカーとマフラーを身に着けていて、同じく甘く煙たい煙草の香りを纏っている。

 違うことがあるとすれば傍らにロングコートと小さな鞄を携えていることだろうか。

 紙片を弄んでいた彼女は僕の視線に気付いたのか、「帰り支度だよ」と皮肉っぽく笑った。


「帰り支度?」

「ああ。元々この辺りには観光に来ただけだ。帰る前にアルマに会っていこうと思ったんだが……」


 そう言ってエメスさんは顎をしゃくってベッドの方を指し示す。

 そこにこの病室の主である御陵あるまはいない。


「俺にはともかくお前にも言っていなかったとはな。何処に行ったのか知らないが、相変わらずの社会性のなさだ」


 くつくつと笑うエメスさん。

 お姉さんに社会性がないことは全面的に同意するし、こうしてわざわざ別れの挨拶を告げに来る分、エメスさんの方が社会性があるのだろう。

 聞いていた限りではインターネットが得意な人らしいから、「会話くらいならネットでいつでもできる」と言ってもおかしくないように思っていたけれど。

 ファミレスで暮らすような変わり者なだけで義理堅い人なのかもしれない。


「相変わらず、ロクに手紙も返さないみたいだしな……」

「え?」

「ほらよ」


 笑いながらエメスさんはこちらに便箋を寄越した。

 受け取って目を通すと、どうやらそれはアルマお姉さんの友人がお姉さんに送った手紙のようだった。

 当然、お姉さんの物。


 ……つまり、この人は他人の手紙を勝手に読んでいたのか。

 やはりエメスさんの社会性も怪しいものだと僕は思った。


「何か勘違いしているようだがな、ガキ。その手紙はそこの机に放置されていたんだ。お前も知っているだろう? アルマは頭がキレる奴だからな、見られたくない物を放り出しておくような真似はしない。故に、その手紙はアルマ的には『読まれても構わない』と判断した物なのさ」


 口端を歪め、尤もらしく説明するエメスさん。

 言っていることは分かるけれど、だからと言って他人の手紙を勝手に読んで良いことにはならないと思う……。

 それとも、アルマお姉さんとエメスさんはそういうことが許される関係なのだろうか?


「ふーん……。まあ、いいけどさ」


 来客用の椅子に腰掛けて、机に国語の問題集を広げる。

 僕も待たせてもらうことにしよう。

 手紙を読んでしまったことも謝らないといけないし。


「ところでさ、」


 解答欄を埋めながら僕は言う。


「エメスさんはアルマお姉さんとどういう知り合いなの?」

「あ?」

「学校の友達とか?」


 また肩を揺らして笑い、エメスさんは答えた。


「そういう類の知り合いじゃないさ。ただ単に知り合って、その付き合いが続いているだけだ。……普通の奴はどうかが知らないが、俺もアルマも学校で友達を作るタイプではなかったからな」

「そうなの?」

「ああ、そうだ。生憎とアルマに関しては何回か家が変わっているからな、余計にだ」


 お母さんと二人で暮らしていた時代。

 その実家に引き取られて、近衛家で暮らしていた時代。

 御陵家に移った時代。

 そして、今。


 考えてみると、お姉さんは数年毎に住む場所が変わっている。

 友達が少ないとしても無理はないかもしれない。


「この手紙は奴の数少ない学校時代の友人から届いた物だ。一度だけ奴から聞いたことがある。詳細については勝手に調べた」


 他人のことを詮索するのが趣味、というのは冗談でもなんでもなく本当にそうであるらしい。

 椥辻刑事のことを色々と知っていただけはある。


「そこに便箋があるだろう? 差出人のところに書いてあるように、名前は白川菫という。アルマの中学時代のほぼ唯一と言っていい友人だ」

「今でも友達なの?」

「何故だ?」


 何故って……。

 手紙の内容的に、そのスミレさんという人とアルマお姉さんの間で何かがあったことは明らかだからだ。

 円満に別れた間柄ではないことは確かだろう。


「察しが良いな、ガキ。こういう内容の手紙を白川菫は何度か書いている。そして、アルマは一度も返事を出していない」

「それって……。お姉さんがまだ、怒ってるってこと?」


 僕の問いにエメスさんはくつくつと笑い、「どうだろうな」とはぐらかす。


「生憎と、これでも俺はアルマと仲良しなんでね。奴がどういったことで怒るかは分からない。お前だって見たことがないだろう? 奴が怒ったところは」

「うん……」


 御陵あるまという人は怒ることがない。

 というよりも、笑顔以外の表情を表に出すことがない。


 愉しそうな笑み。

 皮肉げな笑顔。

 呆れたような笑い。

 哀しみを隠した微笑。


 お姉さんの感情表現は全て笑顔で。

 怒っているところなんて、見たことがないかった。


「だから俺にも分からんよ。友人を未だに許していないのかもしれないし、単になんとなく返事を出さなかっただけかもしれない。お前は知らないだろうが、奴はメールもロクに返さないタイプだからな」

「そうなんだ……」


 イメージ通りの社会性のなさ。

 アルマお姉さんが絵文字を使っているところとか、想像できない。


「しかし、遅いな……。すぐに帰ってくると思っていたんだが。あまりにも暇だから、お前に話してやろうか?」

「話すって……何を?」

「アルマの中学時代の話――白川菫の謝りたいことがなんであるかを」


 アルマお姉さんの中学時代の話。

 聞きたくないわけがなかった。


 だけど、良いんだろうか。

 お姉さんが隠しているのかもしれない過去の話を勝手に聞くなんて。

 ひょっとしたら、手紙を勝手に読むよりも失礼なことじゃないだろうか?


「なに、気にすることはない。奴も奴で他人の過去を話すことに躊躇いがないタイプだからな。自分の過去を話された程度で腹を立てたりはしないだろうよ」

「そうかなあ?」

「なら俺が勝手に喋ったことにしておけ。それならお前が怒られることもないだろう」

「でもエメスさんは怒られるでしょ?」

「大丈夫だよ。友達だからな」


 そう言ってエメスさんは皮肉げな笑みを見せる。


 うーん……。

 心配だ。

 お姉さんと同じくらいに社会性がない人だから発言も信用出来ない。


「でも、まあ、エメスさんがそう言うのなら……」

「じゃあ話すとするか。俺は当事者ではないので臨場感はないかもしれないが、主観が混じっていないから正確なことは保証しよう」


 そして彼女が語るのは御陵あるまの学生時代の話。

 彼女が白川菫と出会い、そして精神科病院への入院という形で別れるまでの話だった。







 白川菫は特別なところが何もない人間だった。


 ……そんな風に自分のことを他人事のように語り始めると、純文学の冒頭みたいで、少し可笑しい。

 これと言って特筆すべき点はないけれど幸せな家庭の次女に生まれ、成績もスポーツも中の中、見た目も悪くはないと信じたいけれど男の子から告白されるほどには良くはない。


 趣味は読書。

 好きな食べ物はシュークリーム。

 卒業文集を作っている時には思わず笑ってしまった。

 我ながら面白みがなさ過ぎて、逆に面白い。

 白川菫――私は、特別なところが何もない人間だった。


 それでも、そんな私にも誇れる点が一つだけある。

 あなたの長所はなんですか?と誰かに訊かれた際に私は決まってこう答える。

 「私の長所は日本中に友達がいることです」と。


 私のお父さんは所謂転勤族というやつで、その関係で私も今まで何回か転校をしていた。

 幼稚園を卒業した頃に一度、次は小学校四年生の頃、そして中学校に上がってからまた引っ越して、一年後にもう一度。

 そんなに転校を繰り返していると嫌でも色んな場所で友達を作ることができた。

 その内の何人かは今でも手紙やメールでやり取りを続けている。

 だから、私にとって転校は慣れっこで。

 今度の学校でも、誰か一人で良いからずっと連絡を取り合えるような友達ができれば良いなと、そう思っていた。


 そして、何度目かの転校をした中学二年生の春。

 私は、御陵あるまと出逢った。







 転校時の自己紹介は当たり障りがないものが一番だ。

 転校生というだけで相手はこちらに興味を持ってくれるから面白いことを言う必要はないし、何より面白いことを言えるタイプでもない。

 さて、このクラスにはどんな子がいるだろう?

 仲良くなれると良いんだけど。


 不安と期待とを半分ずつ胸に抱きながら、これからお世話になる若い女の先生に続いて教室へと入り、教壇へ上る。

 先生が転校生である私のことを紹介する間、私はクラス中から視線を受けながら、それに応えるようにクラスを見回した。

 人数は三十四人、だっただろうか。

 少し女の子の方が多い。

 眠たそうな顔をしている男子、何かを囁き合っている仲良さそうな隣同士の女子。


 そんな人達の中に一際目立つ一人の少女がいた。

 窓際の、一番後ろの席。

 そこに座っていたのはゾッとするくらいに綺麗な少女だった。

 お伽噺から抜け出てきたかのような、浮き世離れした、生活感のない顔立ち。

 肩甲骨まで届くようなダークブラウンの髪。

 日本人としてはありえないほど白い肌に長い睫毛。

 何よりも目を引くのは退屈そうに細められた、その冷たく蒼い瞳。

 他にも可愛い子やカッコ良い子は何人かいたけれど、彼女が目に入った瞬間に彼女以外の全てが色褪せた気がした。


「じゃあ、白川さん。自己紹介をお願いします」

「えっ……あ、はい! えっと……。何を話そうとしてたんだっけ……?」


 ……ついでに事前に考えていた内容も全て飛んでしまった。

 教室が笑いに包まれる中、頬を染め俯いた私が再び前を向いた時には、もう彼女は私から興味を失ってしまったようで、窓の外をぼんやりと眺めていた。


 最初の一週間はクラスの皆と他愛もない会話――何処出身だとか部活は何をやっていただとか、そうでなければ好きな先生嫌いな先生といったこの学校に関する雑談――をしている内に日々が過ぎて行った。

 二年生になると同時の転校、つまり、クラス替え直後の転入だったので新参者である私に対する注目度もそこまで高くはなかった。

 前回の時みたいにクラス中から注目されるよりは気楽だけど、ちょっぴり残念。

 二週目が終わり、三週目が入る頃には派閥というわけじゃないけれど、友達グループが固定された。


 私は席が近かった進藤にこちゃんと、その友達の寺井ららちゃんと一緒にいることが多くなっていた。

 初日からずっと気になっていた彼女について聞く機会に恵まれたのはその二人と放課後に遊んでいる時だった。


「『姫』?」

「そ。御陵あるまさんのアダ名がね、『姫』」


 まるで人目を憚ることを話すかのように、ニコちゃんは周囲を見回してから、小さな声でそう言った。

 夕方のファストフード店の女子中学生の会話なんて誰も聞いていないだろうに。


「なんで『姫』なの?」

「なんでって……ねえ?」

「見た感じ、お姫様っぽくないー?」


 そう言って、ララちゃんとニコちゃんは顔を見合わせる。

 どうやらそこまで深い意味はないネーミングのようだ。


 確かに、見た感じお姫様っぽい子だけど。

 でも、二人の表情から察するに、それは必ずしも良い意味合いのニックネームではないようだった。

 「女の子の憧れ」という意味ではなく、「異端者」や「常識知らず」を揶揄するような、そんな。

 ニコちゃんは言う。


「御陵さんって、先生に当てられて言い淀んだり間違えたりすることないでしょ? 教科書すら開いてなかったり、何考えてるか分かんないけどずっと鶴折ってたりするのに」

「うん。頭良いんだなー、って思ってた」

「成績だけじゃなくて、スポーツも万能なんだ。身体が弱いとかで見学してることが多いけど、たまに参加すると涼しい顔してバスケ部を抜いてシュートを決めたり、全国大会にも出たことあるような柔道の強い子を倒したり……」


 学年トップという頭脳明晰さ。

 並び出るものがいない身体能力。

 そういった要素も彼女が『姫』と呼ばれる所以の一つでもあるけど、最も大きな理由はその近寄り難く、触れ難い雰囲気にあると言って良かった。


 簡単に言えば、御陵あるまという子には他人と仲良くなろうという気が少しもないらしいのだ。

 他人と合わせる気がなく、それどころかそれが事実ならば平気で人を傷付けるようなことを言う。

 その癖に容姿がずば抜けて整っているせいで男子からの人気はあるから、周囲から嫌われるのも無理はないかもしれない。


「……うちのクラスに、四宮さんっているじゃん?」


 コーヒーを掻き混ぜながら、ニコちゃんが続けた。

 頷きながらその子のことを思い浮かべる。

 四宮ことは。

 アルマちゃんほどじゃないけど整った顔立ちの、まさに女の子って感じの可愛らしい子だ。

 この学校のスクールカーストの上位だと一目で分かる雰囲気の少女。


「一年の頃、四宮さんと御陵さんって同じクラスでさ。四宮さんは小学校の頃から成績優秀で、家もここらじゃ名の知れた名家で、キャピキャピした感じでもあるから男子にもモテてて……。でも、いくら四宮さんでも御陵さんにはちょーっと敵わないかなー、って言うか……」

「ことはちゃん、昔から自分が一番じゃないと気が済まないタイプだから」


 ニコニコとララちゃんは笑う。

 前に四宮さんとは幼馴染だと言っていた気がするから、本当に昔からそうなのだろう。


「去年の秋頃だったかな? 二人が言い争いになったことがあったんだよ。って言っても、四宮さんが一方的に嫌味言ってる感じだったんだけど。御陵さんの方は適当に聞き流してたんだけど、四宮さんが『不倫でできた子は常識がない』って口にした時、流石に御陵さんもイラッてきたらしくてさ……。冷めた目で四宮さんを見て、こう言ったんだ」

「……なんて言ったの?」


 一拍置いて、ニコちゃんは続けた。


「『私に常識がないことは否定のしようがない事実ですが、それでも分かることがありますよ。あなたが振られた男を私が振ったことがそんなにも気に食わないんですか?』って」


 何も言えなくなった四宮さんにアルマちゃんはこう続けたらしい。

 「私にこの間告白してきた、あの牛尾佑樹という男子、あなたの元カレらしいですね」。

 「そんなに復縁したいのなら、今度会った時に私からお願いしておきましょうか?」。

 そうして彼女はさっさと教室を出て行ってしまったそうだ。


「最初は周りにいた子も負け惜しみじゃないけど、売り言葉に買い言葉みたいなもんだと思ってたんだよ。でも、四宮さんの反応を見る限り、適当なことを言ったわけじゃないらしかった。……だけどさ、お互い様だけど、事実でも言って良いことと悪いことがあるじゃん」


 四宮さんがアルマちゃんに言ったことも。

 アルマちゃんが四宮さんに言ったことも。

 間違いなく、口にしてはいけないことだった。


「ふーん……。なんか、ちょっと興味出ちゃったな」

「御陵さんに? 仲良くなろうとか、やめときなよ?」

「なんで?」


 そう問い返すとニコちゃんは「なんでって……分かるでしょ?」と小さく口にした。

 多分、そういうことが分からないのがアルマちゃんなんだろうな、と私は思っていた。


「でも私は友達になりたいんだけどなあ……」

「……スミレって、微妙に人の話を聞かないところがあるよね」

「そう?」

「あるよー。かなり、結構」


 二人の呆れたような表情を素知らぬフリをして、私はアイスコーヒーを飲んだ。







 数日後。

 頑張って早起きした私は人影も疎らな通学路を歩いていた。

 彼女に会う為だ。

 件の、御陵あるまちゃんに。


 アルマちゃんは早退することが多い反面、朝はほぼ毎日一番に教室に来て、一人で本を読んでいるという。

 だから誰もいない早朝ならば彼女と二人きりで話ができると思ったのだ。


「『白川菫は特別なところが何もない人間だった。だがその分、変わったものや珍しいものに対するこだわりは一際強かった』……なーんて」


 詩でも紡ぐように呟きながら階段を上り、廊下を曲がる。

 私達二年A組の教室は教室棟の一番端にある。

 すぐ脇には非常階段へと続く扉があり、直接教室に赴くにはそちらから行く方が早かったりするのだが、残念ながら普段は内側から施錠されているので使えない。


 B組の教室の前を通って、そろそろ慣れつつある私達の教室へ。

 勿論、始業開始の一時間近く前ということもあり、隣のクラスには誰もいないようだった。

 だけど私達の教室にはやはりいつものように――なのかは私には分からないけれど、聞いていた通りに彼女がいた。

 

「おはよ、アルマちゃん」

「……おはようございます」


 挨拶は一拍遅れて返ってきた。

 一瞬だけ私に向けられた深い蒼の瞳はすぐに手元の高そうなブックカバーの掛かった本へと戻った。







 誰もいない、薄暗い教室で一人本を読む彼女の姿は、いっそ絵画のようだった。


 陽の光が作る影の中に消えてしまいそうなほど儚くて、美しい。

 深窓の佳人。

 小説の中に出てくる単語そのままの存在がそこにはいた。

 正直隣に座るのも気後れするくらい――女の子は自分より圧倒的に綺麗で可愛い子の隣にはいたくないものなのだ――だけど、私は構わず彼女の隣の席に腰掛けた。


 今、この教室には彼女と私だけ。

 誰に見られているわけでもなく、誰に憚る必要もない。


「席、間違えてますよ」


 と。

 私が腰を下ろすとほぼ同時に、アルマちゃんはそう言った。

 呆気にとられる私。


「言っておきますが、今のは冗談です」


 続けられた言葉に更に開いた口が塞がらない私。

 

「……アルマちゃん、冗談とか言う子だったんだね」

「戯言ですけどね」


 そんな風に意味の分からない返答をすると、どうも彼女の中で会話は終わりになったらしく、読書に戻ってしまった。

 うーん、マイペース。


「読書、好きなの?」

「北鎌倉駅近くの古書堂の女主人程ではないですが、好きですよ」

「ふーん……。何読んでるの?」

「津流谷式の『金蘭の刻』です。珍しい本ですよ」


 嘘だけど。

 女子としては低めだけど、でもとても綺麗な声で謡うようにそう小さく付け加える。

 返事はしてくれているが、こちらに合わせる気がまるで見当たらない。


「で、本当は何を読んでるの?」

「北村薫です」

「うーん……。聞いたことない、かな」

「そうですか」


 彼女はずっとこんな調子なのだ。

 普通――少なくとも私の常識では「どんな本なの?」と訊かれた場合には、それだけを答えるのではなく、どんなジャンルだとか作者は他にこんな本を書いているだとか、そういうことも言うものなのに。

 私がそれとなくそういったことを伝えると、アルマちゃんは口端を歪めて笑い言った。

 お姫様には似つかわしくないのに、どうしてか彼女の雰囲気には良くマッチした表情。


「ブラウン神父が同じようなことを言っていますね。私達は相手の質問に答えるのではなく、その意味に対して答えている、と」


 ところで、とアルマちゃんが言った。


「白川さんは私に何かご用ですか?」

「え……なんで?」

「こんな朝早くに学校に来るなんて、おかしいでしょう」


 そこでようやく本を閉じた彼女はその綺麗な両目をこちらへと向けた。

 日本人にはありえない、冷たく深く蒼い瞳。

 顔立ちは日本人的だから何処かミスマッチな感じがして、でもそれが妖しい魅力になっている。

 その瞳の追及に白旗を揚げ、私は余計な取り繕いはせずに正直な思いを告げた。


「私、アルマちゃんと友達になりたいの! ……ね、いいでしょ?」


 私の言葉を聞いてお姫様は退屈そうに目を細めた。

 私が同じ仕草をすると眠そうなだけなのに、アルマちゃんがしてみせると気怠げながら色っぽい。


「そうですか。ありがとうございます。ですが私は別にあなたと友達にはなりたくありません」

「でも、私はアルマちゃんと友達になりたいし……」

「人の話を聞かない人ですね。では、『友達』の定義から始めましょうか」

「そういうんじゃなくって! そんな難しい話はどうでもよくって、友達じゃないとしても、単にほら……。たまに、こうして話したりするような、そういう関係になりたいなーって私は思ってるの」

「そういうことなら、」


 と、アルマちゃんは言う。


「今こうして話しているんですから、既にそういう関係ではあるでしょう?」


 平然と。

 淡々と。

 つい数秒前に「友達にはなりたくありません」と告げた口で、全く変わらないトーンで、そう口にした。


「……え? じゃあアルマちゃん、私の友達ってことでいい?」

「どうしてそうなるんですか。人の話を聞かない人ですね、あなたは」


 私は笑って。

 彼女は呆れたように溜息を吐いて。

 そうして私達は、友達になった。







 それからというもの、私は早く起きれた日には誰もいない早朝の教室で彼女と話すようになった。

 体育や美術の授業で二人一組になる場合もアルマちゃんと組むことが多くなった。


 最初の内はニコちゃんは「あんまりあの子と仲良くしていると良くないよ」だなんて忠告して、それとなく付き合いをやめさせようとしていたけれど、やがて無駄だと分かったようで何も言わなくなっていった。

 彼女が危惧してくれたように、アルマちゃんと一緒にいるようになってから四宮さんのグループを始めとした何人か――四宮さんと仲良くない岡さんの周囲や、別のクラス・学年の生徒、更には一部の教師陣に至るまで――からの風当たりは少し強くなったけれど、私は気にしなかった。

 ある意味で私も御陵あるまという少女と同じように他人と合わせる気がなかったからだ。

 彼女のその性質がすらりとした四肢に収まり切らないほどの能力や、あるいは裕福ながら複雑な家庭事情から生じたものであるとすれば、私のそれはある種もっと俗っぽい事情が根幹にある。

 私は、お父さんの仕事の関係で、秋頃にはまた引っ越すことになっていたのだ。


 つまり最初から、この学校での付き合いは期限付きのもので。

 これから少なくとも一年以上同じ校舎で学ばなければならない、近くの高校に進学すればまた同じクラスになるかもしれない、だからある程度は周囲と仲良くしておかないとというそういう心配をする必要が私にはなかったのだ。

 どれだけ仲が悪くなったとしても、所詮その相手は別れてしまえば二度と会わない相手。

 だとしたら、自分が友達になりたい相手と仲良くして、これから先も連絡を取り合える仲になる方がずっと良い。

 そういう考えが私にはあった。


「ご尤もだと思いますよ。話す価値のない相手と話す必要はありません。人生は有限ですから」


 私がそんな胸の内を述べると、アルマちゃんは珍しく私に同意して笑った。

 底意地の悪さが伺える、妖しい微笑。

 傲慢さが見え隠れするその表情も慣れてしまえばどうということはない。

 人並みの自尊心やプライドがあれば嫌な印象しか受けないのだろうけれど、生憎と私は生まれてこの方中流かつ凡庸で、そういったものとは無縁だった。


 私に誇れることがあるとすれば日本中に色んな友達がいることだけ。

 だとしたら自分よりカッコ良くて素敵な相手が隣にいることは、むしろ誇らしいことだ。


 私にとって御陵あるまという人は、他の人がそうであるように妬みや怨みの対象ではなく、少しズレた立ち位置にいる相手で……。

 やはり一言で表現すれば『友達』になるのだろう。

 ……仮に好きな男の子ができたら、絶対に会わせたくないけれど。

 それくらいの感情は私にもあるのだ。


「そう言えば、アルマちゃん。四宮さんの元カレのことなんだけど……」


 ある日の早朝のことだった。

 ふと思い出した私は口を開く。


「四宮さんの元カレに告白されたことがあるって、本当?」

「事実です」


 文庫本のページを捲りながら彼女は答える。

 話を聞いていないわけでも、聞く気がないわけでもない。

 どういう頭の作りをしているのか、アルマちゃんは読書をしながらでも会話ができてしまうのだ。

 授業中に鶴を折っていたり、ぼんやりと空を眺めているのは決して先生の話を聞く気がないわけじゃない。

 彼女は二つのことくらいならば同時にできるから授業だけに集中しなくても問題はないというだけだ。

 問題はないのは、礼を失していることを抜きにするならば、だけど。


 たとえこちらの話を聞いていようと、普通は話し掛けれれば本は閉じるものだと思う。

 もう慣れたけれど。


「なんで四宮さんの元カレだって分かったの? 私よく知らないんだけど、付き合ってること秘密にしてたって聞いてたけど……」

「……彼女がスクールカースト上位でいる為に男を利用するタイプの人間だからですよ」

「え?」


 アルマちゃんは言った。


「四宮ことはという人間は成績や容姿、あるいは家柄もそこそこです。普通にしていてもクラスの中心的存在にはなれる。ですがその地位を盤石にする為に隣にいる男を利用している。『レベルの高い男の隣にいる私はレベルの高い女』というわけですね。それ故に、付き合う相手は周囲が羨む存在でなければなりません。あの牛尾という男子生徒は一つ上の三年生でサッカー部のレギュラー、容姿もそれなりに良い。連れて歩くにはうってつけです。周囲から羨望の眼差しで見られる為には恋人同士だと分かる必要がある。だから口にはしないとしても、見ている人には分かるような態度なんです。『この人は私のもの』と。それで両者が告白を断り続ければ、もう確定です。公然の秘密というやつですね」


 形の良い唇から四宮ことはという人間の冷静な観察結果が語られた。

 静かで綺麗な声音だったが、それに反するように内容は辛辣で歯に衣着せぬもの。

 四宮さんが聞いたなら面白くないことは間違いない。


「彼女が私を好ましく思わないのも同じような理由です。自分より成績も容姿も家柄も何もかもが上の人間が近くにいる。それが、彼女には我慢できない。この空間での自分の立場が脅かされると思うんでしょう」


 ……面白くないどころか、これは間違いなくキレる。

 この姫は何処までも不遜で傲慢で、かつ正直。


「言ってることは分かるけれど……。単純に、好きな相手を取られたのが嫌だったんじゃないのかな?」

「私の話を聞いていなかったんですか? それとも理解力がないんですか? 四宮ことはのような人間にとって、男は自分のステータスの為の道具です。元々好意なんてありはしませんよ。……いえ、訂正しましょう。恋愛の機微は私には分かりませんが、それでも少なからず好意を抱いていたのかもしれません」

「どうしてそう思うの?」

「四宮ことはの鞄のストラップを思い出せますか? どうせ思い出せないと思いますが、アルファベットが書かれたものです」


 私が答えられないのを見越していたのだろう。

 答えを待つことなく彼女は続ける。


「彼女の鞄に付いていたストラップ。『K.S.』は『ことは・四宮』でしょうが、もう一つの『Y.U.』は『佑樹・牛尾』でしょう。携帯電話の暗証番号は0721。その牛尾さんの誕生日です。また彼女は九月生まれのはずなのに蟹座を象ったアクセサリーを付けていることが多いですが、多分それはそういうことなんでしょう」

「……すごい。他に、何か分かる?」

「成績が良いのは努力の結果かもしれません」

「どうして?」

「彼女は右利きですが、右の中指の第一関節の左側に胼胝があります。俗に言うペンだこですね。美術の時間の作品を見る限りでは絵が趣味ということもなさそうなので、残るは文字を多く書いている可能性。親しい文通相手がいるか、日記を熱心に書いているのでなければ、恐らく勉学によってできたものでしょう」

「他には?」

「ピアノを習ったことがあるか、今も自主的に練習していると思います」

「なんで?」

「女子の爪というものはある程度長い方がオシャレとされていますが、彼女の爪は短い。しかし深爪ということではなく、しっかり整えられているいることも分かる。彼女は容姿を気にする人間ですから何もなければ爪は長くしたがるはずです。爪が適度に短い理由で最も可能性が高いのはピアノの経験者ということでしょう。ピアノというものは指先の感覚を重視し、また爪が鍵盤に当たることは良くないとされていますから。楽譜を読むのも速いですしね」

「他には? 他には!?」

「音楽に関係したものなら、絶対音感――ここでの『絶対音感』は生まれついて音が正確に聞き取れる才能の意味です――の持ち主ではないでしょうね。音楽的な能力はあるようですが」

「それはなんで?」

「一年生の頃に音楽室のグランドピアノのチューニングがズレていることがあったのですが、クラスで気付いたのは彼女だけのようでした。僅かなズレでしたから音楽の経験がない人間はまず気が付きません。ですが一方で移調楽器――クラリネット等ですが――やテナーリコーダーを苦手とする様子はありませんでしたし、流行歌をキーをズラして歌っている場面を見たことがあります。どれも絶対音感の持ち主ならば苦手とすることが多い」

「他にもある?」

「テニスの経験者だと思います」

「体育でテニスやったことあったっけ?」

「以前ドッジボールをやった際、顔面に向かって飛んできたボールに対して目を閉じずに対応していました。人間は顔に何かが向かってきた場合は眼球を守る為に反射的に目を閉じるようにプログラムされています。この反射が矯正されている場合には一部の武道や格闘技の経験者である可能性が高いのですが、両腕の筋肉の発達具合から考えてそういうわけではないようです。彼女は明らかに左手より右手の力の方が強い。大抵の武道や格闘技では両腕を使用しますから長くやるほど利き腕とは逆の手の力も強くなります。なので、それ以外で目を閉じると不利な競技、かつ利き腕を良く使うスポーツを考えると、片腕でラケットを握りネット際の攻防で高速でボールをやり取りするテニスやバドミントンが考えられます。しかし体育の授業でバドミントンを行った際は非常にぎこちない動き方をしていました。ですが対照的に、バドミントン部の人間と少し話しただけですぐにカットはできるようになっていました。テニスにおけるスライスサーブを打つ動きとバドミントンのカットを打つ動きが似ているからでしょう。あとは……ラケット面を一度回して、そのまま落としていることがありましたが、きっとテニスの癖でラケットを回しをしたらイメージよりも軽く驚いたんじゃないでしょうか」


 もういいですか?と彼女は溜息を吐いた。

 私は驚きのあまり何も言えなかった。


 きっと、四宮さんに対して特別な想いを抱いていたとか、だからずっと観察していたとか、そういうわけではない。

 御陵あるまはただその蒼い瞳で捉えた情報から、推理というのも大袈裟な、至って当然のこととしてそれらの事実を見抜いただけなのだ。

 周囲と話が合わないのは彼女の態度だけの問題じゃなかった。

 成績がどうだとか、そんなレベルの話ではなく、彼女は私達と全く違う世界で生きているのだ。







 春に彼女に出逢って、夏休みには一緒に出掛け、秋が来る頃にはもう私達はすっかり仲良くなっていた。


 アルマちゃんの方は私のことを一度も『友達』だとは言わなかったけれど、それでも決してただの他人ではなかったと思っている。

 ほとんど言葉も交わしたことのない男子から仲を取り持って欲しいと頼まれたことは一度や二度ではない。

 少なくとも周囲からは、私は御陵あるまの友人だと思われていたのだろう。


 下手をすれば丸一日一度も口を開かないことがありえる彼女。

 その無口で偏屈な姫君と内容のない話を――つまりは友達同士がするような、どうでも良い話をする唯一の相手が私だった。

 彼女が話し始めると意外にも饒舌で、イメージ通りに毒舌なことを知っているのは、多分この学校で私だけ。

 それはなんだかとても優越感を感じられる事実だった。


 彼女と二人で過ごす日々は穏やかそのもので。

 一緒にいる内に分かった。

 致命的に周囲と合わないだけで、御陵あるまという子は一対一で付き合う分には少し変わっているだけの、普通の女の子だった。

 歌が上手いこと。

 甘いものが好きなこと。

 好きな男の子がいたこと。


 誰も知らない、私だけが知っている、彼女の普通のところ。


「……それにしても驚いた。アルマちゃん、お兄さんがいるんだね」


 それはどんな流れで辿り着いた会話だっただろう。

 ある休日の昼下がりに、私達は小じんまりとしたカフェの一角で他愛もない話をしていた。

 話の内容は彼女の家族について。

 そこで私はこの姫にお兄さんがいることを知ったのだ。


「ええ、いますよ」


 そのお兄さんとの会話を終えたアルマちゃんは携帯電話をパタンと折り畳みながら答えた。


「……しかも、『お兄ちゃん』って呼んでるんだね。意外~」

「そうですか?」

「そうだよ。私、アルマちゃんのこと長女だと思ってたし。しっかりしてるから」

「長女でもありますよ」

「え?」

「腹違いの兄ですから」


 一瞬間目を丸くした私に彼女は「知っているんでしょう?」と言わんばかりの目を向ける。


 灰に近い色合いの、蒼の瞳。

 そこには何の感情も伺えない。

 腹を立てているわけでも、悲しんでいるわけでも、況してや同情を求めているわけでもない。

 ただただ、事実を述べているだけで。


「……お兄さんはどんな人なの?」


 何も言えなくなった私はそんな風にして話を逸らした。

 沢山の人と友達になって色んな経験をしてきても、こういう場面ではいつも戸惑ってしまう。


「そうですね」


 アルマちゃんは口元に手を当て、目を細める。

 不機嫌になった様子はない。

 やはり、同情して欲しいわけではなかったようだ。

 ……もしかして私がどんな反応をするか試したのだろうか?


「一言で言えば、とても優れた人物、でしょうか」

「頭が良いってこと?」

「全てにおいて、です。まるで人の中に歳若い神様が紛れ込んだような、そんなイメージを抱かせる人間です」


 あるいは化物でしょうか――なんて風に呟き、彼女は笑ってみせる。

 性悪さが伝わる、妖しい微笑。


「ふーん……。アルマちゃんより凄い人なの?」

「そうですね。よく笑ったり泣いたりする人間なので如何にもな天才には見えないですが、私より遥かに優れた人間です。まあその分、私に対して『友達は大事にしろ』だとか『しっかりと考えろ』だとか、上から目線で色々言ってきますが……」

「アルマちゃんに上から目線でお説教するなんて、凄いね」

「少なくとも私より友人は多いですから。いえ、下僕でしょうか?」

「……下僕?」

「友人関係は対等でなければ結べませんから」

「よく分かんないけど、お兄さんのこと、尊敬してるんだね」

「……そうですね」


 不遜で尊大な彼女が反抗しない程度には凄い人であるのだろう。

 兄妹間の力関係というやつか。


「でもさ、アルマちゃん。お兄さんはよく笑ったり泣いたりしてるらしいけど、アルマちゃんは全然笑わないよね」

「そうでしょうか? よく笑う方だと思いますが」


 確かに口端を歪めていることは多い。


「そうじゃなくって、もっと朗らかで、可愛らしい感じの……」

「そんな笑顔、私には似合いませんよ」

「可愛いからほら、やってみせてよ!」

「話を聞かない人ですね、あなたは。訂正します。似合い過ぎて、今以上に告白されるようになってしまうので困ります」


 ……どれだけ自信家なのだろう、この姫は。

 この半年にも満たない間で十人以上の男子から言い寄られていることは紛れもない事実だけど。

 聞いた話では夜道で襲われ手篭めにされそうになったこともあるらしい。


 無論、その結末は聞くまでもない。


「じゃあさじゃあさ、可愛らしい笑顔じゃなくてもいいから、もっと笑ってよ。いっつもつまんない顔ばっかりしてないで……ね? 私、アルマちゃんの笑った顔、好きだから」

「そうですか?」

「そうだよ。女の一番の化粧は笑顔、って言うでしょ? 名前が『笑顔(Smile)』って意味の私が言うんだから間違いないよ!」


 そうですね、と。

 彼女はまたあの妖しい微笑を浮かべた。


「……うん、やっぱりその表情がいいよ。ね、これから一緒にプリクラ撮りに行こうよ。記念に」

「何の記念ですか」

「私の転校記念! 知ってるでしょ? ……私、もう一ヶ月もしない内に転校するんだから。だから、ね?」

「…………仕方ありませんね」

「やった! じゃあほら、行こうよ!」


 私は彼女の手を引いて歩き出す。

 私が彼女の笑顔が好きなのは、きっと。

 その瞬間、彼女がお伽噺のお姫様ではなく、一人の意思を持つ人間だと分かるからだろう。







 別れの季節と言えば春だけど、今の私にとっては秋こそがその季節だった。


 学園祭を控え、学校全体が浮き足立っている今日この頃。

 放課後、各クラスが展示物や出し物を準備をしている様子をニコちゃんとララちゃんと見て回りながら、「学祭が終わる頃にはこの校舎ともお別れだな」なんて一人考えていた。


 我が二年A組はクラス展示。

 テーマは『なんちゃってルーブル美術館』。

 実際のルーブル美術館に展示してある美術品――『ミロのヴィーナス』、『モナ・リザ』等――を廃材や新聞紙で再現するという、結構手間の掛かる出し物だ。


 クラスをいくつかの班に分けて製作しており、私はニコちゃん達と同じくD班。

 『民衆を導く自由の女神』という絵画を貼り絵で作っている。

 大した大きさではないのだが、あまり器用でない私にとっては難題だった。

 そもそも何の絵なのかアルマちゃんに教えてもらうまで知らなかったこともあるし。


 そのアルマちゃんはと言えば、四宮さん達のグループによって雑用係という名目で閑職に追い遣られていた。

 本人も「こんな出し物程度、私なら二、三日で完成させることができますからクラス全体で作成する意義が見いだせません」なんてひねたことを言っていたけれど、それでも私は知っている。

 製作の進行を先回りするようにして、いつの間にか必要な道具が用意されているのは、アルマちゃんの仕業であることを。


「学園祭、上手く行くといいな」

「そうだね~」

「うん!」


 三人で笑い合いながら私達は教室へと向かう。

 さて、そろそろ休憩は終わりにしよう。

 作業の続きが待っている。







 放課後だけじゃなく、朝も作業をしようと決まったのは、学園祭を週末に控えた月曜日のことだった。

 どの展示物もほぼ完成していたのだが、念の為だ。


 今日はその一日目。

 始業四十分前に教室に集合ということで、私は今日も一人、通学路を歩いていた。

 朝早く起きれるようになったのはアルマちゃんと友達になった副産物の一つだった。


 と。

 私は、下駄箱の前で靴を履き替えているニコちゃんと出会った。

 集合時間はもうすぐだから今来たはずなのに、何故かニコちゃんはローファーを履こうとしていた。


「おはよ、ニコちゃん。どうしたの?」

「忘れ物しちゃってさ……。今からちょっと取りに行ってくる」

「忘れ物? 時間、大丈夫なの?」

「大丈夫。お兄ちゃんにバイクで迎えに来てもらうから」


 携帯を開いて時間を確認したらしい彼女は申し訳なさそうに笑って言った。


「というわけで、ごめんね。一旦帰るし。そろそろ皆集まってくる頃だと思うし、他の人にも伝えといて」

「分かった。気を付けてね」

「うん、ありがと」


 そんな風に言葉を交わし合い、ニコちゃんと別れた私は教室へと向かう。


 最早目を瞑ってでも行けそうな慣れ親しんだ道筋。

 渡り廊下を進んで、階段を上がる。

 二階へ続く踊り場ではクラスメイトの一人、淀くるみさんが一年生らしい男子生徒を連れて掲示物を張り出していた。

 話を聞くと学祭委員の仕事であるらしい。

 簡単に挨拶をして、再び教室へと歩き出す。


 階段を上り切った向かって右手、C組の教室の前の廊下には台本を手にした生徒が何人か集まっていた。

 耳を澄ませばおよそ日常生活では使わない難しい単語を用いたカッコ良い台詞が聞こえてくる。

 C組の出し物は演劇。

 今は廊下を舞台袖に見立てて練習中らしい。

 普段は放課後に体育館や中庭で練習しているのだが、今日は珍しくこんな時間からやっている。

 うちのクラスと同じで熱心なのだろう。

 対照的に左手のB組は閑散としたもので、朝早いこともあってか誰もいない。


 さて、このクラスの出し物はなんだったっけ?

 そんなことを考えながらB組の教室の前を通って、A組の前へ。

 もう皆集まっているだろうか?等と思いながら、その扉を開けて―――。

 そこで私が見たものは。


「…………え?」


 汚れないように上から大きな白い布を掛けられ、教室の端に寄せられた幾つかの展示物の中。

 唯一、剥き出しになった――そして原形を留めないほど壊されたミロのヴィーナスの前。

 そこで一人、金槌を手にして立つアルマちゃんの姿だった。







 何かの間違いだ。

 私の言葉を聞いたクラスメイトの一人――鴨戸君は「そうは言ってもよ」と溜息を吐いた。


「お前がさ、御陵の友達だってことは知ってるし、だから庇いたい気持ちも分かるけどさ……。例えばこれ、殺人事件で考えてみろよ? 部屋で人が死んでました。その前に友達が立っているのをお前が発見しました。友達の手には凶器があります。……犯人、誰だと思う?」

「それは……!」


 反論できずに視線を彷徨わせ、時計を見る。

 時刻はとっくに朝の会を過ぎて、一限目の時間に入っていた。

 だけど、授業は始まりそうにない。


 当たり前だ。

 この話の結論が出るまでは教科書のどうでもいい何処かの国の作り話なんて頭に入ってくるわけがない。


「っていうかそれ、わざわざ殺人事件で喩える必要あった? まんまじゃん」

「うるせーな、金塚は。遅刻して来た癖に」

「それは今関係ないでしょ!」

「……鴨戸君、金塚さん。惚気は後にして頂戴」


 教壇に立つクラスの委員長、岡さんがこんな時でもいつも通り痴話喧嘩を繰り返す二人を制する。


 あの後集まってきた数人に一方的に犯人扱いされそうになったアルマちゃんを「全員が集まる朝礼の時間まで待つべき」だと言って庇ってくれたけれど、それは岡さんが味方であることを意味しているわけではない。

 彼女はただ、几帳面なだけだ。

 単に犯人を断罪するとしてもクラス全員の前でなければならないと考えているだけだろう。


「白川さん。もう一度だけ確認させて」

「……はい」

「あなたは朝、七時四十分頃に教室へ着いた。教室の扉を開けた時、そこには御陵さんしかいなかった。そうね?」

「うん……」

「その時既にヴィーナス像は……その、あんな風になっていたの?」


 言い淀んだ岡さんは視線を私の後ろへと向ける。

 私の真後ろ。

 教室の後方には無残にも壊され、更には絵の具で汚されたミロのヴィーナスがある。


 事故であんな風になるはずがない。

 明らかに、誰かが悪意を持って滅茶苦茶にしたのだ。


「……私が来た時には、もう……」

「一応訊いておくけれど、その後は?」

「……すぐに南原さんが来て、淀さんや岡さん達が来て、ちょっと後にララちゃんが来て……。後はもう、皆が来ただけ」

「分かったわ。ありがとう」


 端的にお礼を述べた岡さんは今度は南原さんに問い掛ける。


「南原さん」

「何よ」

「白川さんの次に教室に来たのは、あなた?」

「……そうだけど」

「教室に来た時、どうだった?」

「どう、って……。C組の友達に頼まれて朝から劇の代役をやってて、そろそろ時間だから教室へ行って、扉の前に立ってる白川を見つけて、どうしたの?って言いながら中を見たら、壊れた像の前に御陵がいただけ」

「分かった。ありがとう」


 そこで教室の扉が開き、ララちゃんが入ってきた。


「聞いてきたよー。昨日の見回りの先生だけど、昨日の夜見た限りではおかしなことはなかったってー」

「そう、ありがとう。じゃああなたも席に着いて」


 一旦教壇脇に座る久保先生に目を遣る岡さん。

 先生は黙って頷き、それを「そのまま続けて良い」という意味に受け取った彼女は一度目を擦った四宮さんに訊いた。

 四宮さんの目は、少し赤い。

 先ほどトイレに行くと言って席を外した時、泣いていたのだろう。


「四宮さん。昨日、一番遅くまで教室に残っていたのはA班のあなた達よね?」

「……そうよ」

「作業を終えたあなた達は道具や器材を片付けて、教室を後にした。それでいい?」


 頷く四宮さん。

 岡さんが視線を向けると、同じくA班の人達も頷いた。


「淀さん、あなた、踊り場で学祭委員の作業をしてたわよね」

「階段を誰か通ったかっていう話?」

「そう。教えてくれる?」

「白川さんが通る少し前に御陵さんが通った。ちょうど作業が終わったところで陽ちゃん――大沢と中、それにあなたが来たから、一緒に教室へ向かった」

「ありがとう」


 一拍置いてから、岡さんはアルマちゃんの方を向いた。

 彼女はこんな時でも何も変わらない。

 いつもと全く変わらない立ち姿に、いつもと全く同じ表情。

 クラス中から敵意を受けながらも退屈そうにその蒼い目を細め、ぼんやりと窓の向こうの空を見ていた。


「……御陵さん」

「なんでしょうか」

「そう言えば、まだ訊いていなかったわね。でも、一応訊いておくわ。……あなたが犯人?」


 孤独な姫はゆっくりと首を振る。

 それは否定ではなく、呆れの意味を含んだ仕草だっただろう。


「質問で質問に返す形になりますが、仮に私が『犯人ではない』と主張した場合……あなたは信じますか?」

「…………難しい」


 なら、それが答えでしょう?

 そう言って彼女は笑った。

 あの口端を歪める、妖しい微笑を湛えてみせた。


「アルマちゃん……」


 ……ああ。

 なんで、そんな風に。

 どうしてわざわざ、そんな敵を作るような真似をしてしまうの?

 素直に答えれば。

 一生懸命説明すれば。

 皆、分かってくれるかもしれないのに―――。


「……岡さん、待ってよ。もしかしたら犯人は別にいて、ヴィーナスを壊した後に非常階段から逃げたのかもしれないでしょ……?」

「白川さん。あなたも知っていると思うけど、あの非常階段へ続く鍵は内側からしか掛けられない。そして私が来た段階では内側から鍵が掛かっていた。あなたも南原さんもわざわざ鍵を掛けたりはしていないでしょう? 仮に別に犯人がいて、その人物が非常階段から逃げたとしても、あなた達より前に教室にいた御陵さんが鍵を掛けたことになる。……それは、共犯と呼ぶんじゃない?」

「でも……! あ、ほら! 淀さんが作業していたのは一階と二階の間の踊り場だから、三階に行った人は分からないでしょ!」

「かもしれないわね。でも、C組の人達は朝早くからずっと劇の練習をしていた。さっき訊いてみたけれど、『御陵さんよりA組の教室に行った人はいなかったと思う』と言っていたわ」

「だったらC組が練習を始めるより早く、誰かが―――」


 と。

 その瞬間だった。

 他ならぬアルマちゃんが、私を止めたのは。


「……スミレ。もういいです」

「…………え?」

「あなたの見たことと聞いたことが全ての真実です。だからもう、いいんです。無駄なことはやめてください」

「無駄なこと、って……!」

「『It may seem to point very straight to one thing, but if you shift your own point of view a little, you may find it pointing in an equally uncompromising manner to something entirely different. 』――この話はもう、これで終わりです」


 それだけを言い残して立ち上がった彼女は鞄を持つと、さっさと教室を出て行ってしまう。


 全部、無駄なこと。

 そう言わんばかりの迷いのない足取りで。

 その背に浴びせられるのは非難の声の数々。

 誰一人として、彼女の無実を信じている生徒はいなかった。

 それが他ならぬ真実だった。


 思えば。

 彼女が私の名前を呼んでくれたのはその時が初めてだった。


 そして、最後の機会にもなった。



 翌日から彼女は学校へ来なくなり、心配になって家に電話を掛けてみても「心の病で病院にいる」と教えられただけで、会うことはできなかった。

 結局私は彼女と言葉を交わすことができないままに学園祭を過ごし、気まずい気分のままにクラスでの送別会を終え、引っ越しのその日を迎えてしまったのだった―――。


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