第20話 『呪い』の正体 解答編



「密室の謎は笑ってしまうほどに簡単です。ですが私の考える真相の可能性を話す前に、一つ、あなたに訊いておきたいことがあります」


 密室殺人。

 現実世界ではおよそ遭遇することのないその謎を僕のホームズは「笑ってしまうほどに簡単」と評する。


 もう、鶴は折っていない。

 鶴を折るのは思考をする際の彼女の癖だ。

 だから鶴を折るのを止めたということは謎が解けたということを意味している。

 「なんだ?」。

 椥辻刑事からそう問われたアルマお姉さんは、いつもよりゆったりとした口調で応える。


「……椥辻刑事。あなたは警察官です。悪い人を捕まえるのが、あなたの仕事。……ですが、仮に警察に捕まえられない犯罪者がいた場合はどうですか? 法律で裁けない敵は見逃しますか?」


 御陵あるまは、言う。

 静かに、一つ一つ、この空気に言葉を置いていくように。


「仮に正義では倒せない悪があったとしたら、あなたはどうしますか?」

「…………」

「早い話が、私刑を下すダーティーなヒーローを認めるか、という話です。一昔前のミステリやサスペンス――俗に『ハードボイルド小説』なんて呼ばれる作品にはそういう探偵役が多く出てきます。彼等彼女等の正義を――あるいはただの暴力を――あなたは認めますか?」


 椥辻刑事は黙っていた。

 表情に動きはない。

 刻まれた皺も変わらない。

 でも多分、彼女はどう答えるか悩んでいたんだと思う。


「……公私混同はいけないと世間では言われるが、私達のような人間は別だ」


 と。

 やがて彼女はそう語り始めた。


「公務に携わる私達は、言わば、国民の総意の執行者だ。教師が自分の価値観を生徒に教え込むことは許されない。故に『公僕』だ。本心ではこう思っている、実はこうだ、という前置きは意味を持たない。私という人間――椥辻小梅がその問いに答えるとすれば、答えは『認めない』となる」

「認めませんか」

「ああ、認めない。認めることはできない。……御陵、お前だって分かっているんだろう? 現実にある『正しさ』は創作の中とは違って、完璧ではない。完璧ではないからこそ、いつだってより正しくなるように努力し続けなければならない」


 完全な正しさはない。

 彼女はそう言った。


 でも。


「しいて言うなら、それが私の答えだ。今の正義が不完全なら、完全になるように改善しなければならない。お前の言うような正義の味方は、いらない」


 完全な正しさなんて、ないけれど。

 ありもしない正しさを目指して、必死で思考し行動しているその瞬間は――多分、正しい。


 僕の恩人はそうも言った。

 それが彼女の答えだった。


「……ふふ。あなたの本心かどうかは置いておくとして、リンネさんが口にしそうな答えですね」


 答えを聞いて、御陵あるまは笑った。

 何処までも傲慢に、驕慢に。


「『正義の味方がいないからこそ、私達は悪を憎み、正義を愛する』――何処かの不良高校生の母親が言った言葉ですね。法制度のことはよく分かりませんが、ナギさんが言うような犯罪について市民に主体的に考えさせ、市民の声を反映するという目的を持って、裁判員制度などは生まれたのかもしれません」

「その名で呼ぶな。ところで御陵、そんな禅問答はともかくとして、分かっているんだろうな?」

「密室の謎ですか? 勿論です」


 そして僕のホームズは言った。


「常識的、いえ、現実的に考えてくださいよ――内側から鍵が掛かっていたのなら、中にいた人が鍵を掛けたに決まっているじゃないですか」


 「内側から鍵が掛かっていたのなら、中にいた人が鍵を掛けた」。

 それはそうだ。

 当たり前だ。

 だけど、どういうことなのかが僕には分からなかった。


 だってこの場合、その中にいた人は―――。


「……御陵。まさか、お前はこう言うつもりか? 『被害者が自分で心張り棒を噛ませた』と」

「まさかも何も、現実的に考えてその可能性が一番高いでしょう」

「どういうことだ。説明しろ、御陵」

「ところで今のナギさん、何処かの超高校級の御曹司みたいですよ。ナイス噛ませです」

「話を逸らすな。さっさと説明しろ」


 分かりましたよ、とあの性悪な笑みを浮かべて、たっぷりと勿体ぶって僕のホームズは説明を始めた。


「仮定の話をしましょう。仮に、その秘書がコート姿の復讐者に殺されたと仮定します。その場合だと、事件の流れはこうなります。……コートの男に恐怖し田舎へと戻った秘書は、来訪者に対し、なんの躊躇いもなく扉を開け、少しも抵抗できずに腹部を刺され、死んだ。この時点で一つ疑問が浮かびます。『復讐者を恐れて田舎に帰った人間がどうして警戒することなく扉を開けたのか?』という疑問が」

「……それもそうだ。なんでだろう? 犯人は宅配業者のフリをしてた、とか?」

「だとしても見覚えのない荷物が届いた場合に扉を開けるでしょうか? 犯人がなんやかんや上手く細工した可能性もありますが……。常識的に考えて、襲撃を恐れる人間は早々扉を開けないでしょう」


 あるいは会社を辞めた時点で自分は標的から外れたと考える楽観主義者だったのかもしれませんが、とお姉さんは補足した。


「……兎にも角にも、秘書は扉を開けて犯人に刺された――犯人視点ならば上手く扉を開けさせて、腹部を刺すことができたとしましょう。ここで次の疑問です。『何故犯人はトドメを刺さなかったのか?』。漫画の悪役じゃあるまいし、恐らく復讐が目的なのですからとりあえず心臓なり首なりを刺して確実に死に至らしめようとするでしょう? 少なくとも私が昔出逢った人殺しはそうでしたよ」

「逆に、復讐だからこそ、じゃないか?」


 と、口を挟んだのは椥辻刑事だった。


「胸糞が悪くなる想像だが、目的は復讐なんだ、苦しむ被害者を見て楽しんでいた可能性だってあるだろう」

「なるほど、犯罪者に触れている方ならではの意見です。では今回はそれを採用しましょう。その秘書を刺した犯人は、秘書が必死で手拭いで血を止めようとしながら無残に死んでいく様を見ていた、と」


 お姉さんは平然と口にしているが、言葉にされてみると確かに良い気持ちのしない場面だった。

 やはり僕のホームズは一般的な倫理観とは無縁らしい。


「では続けます。秘書が息絶えたことを確認した犯人は流れ出た秘書の血で文字を書いた。当然素手ではなく、手袋やハンカチを用いてでしょう。さて、文字を書き終えた犯人は何を思ったのか、密室を作ろうと考えます。この理由はまあ、『犯人はミステリファンだった』という感じで良いでしょう」

「良いわけないだろう」


 そんな適当な理由で行動する犯人がいたらとんだナンセンスミステリだ。


「ともかくです。犯人は密室を作ることにした。そして犯人は一旦外に出て、雪を探します」

「……雪?」

「はい。その秘書の方の実家は北陸の山奥なんでしょう? 今は一月ですし雪くらい積もっているはずです。その日は降らなかったとしても、きっと道路脇なんかに雪掻きで集められた雪の山があるでしょう。その雪を持って室内へと戻り、心張り棒を玄関扉の溝に立て、それを雪で固定します。最後に室内の暖房を点けて、外に出る。これで終わりです。一時間もすれば雪は全て解け、支えを失った心張り棒は倒れて扉が固定されます。密室の出来上がりです」


 なるほど……。

 古びた一軒家ということと北陸の山奥という地理を利用した密室トリックか。

 なんだか本格ミステリみたいだ。

 感心する僕を後目にお姉さんは言った。


「と、ここまでがその秘書さんが考えさせたかったことです」

「……え? 今のが真相じゃないの?」

「違いますよ。私が想像する真実はもう少し複雑です」


 そう笑って彼女は続けた。


「私が想像する限りでは、その秘書は『一見不可思議に見えて、でもよくよく考えれば人間の仕業だと分かる殺人』を演出したかったんだと思います。だからあえて、すぐに解けそうな密室を作った。……実際に起こったことはもっと単純でしょう。その秘書は自らの脇腹を刺し、心張り棒で扉を固定し、流れ出た血と手拭いを用いてメッセージを書き、さも誰かに殺されたかのようにして死んだ。以上です」

「以上って、お姉さん……」

「ちなみに刺し傷があった場所が左脇腹だったのは、右利きの人間が思い切り自分の腹部に刃物を刺すと、自然とその辺りになるだけです。手拭いは血文字を書くだけではなく、凶器に指紋を残さない為にも用いたでしょうね」

「いやそうじゃなくって。ていうか凄いね、お姉さん」


 その推理だけでお姉さんのワトソンとしてはお腹一杯なんだけど、そうじゃなくって。

 もっと重要な問題がまだ残っている。

 僕が疑問を口に出す前に、椥辻刑事が言った。


「……御陵。ありえるのか? そんなことが」

「ありえない発想だからこそ、普通は思い浮かばず、それ故に効果的でしょう?」


 何かを理解したらしい彼女に僕のホームズはそう答えてから、僕に対して言った。


「その秘書が何故、殺人に見せ掛けて自殺を図ったか。簡単です。『目に見えない復讐者の存在を信じさせるため』ですよ」


 密室殺人はただの自殺だった。

 他殺に見せ掛けた自殺だった。

 その動機は、「目に見えない復讐者を信じさせるため」――?


「眼帯君。よく思い出してください。エメスがこの話を始めた時、最初になんと言ったのかを」

「えっと……。僕の恩人が頭を悩ませてる呪いについて、とかなんとかだったっけ?」

「そこではありません」


 お姉さんは言った。


「『呪いに掛かったのは石垣というある会社の社長だ。』――そうエメスは言ったんです。死んだ秘書のことなんて一言も口にしていなかった。呪いに掛かったのは、石垣という社長ただ一人。それが真実です。それを踏まえて語られた内容を再考してみてください。それとも、結論を先に述べましょうか? 一連の出来事は、その秘書が行ったことです」

「え? でも、その秘書の人って実際にコートの男に襲われたんじゃ……!」

「『コートの男に襲われた』とその秘書が申告しただけで、実際にどうであったかは分かりません。先程も述べたように、右利きの人間が自分の身体を刺せば傷は左半身にできます」

「でも、でもさお姉さん! 社長さんと一緒にいる時にもコートの男に尾行されたって言ってたじゃん!」

「それも秘書が尾行されていることに気付き、タクシーを捕まえて逃げただけです。実際に背後にコートの男がいたのかは分かりませんし、いたとしてもそれが犯人だとは限りません」


 ただの自己申告です、と纏める。

 じゃあ。

 会社の周りに現れたのは。


「会社の周りを徘徊してたコートの男は、その秘書さんがコートを着て彷徨いてただけ、ってこと……?」

「その通りです。よく考えてみれば分かります。秘書と、復讐鬼と思われる怪しいコートの男。この二人の登場人物が同時に目撃された場面は一度もありませんし、実際にコートの男と出逢ったのは秘書だけです」


 ……僕は、エメスさんの言葉を思い出してみる。

 「翌日、会社に出勤してきた石垣の秘書は左腕を吊っていた。『昨日の夜、コートの男に襲われた』という。」。

 「その秘書が言うには、夜中にコンビニへ行った帰りに、待ち伏せしていたコートの男にいきなり襲われ、命からがらなんとか逃げた――ということだった。」。


 伝聞調。

 エメスさんは「その秘書はこう言っていた」と語っていただけで、実際にどうだったかは述べていなかった。


「オフィスの中の物の位置が変わったり、無くなったりしている。普通に考えれば毎日出入りしている近しい人間が犯人に決まっているじゃないですか」


 僕のホームズが口にした紫竹エメスの評価が続けて思い出された。

 「少なくとも頭は悪くありません」と、アルマお姉さんはそう言っていたはずだ。


 そしてその時既にお姉さんは鶴を折っていなかった。

 あの時点で彼女は真相を見抜き、友人が真相を見抜いていることをも見抜いていたのだろう。


「……御陵。つまり、お前はこういうつもりなんだな? 一連の事件は石垣の秘書が石垣を恐怖させる為に仕掛けた自作自演だった、と」

「少なくとも私はそう想像します。さて椥辻刑事に問題です。日常を過ごしながら人間に正気を失わせる簡単な方法はなんでしょう?」

「なるほどな。ガスライティングか」

「話し甲斐がない人ですね、先にそれを言いますか」


 溜息を吐くお姉さんにワトソンとして僕は訊く。


「お姉さん、『ガスライティング』って?」

「やはり謎解きを進める上ではワトソン役が欠かせませんねぇ。では眼帯君の為に説明しましょう。『ガスライティング』は心理的虐待の一つです。部屋の物を動かすことから始まり、小芝居を打ったりして、相手の認識を狂わせていくことです。……ところで眼帯君、好きな食べ物はなんですか?」

「え? うーん、シュークリーム、かな……?」

「え、本当ですか? 前に訊いた時は煎餅と答えていましたよ?」

「え、そうだっけ?」

「嘘だけど」


 そうして一度ウインクをしてみせてから、僕のホームズは言った。


「今一瞬、自分を疑ったでしょう? こういったことを親しい相手に継続的にやられると人間は正気を失ってしまうそうです。自分の認識と他人の発言が食い違い続けると、自分自身の意識それ自体を疑うようになる。この手法を上手く用いれば他人を自殺にまで追い込むことができるらしいですよ」

「えっと……。つまり秘書の人はその方法を使って、社長さんを追い詰めてたってこと?」

「そうでしょうね。表沙汰になっていないだけでもっと細かな嫌がらせを沢山行っていたのだと思います」

「その結果、幻聴が聞こえるくらいにまでノイローゼになっちゃった……?」

「恐らくその幻聴はノイローゼが原因ではなく、ガスライティングの仕込みの一つです。幻聴なんて覚醒剤でも炙って嗅がせればすぐに聞こえるようになりますから。仮にそれで『壁の向こうから聞こえててくる声がうるさい』と石垣が言えば、『壁の向こうには何もありません』と否定して更に認識を狂わせる。他の社員は脅迫状で参っているように見えたかもしれませんが、実際にはガスライティングによって現実感を狂わされていたんです」


 それこそが『呪い』の正体だった。

 呪いに掛かったのは、石垣という社長ただ一人。

 全ては石垣を陥れる為に秘書が仕組んだことだった。


「さて、では私の推理を纏めましょう。一連の事件は石垣という社長の秘書が仕組んだことだった。脅迫状に始まり、様々な手段を用いて石垣に正気を失わせ、コート姿の復讐者の存在を印象付けたところで、自分が襲われたように見せ掛けて死ぬ。その目的は、絶対に捕まえられない架空の復讐者の存在を生み出し、それを意識させることで、石垣を恐怖させ衰弱させていくこと――じゃないでしょうか。自ら死を選ぶことが救いに思えるほどに、嬲り殺しにする。それが目的です」


 ありえない発想。

 それが僕の抱いた正直な感想だった。

 架空の怪人を生み出す為に殺人に見せ掛けて死ぬなんて、普通の発想じゃありえない。


 そしてお姉さんが言ったように、普通じゃありえないからこそ効果的なのだ。


「動機は復讐か」

「そうでしょうね。聞く限りでは、その石垣という社長は多くの人間に恨まれていたそうですから。ひょっとしたらその秘書、石垣が破滅させた人間の息子か何かだったんじゃないですか?」


 お姉さんは笑い、それで全ては終わりだった。

 見えない復讐者など何処にもいなかった。

 所詮密室殺人は推理小説の中のものだった。

 一見不可思議なことでも理屈は単純だったりするものなのだ。


 これも、そう。

 きっとこの事件は、あるところに性悪な社長がいて、その社長にある人が文字通り命を懸けて復讐したという――ただそれだけの、ありふれた話なのだろう。







 後日談。


 後から警察が調べたところによると、やはり石垣の秘書はかつて石垣に破滅させられた人間の息子だったそうだ。

 そんな人間が近くにいて気が付かなかったのは間抜けとしか言えないけれど、でも仕方ないのかもしれない。

 そう、「客の顔を一人ひとり正確に覚えるコンビニ店員はいない」のだから。


 また皮肉なことに、お姉さんが真相を語っていたまさにその時間帯に、その石垣という社長は事故死していたらしい。

 信号待ちをしている際に聞こえた背後の物音に驚き、思わず路上に飛び出してしまい、トラックに轢かれたということだった。

 その知らせを聞いて、推理小説でもあまり見掛けない誘導殺人の成立ですね、と僕のホームズが愉しげに笑っていたことが印象的だった。


「……ところでさ、お姉さん」

「なんですか?」

「どうしてすぐに秘書の自作自演だって気が付いたの?」


 『呪い』の話が終わってから、数日後。

 そんな風に僕はお姉さんに問い掛けた。

 彼女は小さく笑って言った。


「ホームズの『最後の事件』がどんな話だったか覚えていますか?」

「あの、最後にライヘンバッハの滝から落ちるやつ?」

「それです」


 お姉さんが話題にしているのは『シャーロック・ホームズの思い出』に収録されている『最後の事件』だ。

 かの有名なモリアーティ教授とホームズが対決する話で、最終的にホームズは崖の上で教授と対決し、ライヘンバッハの滝に落ちて悲劇的な終わりを迎える。

 一旦この話でホームズシリーズは終わりになったので一応の最終回と言える。


「その『最後の事件』に関する有名な考察の一つに、『ジェームズ・モリアーティなる人物は存在しなかったのではないか』というものがあるんです」

「存在しなかった? って、いたじゃん。いや、小説の登場人物だから現実にはいないと思うけど、でも小説の中にはいたじゃん」

「短編の中で語られるモリアーティ教授は常にホームズの伝聞です。『こういうとても頭の良い悪党がいて、私は今その悪党と戦っているんだよ、ワトソン君』――といった風に」

「でも、でもさお姉さん。例えばほら、列車のシーンとかではワトソン博士もモリアーティ教授を見てるでしょ?」

「あの場面は、混雑する駅の中で人混みを掻き分けてくる長身の男を指し示しながらホームズが『あそこにモリアーティが!!』と叫んでいるだけで、実際にその人がジェームズ・モリアーティかどうかは分かりません。途中、ワトソン博士がモリアーティ教授とすれ違うシーンもありますが、それだってホームズから聞いた人物像と近い人とすれ違っただけで、ジェームズ・モリアーティその人なのかどうかは分かりません。ライヘンバッハの滝の上には『二人分の足跡があった』と描写されていますが、失礼を承知で指摘すると、他の短編を読む限りワトソン博士には足跡を分析する能力はないと思います。よくあるミステリのネタのように、後ろ向きに歩いて足跡を付けたのかもしれませんよ?」


 言われてみれば、お姉さんの言う通りだった。

 語り手であるワトソン博士は一度もモリアーティ教授に会っていない。

 だとしたら、存在しない可能性だってあるだろう。

 面白いことを考える人達もいるものだ。


「後の話ではマクドナルド警部がモリアーティ教授に対面しているので、やはり実在したのだと思いますけどね。ですが、面白い考察ではあるでしょう? この考察をベースに作られたパスティーシュ映画があるくらいですから」

「ふーん……。ところでさ、お姉さん。もう一つ疑問なんだけど」


 微笑む僕のホームズにワトソン役である僕は訊いた。


「あの日、椥辻刑事の前で謎解きをした時さ。お姉さん、変な問い掛けをしたり話を逸したりして、勿体ぶった話し方をしていたけど……もしかして、待ってたんじゃないの?」

「何をですか?」


 そう言ってとぼける僕のホームズは笑っている。

 あの日と同じように、あの口端を歪める笑みを浮かべている。

 決して善人は見せないような、妖しい表情をしている。

 僕は言った。


「お姉さん、待ってたんでしょ? その、誘導殺人が成立するのを」

「…………」

「そう思うのは、僕の勘違い?」


 ……エメスさんが引用していたように、かつてのハードボイルド小説にはこうある。

 「強くなければ生きていけないが、優しくなければ生きている資格がない」。

 加えて椥辻刑事に投げ掛けた問いを踏まえると、御陵あるまは「石垣という人間は生きている資格がない」と考えていたように思えてならないのだ。


 僕の問いに、しばらくの間、お姉さんは答えなかった。

 やがて彼女は言った。


「……さて、どうでしょうね。ですが、こんな言葉がありますよ――『因果応報というものは、あまり信じられていない。この世界は怠け者だからな。だが、たまにいい仕事をする』」


 そんな風に何かの小説から引用してから、更に僕のホームズは続けた。


「『駄目だ、議論の余地はないよレストレード。僕は被害者よりも犯罪者に共感する。だから僕はこの事件は扱わないよ』――なんて」


 今度は何処からの引用か僕にも分かった。

 原作ホームズの『犯人は二人』、もしくは『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』などと訳される短編の終盤の台詞だ。


 短編の内容を思えばお姉さんの答えは明らかだった。

 生きている人間を救えるのは生きている人間だけ。

 そして死んだ人間の無念を晴らせるのも生きている人間だけ。


 その認識は今も変わらないけれど、でも仮に『呪い』なんてものがあるとすれば――それは命の燃やし尽くすような憎悪が根底にあるのだと、今の僕は思っている。


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