第18話 固茹で卵には早過ぎる 回答編



「……さて、鞍馬さん。あなたの息子さんのことですがね。結論を述べておくと、あなたの息子さんは発達障害の類ではありません」

「でも先生、」

「ああ、分かってますよ。ええっと……。『急に泣き出すなど、情緒不安定な部分がある』ということでしたよね。確かにある種の障害では情緒不安定さが特徴として挙げられますが、あなたの息子さんの場合はそういうことではありません。かなり近いですが、異なります」

「はあ……」

「例えば自閉症ですが、アレのよく言われる特徴は対人相互関係における障害――つまり、コミュニケーションが上手くいかないことです。他者の感情やその場の空気を読み取ることが難しい。だから、人と上手くいかないことが多い。……で、あなたの息子さんですが、真逆です」

「真逆、ですか?」

「つまり、他者の内面を察し過ぎるんです。心の理論やミラーニューロンについてはご存知……ご存知ない? ああ、聞いたことがあるだけならば構いません。そうですねえ……。私達は今、言葉を用いてコミュニケーションをしています。ですが、表情や身振り手振りといった非言語的コミュニケーションも同時に使用している。私達が言う『空気を読む』とは、つまるところ、相手の言語に依らないシグナル――声音がどうとか、眉間に皺が寄ってるとか、そういうのですよ――を上手く読み取ることができるか、という話なんです」

「……それを輪廻は私達よりも上手く読み取ることができる?」

「その通りです。あなたの息子さんは感受性が非常に豊かなんだと思います。他人の感情を読み取るアンテナが人並み外れて優れている。洞察力や観察力、と言えば良いんでしょうかね。だとしたら、情緒不安定なのも分かるでしょう? あなたを始めとした周囲の人間が分からなかっただけで、息子さんはきっと、誰か悲しみや苦しみの感情を読み取って泣いたんです。常人には決して分からない、強烈な感受性……。息子さんが普通の子どもと違うとすれば原因はそれですね」

「…………あの、」

「ああ、鞍馬さん。口に出さずとも分かりますよ。心配なんですよね、息子さんのことが。……過ぎたるは及ばざるが如し、ではないですがね、人間は中庸が一番なんですよ。先ほど場の空気の話をしましたが、これが上手く読み取れないのも困りますが、読み取れ過ぎるのもまた大変なんです。分かります? 誰よりも他人の気持ちが分かるということは、誰よりも他人に気を遣うということとほぼイコールですから。もっと極端な例で言えば、例えば息子さんが虐待された子どもに触れた場合、常人よりも深く相手に共感し、結果として酷く苦しむと思います。優しい大人になれるでしょうが、本人にとっては辛い人生になるかもしれませんね。まあ、才能なんてそんなものです」

「……私達はどうすれば良いんでしょうか」

「なに、普通の子育てと変わりません。泣いてる時には頭を撫でて、どうしたの?と訊ね、答えられない時は抱き締めてあげてください。先に述べたように感受性に優れたお子さんなので、両親が本気で心配していたらすぐに分かるはずですから。でも、一つだけ。決して余計な嘘は吐かないでください」

「嘘……?」

「はい。あなたの息子さんの場合、相当上手い嘘でなければすぐに見抜くでしょうから。告げられた言葉と読み取った本心が異なる場合、息子さんは違和感を覚え、その相手に対して苦手意識を抱きます。あとは悪感情でしょうかね。そういうものも敏感に読み取るはずです。まあ、気を付けるべきことなんてそれくらいでしょう。他にしいて言うことがあるとすれば辛さや苦しさと抱えた人間を相手にする職業には就かない方が良いですね。他人の痛みが分かる才能があるとしても、それが自分の幸福に繋がるとは限りませんからね―――」







 鳴滝さんはすぐにやってきた。

 恐らく今日も火事の取材をしていたのだろう。

 貰った名刺に記されていた会社名と彼女の名前を検索エンジンに打ち込んでみると、ゴシップ誌のサイトが引っ掛かった。

 人気アイドルの素顔やら野球選手の不倫騒動やら、ありがちな見出しが踊る下方には「毎週木曜発売」という文字があった。

 昨日彼女が暇そうだったのは今週号分の原稿を上げたところだったからだろう。


 つまり、今取材しているのは来週用――続報の記事の分か。

 彼女がやってきたのは僕がそんなことを考えている時だった。


「やあ、昨日ぶり」

「すみません、わざわざ」

「いいよ、気にしないで」


 それで?と鳴滝さんはニヤリと笑った。


「単に会いたいから呼び出したー、ってわけじゃないんでしょう? 用事は何なの?」

「はい。いくつかお訊ねしたいことがあるんです」

「なに?」

「被害者の人となりについて教えていただけないでしょうか?」


 鳴滝さんは僕の言葉の意味を掴みかねているようだった。

 いや、というよりも、僕の真意か。

 単に野次馬的に気になっているだけなら昨日出会った段階で訊ねればいい。

 わざわざ呼び出してまで訊くということは何か理由があるに違いない。

 そうせざるを得ない理由が。

 大きな瞳から、彼女のそんな思考が読み取れた。


「……一言で言えば、駄目な奴、かな」


 店主にコーヒーを二杯頼んでから、声量を抑えて鳴滝さんは話し始めた。


「恋人の家に上がり込んで、働かず小遣いをせびり、毎日パチンコに行くか酔っ払って寝ているか……。そういう、何処にでもいそうな駄目な奴。上機嫌な時は優しいけれど、不機嫌な時は女子供でも平気で殴るようなね。駄目男の典型みたいでしょ?」

「……そうですね」


 その、名前の知らない相手がどんな人生を歩んできたかは知らないが、子どもに平気で暴力を振るうような人間は大人として失格だ。

 僕はそう思う。


「奥さんとは恋人関係だったんですか?」

「んー、どうだろうね。その辺りは微妙なところかな。本人に取材できてないからなんとも言えないけれど、でも、普通母子世帯に男が出入りしてたらそういう関係かな?って思うでしょ?」

「一般的な感覚ではそうですね」

「うちにはそんな奴を家に出入りさせる感覚が理解できないけど」

「きっと、色々あるんでしょうね」


 鳴滝さんが理解できない感覚を説明できそうな理屈が頭にいくつか思い浮かぶ。

 ただ、それを僕が語ったところで何にもならないのだ。

 事件はもう起こってしまったのだから。


 ……尤も起こる前だとしても、部外者の僕には何もできなかったのだろうけれど。


「持病などはあったんですか?」

「うちが知る限りはないかな。鼻炎持ちだったらしいから、精々そういった市販の薬を飲んでただけ。だからこそ、睡眠薬で眠っていたのが変なんだけど」


 そうして運ばれてきたコーヒーを指差し、鳴滝さんは笑った。


「今日はうちの奢りにしとくわ」

「いえ、そんな……」

「遠慮せんと。君のことが気に入っただけだから。それより、次の質問は?」


 大きな目は好奇心という光に満ちていた。

 異性や友人としてではなく、きっと観察対象として、彼女は僕のことを「気に入った」のだろう。

 それならばそれで好都合。

 ありがたく質問させていただくことにしよう。


「じゃあ、広沢今日子さんについて教えてください。まずは年齢から」

「……ふふ。君って、新聞やニュース見ないの? それとも物覚えが悪いだけ?」


 笑われてしまった。

 きっと僕が知らないだけで連日報道されていることだったのだろう。


 まあ、そりゃそうか。

 火事被害者の名前と年齢くらいはニュースにも流れるから、そこそこ新聞やテレビを見る人間ならば知っているものなのだろう。


 僕は言った。


「新聞はスポーツ面と政治面しか読みません。ニュース番組もプロ野球のものしか……」

「へえ、そうなんだ。何処ファン? ……という話は置いておいて、今日子ちゃんの話だったね。今日子ちゃんは十一才の小学五年生。妹の未来ちゃんは小三で、二人共近所の公立小学校に通ってる。この辺りの地理なら君の方が詳しいかな?」


 二人が通う小学校についての知識はあった。

 何の変哲もない、普通の学校だったはずだ。


「学童保育に行っていたはずですが、取材には行かれました?」

「勿論。口の軽い職員がいたから色んな話が聞けたよー。今日子ちゃんは大人しいけどとっても頭が良いとか、未来ちゃんは人見知りが激しいとか……身体に痣があるのを見たことがあるとか」

「それで、『子どもにも暴力を振るう』ですか」

「そう。本人達は転んだって言い張ってたらしいけどね」


 ミルクを入れたコーヒーを掻き混ぜながら、鳴滝さんはクスクスと笑みを漏らした。

 何が可笑しいのか、僕には分からなかった。


「最後に、奥さんのことなんですが」


 一つ溜息を吐いてから、訊く。


「どんなお仕事をされているんですか?」

「どんなって、普通のパート。スーパーでレジ打ってる。それと前の夫の遺族年金で慎ましく暮らしていたらしいよ」

「昼間のですか?」

「そりゃそうよ、夜は家事があるからね。……それがどうかした?」

「いえ、ありがとうございました」


 予想通りの回答だった。

 何もかもが、僕の考えた通りで。


 込み上げてくる感情を誤魔化す為にコーヒーを口へと運ぶ。

 一口飲んだところで、砂糖とミルクを入れ忘れていたことに気が付いた。

 強烈な苦さが舌を刺激する。

 相変わらず苦いだけのその味に自分がまだ子どもであると再確認した。


「……ありがとうございました、鳴滝さん。お礼はいつか、必ず」


 それだけ告げて席を立つ。

 どうやら僕はまだ、タフで優しい大人にはなれそうにない。

 潤んだ瞳を隠す為に目を伏せて、背中に聞こえる制止の声に答えぬまま、足早に店を出た。







「……もしもし、叔父さん? ごめんなさい、何度も。申し訳ないついでにまたお願いがあるんです」


 空を見上げる。

 今日も抜けるような秋晴れだ。

 神様は何処にいるのだろう、なんて、会話を続けながら考える。


「あの広沢家の火災についてなんだけど、広沢今日子さんに会ってみたいんです。……うん、うん……。無茶なお願いだっていうのは分かってる。話を聞くとかじゃなく、一言二言言葉を交わすだけでいいから。お願いします」


 頭に浮かぶのはこの一節。

 「神は天にいまし、全て世はこともなし(God's in his heaven. All's right with the world)」。

 神様はきっと何もかもお見通しで、この世の中の全てのことは神様の深い摂理の中にある。


 ……僕は、そんな風には思えない。

 もしもそうだとしたら、神様というのはどんなに残酷な存在なのだろう。


「…………そう、どうしても。どうしても、お願いします」


 何も変わらない世界は神様が人間に科した罰なのか。

 それとも試練なのか。

 僕には分からなかった。


「……ありがとう」


 分からないままに、僕は生きていく。

 分からないのだから、自分が信じた道を。

 連絡を取るべき相手はあと二人。

 終わりは近い。







 土曜日も嫌になるくらいの晴れの日だった。

 夕刻、人気のない構内に入った僕は慣れ親しんだ建物へと向かう。


 西門すぐの学部棟。

 正面の扉を開け、目の前の階段を上って行き、四階へ。

 そこから奥へと進んで、突き当りを曲がって右に。


 非常階段脇の小教室の扉をノックして部屋に入ると、中には既に彼女がいた。


「おはようございます……って、もう夕方ですね」


 平野マイ。

 今日も変わらず彼女は笑みを浮かべている。


「早いね、平野さん。まだ待ち合わせの十分前だけど」

「いえ、今来たところですから」

「それにごめんね、休日にこんなところに呼び出しちゃって」

「今日は予定もなかったので大丈夫ですよ」


 そんな風に一頻り世間話をした後で彼女は言った。


「ところで、先輩。用件はなんですか?」

「用件、か……」


 笑顔の後輩を前にして、僕はしばし考える。

 僕は名探偵なんかじゃないから、格好の良い決め台詞は持っていない。

 タフで優しい大人でもないから、気の利いた言葉も出てきはしない。


 僕は、僕で。

 だから変に考えることなく、思ったままのことを言おう。


「……平野さん」

「はい」

「僕は、君には謝らないといけないことがあると思っている。相手は僕じゃないけれど、多分君は謝るべきだ」


 彼女は。

 何のことか分からないという風に首を傾げた。


「言葉の意味が分からないんですが……」

「分からないならいいんだ、それで。なら、一つ一つ確認していこう」


 僕は言った。


「あの猫の飼い主であるおばあちゃん――えっと、谷口さんだっけ? その方の家の近所で起こった火事については知ってるよね」

「はい。それは、まあ……。最近よくニュースで見ますし」

「火事が起こった家。誰が住んでるか、知ってる?」

「それは知りませんけど……」


 ざらり、と。

 その瞬間、嫌な感覚が全身を襲う。


「早速嘘を吐いたね、平野さん」


 目が泳いだ。

 身体がこちらを向いていない。

 口元に手を当てる。


 ……ここまであからさまだと理性で判断ができる。

 平野マイは、嘘を吐いている。


「君はあの火事になった家のことを知っている」

「何を言ってるんですか、先輩」

「……まず、連日報道されているんだから苗字くらいは誰でも知っている」


 少なくとも京都ではここ数日そのニュースがトップだった。

 被害者の名前くらいならば覚えていてもおかしくない。


「次に、近所の家にヘルパーに入っているなら、世間話で聞いていてもおかしくない。というか、家から悲鳴が聞こえてくることがあっておばあちゃんが心配してるって、前に言ってたよね? それで名前すら分からないのはおかしいと思う」

「……それは!」

「何より、」


 彼女の言葉を遮り、僕は続けた。


「何より君はあの家の長女、広沢今日子さん、次女の広沢未来さんと知り合いだ。近所の公立小学校に通う二人は学童保育に行っている。君が所属するサークルで手伝いをしている学童保育にだ。しかも、手伝いの大学生の中で今日子さんと一番仲が良いのは君だ。知らないなんてことはありえない」


 だとしたら。

 だとしたら、知らないなんてことがあるはずがない。

 昨日、彼女は「あのなんとかさんの家の火事についてはおばあちゃんも心を痛めていて、」と世間話的に話していたが、まずその言い方がおかしい。

 さも知らない家のように語っていたが、知らないことなんてあるはずがないのだから。


「それは……それは、たまたま、思い出せなくて……」

「そういうなら、それでいい。次の質問にいこう」


 僕は言う。


「ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤。……聞き覚えはある?」

「……その火事の被害者の人が飲んでた薬、ですか?」

「違う」

「何が違うんですか?」

「まず、『広沢家半焼事件の被害者が睡眠薬を飲んでいた』という事実はまだ報道されていない」

「!!」


 まだ火災調査中であるためにそういった細かなことはニュースになっていない。

 僕は府警に務める叔父さんから聞いた。

 鳴滝さんは顔馴染みの刑事さんに聞いた。

 じゃあ、彼女は何処で聞いたのだろう?


「それは単に、話の流れからそうかなって……!」


 声音が震えていた。

 怖がっている。

 恐れている。

 彼女の感情が声を通して伝わってくる。

 それを堪えて、なおも僕は言う。


「君がヘルパーとしてお手伝いに行っている別の家で、ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤の紛失事件が起こったよね」

「それは確かにありましたけど、でも錠剤を失くしてしまうなんてこと、よくあることですし、事件と言うほどじゃ……」

「だから思い出せなかった?」

「はい」

「なら、それもそれでいいよ」


 一息吐いてから、話を再開する。

 握り締めた手が震えていることが分かった。

 彼女の手も、僕の手も。


「……広沢家火災の犠牲者である坂田さんはベンゾジアゼピン系睡眠導入剤を飲んでいたらしい。府警に務める叔父さんにも確認したからそれは間違いがない。でも、三つおかしなことがあるんだ。何か分かる?」


 小さな声で彼女は言った。

 分かりません、と。

 そうか、分からないのか。

 なら説明しよう。


「不自然な点の一つ目はその坂田さんに精神科などの通院歴がなかったこと。ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤が要指示薬であることは知っているよね」


 要指示薬。

 または、処方箋医薬品。

 処方箋なしで購入できる一般医薬品と異なり、一部の向精神薬等の医師の指示なく服用すると危険性がある医薬品は『処方箋医薬品』として、処方箋がなければ買えないようになっている。

 ベンゾジアゼピン系睡眠導入剤もこれに該当する。

 一般的に処方されるのは高度な不眠症の患者に対してだ。


「でも今時はそういう薬でもネットで買えて、それが社会問題になってるくらいですし……」

「そうだね。だから、その線で警察も捜査しているらしい。不自然な点の二つ目はアルコール反応も共に検出されたことなんだけど、非合法なルートで得たのならば分からなくもない。普通、睡眠薬を飲む前後はアルコールを飲まないように指導されるから」


 睡眠薬とアルコールを同時に飲んでしまうと昏睡や記憶喪失といった副作用が見られることがある。

 これはどちらもが脳の活動を抑える効果を持つからだ。

 睡眠薬の効果が強められる、と言っても良いかもしれない。

 重大な事故に繋がる危険性があるため、睡眠薬とアルコールの併用は禁じられている。

 だが不自然な点の三つ目はそれ以前の問題だった。


「最近はそういった薬もメジャーになってきたしネットで違法に入手して飲んでいてもおかしくない。けどね、平野さん。被害者は無職なんだよ。眠れなかったとして、さして困らないと思わない? 仮に困ったとしたら、時間はあるんだから病院に行けばいいと思わない?」


 そう。

 そこが僕が最初に不自然に思ったところだった。

 不眠症に苦しむ人間は「次の日は仕事があるのに眠れない」「病院に通院する時間もない」ということがほとんどだ。

 今回の被害者は、どちらでもない。


「……先輩は、」


 平野マイは口を開く。

 真っ直ぐに、僕を見て。


「先輩はその犠牲者の人は誰かに殺されたと思ってるんですか?」

「そうだよ」

「どうやってですか? 火事の原因は煙草の不始末――これはもう、ニュースでもやってることですよね?」

「……そうだね」


 僕は言う。


「まず確認しておくけど、火事が起きた場合には警察がその原因を調査している。『火災調査』と言うんだけどね。火災現場を調べて、どの発火場所と発火原因を特定するんだけど、これは通常の捜査と同じく『どの可能性が最も高いか』という考え方をしているらしい」

「どの可能性が……?」

「そう。『近くに発火性のものがない。不自然にガソリンが検出された。これは放火じゃないか』みたいにね。今回の場合なら、発火場所が二階の西向きの一室、煙草の灰皿の近くだと考えられている。事件が起こったのは日中で、母親はパート、子どもは学校に行っており、家の中には被害者が一人きり。周囲に人影はなく、発火場所が二階で窓も閉まっていたのだから放火ということもないだろう。以上のことから、『煙草の不始末ではないか』と推定されている」

「……おかしいところなんてないじゃないですか」


 彼女の言う通り、おかしなところはない。

 ただの事故とも考えられる。

 だが。


「平野さん。もう一度言うけれど、さっき言ったことは推定だ。現状に残った物品を踏まえた上で不自然ではない可能性を考えて、その結果が『煙草の不始末が原因』という結論。……でも逆に言えば、その前提をクリアできるなら、殺人もありえると思わない?」


 発火場所は二階。

 西向きの一室。

 煙草の灰皿の近く。

 部屋の窓は閉まっていた。

 事件が起こったのは日中だった。

 その時間、母親はパート、子ども達は学校に行っていた。

 被害者は一人きりで眠っていた。

 周辺の道には人影はなかった。


 ……この前提を踏まえた上で導き出せる結論は「煙草の不始末が原因」以外に、もう一つある。


「ねえ、平野さん。君に依頼されて、僕が探してたあの猫だけどさ……その広沢家のベランダにいることが多かったんだって」

「……え?」

「でも、図書館で猫について調べていて初めて知ったんだけど、猫って煙草――というか、煙全般が苦手らしいんだよ」


 猫は煙を苦手としており、また煙草の誤飲の可能性もあるため、喫煙者が猫を飼う際は配慮が必要とされるらしい。


「だから猫って煙草吸っている人の近くには寄り付かなかったりするんだよね。僕も煙草吸うから分かるけど、いくら窓を閉め切っていたとしても、部屋の中で煙草を吸っている人がいたら外に多少臭いが漏れるでしょ? 広沢家のベランダも煙草臭かったと思う。だったら、なんで猫はそこにいたんだと思う?」

「いくら猫が苦手といったって、個体差があるじゃないですか」

「そうだね。僕のその府警の叔父さんの猫は煙草の煙も全然平気らしいし、個体差はあるだろう。じゃあ、あの猫が煙が平気だったとして、どうして広沢家のベランダにいたと思う? どうしてあのベランダを気に入っていたと思う?」

「どうしてって……」


 彼女の答えを待たず、僕は言った。


「『広沢家のベランダが、近隣で一番日当たりの良い場所だったから』――じゃないかな?」


 猫というのは不思議な生き物で、その習性には謎もあるけれど、一つだけ断言できることがある。

 それは「猫は暖かい場所が好き」ということだ。

 飼い主がパソコンを操作している時に猫はキーボードの上に乗ったりする。

 別に、邪魔をしようとしているわけじゃないのだ。

 単にパソコンが起動しているとCPUが加熱して温かくなっているから、猫にとっては心地良いだけだ。

 車のボンネットに猫が乗っていることが多いのも同じこと。

 走り終えたばかりのエンジンは高温で、その熱がボンネットに伝わって温かくなっているのだ。


「秋から冬にかけては時にそうなんだよ。猫は、基本的に暖かな場所を好む。毎日のように広沢家のベランダを訪れていたのは日当たりが良かったからじゃないかな、と僕は考えている」


 だとしたら。

 だとしたら、だ。

 先に挙げた前提に「広沢家のベランダは日当たりが良かった」ということを足せば、別の結論が見えてくる。


「平野さん。『収斂火災』って知ってるかな?」

「!!」

「……いや、もう答えなくてもいいよ。君は間違いなく知っている」


 ―――収斂火災。

 レンズなどに光が反射屈折して、一点に集まることによって引き起こされる火災のことだ。


 原理としては、虫眼鏡で太陽光を集めて紙を焼く理科実験と全く同じ。

 現実にも年間数件は発生しており、推理小説ならばメルヴィル・D・ポーストが書いた短編の中でもこの理屈を使ったトリックが出てきている。


「収斂火災が起こるのは強い日差しが降り注ぐ夏場から、乾燥している秋にかけて。ほとんどは何かがレンズ代わりとなって太陽光を集め、それが新聞紙やスプレー缶を発火させることから起こる」


 太陽は常に東から昇り、西に沈む。

 日当たりの良い場所は変わらない。

 ならば入射角度を測定し、収斂部に燃えやすい物を置いておけば――自動的に火災を起こすことだってできるだろう。


「叔父さんの話だと、現場に不審な物は残されていなかったらしい。だとしたらレンズの役目を果たしたのはなんだろう? 子どもが持っていそうな虫眼鏡? お母さんの老眼鏡? それとも猫除けのペットボトル? ……顔色が変わったね、平野さん。君が使ったのは水の入った円形のペットボトルだ。なるほど、ペットボトルならベランダに置いていてもおかしくないし、火災が起これば燃えてなくなってしまう」

「先輩、違うんです! これは……!」

「違わないよ。もう何も言わなくていい」


 もう何も、言う必要はない。

 君のその態度が何よりの証拠なのだから。


「平野さん、もういいだろう? 僕が何を言いたいか、分かっただろう?」


 この社会にはあまりにも悲劇が多く。

 きっと今日も明日も世界は変わらず。

 今日も太陽は素知らぬ顔で昇って沈む。

 だとしたら、この事件は誰の罪なのだろう?


「……平野さん。君が、犯人だ。仕事先から睡眠薬を盗み、広沢今日子さんに渡し、その上で収斂現象を利用した放火方法を伝えた――君が広沢家放火事件の犯人だ」


 きっと彼女の罪だけではない。

 実際にペットボトルを置いた少女の罪でもない。

 それだけは多分、確かなことだった。


 平野マイは。

 彼女は。

 その瞬間、その場に崩れ落ちた。

 両目からは涙が溢れ、「ああそう言えば彼女の笑顔以外の表情を初めて見たな」なんて、場違いにも俺はそんなことを考えた。

 もうあのざらりとした違和感はない。

 かわりに俺が感じるのはどろりと濁った感情。

 悲しみと、憎しみ。

 今の彼女には、その二つの感情がどうしようもなく似合っていて。

 少しも違和感はなくて。

 だから、すぐに分かった。

 その二つが笑顔の奥に押し込められていた彼女の本性なのだと。


「だって……仕方ないじゃ、ないですか……」


 きっと事情を知らない人間が見れば困惑しただろう。

 今ここにいる相手が、あの明るく優しい平野マイだとは誰も思えなかっただろう。


「毎日のように蹴られて、殴られて……。母親の恋人って……そんなの、子どもにとっては知ったことじゃないでしょ……! 近所の人だって分かってるくせに見て見ぬ振りで、学校の先生ですら面倒事が嫌だからって……。警察は民事不介入だとか言って、児相も社協もいつまで経っても動こうとしなくって……」


 だけど、俺には分かる。


「そんなこと言ってるうちに、明日、あの子達は死ぬかもしれないんですよ? ビール瓶か何かで殴られれば、人って死ぬんですよ? そうでないとしても、一生残る傷を負わされるかもしれないんです。法律がどうとか制度がどうとか言ってる場合じゃないと思いませんか? ねえ、先輩だって、そう思うでしょ……?」


 これが彼女の本性だった。

 これが彼女の本音だった。

 だって、今の彼女にはこんなにも、違和感がなくて―――。


「先輩だって、初めて会った時そう言ってたじゃないですか。『早く大人になりたい』『誰かを助けられる人になりたいんだ』って。私だっておんなじです。助けて、あげたかったんです……! 『いつか報われる』とか、そんな綺麗事を言うんじゃなくて、今すぐに助けてあげたかったんですよ!!」


 叫ぶように、彼女は言う。

 まるで許しを請うように涙を溜めた目で俺を見上げながら。

 祈るように、彼女は言う。


 ……ああ、そうだ。

 彼女の言う通りだと俺は思った。

 ガラスを隔てた一枚向こう。

 そこに悲劇があることは知っているのに、誰も助けようとはしない。

 苦しんでいる人を前にして、この社会の人間が言うことは「真面目に生きればいつか報われる」とか、そんな綺麗事ばかり。

 誰も手を差し伸べようともしなくて、傷付いた人間はいつまでも救われず、やがて忘れられていく。

 砂糖菓子の弾丸じゃ、何とも戦えないから。


「…………平野さん」


 だから。

 だから?


「先輩なら、分かってくれますよね? 分かってくれますよね……?」


 だから、どうしたと言うんだ。

 彼女の言うことの筋が通っていたとして、彼女が間違ったことをしたことに違いはない。

 法律がどうとか、殺人がどうとか、そういうことじゃない。

 彼女はもう、致命的に間違えている。


「君の気持ちは、分かる。子どもに対して暴力を振るう大人は最低だ。死んでも殺されても仕方ないとすら思うよ」

「だったら……!」

「でも二つだけ言わなくちゃいけないことがある」


 俺は。

 僕は?

 だから、言わないと。

 辛くても苦しくても。


 “俺”が――“僕”である為に。

 今の『鞍馬輪廻』という人間が――かつての鞍馬輪廻が望んだ、一人の『大人』である為に。


「平野さん。あそこにいるのは、君じゃない」

「……あ、え?」

「君の義理のお父さんは、もう死んだ。もういないんだよ。……もう苦しむ必要はないんだよ。もう、君を傷付ける人はいないから」


 平野マイは。

 僕の言葉の意味を掴みかねているようだった。

 それならばそれで、構わない。

 僕は続けた。


「君は多分、勘違いをしている。僕が謝って欲しいのは被害者にじゃない。子どもに暴力を振るう大人なんて、死んで当然なんだから」


 僕が、謝って欲しいのは。

 君が謝るべきなのは。


「……君が謝るべきなのはね、平野さん。広沢今日子さんに対してだ」

「…………なん、で……?」

「そうか、やっぱり分からないんだね」


 やはり、そうか。

 平野マイという人間が助けたかったのは理不尽な暴力に苦しむ少女――ではない。

 彼女が本当に助けたかったのは、その少女を通して見た過去の自分だったのだろう。

 そこが、彼女の最大の間違いだった。


「……今日の午前中、広沢今日子さんに会ってきた。彼女が今、どういう表情をしているか分かる? 何を思っているか分かる? あの子は自分が犯した罪の重さに苦しみ、それが露見するんじゃないかという恐怖に苛まれていた。平野さん。自分が何をしたか、分かってる?」

「私、は……」

「君は一人の少女に一生消えない傷を付けた」

「違う、私は……!」

「違わない。君は、一人の子どもの人生を犯罪を教唆するという形で歪めた。歪んだ場所から助けようとして、最悪な方向に更に歪めた」


 そして、僕は言った。


「君は――大人として最低なことをした。……平野マイ。僕は君のことを心底に軽蔑する。君は大人失格だ」


 子どもに理不尽な暴力を振るう大人が許せないのならば、その大人を自分で殺せば良かったのだ。

 わざわざ子どもに辛い思いをさせる必要はない。

 けれど彼女はそうしなかった。

 彼女は過去の自分が望んでいたことを目の前の少女にさせることで自分の過去を清算しようとしていただけだったからだ。


 結局、彼女は最初から、広沢今日子のことなんて見ちゃいなかった。

 ……他人なんて、救えるはずがなかったのだ。


 「…………だったら、どうすれば良かったんですか……!」


 背を向けた瞬間投げ掛けられた言葉に、一瞬僕は答えられなかった。

 じゃあ、どうすれば良かったのか?


 無責任だな、と自嘲する。

 僕は彼女を否定したけれど、彼女が納得できるような答えを持っていないのだ。

 だから言えるのはいつもの言葉だけ。

 僕の答えだけで。


「……さあ、どうかな。でも少なくとも僕は、誰かを助けられる大人になりたいと思ってるよ」


 いつも。

 ずっと。

 そう思っている。


「呼び出してごめんね、平野さん。僕の用は終わりだ」


 そう告げて、僕は扉に手を掛けようとした。

 その時だった。

 後ろで泣き崩れていたはずの彼女が――金切り声を上げて切り掛かってきたのは。







 振り向いた瞬間に死を覚悟する。

 目の前には護身用らしきナイフを振りかざす彼女。


 ……ほとんど無意識に身体が動いた。

 刃物が握られた右手を受け止めたところから先はもう、覚えていない。

 ナイフを叩き落とし、鳩尾に一発。

 気付いた時には、先ほどと同じように平野マイが目の前でへたり込んでいた。


 手加減はできなかった。

 大丈夫だろうか?

 まあ多分、大丈夫だろう。

 彼女はもう、子どもではないのだから。

 僕と同じで二十歳を超えた、一人の大人なのだから。


「……そうそう、言い忘れたことがあったよ」


 床に落ちたナイフを拾い上げ、鞄へと仕舞いながら僕は言う。


「今警察が周辺の建物の監視カメラを調べている。時に屋上に設置された物を中心にね。事件当時のベランダの様子が映っている物がないかを調べているらしい。確たる証拠が発見される前に、今日子さんと一緒に自首するべきだと僕は思う。……多分、それが大人として君ができる、唯一のことだから」


 「殴ってごめん」と。

 最後にそれだけ言い残して、僕は教室を後にした。

 綺麗な夕焼けがガラス一枚向こうから廊下を照らしていた。







 数日後、僕は鳴滝さんに呼び出された。


 今度は前の喫茶店ではなく、僕の行き付けの店――上七軒の古い街並みの一角にある純喫茶を待ち合わせ場所にしてもらう。

 約束の時間の十分前に店に行くとテーブル席で彼女が待っていた。

 「ふんぞり返っていた」という表現が一番相応しいかもしれない。

 腕を組み、胸を張った彼女は僕を見ると睨み付け、「ここに座りなさい」と静かながら怒気の滲む声で命令した。


 もう見るからに不機嫌だった。

 人の悲劇を飯の種にしている職種は苦手だけど、この言葉と心に一切のすれ違いがない鳴滝歩という人は、存外嫌いではないかもしれない。

 ふと、そんなことを考え、小さく笑う。


「……何笑ってんの?」


 怒られてしまった。


「すみません……」

「なんでうちが怒ってるか、分かってるん?」


 座った瞬間、彼女の説教が始まる。

 視線から逃げるように主人の方に目を遣るも、彼は素知らぬ顔でカップを磨いていた。

 そういうことは開店前にするもんだろ!と心の中で毒を吐く。


「……なんで言ってくれんかったん」

「な、何がですか……?」

「何がじゃない!」


 バン、と机を叩く鳴滝さん。

 店の主人は気にする様子もなくコーヒーを淹れていた。


「あの火災、殺人だってこと気付いてたんやろ!」

「それは……」

「いーや、気付いてた。しかも自首した大学生の子と知り合いやったんやろ!!」

「それは知り合いでしたけど……」

「いつ気付いたん。ねえ、いつ気付いたん?」

 

 身を乗り出して問い詰めてくる鳴滝さんを手で制し、僕は答えた。


「えーっと……。二回目に鳴滝さんに会った時には目星は……」

「やっぱり! なんで言ってくれんかったんよ!!」

「あの時点では確証なかったですから……」

「うちから色々聞いて、それで考えたん?」

「まあ、そうです」

「ならうちに言う必要あるやろ!危うくスクープ取られるとこやったやんか!!」

「す、すみません……」


 まあええわ、と意外とすぐに彼女は納得し、怒りを収めた。

 「危うくスクープを取られるとこだった」という口振りから察するに、鳴滝さんは別の筋で情報を集め、ちゃんとスクープにしたのだろう。

 それならばそれで良かったと思う。

 少なくとも実際に取られていたらこの程度の怒りじゃ済まなかっただろうから。

 鳴滝さんの書いた記事も、どうせだから近いうちに読んでおこう。


「……で? なんで気付いたん?」


 運ばれてきたコーヒーを飲みながら彼女は言った。

 今日はブラックだ。

 やはり社会人は大人だなあと馬鹿なことを思いつつ、砂糖とミルクを入れながら僕は答えた。


「これちょっとした自慢なんですけど、僕、小学生の頃、知能指数が140を超えてたんですよ」

「……そうなん?」

「はい」


 成人の平均が100~110程度。

 一流大学生の平均でも120前後だから、140もあれば我ながら立派な天才だ。

 尤もそれは小学生の頃の話で、今は100前後だろうけれど。


「お医者さんが言うには、僕は『ギフテッド』と呼ばれる一種の天才らしくて。一口にギフテッドと言っても色々なんですけど、僕は昔から物凄く感受性豊からしくて――つまり、他人の感情を読み取る能力が高いそうなんです」


 逆にそれしか平均より高くなかったらしいですが、と笑って続ける。


「今もその名残で、他人が嘘を吐いたら大体分かりますし、辛さや苦しさを抱えている人はすぐに分かるんですよ」

「……そんで、あの平野マイって子が犯人やと分かった?」

「いや、そう単純な話じゃないんです。超能力じゃないので単に『この人は苦しんでるな』と分かるだけで、何に苦しんでいるかまでは分からない。でも、これあんまり伝わらない感覚なんですけど、同じ『苦しい』『悲しい』って感情でも種類があるんです」

「種類?」

「はい。例えば『失恋の悲しみ』とか、そういうの。……それで、あの平野さんが抱えていたのが『小さい頃に虐待を受けたトラウマによる辛さ』ということがなんとなく分かった」


 加えて。

 彼女はいつも笑顔で、誰にでも優しく、常に長袖の服を着ていた。


 いつも笑顔なのは――本来の感情を隠すため。

 誰にでも優しいのは――人との距離の測り方が分からないため。

 常に長袖の服を来ているのは――左手首のリストカット痕を隠すため。

 あのざらざらした感覚から、そういう想像ができた。


 彼女と会う前に昔の知り合いに電話し彼女の経歴を調べてもらった。

 その結果を聞いた時、想像が確信へと変わった。

 平野マイの母親には彼女が十歳の頃、再婚していた。

 そう多分、そういうことなのだろう。


「そんなに具体的に分かるなら心読めるって言ってええんやない?」

「単に、知っているタイプの辛さだったってだけです。……それくらいに、あの手の辛さを抱えている人は多い」


 生き残った子どもだけが大人になる。

 一枚隔てた向こう側で理不尽な暴力に苦しんだ子ども達も、いつかは大人になっていく。

 ずっとその傷を抱えたままで。


「だからずっと彼女のことが気になっていた。そこから色んな情報を得るうちに、平野さんが何かしたんじゃないかって思って……。というのはまあ、嘘なんですけど」

「って嘘かい!」


 見事なノリツッコミをかまされた。

 うわあ、コテコテの関西人だなあ、この人。


「でも、そっか。ふーん……」


 凄いね君、と鳴滝さんは笑った。

 好奇心を前面に押し出した、裏表のない笑顔。


「……凄くなんてないですよ。僕はなんにもできちゃいない。本当に『凄い』と言われるべきなのは、むしろ行動を起こした平野さんです。手段は間違っていたかもしれないけれど、それでも彼女は動いたんだから」


 誰かを救う為に彼女は動いた。

 それは「自分を救うため」だったかもしれないけれど、彼女はその一枚を超えたのは事実で。

 そこだけは、僕は素直に尊敬する。


「いや、うちが凄いと思ったんはその能力のことやで」

「ギフテッドの話なら嘘ですよ?」

「……自分、人の嘘は見抜ける癖に嘘吐くのは下手やなあ」


 屈託なく笑う鳴滝さん。

 もう僕は何も言えなかった。


「うちは自分、探偵や記者に向いとると思うで。警察より早く真相に辿り着くくらいなんやから」

「やめてくださいよ。ハードボイルドな大人は憧れですが、探偵は遠慮しておきます。僕は殺人事件の真相なんて知らなくていいですし、スクープを取った称賛もいりません。困っている誰かに手を差し伸べられる大人になれれば、それでいいんですよ」

「昔の自分みたいな子どもを助けられるように――か?」


 一瞬間、時が止まったような気がした。

 僕がどう返そうか考えているうちに鳴滝さんが言った。


「……残念、その反応やと外れみたいやな。君はきっと愛されて育ったんやろ」

「どうでしょうね」

「でも沢山傷付いていた人と出逢って、苦しんでいる人がいる現実と、のうのうと幸せに暮らしている自分の現状が嫌になった。誰も救えない子どもの自分が嫌で、だから誰かを助けられる『大人』になろうとしている。……って、感じか?」

「さあ、どうでしょう」

「やっぱ嘘下手やなあ、自分。大人になりたいならその辺りも鍛えんとな」


 いや、まったく。

 記者の観察眼も馬鹿にはできない。

 僕なんかより、よっぽど超能力じみている。


「でも面白かったで。うちは君のこと気に入ったわ。また会えるとええな」


 コーヒーを飲み終わった彼女はそう言いながら立ち上がる。


「はい。お礼もしたいですから」

「そーかそーか、殊勝な心掛けや。そのコーヒーはうちの奢りや。次は倍にして返してや」

「はい。是非」

「じゃ、さようなら」


 別れの言葉だけは標準語のイントネーションに戻し、鳴滝さんは去って行く。

 きっと今日も彼女は何処かの事故や事件現場で取材を行うのだろう。


 今日も世界は変わらない。

 太陽は東から昇って西へ沈み、世の中には悲劇ばかりだ。

 つまり、彼女の仕事はしばらく安泰ということだった。


「……ご主人、モーニングセット一つ」


 一息吐こうと僕がそう言うと、ご主人はやれやれと言った風に笑った。


「君も大概に関西人だね」

「そうですか?」

「ああ。関東の人は普通、純喫茶の店主は『マスター』と呼ぶんだよ。飲食店でも小売店でも関係なく、店長のことを『ご主人』と呼ぶのは関西人の特徴だと思うよ」

「ああまあ、確かにそうですね……」


 自然に口にしていたから気付かなかった。

 店内の雰囲気から考えると確かに『マスター』の方が相応しい。

 そうこう考えているうちに、モーニングセットが運ばれてくる。

 トーストに茹で卵。

 殻を向いて卵を齧ると半熟だったようで、どろりと黄身が口の中に広がった。


「……マスター、卵、半熟なんですけど」

「ああ、試しにね」

「試しにって……」


 僕、客なんですけど。


「無理に大人になる必要はない。大人になるとしても、変に非情にならなくていい。今の、人の気持ちが分かる君が良い。……そういうメッセージを込めてみた」


 いつか僕は大人になるだろう。

 近い将来、今の『大人になろうとしている子ども』を卒業して、きっと『大人』になる。

 でも大人になったとしても忘れる必要はない。

 忘れてはいけないのだ。

 子どもの頃の自分が何に苦しみ、何に涙したのかを。

 いつか僕は大人になる。

 それまでずっと、それからもずっと、今回のことを覚えておこうと思う。


「いや、それならそれで、言葉で言ってくれませんかね……」

「良い君に良い黄身を、的なね」

「あなたも大概に関西人ですね……」


 呆れて笑ったその時、携帯電話が震えた。

 マスターに断りを入れて電話に出ると、探していた猫が見つかったという警察からの連絡だった。

 ありがとうございます、今から行きますと告げる僕に対し、マスターはまた小さく微笑む。


「……やっぱり君はそういう柔らかな感じが似合っているよ」


 固茹で卵には早過ぎるということだろうか?


 今日も明日も世界は変わらない。

 明日はまだ多分、僕は大人に憧れる子どものままだろう―――。







 数日後、リンネさんがやって来た。

 いつも通りの柔らかな雰囲気で怒っている様子はまるでない。

 ひょっとしたらこの間のことを忘れているんじゃないだろうか?

 そう思ってしまうほど、彼はいつも通りだった。

 仮にも大人であるリンネさんは子ども対して優しく、少々のことなら怒ったりはしないのだ。


「やあ二人共」

「こんにちは、リンネさん」

「うん、こんにちは」

「今日も油を売りに来たんですか?」


 新聞のスクラップ集を捲るアルマお姉さんは今日も今日とて無礼で辛辣だ。

 でもリンネさんは「手厳しいなあ」と笑うだけで、気を悪くした様子もない。

 うーん、大人だ。


「ところでリンネさん、この間の話なのですが」

「この間の話? ……なんだっけ?」


 前言撤回。

 この人は単に忘れっぽいだけらしい。


「ふふ、そういうポーズをされるのならばそれでいいですよ。私が訊きたいのは白紙になっていた手紙の話です。それならば答えられるでしょう?」

「まったく、手厳しいなアルマさんは」


 もう一度そう言って、彼は続けた。


「アレはもう解決済みだよ。なんてことはない、僕の同僚の失敗談だ」

「仕事先で手紙を預かったが、しばらく後に封筒を開いてみると、いつの間にか白紙になっていた――そんな感じですかね?」

「……ほぼその通りだよ。でもこんなの、謎ですらないでしょ?」


 本文が消えた手紙、か。

 それならば確かに謎はない。

 最近は天気の良い日も多かったし。


「クリスティの短編にも同じような話がありましたね。『預かった遺書を封筒から取り出してみると白紙になっていた』という話が。初めて読んだ時には感心したものですが、現代ではありふれていて謎にすらなりません」

「僕は謎なんてないに越したことはないと思うけど」

「あなたはそう言うでしょうね。謎があろうとなかろうと苦しんでいる人間はいるのだから、謎があって更に苦しむような状況は全く望ましくない。……しかし一つ言っておくとすれば」


 と、お姉さんは言った。


「リンネさん、あなたはきっと沢山の人を救えなかったのでしょうが――少なくとも私と眼帯君は、あなたがいることで多少救われているんですよ」


 素っ気なく告げられた一言。

 僕は驚きを隠せなかった。

 だって、それは明らかに。


「お姉さんが、デレた……!」

「ツンデレですよ、眼帯君。男はこういう、たまに優しい女子に弱いんです」

「いや、だとしても自分でツンデレと自称している女の子には弱くないよ……?」


 今日も明日も世界は変わらない。

 太陽が西から昇ることはないし、世の中の悲劇がいきなりなくなったりはしない。


 でも鞍馬輪廻という大人がいて、会いに来てくれていることで、僕も少しは救われていると思う。

 それだけは事実だった。

 だから今日も僕は思うのだ。

 いつかは僕も――彼のような誰かを助けられる大人になりたいと。


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